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日蓮大聖人・池田大作

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6 童話と性格形成  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ あなたのおっしゃるとおり、こうした空想文学の領域で作者が考えだしたものには、残酷さや不安、恐怖をそそるものが多いといえます。このような体験を集めた話は、子どもの「基本的信頼」を喚起させるには、妥当でないように思えます。エリクソンのような心理学者は、信頼感こそ、健全で支障のない生き方のための決定的な前提条件、と見ています。
 もちろん、こうした心配が意味をもつのは、グリム兄弟が当時あつめたようなもの、とくにあなたが引きあいに出しておられる『ヘンゼルとグレーテル』といった、わずかな伝承童話についてでしょう。明確な教育的意図をもつ子どものための多くの物語、たとえば精神科医ハインリッヒ・ホフマンの悪名高い『乱髪頭のぺーター』(一八四八年刊)なども、この部類に入ります。
3  これに対し、創作童話では、もっと繊細で、そうした恐怖の体験を取りのぞいた文学的作品が多く、子どもばかりでなく、大人、つまり親も教師も感動をおぼえます。
 いわゆる伝承童話は、それが発生してきた時代の性格を強く負っています。農家や職人階層の悲惨な社会的困窮を映しだしていたり、キリスト教がかろうじてうわべを飾っただけの、古くからの迷信で、すみずみまでみたされていたりします。
 童話がもつこうした“時代性”のよい例証は、多くの童話で継母にあたえられている、意地悪で、魔女のような役割です。むじゃきな子どもたちは、この継母にいじめられ、運命にのろわれているかのように、表現されます。
 しかし、真実は、その時代では産褥熱の病原体がまだ発見されていなかったため、実母の死亡率が高かった、ということをあらわしているだけなのです。そこで、男やもめとなった父親は、大勢の子どもの面倒を見させるために、すぐにも母親のかわりを探さなければなりませんが、とうぜん、かならずしも期待にそうようにはいきません。
 たしかに、性悪で、ぞっとさせるような潜在エネルギーは、情操的に清らかな、現代の子どもたちの体験の世界にはまったく不適当です。したがって、こうした伝承童話の子どもらしくない、奇妙な性格についての議論は、ずっとあり、童話の父グリム兄弟は、当時の世論に対抗し、これを擁護しなければならなかったのです。
 偉大な教育学者たちも――とうぜんのことでしょうが――この問題について黙っていたはずがありません。
4  さかのぼればプラトンからはじまって、ルソー、カント、ジャン・パウル、フリードリッヒ・シュライエルマッハーをへて、エレン・キィ、そしてまたシャーロッテ・ビューラー、アンナ・フロイト、ブルーノ・ベッテルハイム、エーリッヒ・フロム等の心理学者、心理分析学者にいたるまで、たくさんの人が童話に関して意見を述べました。
 そのなかでも、子どもを「純粋無垢の状態」と見て、できるかぎり害悪から遠ざけようとしたのが、プラトンやカントのほかに、いわゆる“子どもの再発見者”であるルソーでした。彼らは、そうした童話やおとぎ話を、迷妄と虚構であるとしました。
 他方、子どもに対していっそう深い理解を示し、大人とは異質の、彼らの才能を認める人々がいました。この部類には、ジャン・パウル、フリードリッヒ・シュライエルマッハー、エレン・キィや、たいていの青少年心理学者が属します。彼らは、童話が「子どもにふさわしい形態の現実」であり、その豊かな内容が、子どもの成長のための大きな助けとなっている、と見ます。
 彼らは、幼年時代は「不可思議の時期」であり、それは特殊な構造をもち、空想の世界と現実の経験とが区別される以前の時期である、と主張します。すなわち、幼年期というのは自己中心的で、擬人的発想が大きく支配している世界である。極端で、大小、美醜、善悪の両極しか知らず、豊かな中間は存在していない。そしてどの子どもも、自分の心のなかに空想と神話の遺産をしっかりといだいていて、それが救済の効果をもっている、というのです。
5  池田 童話を通じて、子どもたちはこの世のなかに善と悪とがあること、悪に対する恐れを学ぶわけです。
 また、こわい継母の登場は、いま言われたように、その話がつくられた時代の状況を反映したものであったのでしょうが、また、そうした話を聞くことにより、やさしい父や母が守ってくれている自分の幸せを思い、父や母に対する感謝の気持ちを、強める効果があったのかもしれません。
