Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3 危険な火遊び  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 現代の人類は、巨大な破壊力をもっており、ひとたび戦争になれば、人類全体が滅亡してしまう危険性があります。いわゆる核戦争の危機が、それです。すでに膨大な核兵器を保有しているアメリカ、ソ連をはじめ、すでに核兵器を装備している国、すぐにも核武装できる可能性をもった国が年々ふえており、しかも緊迫した国際情勢のなかで、断崖のふちを歩いているような、あるいは火薬庫のかたわらで火遊びをしているような観があります。
 人類五十数億全員に対して、一人あたり数㌧のTNT火薬に相当する、というこの巨大な破壊力を考えるとき、私たちは、なんとしても、核戦争につながるような危険な行為は、絶対にさけなければなりません。現在の人類、現在の文明を破滅させ、無にしてしまうならば、未来も無に帰してしまうことは、いうまでもありません。
 アフリカの奥地や大海のなかの孤島で生き残る人々が少しはあったとしても、地球全体の放射能汚染は、やがて、それらの人々の生命をも脅かすことでしょう。まして人類がこの地球上において、営々として築き、伝えてきた文化は、ふたたび蘇ることはできないのではないでしょうか。
 私は、なんとしても戦争を回避しなければならない、そのためには平和を志向する勢力を強め、緊張をとくための対話をくりかえす以外にない。そして、そのために私としてできるだけのことをしなければならないとの信念から、アメリカ、ソ連、中国、フランス、インド、中南米諸国、東欧諸国等々の首脳に会い、語り、また、多くの世界的な知識人の方々と、対話をかさねてきました。これからも、その努力をつづけていきたいと考えています。
 胸を開いて語りあえば、皆、平和を望んでいます。正常な判断力をもっている人ならば、これはとうぜんのことです。しかし、主義主張の対立、経済的な摩擦、人種的な偏見等から、たがいに憎悪を深め、双方とも巨大な武力をもっていることから不安と警戒心を強め、それが戦争への危機を高めているのです。したがって、主義主張のちがいや経済的摩擦は、いつまでも残るとしても、それが戦争に結びつかないようにするには、まず、つねに対話を絶やさず、たがいの平和への意思を確認し、双方の武力を縮小し、廃絶するよう努力しなければなりません。
2  デルボラフ 人類を破滅にみちびく環境破壊の最悪の形態とは、疑いもなく、核戦争でしょう。今日では、核戦争がおこらないとは、だれも断言できなくなっています。政治世界を見ても、二大勢力圏に分裂し、世界を火中に投じてしまうような重大な紛争が、群れをなしてくすぶっています。それにくわえて、相互の核装備のあわただしさのなかで、誤って発射レバーを押してしまったり、まちがった緊急事態発生信号を出してしまうような事態が、発生することもありえます。核弾頭ロケットは発射してしまえば、もはやもとにはもどせません。それは、攻撃と迎撃の連鎖反応をおこすことになるでしょう。
 これが、現状といえます。人類は、今日、爆薬にかこまれているなかで、それを遊び道具としてながめている子どもとまったく同じだ、といえるのです。
 あなたはかなり以前から、この問題を認識されており、善良な意思をもつすべての人間の平和意識を確信されながら、全世界の政治責任者と、平和のための対話をかさねておられます。その功績が評価され、国連平和賞を授与されました。その意味は、国連は国際紛争緩和をその課題とし、この分野ですでに重要な貢献をしていますが、この機関の代表者たちがあなたと同じように、世界平和は、まず第一に、理性と道徳の問題である、という信念をもっているからだと思います。
 ここに、宗教の問題もあげるべきでしょう。というのは、教祖の説く人類愛という戒にしたがうほんとうの宗教者は、戦争をけっして政治的紛争の形態として認めることができないからです。
3  池田 そうです。仏教でもキリスト教でも、生き物、なかんずく人間を殺すことをきびしく禁じています。仏教は禁ずべき第一項目に殺生をあげています。キリスト教でもモーゼの十戒を受けて「汝殺すなかれ」と説いています。
 戦争はそれ自体、殺しあいを目的としたものではありませんが、殺しあいをやむをえない手段としていることは明らかです。仏教やキリスト教を信奉していると称しながら、戦争を肯定する人間は、その教えを立てた釈尊やイエス、あるいは神の心に背いているといわなければなりません。
