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日蓮大聖人・池田大作

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5 生命工学の課題  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  デルボラフ それは同時に、われわれの考察がどの程度、この「新しい人間像を求めて」という主題にかない、道を切りひらけるのか、という問題を提起するものとなりましょう。この「未来のための現在」という最終章でも、ここまで、この主題にはほとんどふれずにきてしまいました。われわれは歴史的反省能力のおかげで、われわれ以前のどの世代よりも徹底的かつ普遍的に、文化遺産を享受することができます。
 しかし、その今日到達している文化水準も、すでに見てきたように、環境汚染によって、部分的に、直接脅かされていますが、核戦争に突入すれば、全面的に消滅してしまうのです。この現代の技術力は、ここ数十年間、その商業主義化と戦略的利用のゆえに評判がよくないとしても、これまで想像もできなかったような新機軸を開くことによって、われわれに新しい満足感と矜持をもたらしてくれています。
 もし人間が、とくにその歴史意識によって他の動物類から区別されるとすると、本来、そこには、自己の自然史、すなわち進化の過程に対する洞察もふくまれることになります。この進化説は、いちおうダーウィンやその後継者の説にしたがって、人間が生命形態の頂点にのぼったとすることにより、その立場から、ありとあらゆる生物種の進化の歴史を、その生成過程において眺望するものでした。ところがいまや、たんに眺めるだけでなく、作用をくわえ、自分たちの望む方向へと操作する可能性を開いていこうとしているわけです。
 さらに、医療や外科手術上の技術の成果をあわせ考えてみると、一九六二年にロンドンで開催されたシバ・シンポジウム「人とその未来」で、とっくの昔にすたれたはずの、アングロ・サクソン人の社会進化論が、もてはやされたのもうなずけるのです。そこで展開された考えのなかには、ありとあらゆる進歩観が織りこまれていました。
 たとえば、すべての伝染病を克服した“無菌の世界”とか、苦痛がなく、移植で臓器をすべて交換することによる“終わりのない生命”とか、また、たえず遺伝子を改良することによって、優生学的に人類の進化をコントロールし、加速するといった考えが、検討されたのです。
3  池田 一九六二年といえば、まだ大部分の科学者も、ましてや一般大衆も、科学の進歩に盲目的ともいえる信頼を寄せていた時代ですね。そこでは、バラ色の未来像がえがかれていました。
4  デルボラフ 確実に進歩していく遺伝子工学の研究のなかで、それまで何回か、反動がおこっていることも忘れてはなりません。たとえば、従来の、心臓移植の試みの多くが失敗してきた、という事実もあります。他方、多くの伝染病に対しては成果をあげており、また部分的には、たとえば、天然痘などのように絶滅させたものもあります。
 ただ、アフリカから持ちこまれたとされるエイズ・ウイルスによる感染が、この数年間でヨーロッパとアメリカ大陸で蔓延しており、人類にとって、新しく、かつ危険きわまりない厄病となっています。免疫不全(=免疫力が低下してしまうこと)をもたらす、このウイルスに感染するハイリスクグループ(=犠牲になる確率が高い人々)として、同性愛者や麻薬中毒患者、また血友病患者があげられております。
 しかも、かならずしも、感染者すべてが発病し、死にいたるわけではありませんが、誤った報道が世間にひろまり、情報も不十分であったために、反エイズ運動が巻きおこりました。つまり、外国人や反人種差別論者をかつて処遇したように、エイズ患者を隔離する方向に展開したのです。
 まだ経験のベースが狭いため、信頼できる全体像が浮かんでおらず、また、検査結果もつねに変化しているため、正確な数字はつかめていません。ただ、はっきりしていることは、この感染病を、医学的に克服できる保証がいまのところないということ、そして、先にふれたシバ・シンポジウムの展望が、いかにもろい基盤の上に立っていたか、ということです。
 したがって、そこで展開される未来像のバラ色の側面をもってして、真に求められる「新しい人間像」にかなうものは、えがきだせないことが明らかです。
 ところで、あなたはSGI会長として数多くの講演や対談のなかで、この目的に近づくための方途は、精神的な革命に似た発想の転換であり、しかもこの転換は哲学的・宗教的に準備され、実現されるべきものである、と明言しておられますね。
5  池田 おっしゃるとおりです。科学技術を使いこなしていくのは、人間の精神であるからです。
6  デルボラフ あなたの見解に賛同する人は、多いと思います。一九六〇年代の初期にはまだ隆盛期にあった社会進化論的楽観主義が、七〇年代、八〇年代には、またたくまに意気消沈してしまいました。しかも、それは内部から自然におきてきたのです。別の条件のもとであれば、とうぜん、凱歌をあげてしかるべき技術開発があったのに、このことは、その発展に対する、人間の驚くべき反省能力をあらわしています。
7  池田 反省の声が生命工学、生命科学にたずさわる人々の内側からおこってきたことは、こうした人々がただ専門の学問・技術に閉じこもっているのでなく、それを全人類的視点から見直す視野の広さをもっていたからでしょう。
 しかし、それとともに、これら専門分野の長足の進歩の成果が、部外者には容易に理解できないものであることも、外側からでなく、内側から反省の声が出てきた理由の一つであろう、と思います。