6  デルボラフ 心理分析学的な現代の童話解説者や批評家は、とうぜん、もはや昔の道徳的純粋主義者ほど、単純ではなくなっています。多くの童話の残虐性を単純にけなすのでなく、人間本性のサディズム的なあり方を、見ようとさえするのです。
 たとえば、『赤ずきんちゃん』は名前からして生理の象徴であり、したがって、少女にとって、性との最初の出あいを示唆している。そのさい、狼は、性交の儀式を残忍に遂行する男性を体現している、といいます(エーリッヒ・フロム)。こうした解釈が、子ども用の物語、読本としての童話に対する、大きな中傷になることは明らかです。
7  池田 フロムの解釈は、少しうがちすぎという印象をまぬかれませんが、フランスのシャルル・ペローが、この話のうしろにつけている「教訓」を読むと、あながち、こじつけともいえない気がします。ペローはこう言っています。
 これでおわかりだろう、おさない子どもたち、
 とりわけ若い娘たち
 美しく姿よく心優しい娘たちが
 誰にでも耳を貸すのはとんだ間違い、
 そのあげく狼に食べられたとしても
 すこしも不思議はない。
 一口に狼といっても
 すべての狼が同じではない。
 抜け目なくとり入って
 もの静かでとげとげしくなく怒ったりせず
 うちとけて愛想よくもの柔かで
 (中略)
 ああ、これこそ一大事。知らない者があろうか
 こういう優しげな狼たちこそが
 どの狼よりも最も危いということを。(「赤ずきんちゃん」新倉朗子訳、『完訳 ペロー童話集』所収、岩波文庫)
 このペローの「教訓」は、性的な体験を少なくとも警戒すべき狼の一つとしてあげていますね。
8  デルボラフ さらに、マルクス主義的イデオロギーからの批判を取り上げてみますと、民話や家庭のなかで語り継がれた童話は、本来、それが生まれた時代の封建的所産、あるいはまた、小市民的社会構造の再生産でしかない。したがって、恭順な妻の役割、きびしい規律のもとにおかれている子どもの役割、そして、暴力的な父親であれ善良な父親であれ、父親の役割とその像が、耳をかたむけて無心に聞きいる子どもたちの世代に無批判に伝えられていくのだと、童話を解釈します。そうしますと、子ども用の読み物としての童話は、まったく信用できないものということになります。
9  池田 童話のすべてが、既存の体制や権威に服従するよう、子どもに教えているとはいえませんね。先にもあげた『ヘンゼルとグレーテル』で魔女を焼き殺して自由を得た話のように、既存の権威や体制を打ちたおす、いうなれば革命精神を鼓舞することに通ずるものもあるわけですから。
10  デルボラフ 私には、ベッテルハイムが、『子どもには童話が必要である』(一九七六年刊)という著書のなかで展開しているような、深層心理学からの温和な解釈が、真に説得力のある童話への理解を提供してくれるように思えます。それは同時に、童話の是非に関する議論に終止符を打つことになるものかもしれません。
 彼は、先にフロムについて話しあったときに言及したような、もう一つの契機が、幼年期の発達心理学的解釈のなかに取り込まれるべきだ、と考えています。つまり人の子は、いわば心に致命的な不安をいだいて生まれてくるようなものである。その不安の根拠は、誕生時や乳児期のショックかもしれないし、一人でいることに恐怖を感じる自己の孤立、または他者との根本的分離の体験かもしれない。その不安の根拠が何であれ、幼年期の早い時期に、また、どういうかたちにしろ、不安を乗り越えなければならない。そこで、童話というのは、まさにその残酷な性格と恐怖を呼びさますなかに、不安から解放される浄化作用をもっているわけです。
 また、あなたが例としてあげられた『ヘンゼルとグレーテル』の童話に関連して、ベッテルハイムは、こう述べています。「食い殺されるというわれわれの恐怖が、もし魔女という具体的な姿で表現されれば、われわれはその魔女をパン焼き窯で焼きつくすことにより、自己を解放することができるのである」──と。
 子どもたちは、童話で出あう、恐ろしい、身の毛のよだつものにたんに反発したり、また、その純粋でまだ悪になれていない情緒をもって、無理解のままに看過したりすることはありません。むしろ、それをすべて自分に関係づけ、自己自身の浄化の要素としながら、強烈な注意力をもって対応していくのです。ただ、その前提条件は、最終的にはすべてが、まるくおさまることで、健全な子どもらしい世界像が破壊されない、ということです。
 子どもたちは、犯人がしとめられることを期待する推理小説愛読者とは、同じではありません。子どもは悲しみに対する感受性をもっており、詩的に表現される悲劇や死にも耐えることができます。そのよい例が、サン=テグジュぺリの『星の王子さま』(一九四三年刊)です。