4  デルボラフ 戦争と平和は、しかし、残念なことに、道徳と信条だけの問題ではありません。その発生、経過、結果の面から見ると、経済的な、また安全保障政策上の、力の表現でもあります。平和維持に真剣に取り組む人は、この法的関連を無視すべきではありません。
 カール・フォン・クラウゼヴィッツは、このことを指して、「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」(『戦争論』淡徳三郎訳、徳間書店)と述べ、かぎられた枠内で、いわば正当化しました。さらに、彼は道徳と宗教を個人の次元に追いやり、政治は、平和的であろうと好戦的であろうと、国家維持の問題であるとしたのです。
 たしかに、今日にいたっても、こうした状況は変わっておりません。ただ、国策上の判断の諸条件は、大国や勢力圏の利害関係の対立とかイデオロギー上の立場の相違にしたがって、非常にむずかしくなっています。現代の世界的な平和運動は、過去に類例を見ないものですが、クラウゼヴィッツの時代にくらべて、世界がいかに大きく変わったか、現代の戦争が、伝統的な危機的紛争とどうちがうかという点を、明らかにしてくれます。
5  池田 なんといっても、戦争において用いられる武器の質が、まったくちがってきています。かつて用いられていた刀や槍、弓矢は、切られて傷は受けたとしても、かならずしも死ぬとはかぎりませんでした。それは、銃の場合も同じです。
 それに対し、今日、戦争の主力兵器として、強国が装備している核や生物・化学兵器は、かならず死にいたらしめる力をもっています。つまり、かつての武器の場合は、自分の劣勢を自覚すれば降伏し、生命だけは救うことができましたが、今日の兵器では、そうしたゆとりさえないのです。これでは、クラウゼヴィッツが言った「戦争は他の手段をもってする政治の継続」という定義は、あてはまりません。
6  デルボラフ 哲学的立場から見ると、その自覚の点で、過去と現在とでは二つの歴然たる相違があります。アリストテレスの時代から近代にいたるまで、人間的行為は、設定された目的を達成するための手段を行使することである、とされていました。
 そこでは、目的と手段は、自然な比例関係にありました。過去においては、戦争遂行の目的は、領土境界線の確保または拡大であり、侵略者に対抗する防衛であったわけです。一般的にいって、いかなる参戦国も敵を完全に抹殺しようという計画はもっておらず、平和交渉と戦後の共存のための可能性を、つねに残していました。
 もちろん、個々の例をとれば、当時の戦争もきびしく、苛酷なものであったかもしれません。しかし、敗戦国に対する配慮として、戦勝国と折りあいをはかる機会はあたえられていたのです。そこでは、“倒された”敵ではなく、“和解した”敵となってはじめて真実に“克服した”といえる、というシラーの言葉があてはまったのです。
 交戦国同士がこの原則を破った場合には――その例は枚挙にいとまがありませんが――つぎにつづく紛争と戦略的抗争の芽を、大きくすることになりました。近代における例をあげれば、一九一八年に敗戦国ドイツに課せられたベルサイユ条約や、四五年の、マッカーサーによる日本との平和条約があります。前者は、ヒトラーの台頭を助けることになりましたが、後者は、今日までの日本とアメリカの共同関係をつくりあげてきた、和解による平和の典型を示しています。
7  池田 端的にいえば、核兵器による戦争には、勝者はありえないと考えるべきです。ともに滅びるのであり、したがって“戦い”ではなく“自殺”と考えるべきです。各国政府は核廃絶、軍備縮小へ努力すべきであり、そのための話しあいの舞台にならなければならないのが、国連であると思います。また、平和を願う国々が、対立を解消しえないでいる国々のために仲介の労をとって、和解をすすめるべきです。
 こうして、あくまでも戦争はしないという大原則のもとに、主義主張のちがいや経済摩擦、領土紛争などは、話しあいによって解決への努力がなされなければなりません。この話しあいや交渉のためにも、私は、国連がそうした場を提供し、また、仲介もしやすく、大きな働きができるはずだと考えています。
8  デルボラフ ともかく、戦略兵器の巨大化にともなって、戦争の目的自体が変わってしまいました。つまり、核とかロケット兵器が使用される場合には、敵の全滅そのものが目標となるしかありません。そこで、今日の国際的紛争においては、通常の戦争形態へもどることが、ふたたび検討されはじめているように思います。