8  デルボラフ 現代の遺伝子工学の成果は、しばしば、その革新性と将来に秘める意義から、核分裂と対比されます。
 ただ、両者の顕著な相違は、後者の場合、第二次世界大戦という直接の戦略的要請が、原子爆弾発明者の良心のとがめを拭いさったのに対し、前者では、すでに一九七四年に、十一人の分子生物学者たちが声明を発表し、そのなかで遺伝子(DNA)の新しい結合による危機を、警告していることです。その九カ月後には、百四十人の生物学者が──これは自己統制が機能したまれな例ですが──自分たちの研究を管理すべき安全基準を、決定するにいたったのです。
 これは、一九七六年にアメリカで、七八年にドイツで、その後、多くの国々で発効されました。ただあまりに全般的であるため、拘束力を欠く方向で改定されてしまい、国の助成金を受けた研究プロジェクトだけに、適用されるものになっています。
9  池田 私は、生命科学の重要な課題として、つぎのような項目を考えております。まず、生物次元に焦点をあてた遺伝子工学としては、現在、製薬の分野での業績が顕著です。ホルモン、インターフェロン、化学物質の大腸菌等による大量生産です。つぎに、農業の分野では、動植物間の遺伝子の交換や、品種改良がおこなわれています。
 環境浄化、エネルギー問題でも、石油を分解する細菌、有機水銀を分解する細菌の研究や、バイオマス(=生物体量。一定区域内の全生物の総量)としての植物体からメタンガスを発生させる研究がすすめられています。その他、微生物を触媒にする微生物工業も可能です。
 しかし、これらも、マイナス面として、第一に、遺伝子組みかえによって、危険な生物が出現するかもしれないことが憂慮されて、ガイドライン(指針)がつくられました。ただ、現在では、これはほとんど廃止されています。
 第二に、進化への影響が、憂慮されました。しかし、これも、大腸菌(前核生物)に人間の遺伝子(真核生物のDNA)を入れても、進化の障壁を壊すことはない、との楽観論が出てきています。第三に、生物兵器への悪用があります。この危険性は、ますます憂慮されています。
10  つぎに、人間次元の問題点(ならびに人間次元にまでつながる可能性のある問題)をあげます。
 遺伝子治療は、遺伝子検診とペアでおこなわれますが、これは、種々の先天性疾患に不可欠の技術、と見られています。しかし、DNA診断では、完全な人間はいませんから、どこまで治療の名で遺伝子を操作することが許されるのか、という問題が生じてきます。さらに、優生学思想と結びつけば、人間改造に悪用される危険性があります。
 また、人工授精や、“試験管ベビー”の分野、人間誕生の方法は、技術的につぎの八つの方法で可能だと考えられています。
 まず、夫の精子による人工授精(AIH)、つぎに、夫以外の精子による人工授精(AID)、第三に、卵巣または卵子を他の女性から移植し、その後に夫あるいは夫以外の男性の精子によって人工授精する、第四に、体外で卵を受精し(試験管内受精)それを女性に移植する、第五に、体外での胎児発生(本物の試験管ベビー)、第六に、処女生殖、第七に、核移植(クローニング)、最後に、胚融合(二個の胚を一つにして一人の人間をつくる)。
 このうち第二の、夫以外の精子による人工授精では、優秀な人物、たとえばノーベル賞学者の精子を使用した人工授精が、話題を呼びました。故ヘルマン・マラー博士の、優生学思想の具体化だといわれています。
11  第四の、体外受精卵の移植については、すでにかなりの実例があり、これにともなって、法律問題もおきています。たとえば、胎児に先天性疾患が発見された場合、卵子提供の母とその夫が引き取るのか、それとも「代理母」が引き取るのか、といった問題です。
 第七の、クローニングの問題では、すでにクローンマウスは誕生しました。哺乳類のクローニングですから、原理的にはクローン人間への道を開いたといえましょう。
 第六の処女生殖も、すでにマウスを使って成功しています。最後の胚融合では、“四人以上の親”をもつ子どもが誕生します。全員の長所を受け継ぐこともできますが、逆の場合も考えられましょう。
12  デルボラフ あなたが提示されている数多くの視点のなかで、生命工学の活動範囲と効用が、正確に描写されています。ここでもう一度、順序は異なりますが、私なりにまとめてみます。
 細菌による薬剤、痘苗、覚醒剤等のさまざまな蛋白質の生産、遺伝学的に変異した微生物の工場生産工程への導入(植物の保護とか公害となる毒物の除去用)、よりよいエネルギー効果を出したり、食糧として利用価値の高い、窒素分の多い新しい植物種の改良、とくに有用な家畜を増殖させる遺伝学的方法、水素を生産する藻を遺伝学的に改良することによるエネルギー問題解決への貢献、人間における遺伝病と遺伝的欠陥をなおすための遺伝子治療、家族計画および優生学的目的のための生殖問題への介入等を、あげることができるわけです。
13  池田 分類の仕方は、いろいろあると思います。ただ、いずれにしても、人間自身にこの技術が適用されるケースについては、重大な関心と警戒心をいだかざるをえません。最近、日本でも、人間の遺伝子そのものをあつかうようになりました。現在はまだ、人間の遺伝子をマウスに組み込んでいる段階ですが、やがて、人間の遺伝子をもったサルが出現するかもしれません。
 いまや、生命工学において、生物次元の問題は急速に人間次元に接近してきており、人間次元の諸問題は、人間改造への道を開きつつあります。はたして、このような人間改造への奔流に“歯止め”をかけられるでしょうか。先天性疾患の治療のみにとどめられるべき遺伝子の操作も、それを悪用しようとする動きを阻止することができるでしょうか。
