Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 校内暴力の風潮  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  デルボラフ 校内暴力の原因は、さまざまあるでしょうが、なかでも、ヘルムート・シェルスキーの一九五〇年代後半の調査から知られているように、青少年期に特徴的な、行動様式の不安定さに由来するものと思います。
 ドイツでは、二十年ほどまえにはじめて見られるようになったのですが、青少年の性的成熟が早まっている点を、取り上げたいと思います。いまの青少年は、成長速度の増大とともに、身体も大きくなっています。今日では、子どもまでが教師に対して大人のように立ち向かい、教育上の規律化に対して自分自身がどう反応すべきかわからず、残虐な暴力行為をもって対応するにいたっていますが、その理由も、この点から理解できるでしょう。
 ヘルムート・シェルスキー(一九一二年―八四年) 社会心理学者。混乱した第二次大戦後のドイツを社会哲学的に鋭く分析した。
3  池田 日本で校内暴力をおこしているのは、年齢的には十三歳から十五歳の中学生が四分の三を占め、残りの四分の一を十五歳から十七、八歳の高校生が占めているといわれます。
 中学生が多い理由としては、中学校が義務教育であり、高校へ進学するための受験をひかえた圧迫感、就職先にからむ不安など、また、生理的に第二反抗期にあり、情動が不安定であること、心身の不均衡などから、攻撃的になりやすいといったことがあげられています。
 ふつうは、それらをみずから制御したり、他の目標に向けて解消しているわけですが、それができないで暴力行為に走るのには、やはり、それなりの原因がある、と考えなければなりません。その点に関して、創価学会教育部の人間教育研究会が、一九八一年十二月に東京都内の公立中学校の一年生から三年生までを対象におこなった『中学生の行動問題に関する意識調査』の興味深いデータがあります。(一千八百四十四人が回答を寄せている)
 それによると、「これまでに、やってしまいたいと思ったことがある行動」(複数回答、以下同じ)という設問に対し、六〇%(小数点以下は四捨五入、以下同じ)の生徒が家庭内暴力、二六%の生徒が教師への暴力、二〇%の生徒が学校の器物破損、二二%が万引き、五%がシンナーの吸引をあげている、というのです。つまり、全体の四分の一が、教師に暴力をふるいたい、という衝動にかられた経験をもっているということで、しかも「校内暴力が生じた事実をどう思うか」との質問に対し、「そのようなことがあっても仕方がない」と容認した生徒が、三九%にのぼっているのです。
 そして、その理由として「先生が生徒のことをわかってくれないから」というのが五五%、「先生の叱る態度や言葉が悪いから」が三二%を占めています。こうした点からも、校内暴力をひきおこしているのは、教師のあり方にその一因があるといわざるをえません。
4  デルボラフ あなたのおっしゃる創価学会教育部の調査が明らかにした事情は、興味深いと思います。つまり、日本での教師への暴行場面では、教師自身が共同責任者として登場していることです。さらに興味をそそられるのは、いかなる機能と特質のなかで、教師がそうした学校生活上の弊害をもたらすのか、という点です。まずはっきりしていることは、授業が、マンネリ化した業務となってしまっていることでしょう。
 わかっていながら克服しがたい心理的メカニズムとして、教師は、頭の回転の早くて優秀な生徒のほうを好ましく思い、飲みこみの遅い生徒を、自分の目標達成をさまたげる存在としてきらい、往々にして“なまけ者”という汚名をきせてしまう傾向があります。こうした「烙印を押す」と呼ばれる行動は、レッテルをはられた者が、努力することのむなしさと落胆の「深み」にますますはまりこんでいく、という悪循環をもたらします。
5  池田 おっしゃるとおりです。「先生が生徒のことをわかってくれない」というのは、要するに教師が生徒に対して先入観をもってしまっている、ということです。「この生徒はこれだけのことしかできない」「この生徒は不良である」等と決めつけてしまうわけです。
 そして、一度押された烙印は、容易にあらためられません。教師の側に「あらためよう」「一人の人間のもつさまざまな可能性や、特徴を見直そう」とする姿勢が少ないとすれば、生徒は「教師は自分のことをわかってくれない」と反発せざるをえないでしょう。