 たとえば、フォークランド戦争(一九八二年)でも、核兵器の準備があったにもかかわらず、通常兵器が使用されました。伝統的戦略の慣行へもどる方向への積極的な意見として、敵国の安全保障への要望を尊重すること、信頼を生みだす方策で和平交渉の手がかりを得ること等があります。これは、教会や他の機関の平和宣言に、何度もあらわれている要請でもあります。こうした傾向は、まったくシラーの言うような路線上にあり、ここからは、相互軍縮をめざす政策に、よりいっそう近づいていくように思います。
9  池田 要するに、核兵器や生物・化学兵器を使用する戦争というのは、戦争の本来の目的そのものから逸脱してしまうことになるわけです。人っ子一人いない都市、かりに建物などは無傷で残ったとしても、残存放射能や毒物などで汚染されて立ち入ることができないとすれば、勝利を得ても無意味という以外ありません。
 しかも、その代償として、拡散する放射能物質や恐るべき化学的毒物・細菌などによって、自分たちの生命もじわじわと破壊されていくのです。核兵器をもっていながら、結局、通常兵器に頼らざるをえないのは、そのことがわかっているからでしょう。
10  デルボラフ さて、国際関係を支配しているのは、経済的・安全保障政策的な力関係です。この力関係が、かつては国家間の主導権争い、現代ではブロック間の指導権争いの要因になってきたのです。ゆえに、この解決のために賢明な政治家によって勢力均衡策が立てられ、ヨーロッパ内の平和政策がはかられたのですが、この均衡策は、今日でもまだ有効な面があるとしても、現代では、戦争の諸条件が変化してきたため、むしろ軍拡競争ないし“恐怖の均衡”へと転落する危険にさらされているわけです。
 相互威嚇ということは、いかなる状況下でもけっして実行に移してはならない手段であり、戦略上の矛盾なのです。つまり、その戦略を実行するということは、自分自身の存在を放棄する覚悟のうえでのみ可能なのです。結局、核戦争においては、対抗して発射されるミサイルは、かならず先に発射されたものより、遅れて目的地へ到達するという理由から、先手を打つべきであるとされるわけです。
 主導権争いの傾向に対して、今日では均衡政策がなぜ効果を発揮しえなくなったのかは、かんたんに理解できます。勢力均衡政策というのは、その発想の根底に、世界平和に対する政治的責任から、恒常的均衡を配慮している“陰の超大国”があることを前提としています。
 帝国主義という付随的臭味がありましたが、ヨーロッパ史のなかでは、イギリスが過去何百年間か、この役割を演じてきました。現代の勢力分布図では、こうした全世界の平和秩序を外交的に保障したり、あるいはまた、軍事的に強制しうるような超大国が欠けているのです。
 ある利口な人が、かつて「今日、敵対しあっている大国を仲なおりさせるばかりか、政治戦略的に同盟させる可能性が、一つだけある。つまり、地球以外の勢力による地球に対する攻撃の可能性が、それである」と言っていました。たしかに、その場合には、今日の敵同士もそくざに共同戦線を張り、その勢力に対抗して、協力して地球を防衛することでしょう。
11  池田 地球以外にも、この大宇宙のなかには人間と同程度の高等生物が生存している可能性があることを、私も信じてはいますが、そうした世界から地球に対して攻撃してくるなどというのは、フィクションの世界でしかありえない、と私は考えています。
 なぜなら、ある星に生命体が生存しているとしても、高等生物の出現はまれですから、そのような高等生物のいる世界は、かんたんに地球に来られるほど近いはずはありません。つまり、地球の四十億年にわたる生命進化の歴史のなかで、高度な科学技術の歴史はやっと数十年ですから、もしかりに大宇宙のなかに、同じような発展段階にいる生物が存在したとしても、たがいのあいだの宇宙の広がりは、とてつもないものでありましょう。
 またさらに、教授のご指摘と逆になりますが、そこまで科学の発達をもたらす知性は、支配欲などとも裏腹の関係であることがとうぜん考えられますから、地球にまで来られるほどになる以前に、内部でたがいに争いあって、滅亡してしまっている蓋然性のほうが高いといえます。
12  デルボラフ 結局、地球外生物に関する議論においては、宇宙に他の文明は存在しないと主張しても、それは仮説にとどまるし、存在するといっても、同じく証明不可能です。こうした推測はすべて無意味である、ということになります。現状で対峙している二大勢力は、そうしたことと無関係に現存しており、この対立の存続は、たがいに排他的で妥協を許さぬ政治的イデオロギーのゆえに、ずっと蓋然性が高い問題です。