 生物兵器のみならず、生命工学そのものが、優生学思想をもった権力に悪用されたときの悲劇は、はかりしれないものがあります。現代人が、宗教者や哲学者に生命倫理の確立を求め、また生命工学と生命科学をコントロールする道を問うているのも、この科学技術のもつ善悪両面の巨大な力を感じているからでしょう。
 現代の人類は、ここに列挙した、いずれも未来に広範で、深刻な結果をもたらすことが明らかな諸問題について、どう取り組み、また、いかなる規範を打ちたてるべきでしょうか。とくにキリスト教の立場や、西洋の哲学者の深い思索からの発想、方法等をお答えいただければ幸いです。
14  デルボラフ メンデル以降、生命体の細胞に存在する染色体の遺伝子が、遺伝の担い手であることが確認されてからは、遺伝子とその結合を、その作用から観察し、生命体の特質と関連づけることにより、最近では、この「遺伝情報」のコードを解読できるようになりました。遺伝物質を新たに結合できるという可能性によって、これまで乗り越えることのできなかった、さまざまな生物種間の境界が取りのぞかれたわけです。
 ここに、この開発の新しさと、同時に心配のタネがあります。というのは、自然に存在する種自体のなかでは、次世代の個体をつくる精子と卵子の結合という生殖行為のなかで、遺伝子結合の奇跡がおこっています。この開発は、そうした遺伝物質の自然な分散を先取りしたものであって、したがって、この過程を母体から試験管や「レトルト」に移しかえることが、生命工学のプログラムのなかに入っていることは、なんら不思議ではないでしょう。
 そのような遺伝学的操作によく使われる材料は、まずバクテリアとウイルスで、これは、無性繁殖のゆえに、このような遺伝学上の実験に、とくに適しているのです。実際に、最初の医学的かつ薬学的成果が生まれたのは、この分野です。たとえば、従来は動物の臓器からしか採取できなかったインシュリンとか、ソマトスタチンとか、動物や人間に見られるウイルス病に対する痘苗等の製造です。
 そこからさらに、より高い生産性を示し、気候に左右されない、新種の動植物の養殖が追求されています。こうして人間や動植物の遺伝的異常もなおすことができるようになり、今日では考えられないような大きな可能性と業績が生命工学に開けていることは、疑いの余地がありません。そのさいに応用される方法は、原則的には見とおせるものですが、ただその実施となるとあまりに複雑で、素人にはほとんど理解できないままです。
 メンデル(一八二二年―八四年) オーストリアの植物学者。人工交配したエンドウを研究し遺伝に法則性のあることを突きとめて発表。この「メンデルの法則」は遺伝学の基礎となるが、その業績は生前は認められなかった。
15  池田 ご存じのように、日本では、主食である米について、さまざまな品種改良がおこなわれてきました。本来、熱帯地方の植物であるため、かつては北日本や山岳の低温地では作れなかったり、冷夏には深刻な凶作におちいったものですが、今日では品種改良によって、よほどの気候不順があっても、平均的に収穫されています。
 リンゴやミカンなどの果物も種々の品種が生みだされ、より甘く美味なものが作られています。また、ジャガイモとトマトを交配して、地中ではジャガイモ、地上ではトマトができるポマトなどというものも作りだされています。鶏なども、小型で餌代が安あがりですむ新種が生みだされているようです。
16  デルボラフ 先にも述べましたが、他の分野とちがって、ここには利点と危険性が同居しており、分子生物学者自身が、そのことを指摘し、安全策を決議したのでした。しかし、科学者も人間にすぎず、真理に最高の価値をおくと誓っていても、新しい発見を商業ベースに乗せることに、やぶさかではありません。
 ここで、ふたたび遺伝子工学の安全基準の問題にもどりますが、アメリカで連邦法として制定しようとしたとき、そこに学問の自由が制約されるという理由から反対が出て、規制は緩和され、内容のないものにされてしまいました。同時に、アメリカでは、科学者やその代弁者が協力しあって、徹底して分子生物学上の発見を商業ベースに乗せることが開始されたのです。
 研究者自身は、特許を獲得するか、企業に、顧問とか製造責任者としてのはたらき口を得たりしています。遺伝子操作技術の実行化に対する法的安全規定については、ヨーロッパ諸国もアメリカにならっており、けっして称賛できる実例を提供しているとはいえません。
17  池田 それは日本も同様で、こうしたことは、ともすると商業ベースでおこなわれている面があるといってよいでしょう。それが極端に走れば、経済的に有利なものを作りだせさえすれば、長期的に見てどんな結果を生じようと関知しない、ということになります。産業公害を生じているのと同じ論理が、ここにははらまれています。
18  デルボラフ ここから明らかなことは、まさに遺伝子工学が、広範囲にわたる経済的、社会的、また安全保障政策的な帰結をもたらす以上、それはたんに法律上の規定だけでなく、道徳的判断と規範化が必要だということです。あなたは先に、医学倫理に関連して、生命尊重への倫理観の必要性を訴えられましたが、その領域でわれわれが指摘したような問題すべてが、ここでもあつかわれる必要があります。
 それは何も新しいことではなく、先進国では教育の一部ともなっていることですが、数多くの機関が、こうした倫理的啓蒙をめざして取り組んでいます。
 アメリカ合衆国では、ヘースチングスにある「社会・倫理・生命科学研究所」のなかの「生命倫理センター(別名ヘースチングス・センター)」が、カトリック系哲学者のダニエル・ガランとウィラード・ゲイリンによって設立され、哲学者、法律家、医者、神学者等の、十二人から十五人ほどのメンバーで構成されています。