 その意味で、童話をどう思うか、というあなたのご質問に、私は確信をもって、子どもの読み物としてぜひとも保存すべきだ、と申し上げます。しかも、子どもらしい童話の世界がもつ教育上の効果は、まちがいなくあります。
 この童話の世界から、恐ろしくて、不安をかりたて、残酷きわまりない要素であっても、それを排除することは、マトを射ていないと思います。ただ、現代の童話作家が、穏健な調べを奏で、時代の変遷に適応してくれることも、望ましいことです。
11  池田 日本の昔話の場合も、子どもにとっては、かなり恐ろしい内容が、多く見受けられます。ヨーロッパの昔話で恐れられたのが、魔法使いであるのに対し、日本の昔話で怖い役をつとめているのは、多くの場合、赤鬼や青鬼です。
 鬼はほとんどが男で(女の鬼もいないわけではありませんが)、頭に一本ないし二本の角がはえており、身に着けているものといえば、腰にまいた虎の皮だけです。太く長い鉄の棒を持っており、恐るべき力をもっているとされます。古代の巨石文化の名残といえるものは、鬼がつくったとされたり、あるいは自然の作用で形成されながら、人為的に見えるものは、鬼が使ったあとである、などと言い伝えられました。
 鬼は、ある意味で、人間らしさの対極としての役割をあたえられてきたともいえます。このため、他人に対する思いやりがなく、悪事を働いても良心の呵責を感じない人間、あるいは、わが子を残酷にあつかう親を表現するのに、「鬼のような」という修飾語が広く用いられてきたのです。その意味で、鬼は人間らしさを考えさせるための、反面教師の働きをしてきたともいえると思います。
12  デルボラフ 昔の魔女や妖怪、あるいは赤鬼や青鬼にかわって、今日、幼児たちに対して、同じような影響力を発揮しているのが、現代の技術的ファンタジーの、もろもろの産物であろうと思います。現代の技術的世界が、そのような結果や影響をもたらさないとしたら、逆に、不思議かもしれません。西洋では、人工的なファンタジーがミッキーマウスやドナルドダックを生んで、すでに五十年たちました。
 事実、成功した童話や子ども用物語ほど、長期にわたって各世代の意識に残り、人間の空想への欲求に訴える文学作品はないといえます。私はここで、威嚇と警告の物語として騒がれたホフマン博士の『乱髪頭のペーター』──この本はすでに百版以上も重版されていますが──をくわしく論ずることはしませんが、主人公の小さなコンラートが、指をしゃぶるので両方の親指を切られるというのは、どうもあまりにむごすぎる罰ではないかと思います。そこで、この話を、先のグリム兄弟の、残虐な物語の系列においたしだいです。
 ただ、忘れてならないことは、子どものための童話や物語を集成したり、創作したのは、グリム兄弟やドイツ・ロマン派の同時代人であったこと、そして、それが十九世紀以来、ヨーロッパの各国で国際的な基盤の上に、さらに豊かな財宝を生みだしていったということです。そのなかでも、子どもの意識からぬぐいさることのできないフランス、イギリス、ドイツの三つの童話の主人公を、あげてみたいと思います。
 フランスの飛行家サン=テグジュペリの『星の王子さま』、ルイス・キャロルというペンネームで出版されたオックスフォード大学の数学者C・ドッジソンの『不思議の国のアリス』(一八六五年刊)、そして最後に、最近、ベストセラーとなったドイツの童話作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(一九七九年刊)と『モモ』(七三年刊)です。ここにあげた作品のように、作家が、少年少女の想像の世界に、かくも生き生きと入りこんでいるのはまれなことです。
 こうした物語がかくも魅力的なのは、いたるところで在来の伝統的基準を突きやぶり、新しい空想上の要素をもちこんでいるからでしょう。
 『星の王子さま』は、彼が住んでいた小惑星から地球に舞いおりて、作者に動物や家畜小屋をえがかせ、いろいろな惑星を訪問しては、奇妙な体験をかさねていきます。最後は、悲しい、悲劇的な別れをして、自分の星に帰っていきます。
 これはほんとうに、ただ愛らしいというしかありません。また、アリスが姿を小さく変えて、擬人化された動物界と冒険的な出あいをするといった展開において、ルイス・キャロルを凌駕する童話作家はおりません。
 さらに、ミヒャエル・エンデが、おとぎの国のファンタジアを、具体的に細部にわたって考えぬかれた、つねに新しく、意表をつく動物でみたすさまは、かんたんに真似できるものではありません。『はてしない物語』では、この本を読んでいる少年バスチアン・バルターザール・ブックスが、物語自体のなかに折りこまれ、その主人公となり、最後にかろうじて、その危険な世界を脱出するというもので、この構想は、すでにドイツ・ロマン派の童話文学に先例があるにしても、驚きであり、奇抜なものと思います。