 しかし、今日、われわれがたびたび見るように――中国がその一例ですが――政治上の構造というのは変遷しうるし、勢力関係も変化します。したがって緊急事態としての対立構造を、継続的で、着想豊かな危機管理によって、この対立構造を乗り越えうる希望が、まったくないわけではありません。その場合、道徳や宗教の構成要素がどういう役割を演じることができるかについては、われわれがすでに述べてきたとおりです。
13  池田 道徳とか、宗教などというと、時代遅れのもののように受けとめられがちですが、言いかえれば、人々の物の考え方や生き方です。
 科学技術にしても、それを破壊と殺戮のために使うか、建設と幸福増進のために使うか、でまったくちがってきます。破壊や殺戮は悪であり、建設と幸福増進こそ善であることを教え、また人間の心をその方向へみちびくのが、宗教や道徳の役目です。
 人類絶滅の危険性をはらむ現代の戦争は、この意味での宗教・道徳の存在意義を、これまでのいつの時代よりも大きなものにしている、といって過言ではないでしょう。
14  デルボラフ 戦争の危険は、これまで述べてきた世界のあらゆる問題を無意味にしてしまうでしょう。つまり、地球が破壊されてしまえば、環境汚染の防止ということは無意味ですし、人類が滅亡すれば、人口爆発を家族計画によって抑止することも、ナンセンスだからです。
 人類の生存自体が危機にさらされているときには、環境や人口の問題を、だれも真剣に受けとめようとしないでしょう。しかし、この最悪の事態をただちに考えないのであれば、地球上での人口爆発は、つぎの戦争への危険をはらんでいると見るべきです。なぜなら、貧困、飢餓、住居不足にせまられている第三世界の諸民族が、そこで欠乏しているものを手に入れようと――もっとも、それ相応の兵器製造能力をもっていることを前提としての話ですが――ヨーロッパとアジアの産業国家である第一、第二世界を、攻撃するようになるかもしれないからです。
 この可能性がまったくない、と断言できない理由があります。それは、もっとも貧しい国々でさえも、その多くは、お金を消費財のためよりも兵器調達のために投入しており、他方、兵器製造技術のノウハウを、発展途上諸国やそれらの国々の人々に売りつけようとする裏切り者は、いつも存在しているからです。高度な技術をもつ国々の側が、それを阻止しようとして、いかに厳重な警戒とコントロールをしても、徒労に終わることでしょう。
15  池田 発展途上の国々が、武器を買うカネを産業や福祉向上にふりむけ、先進諸国が武器援助をやめて教育・産業の援助に力を入れるならば、どれほど世界の平和と人類の幸福に貢献できるか、はかりしれないほどです。多くの場合、発展途上国のかかえる貧困が改革・解放運動に結びついており、自由主義諸国はそうした革命を恐れて、反革命側に武器を供与したりしているわけですが、それがかえって、貧しい民衆をそうした運動にかりたてているのが実情です。民衆の貧困と苦悩をなくすことが、政情・社会を安定させる根本です。
16  デルボラフ この厄介な問題に関する考察をしめくくるにあたり、新しい戦略的展開と宇宙技術の開発計画の結合、という問題を指摘しておきたいと思います。疑いもなく、戦争を宇宙空間に移す可能性と計画に関する米ソの最近の議論は、恐るべき視座を開きつつあります。
 しかし、こうした問題を検討するかわりに、むしろ、宇宙空間に――その研究対象としての役割を度外視して――地球上の人口増加を解決する可能性が見いだせないかどうか、を考えてみるべきでしょう。大勢の人間を移せる宇宙ステーションの建設計画がアメリカで開発されている、という情報をときどき目にします。そうした計画は、今日、まだ空想の域を出ないかもしれませんが、宇宙利用としては地上の勢力圏間の軍事紛争を宇宙に延長するような計画とはくらべものにならないほど、有意義な計画です。
17  クラウゼヴィッツ
 (一七八〇年―一八三一年)ドイツの将軍、軍事学者。著書『戦争論』で国民戦争を分析し近代戦の特質を明かした。エンゲルスらの革命家に影響をあたえた。
 シラー
 (一七五九年―一八〇五年)ドイツの劇作家。ゲーテと疾風怒涛時代に活躍。のちに古典主義に転じ歴史劇を築く。代表作に『たくみと恋』『オルレアンの少女』他。

1
1