 これと似た研究所としては、ワシントン市のカトリック系ジョージタウン大学の付属機関「人間再生と生命倫理研究をめざすジョセフ&ローズ・ケネディ研究所」があります。そこでは、ヘースチングス・センターと同じように、独自の機関誌を発行し、さらに全四巻からなる『生命倫理学百科事典』を出版しています。
 さらには「ノース・ウェスト倫理生命科学研究所」と「健康および人間的価値のための協会」内の「医学における人間的価値の研究所」がフィラデルフィアにあり、おのおのが関連機関誌を編集しています。
 部分的に哲学的・宗教的立場をとる、似たような研究機関は、サンフランシスコ、ロサンゼルス、セントルイス、シャーロッツビル、シカゴ、ヒューストンに見られます。
 ヨーロッパでも、この分野で何もしていないわけではありません。一九七二年にロンドンで「医学倫理研究協会」が設立され、『医学倫理ジャーナル』を発行しています。チュービンゲンの「医療活動ドイツ研究所」も、世界教会会議の「キリスト教医療委員会」と協力して、注目に価する活動をしています。
 こうした組織の多くが、独自の機関紙を発行していますが、論争点は、人体実験、遺伝子操作、人工授精、臓器移植、堕胎、安楽死等の問題です。
19  池田 いずれも、重大な問題です。これらの実験や操作等は、たしかに人間の苦悩を解決するという大義名分をもっておこなわれますし、そうしたプラス面をもっている場合があります。しかし、同時に人間の尊厳をおかす面ももっており、その境界線はきわめて微妙です。
 臓器移植ひとつをとってみても、たしかに提供を受ける人は、それによって苦痛から救われますが、提供する側の人の死の判定基準をどこにおくかということが、つねに問題になります。これは、ほんの一例ですが、ここにあげられた問題は、いずれも人間の身体を、一種の機械のように見てしまう危険性をはらんでいるわけで、そこに、人間とは何か、人間性とはいかにあるべきか、といった根本問題がからんでいます。
20  デルボラフ この「新しい人間像を求めて」という主題のもとで、私たちが明らかにしようとしたのは、地球の住人としてわれわれは何をなすべきかということですから、最後に、この問題領域に、私自身の生命倫理観から考察をくわえたいと思います。その場合、私自身の問題に関しては私の個人的良心にしたがうわけですが、無視するわけにいかないことがあります。
 一つは、このような非常にデリケートな問題についても、西ドイツでは法的に規制する必要があるということから、すでに胎児保護法案が存在していることです。もう一つは、カトリック教会が一九八七年二月二十二日付で、活動を開始している生命に対する尊重と、生殖行為の尊厳に関する訓令を発表しました。この訓令は、ロ-マ教皇庁の教理聖省から各国家機関に、要望というよりも勧告というかたちであてられたものであるため、政治分野にも影響していくことが予測されます。
 人間が可能性の領域を徐々に広げていくうえで、問うべきことは、人は“できること”は“何でもしてよい”のか、つまり、人間の恣意と放縦を制約し、行動の指針となるような規範があるのか、ということです。肯定すれば、それは、技術的行為が道徳的原則に支配される、つまり、倫理が行為の判断をくだす、ということを意味します。そこで、遺伝子工学上の活動に関して、それを担当する倫理は「生命倫理」と呼ばれます。
 「生命倫理」は、特殊または特別な倫理ではなく、一般的倫理原則を特定な行動分野、つまり、生命工学の分野に適用する部分倫理です。倫理として、それは普遍的原則にしたがうものであり、生命倫理は、本質的に、その活動範囲内でおこる具体的な状況の、範例的啓蒙の方法として理解されます。
 そうした生命倫理の基本となる、ほとんど自然法に近い原則は、もし援助という善が、あまりに大きな危険性をともなう場合、助けたり、善をおこなうことよりも、障害をさけることのほうが重要である、という認識です。かんたんにいうと、遺伝子工学のような、非常に危険な行動分野では、「だれ人をも害さぬのが一番」ということが要請されるのです。したがって、各国の遺伝子工学に関する法の中心をなすものは、安全基準となります。
21  池田 「安全」を守るということは、生命を尊ぶということです。生命を尊ぶとは、生命のもっている自然のリズム、自然の働きを、最大限に大切にするということです。
22  デルボラフ 倫理は、けっしてわれわれの行動の唯一の統制機関なのではなく、法律によってささえられてこそ、効力を発揮するものです。遺伝子工学上の処置は、道徳的基準と法的規範のもとに規制されることになります。
 両者のあいだには切っても切れない関係があり、法的に違反することが道徳的に奨励できないのは、原則として道徳上、最低限のところを定めたのが法律だからです。このことは、しかし、不正な、すなわち過半数の意思にまったく反する権限に対して、道徳的にたたかうことを排斥するものではありません。また、道徳上の考え方と法律とが衝突した場合、道徳は、いわば法律に対する優先権をもっています。
23  池田 法律は、現実に人々が害を受ける事態がおきてはじめて適用されます。それに対し、危険性をもっていることが明らかな場合、未然にそれを回避するのは、あつかう人の道徳律に属する問題です。
 害をあたえてしまってからでは、少なくともその害を受けた人にとっては取り返しがつきません。その意味でも、道徳律が優先される必要がありますね。
24  デルボラフ この点に関して、オーストラリアの遺伝子工学の臨床実験でおこった、こんな例があります。