6  デルボラフ それにくわえて、これが良いか悪いかは別にして、「教育環境」と呼ばれるものがあります。
 学校制度が良いイメージをたもっている場合には、そのなかでの学習の質にも影響をあたえます。逆に、成績の悪い生徒の社会では、他人より秀でようとする動機づけに欠けることになり、そこでは、何のかかわりももたず、何もしないという状態におちいっていきます。
 ドイツでは、とくに、あまり名も知られていない一種の中学校(=職業学校にすすむ義務教育後期課程)の場合がそうですが、このことは、とうぜん、日本でも、さまざまなレベルの、あまり評判の高くない、多くの学校にあてはまるかと思います。このような体験をとおして、教師のみならず、一般的に教育界自体が悪評をこうむるのは、不思議ではありません。
 そこで、前項でふれたイリッチによる社会の「脱学校化」への要求は、ここ数年間のドイツで、いわば二重の意味で尖鋭化していったのです。いわゆる「非権威主義的教育」および最近の「反教育学」が、それです。前者の「非権威主義的教育」とは、教師の権威──または、教師の「不遜な」権威主義的態度──に授業の悲惨さのほんとうのガンがあるとして、そこから、教師と生徒のあいだにパートナーシップの関係が生まれることを求めるものです。
 後者の「反教育学」のほうはさらにすすんで、成長期の人間、それも幼児から青少年にいたるまでの人間に対する、いかなる教育的処置も誤りである、すなわち、たんなる術策にすぎないとみなします。そして、こうしたパートナーシップのかわりに、「子どもとの友情」をかつぎだし、教育者と子どものあいだのレベルの差は埋めることが無理なので、そこに愛という「センチメンタルな要素」が必要である、とするわけです。
 この二つの主張を見ると、学校や成人による教育的意図を批判して、その欠陥を極端にさらけだそうとすれば、いかに悲しい結末をもたらすかがわかります。子どもの独立心は、幼児期にはまだ開花できておらず、教育において、教育という「事柄」自体の定める権威が、不可欠であることは明らかです。
7  池田 この問題の解決のためには、まず、教師自身が生徒に対する理解を深めること、生徒を一個の人間として、正しい意味で尊重することが大切であるといえます。
 現在の教育においては、とかく、生徒を知識の吸収力だけで判断し、差別する傾向に教師を押しやります。そのなかで、教師がみずからの視点をもつということが、いかに困難であるかもわかります。
 だからこそ、そうした教育機関や体制そのものの変革が大事であることは、とうぜんですが、それは別の問題として、教師がみずから確固たる理念をもち、生徒に対し、尊敬に価する存在にならなければなりません。その意味での教師の自覚、誇り、責任感が今日、より強く要請されているわけです。
 教育上のこうした諸問題を克服し、教育や学校が、子どもたちにとって魅力あるものとなるためには、どうしたらよいと教授はお考えですか。
8  デルボラフ 学校や教育が、そのかかえている困難を乗り越え、子どもにとって、異質で魅力のない権威となってしまっている現状をあらためるにはどうしたらよいのか、という点について、あなたは、主として“教師”のあり方に問題があるとし、したがって、これまで指摘されてきた欠陥を改善することよりも、学校や教育活動における教師という役割の健全化こそ重要な問題である、としておられるわけですね。
9  池田 もちろん、学校のあり方、教育制度といったものの重要性を、否定するものではありません。しかし、なによりも教育において根本となるのは、教師と生徒との人間的ふれあいです。これが歪んだものであったならば、他のどんな改善も無意味になってしまう、と私は考えています。
10  デルボラフ ドイツの教育学も、とうぜん、その伝統のなかで教師の問題については詳細に検討しており、理想的教師像の研究から教師の役割を批判的に分析する方向へ、と発展してきています。
 一九二〇年代にゲオルク・ケルシェンシュタイナーは、教師と生徒の関係が一つのまったく特殊な社会形態であることを考慮せずに、教師を「社会的類型」と特徴づけることができると考え、エドゥアルト・シュプランガーの類型学を、教師に適用しました。
 生徒に対するアンケートの結果は、教師の生徒に対する不公平なふるまいが、教師の威信を傷つける最たるものであるということです。ここでは、教師の資格の問題が、若干なりとも政治的資格の次元に、変えられています。しかし、こうした性格づけは、今日の学校で教師に課せられる、数多くの問題を分析してみると、時代にあわないことが明らかになります。