 少女モモは、相手の言い分をよく聞くという彼女の姿勢によって、読者を魅了してしまいます。友達を得たり、けんか好きな人たちを仲なおりさせるだけでなく、老いた大人たちの「時間貯蓄銀行」を打ちまかします。この協会は――私の見当ちがいでなければ――現代商業主義のごまかしを象徴しています。
 こうした創作童話が、子どもばかりでなく、むしろ大人をこそひきつけるのは、そこに、短くかぎられた時間だとしても、「子どもの国への道」をふたたび見いだしたい、という憧憬が呼びおこされるからではないでしょうか。これと同名の歌曲で、ブラームスは、こうした憧憬を見事な調べにしました。
13  池田 プルーストの『失われた時を求めて』の主人公は、紅茶にひたしたマドレーヌ菓子を口にふくんだときに広がる香りによって、幼少期の思い出が鮮明に蘇るわけですが、幼年期の思い出につながっているものは、個人によってさまざまです。
 時代は大きく変化していますから、経験した世界は、父と子とではまったく異なっています。しかし、幼年期に、同じ童話をとおして育ったとすれば、人格のきわめて基礎的な部分で、共通のものを保持していることになります。
 それは、世代のちがいを超えて、心のつながりをささえる絆になることが考えられます。その意味で、現実の社会や生活形態が、急激に変化していく時代であればこそ、なおさら、そうした共通の基盤になりうるものとして、昔からの童話が語り継がれていくことには、大きい意義があるのではないか、と思います。
 プルースト(一八七一年―一九二二年) フランスの小説家。深層心理学的な手法で構成した七編十六巻の長編『失われた時を求めて』は、一九〇六年から十六年間かけて執筆。二十世紀の新文学として影響をあたえた。
14  グリム兄弟
 ともにドイツの言語学者、文献学者。兄弟の編著として『ドイツ語辞典』『子どもと家庭の童話集』(グリム童話集)が有名。兄ヤコブ・グリム(一七八五年―一八六三年)は、言語学に「グリムの法則」を立てるなどゲルマン語の基礎をつくる。弟ヴィルヘルム・グリム(一七八六年―一八五九年)は、兄と同じくベルリン学士院会員。著作に『ドイツ英雄伝説』など。
 ハインリッヒ・ホフマン
 (一八〇九年―九四年)ドイツの精神科医、作家。自分で挿し絵を入れた童話絵本『乱髪頭のペーター』を出版。
 ジャン・パウル
 (一七六三年―一八二五年)ドイツの作家。作品は『巨人』など全集六十五巻におさめられ、小説、文学論、教育論と多方面におよぶ。
 フリードリッヒ・シュライエルマッハー
 (一七六八年―一八三四年)ドイツの哲学者、神学者。近代プロテスタント神学の祖とされる。著書に『宗教論』他。
 エレン・キィ
 (一八四九年―一九二六年)スウェーデンの社会思想家、女流作家。男女同権思想にもとづいた児童教育をとなえ婦人運動に影響をあたえた。著書『児童の世紀』。
 シャーロッテ・ビューラー
 (一八九三年―一九七四年)ドイツの女性心理学者。児童・青年の思考、言語、精神発達の研究などにつくした。
 アンナ・フロイト
 (一八九五年―一九八二年)ウィーン生まれの精神分析学者。精神分析の創始者フロイトの末娘。児童の精神分析をすすめ遊戯療法の基礎づくりに貢献した。
 ブルーノ・ベッテルハイム
 (一九〇三年―九〇年)アメリカの精神分析学者。一九三九年、ナチスに追われて亡命。情緒障害児、自閉症児の治療・教育に精神分析の手法を用いた。著書『自閉症―うつろな砦』『昔話の魔力』他。
 シャルル・ペロー
 (一六二八年―一七〇三年)フランスの詩人、童話作家。民間に伝わる説話をおとぎ話集にまとめた(一六九七年刊行)。「眠れる森の美女」「赤ずきん」などが有名。
 サン=テグジュペリ
 (一九〇〇年―四四年)フランスの小説家。飛行家の生活、体験をもとにした行動主義、人間主義の文学を追求。小説『夜間飛行』『人間の土地』、童話『星の王子さま』など。
 C・ドッジソン
 (一八三二年―九八年)イギリスの童話作家、数学者。『鏡の国のアリス』で知られる。
 ミヒャエル・エンデ
 (一九二九年―九五年)ドイツのメルヘン作家。俳優のかたわら創作活動に。『ジム・ボタンの機関車大旅行』でドイツ児童文学賞受賞。
 ブラームス
 (一八三三年―九七年)ドイツの作曲家。古典的、重厚ななかに独自のロマン性をくわえた曲をつくった。四つの交響曲、ピアノやバイオリンの協奏曲、さらに「大学祝典序曲」「ハンガリー舞曲」など。

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