 ある裕福な南アメリカ人夫婦が、子宮外受精の実験に応じ、その卵細胞はマイナス二百度の養液で冷凍にされていましたが、夫婦が航空機墜落事故で死亡してしまったのです。そこで、この卵細胞を他の女性に移植すべきか、「殺す」べきかが、論争のマトになりました。これは、不幸に遭遇した「両親」の莫大な財産が、だれに譲渡されるべきか、という問題とからんでいたからです。しかし、そうした財産譲渡という法律問題は、こうした道徳上の決定とは切り離してあつかわれるべきなのです。
 生命工学の分野では、成果だけでも、またたんなる自覚だけでも意味をもちません。生命倫理は、本来、マックス・ウェーバーの言う“責任倫理”であり、意図した目的や作用、また達成される成果とともに、その副次的な効果と作用をも考慮しなければなりません。
 少し例をあげてみますと、遺伝子の工学的処置は、その後に直接つづく世代に不可逆的影響をおよぼすことが、何回となく指摘されています。しかし、はたして臨床実験にさいして、このことがつねに考慮されているでしょうか。
 さらに、遺伝子工学的実験の初期の段階では、操作され、そのため場合によっては健康に害をおよぼすバクテリアやウイルスが、実験室から抜けだし、適当な場所で無制限に繁殖し、危険なものとなる恐れがあるとされていました。その心配に対し、そうした不慮の事故が現実のものとなる条件がそろうのは、ほとんど不可能であり、研究者が培養するバクテリアやウイルスは、実験室のなかだけで生きうるのであって、外部では死んでしまうという理由をあげて、楽観論がとなえられはじめました。しかし、こうした理由づけも、そのような事態がまったくおこりえないことかどうかを考えてみれば、ほんの慰めにしかすぎません。
 また、油や水銀を食べるバクテリアが大量に海に繁殖すれば、それが物質代謝でつくりだすものによって、海の生態学的条件が破壊されるかもしれません。
25  池田 楽観的予測を基準に考えることほど、危険なことはありません。生命にかかわる問題は、もっともきびしい予測を基準にして取り組まれるべきでしょう。なぜなら、一度失われた生命は蘇ることがないからであり、生命体にくわえられた歪みは、その後の世代にずっと受け継がれていくからです。
26  デルボラフ また最後の例として、多少なりとも生態学的意識に目覚めた人ならば、質問せずにはいられないことでしょうが、インシュリンなどのホルモン、ビタミン、抗生物質、インターフェロン等の生産は、ほんとうに欠くべからざるものなのか、体内のホルモンやビタミン類で十分なのではないか、という問題です。
 世界保健機構(WHO)が最近出した報告書に、二百十種類の薬剤で全世界の需要を十分にまかなえる、という結論が発表されています。ところが、アメリカなどの豊かな国で、市場に出まわっている薬品は約二万種あり、そのもとになっているのは、二千から三千種のホルモンやビタミンです。遺伝子工学は、現在ですらすでに危険な状態にある医薬品過多の傾向を促進し、好ましからぬかたちで、拍車をかけることになるのではないでしょうか。
27  池田 健康と長寿、より以上の活力ある身体への願望は、万人に共通のものといえます。この普遍的願望に便乗して、無数の薬剤がつくられ、巧みな宣伝文句をもって、購買欲をそそっていることが指摘されています。
 日本でも、薬事法という法律によって規制があるにもかかわらず、年々、さまざまな薬剤や健康器具が新しく登場し、売られています。自由主義経済体制では、こうした競争がますますはげしくおこなわれていくのは、必然といえましょう。人々は宣伝にのせられて、過剰に服用することになりがちです。また健康上、無用なものまで服用し、かえって害を生ずることも少なくないのです。
28  デルボラフ ここに困った事態は、遺伝子工学も、その業績をあげる推進力が、たんに研究促進意欲だけではなく、産業の利潤追求が、その発端からからんでいることであり、また遺伝子工学によって生みだされる製品に対する人々の要求が、どこまでが本物で、どこまでが宣伝などによって人為的につくりあげられたものなのか、定かでないということです。
 また、政治的視点としては、本物であるにしろ、つくりあげられたものであるにしろ、遺伝子工学の成果をいかに公平に分配できるか、という問題が浮かびあがってきます。人類の未来に重大にかかわるこうした能力と業績は、すべての人々のために役立てられなければなりません。
 ここで、遺伝子工学を人間の生殖行為に応用した場合に生ずる問題に、何点か、ふれておきたいと思います。
 まず、卵細胞の受精を母体から試験管という場に移しておこない、のちにふたたびその母体(母親が出産できない場合には他の女性)に移植することは、性と生殖に関する従来の考え方にとっては、まったく異質なものです。だからこそ、カトリック系神学のリーダー格の一人であるカ-ル・ラーナーは、遺伝子操作はかならずしも不道徳であるとはいえず、むしろこれを適用する分野でこそ、「道徳的信仰本能」が重要になってくると言っています。そして、彼は、受肉の精神的原点としての人格的愛から生物学的生殖過程を切り離すことこそ、反道徳的であり、罪でさえあると見て、このことを、自然法のうえから根拠づけようとしています。
29  ローマ教皇庁教理聖省の一九八七年の訓令は、まさにこの“保留すべきだ”という姿勢を取り入れたものでした。その結果は深刻で、この教会の裁断の対象となったのは、受精卵の試験管培養や、非配偶者への移植だけではありません。今日、世界中でかなり普及している、いわゆる「代理母」などの問題もふくまれます。まず、非配偶者による受精卵の移植です。
 また、試験管培養の受精卵を非配偶者に移植するだけでなく、配偶者であっても体外受精することについて、教会は、つぎの理由から反対しています。一つは、教会の見解では、人間生命は受精とともにはじまるため、体外受精の場合、いくつかの受精卵の壊死がさけられない、という理由です。これは堕胎、つまり人間の殺害に等しい、と教会は解釈します。第二の理由は、ラーナーがあげているものです。つまり、生殖行為は両親の性の結合と切り離されてはならない、とするものです。