 教師というのは、たんに「授業担当者」や「教育者」ではありません。教えるということ自体が、特定のスタイルをにじみださせる教育的行動であり、しかも、その他に、教師はたくさんの官僚的な事務の仕事をしなければならず、採点のときには、政治的機能を果たすことになります。教師につきまとう、このようにさまざまな業務分野を、すべて同じ程度に専門的能力をもってこなすことのできる人が、はたしているでしょうか。
11  池田 それは、日本でいうと、現場の教師から経営上の成果を報告するよう求めすぎる、という側面もあるのではないかと指摘されております。このため教師の肩に、本職の児童への教育活動以外に、こまごまとした報告事務の仕事がかかってくるわけです。これは、官僚化した組織において共通する、事務の煩瑣化の現象です。
12  デルボラフ 先に、西ドイツの教育改革の「誤った進歩」にふれましたが、そこからも、わが国は、教員養成の面で痛手を受けています。疑いもなく、今日、われわれはますます科学化される世界に生きており、学校や教育は、それを理解する鍵を、つぎの世代に提供していくことが求められています。
 そこで、西ドイツでは、授業を「科学志向的」に実施しようとしました。ギムナジウムだけでなく、幼稚園までもふくめてです。つまり、全学年の教師が、科学にその理想像を求め、青少年が自然な意識、すなわち科学以前の日常的実践のなかで求めるものをはるかに超えて、しかも特別な橋渡しを考慮しないで、科学の抽象の世界へとみちびこうとしているのです。
 それにくわえて問題なのは、教員の養成理論ばかりか、その実践的訓練形態もつねに変化していることです。同時に、総合制学校にせよ、ギムナジウムのような能力別の学校にせよ、さまざまな教育機関のあり方が、教育学部の内容構成や、それに関連した試験制度に影響をあたえています。学生は、卒業のために必要なセミナー参加証を、苦労して集め、試験を受けて合格すると、今度は大学卒業生として、なまかじりのやり方で――すなわち、二番せんじの科学性で――授業実習のための「研究セミナー」に入れられます。
 とうぜん、このような過程をうまく通ってきたからといって、良い教師になるとはかぎりません。ドイツでは他の職業と同様、教職でも、専門化がとうの昔に浸透しており、教師も、かつての「招聘されている」という意味での「聖職」から、最近では、形式がアカデミック(学術的)である、というだけの職業となってしまっているのです。
 以上、西ドイツの教育および学校生活の、否定的側面に関して指摘してきましたが、あまり悲観的になりすぎてもいけませんから、何かを付けくわえるべきでしょう。あなたご自身も、今日の教師にものたりなく思い、生徒から尊敬されるような資質を期待しておられるはずです。ここに欠けていると思えるのは、かんたんに言って、人間に対する信頼なのです。
 すなわち、教師は、自分の教育上の課題をいかに不十分に漠然としか理解できていないとしても、みずからの果たさなければならない課題を、たんなる教育技術上の機能とみなすのではなく、自身の活動がもつ深い人間的意義を把握し、被教育者のなかに自己を再発見し、それを鍛錬し、育成すべきです。こうすることによってこそ、ヨーロッパでもアジアでも、教職に特有な「聖職」という性格の片鱗を、ふたたび呼びさますことができるのではないでしょうか。
13  池田 教職は「聖職」か、たんなる労働者かという論議は、日本では第二次世界大戦後、労働運動に教師が参加するなかで、さかんにたたかわされました。
 たしかに「聖職」なのだから劣悪な条件にもあまんずべきである、と押しつけることは誤りです。しかし、みずからの職業、仕事に誇りをもつ人ならば、その仕事が何であれ、社会的害悪をもたらさない、正規の仕事であるかぎり「聖職」意識をもつのが自然です。まして、未来を担う青少年の人格育成、という重要な仕事に従事する教師に「聖職」であるとの自負と情熱がなくしては、実りある教育活動は、期待できるわけがありません。
 私は、教師が「押しつけられて」でなく、みずからの自覚として「聖職」たる誇りを取りもどすことこそ、教育再建の一つの出発点であると考えます。
14  ゲオルク・ケルシェンシュタイナー
 (一八五四年―一九三二年)教育学者。ミュンヘン大学教授。小学校に工作や料理の教科をもうけて作業教育運動をはじめ、また公民教育の必要性を説いた。主著は『陶冶論』。
 エドゥアルト・シュプランガー
 (一八八二年―一九六三年)哲学者、教育学者。ベルリン大学教授。文化哲学の立場から「精神科学的心理学」を提唱。主著『生の諸形式』。

1
2