 さらにまた、教会が、生成する生命に診断や治療のうえでの介入を認めるのは、あくまで、治癒を目的とする場合だけです。診断によって遺伝病が確認されたとしても、その胎児を中絶することは認められていません。
 同様に、胎児保護法でも、胎児の生命が損傷されることは、すべて禁止しています。生きている胎児や、また死んだ胎児でも、実験に使用することは禁止されています。例外は、その実験によって医学的に重要な認識が得られる、と予想される場合だけです。
 興味深いのは、教会が、夫婦の生殖行為になんらかの支障がある場合は治療をほどこしてよい、としている点です。ただ、それが正確にどういうことをさすのかは説明されていず、不明です。
30  最後に、先にもあげたノーベル賞学者のヘルマン・マラー博士が取り組んだような、優生学的処置については、カトリック教会の訓令も、胎児保護法案も、ともに反対しています。私も多くの遺伝子工学の批判者と同じく、傲慢な社会進化論的な未来信仰によって優生学的処置を正当化することは、許されるべきではないと考えています。
 人間の自己完成という、人間的要求を生物学の分野に移せるのか、また移してもよいのか、という問題は別にしても、その分野で、何をもって「より良い」とするのか、その基準が欠けているように思います。
 基準というものは、すべて歴史的過程のなかで変わっていきますし、それぞれの世紀の、変化する精神と要請にしたがって、別の内容と変化した形態を受けいれていくものです。このことは、人間が、その本質において、歴史的に形成されていくものであることを意味しています。
 ところが、生物学的変化は、不可逆的であり、修正できないもので、進展を一義的に狭くし、また固定してしまうことになるのではないでしょうか。「未来の、より良いもの」といわれるものに特定の定義づけをしようとすると、いつも暗やみで手さぐりする格好となってしまいます。
31  病弱な遺伝体質や、それに起因する内臓の障害とか疾患に対して、遺伝子工学の方法で対抗することは、たしかにできるでしょう。しかし、技術的な保健政策の基準となるべき健康の最適状態となると、定義のしようがなくなります。さらに高度な精神的資質の育成となると、もっと大きなジレンマにおちいることでしょう。
 詰め込み主義志向の、現代の教育制度にあわせて、理論的知性の強化を優先すべきか、それとも才能の多様性を促進すべきなのか、しかも、後者の場合には、どういう才能をとくに伸ばすべきか、という問題があります。従来の人間よりも生産的で、創造力があり、着想豊かな「新しい人間」をつくりだすことによって、完全な自己破滅の可能性にまでいたるような権力を手にいれる機会を、開くべきなのでしょうか。
32  池田 きびしいご指摘です。おそらく理論的知性は、未来にはコンピューターによって独占されるのではないでしょうか。そうした予想図は、多くのSF作家がえがいているところです。
 人間の独自の領域としては多様な才能――芸術的、文学的才能――ということになるでしょうが、そのどれを人工的に促進すべきかとなると、だれにも予想はつきません。やはり、これは人為的になされるべきことではなく、人間がその生来、自然にもっている適応力によって、発展させていくべきものでしょう。
 自然のままでも、ある優れた才能をもっている人は、その裏返しとしてなんらかの欠陥をもっています。これが、もし人為的になされた場合、才能の増幅にともなって、欠陥もまた増幅される恐れがあります。そして、その欠陥は、人類を破滅にみちびくものになるかもしれません。
33  デルボラフ 人間を道徳的に改良し、性格を変えようとすることも、最終的にはできるかもしれません。人間の性格というのは、周知のとおり、慣習化された道義的動機体系です。したがって問題は、価値観が、国にかぎらず文化期によっても大きく変わるため、時代や地域性を超越するような基準が性格的資質に対してほとんど見いだしえない以上、どの特性を育成すべきかということが、決められないということです。
 生物学的進化をコントロールすることは、不遜にも歴史的発展を先取りし、侵害しようとすることになるわけです。その結果、一九二〇年代に、すでにオルダス・ハクスリーが予感してえがいたような、非人間的な怪物があらわれるかもしれません。
 当時は、現代の遺伝子工学の技術目録のなかの細胞分裂(すなわち、無性繁殖、または受精卵の分裂増殖)だけで、遺伝学的操作、すなわち、遺伝子の新たな組みあわせなどは知られていませんでした。ですから、ハクスリーの小説の登場人物は、新しい世代の人間を質的に画一化・典型化するのに、胎児が細胞分裂して育っていく過程を、生化学的に操作することで満足したのです。
 その結果は、身の毛がよだつほど恐ろしいものです。この未来小説『すばらしき新世界』(一九三二年刊)では、自然な仕方で生まれてくる子ども――そういう出生は恥とされます――は皆無で、生まれてくる子どもはすべて、新しい社会に適した画一的な体形や表情のパターンをもっており、おのおのが特定の職業的・政治的役割を担っているのです。
34  ハクスリーは、こうした修正不可能な階級構造をもつ社会でも、たくさんの社会紛争の材料をかかえこむ、と見ていました。そこで、逆に、各社会階層や機能集団の遺伝情報のなかに、自分の運命に自己満足する感情を組み込むことにしたのです。
 優生学を人間に応用することによって、すべての点で幸福な人間をつくりだすという考えは、一つの皮肉でもあります。だれもが認めるような「幸福」の根本定義は、今日でも立てられないでいるのが現状ですから、そうでなければ、若者はこうした哲学問題の泥沼に、はまりこんでしまったことでしょう。
35  池田 自己の運命に自己満足する感情を遺伝情報のなかに組み込んだということが、いかにも不気味ですね。それこそ、人間性喪失の最たるものにほかなりません。
 人間の尊厳性のもっとも根本は、向上の意欲であり、その向上のために、現実を変革していく力と知恵を発揮できることにあります。そうした向上心や、そのあらわれである現実変革の意欲さえ、遺伝情報の操作で奪われてしまう可能性があるということは、そら恐ろしい気がします。
36  デルボラフ 人間の遺伝子を、猿という、人間に近い動物の遺伝子と結合させる実験などを耳にすると、いまや人類は、全智全能神に近いものにたどりつきつつある感がします。単細胞や、ウイルスや、バクテリアの次元でおこなわれる実験と、それを高等生物に転用する場合とでは、まったく別の様相を呈します。
 自然は、それが創造したそれぞれの種のあいだに、本質的な境界をもうけており、ゆえに、その交配をできるだけ阻止しています。ロバと馬の交配によるラバは、そのなかでも、もっともよく知られている例外でしょうが、しかし、そのために不妊という罰を受けています。
 もしわれわれのまえに突然、直立して歩き、反省能力と言語能力を少しはもっている、半分人間みたいなチンパンジーが出現したとしたら、どうなるでしょうか。それは、進化の過程のなかに侵入し、人類の文化や政治の全体像をいっきょに変えてしまうような、中間種の創造を意味するのでしょうか。われわれはそうした中間種に対してどうふるまい、どの程度の距離をたもつべきなのでしょうか。
 しかし、高等生物の新種ができる確率は、その前提条件が非常に複雑なおかげで、きわめて低いのです。それでも、遺伝子技術がこの分野で飛躍的に発展している事情を考えると、バラ色の未来よりは、恐ろしい未来がわれわれを待ち受けているというべきでしょう。
37  池田 遺伝子の操作によって、ある特殊な能力に秀でた種がつくりだされ、しかもその能力ゆえに自然の人間を圧倒し、駆逐して、支配権をにぎっていくかもしれない、ということを想像すると、それは恐ろしい未来になります。
 歴史をふりかえると、たとえば中世のアラブ世界で、麻薬であやつられた命知らずの暗殺者集団があったという話があります。また、広い意味では愛国主義を徹底的に叩きこまれた青少年が、国家や党のために命をなげうって戦った例は、近代の欧米でも日本でも見られました。それがいかに大きな悲劇を生じたかも、記憶になまなましいところです。
 同じことが、遺伝子の操作によっておこなわれ、不可逆のものとして伝えられていったとしたら、人類はまさに絶滅してしまうでしょう。しかも、用いられる兵器は、ますます大きな破壊力、殺傷力をもっているのです。
38  デルボラフ あなたも指摘されたように、生物兵器、とくにそこに遺伝子操作技術を応用することは、最悪の乱用というべきです。また、潜在的な核戦争の副次効果としての放射能障害を考えてみると、核爆発に直接に遭遇せずとも、放射能をあびる人々は、遺伝素質や健康状態に影響を受けます。
 これまでの経験が物語るように、将来の戦争は、核を使用しない範囲で遂行されうるとすると、生物兵器による戦争も、制御できるかもしれません。第一次世界大戦のイペリットガス中毒、ベトナムでのエージェント・オレンジ枯葉毒ガスの遺伝子への悪影響、また、イラク人がイラン人に対して使用したという化学兵器──これらは、明らかに人類の生命を脅かすものです。
 かつては「正義の戦い」と呼ばれたものも、今日ではまったくその意味を失っているわけですが、通常戦争での生物兵器、および化学兵器の使用が厳禁であることは、強調されてしかるべきです。
39  ここで、もう一度、人類の未来に影を投げかけているこうした自己破滅という脅威のなかで、「新しい人間像」について語ることに、どういう意義があるのか、という問題提起をくりかえさせてください。
 理想の人間像が、ハクスリーのえがいた『すばらしき新世界』に求められないことはいうまでもありません。また、自然が人間に賦与する素質や善良さが、偶然にまかされながら配分されていく「遺伝上のくじ引き」を修正しても、求める人間像は達成できるものではありません。さらには、人類が、今日、その技術的、文化的業績――われわれの責任は、それを監視し、損傷や破壊から守ることにありますが――のなかに自分を映しだし、自己完成の途上における決定的な段階を見いだすことで、得られるものではありません。
 現代人の新しい素質は、観念論哲学が主張したような「自由の意識」のなかで前進する能力にあるのではありません。また、ヨーロッパやアジアの倫理観が課すような、自己完成をめざすことにあるのでもありません。――もちろん、両者の倫理観は過小評価されてはいけませんし、その内容が重要であることはいうまでもありませんが。
 そうではなく、これは、人間の二重の責任にあるのです。一つは、世界に対する責任の自覚をもっと広げることで、動植物界や、また地下資源をもふくめた自然というものを、視野に入れていくべきでしょう。これこそ、伝統的な人間性の理解に新たな楔を打つ、人間性変革の真正な形態ではないでしょうか。もう一つは、自分自身をまったく新たな仕方で批判的に見つめ、制御することです。
40  池田 おっしゃるとおりです。動植物や鉱物までもふくめた“世界”に対して、われわれ人間は責任を負っているという自覚こそ、現代人になによりも求められる素質です。この自覚が万人のものになるためには、われわれ人間存在、とくに“自分”と、そうした“世界”とが、いかなる関係にあるのかという事実についての、正しい認識がひろめられなければなりません。そこに、客観的・科学的認識の重要性があります。
 「人間は“世界”に対して、かくあるべきだ」と、規範だけを人々に押しつけようとしても、それだけでは不十分です。なぜそうしなければならないのかが理解できてこそ、規範は有効性を発揮します。それゆえに、仏法では「生き物をむやみと殺してはならない」「ウソをついて人をだましてはならない」等の倫理規範も立てますが、その裏づけとして、依正不二といった、環境とわれわれ主体との深いかかわりを明らかにし、また、原因・結果の法則を説いているのです。
 “世界”に対して負っている責任を自覚したとき、とうぜん、自己制御がなされなければなりません。それは、あたかも、高速道路を時速百キロ㍍で走ってきた車も、歩行者がいっぱい歩いている狭い道路に入れば、その状況の変化に応じて、時速十キロぐらいに落とすのと同じです。信号が赤になっていれば、停車して待つでしょう。信号はなくても、横断する人を認めれば、やはり、その人が渡り終わるまで待ちます。
 これと同じ心構えと配慮を、人間は、動植物や鉱物資源・水・空気に対しても払わなければなりません。それは、この“世界”にあって、人間は一人で生命活動を維持しているのではなく、こうしたあらゆる生命存在や非生命的物質にささえられて生きているからです。自己をささえてくれている土台を破壊することは、自己を転落させる行為になるのです。
41  そうした現在の周囲の森羅万象との調和とともに、未来への配慮も忘れてはなりません。私たちの子や孫、そのまた子どもたちのためにも、この“世界”は、かけがえのない生存の基盤です。もし、現在の私たちの欲望のために、資源を消費しつくし、この“世界”を、生命を脅かす有害物質によってよごしてしまうならば、未来の世代は途絶えてしまうでしょう。自分の子や孫が飢えに苦しんだり、有害物質におかされて苦悩にあえぐことを望む人間は、いないはずです。
 そればかりでなく、仏法の教えるところによれば、私たち自身、現在の人生を終えても、ふたたび未来にこの世界に、生をうけてあらわれてくるのです。とすれば、現在の環境汚染や資源浪費の報いとして苦しむのは、来世の私たち自身でもあるということです。
 このような、生命世界の真実の姿に対して正しい認識をもったならば、大部分の人は、自己自身のあり方を批判的に見つめ、制御しないではいられないであろう、と私は思います。
 私たちは、この対談の最後の章として、本章を「未来のための現在」と銘打ちましたが、この“未来”とは、子や孫の時代という未来であるとともに、仏法の教えにしたがえば、私たち自身の未来世という意味をもふくんでいるのです。それは、動植物その他を包含した、この“世界”の未来でもあり、“世界”と“私たち”との運命は一つであることが、自覚されなければなりません。
42  デルボラフ 思うに、いまだかつていかなる世代といえども、現代人ほどこうしたセルフ・コントロール(自制)の必要にせまられている世代はありません。そこで現代人を特徴づけるとすれば、「自己制御された人間」と呼んでしかるべきでしょう。
 現代人はもはや、このような自己志向からのがれられず、その前提条件の一つは、そのために必要な体系的教育を受けることです。子どもたちはみずからのおかれている全体的状況を、さまざまな角度から認識する必要があり、そのためには、家庭、学校、マスメディア、成人教育機関等が協力すべきです。そうしてはじめて、自己自身に対する監視と制御という課題を、適切かつ責任をもって遂行できるようになるのです。
 本末転倒というべきは、現代における状況の暗黒面に関する分析をおこたり、蛇に怖じるウサギのように、ただ恐怖におののき、さしせまった世界没落の悲観論や黙示録の幻に、身をゆだねてしまうことです。
43  ここで私は、先に示唆したことをくりかえしたいのですが、それは、人間がもし自分自身を信じられず、先にあげたカ-ル・ラーナーの言うように、人間の「道徳的信仰本能」を信頼できず、自己の胸中のかすかな希望の花をなえさせ、枯死させてしまうのであれば、事実上、自己を放棄することになるということです。
 人類の未来に、希望の根拠がないわけではありません。その希望の源泉は、形態や内容を問わず、宗教にあります。ここでは、私の考えでは、仏教と同様、キリスト教も助けになりえます。
 ご理解いただけると思いますが、私は破綻した人間悟性から宗教的信仰という恩恵の領域への跳躍を、弁明しているのではありません。ただ、私たち二人が、この対談で当初からふみだしている道を、すすめているだけなのです。
 つまり、われわれの現代的生活および信仰状況の仮借なき分析と、われわれ人類に提起されているあらゆる問題を検討し、評価するという道です。そのさい、人類が放縦にあつかってきた技術の是非を反省し、人類の文化創造と精神的業績を正当に評価するとともに、宗教の教えと救済体験にも心を開いていく必要がある、ということなのです。
44  ヘルマン・マラー
 (一八九〇年―一九六七年)アメリカの生物学者、遺伝学者。一九二七年、ショウジョウバエにX線を照射し、人為的に遺伝子に突然変異をひきおこすことに成功。四六年のノーベル生理・医学賞受賞。
 レトルト
 ガラス製の蒸留器具の一つ。フラスコの首の部分が曲がったかたちをしている。
 ウィラード・ゲイリン
 (一九二九年―)アメリカの医師。教育家。
 オルダス・ハクスリー
 (一八九四年―一九六三年)イギリスの小説家、評論家。現代文明の不安と知識人の不安定な生活、未来の科学の発展を、社会風刺的に前衛的方法でえがいた。作品『恋愛対位法』、評論『目的と手段』など。

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