Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

5 ドイツ人と仏教研究  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  デルボラフ 人はさまざまな理由から仏教に近づくことができます。
 イギリス人はインドを植民地化した関係から仏教を知りましたが、ドイツ人の場合には、いろいろな理由が混在しています。独自の観念論的思惟傾向にもとづくインド的・仏教的哲学への傾倒、古代仏教の伝統の解明とともに開かれた文化・言語学的研究への関心、そして最後に――あなたが正しく指摘しておられるように――キリスト教にすべての点で失望して、仏教により多くの満足を期待した宗教的欲求などがあげられます。
3  池田 ヨーロッパにおける精神生活は、中世以来、長らくキリスト教によって統一されてきました。近世に入ると、カトリック教会に満足できなくなったことから宗教改革がおこり、プロテスタンティズムが生まれました。しかし、このプロテスタンティズムも教会として固定化すると、さらに、新しい理想を求める動きがでてきました。
 それらの動きのなかで、十九世紀初頭のロマン主義の運動は大きな潮流を形成しました。とくにドイツでは、哲学者や文学者のあいだで、早くから東方の宗教に興味をいだく人が多かったことは注目すべき現象です。
 ゲーテ、ヘーゲル、ショーペンハウエルなど、十九世紀初頭から前半期にかけての時期にもインドについては少しは知られていましたが、十九世紀後半のニーチェのころになると、インド諸宗教の文献が数多く紹介され、かなりくわしく知られるようになってきました。それゆえに、ニーチェは、キリスト教を批判するさいに、たびたび、バラモン教や仏教に言及することができたのでしょう。
 二十世紀はじめには、ヤスパースが仏教に深い関心をもち、彼の龍樹についての研究は、大きい影響をあたえました。また、文学者では、ヘルマン・ヘッセがゴータマ・シッダルタを主題にした作品『シッダルタ』(一九二二年刊)を書いています。
 こうした歴史的経過を見るとき、東方の宗教、なかんずく仏教に対するドイツ人の憧憬と傾斜には、他のヨーロッパ諸国にくらべて、とくにいちじるしいものを感ずるのです。
4  デルボラフ なによりも興味深いのは、ドイツ仏教運動を哲学の側面から呼びおこしたのがへーゲルやニーチェではなかった点です。彼らにとって仏教は一時的かつ間接的な意義しかもっていなかったのです。ヘーゲルは仏教を絶対精神の自己展開における一契機、すなわち、キリスト教の前段階としてしか見ていませんでした。他方、ニーチェは、たしかに仏教を後期の、成熟した宗教と理解していますが、キリスト教に対する武器として利用しただけです。
 世界観という次元で仏教を見なおしえた唯一の哲学者は、アルトゥール・ショーペンハウエルでした。彼は自分の悲劇的意志の形而上学を、当時の呼称でいう「ブラーマイズム」と、「ブッダイズム」の伝統的要素から構築しました。これは、ややスノビズム(俗物趣味)への傾向はあるとしても、理論的接近から信奉そのものへ移行していったことの証左です。彼はまた、ドイツ人として、自分の部屋に金箔張りの仏像をおいた最初の人でした。
 ショーペンハウエルの影響で、「仏陀」は、文学の主題に取り上げられるようになりました。ヨーゼフ・V・ヴィドマンは一八六九年に『仏陀・叙事詩』をささげ、フィリップ・マインレンダーは七四年に詩的な『解脱の哲学』を、七五年には『仏陀・断章』を書きました。フェルディナント・フォン・フォルンシュタインという人は『仏陀伝説』を九九年に発表しました。
 ヘルマン・ヘッセが、ご指摘の小説『シッダルタ』を構想していたころ、つまり一九一九年には、当時、たいへん好評を博したフリッツ・マウトナーの作品『ゴータマ仏陀の最後の死』が出版されています。
5  池田 なるほど。まず釈迦牟尼という人格的存在が、そうした文学者の関心をひいたのでしょうね。この段階では、仏教の教理そのものより、具体性をもった仏陀の生涯という事実が興味の対象であり、その根底にあったのは、多分に異国趣味ではなかったかと思われますが……。
6  デルボラフ もちろん、それだけだったとはいえません。ここで、そのへんの事情を明らかにするために、一八八〇年代にはじまったドイツの「仏教運動」の根本的性格を特徴づけてみるのも意味あることかと思います。
 重要な刺激をあたえたのは、まずトーマス・ウィリアム・リス・デービッズによって設立されたパーリ語経典協会と、エドウィン・アーノルズ卿の有名な詩的作品『アジアの光』(一八七九年刊)のドイツ語訳でした。
 このことはすでに、ドイツ人の仏教習得がけっして純粋に哲学的・学問的性格をもったものでもなければ、またたんに布教だけをめざしたものでなく、両方の意図があらゆる活動のなかに協力しあっていたということを示しています。
 この運動の代表者はカール・ザイデンシュテッカーやカール・オイゲン・ノイマン等の著名なインド学者で、とくにこの二人はパーリ語経典の翻訳に大きく貢献しました。ノイマンは仏典のドイツ語訳にあたって優秀な翻訳家としての才能を示し、“真のルター”と呼ばれました。他の学識ある人物としてはフリードリッヒ・ツィマーマンがあり、一八八八年にザイデンシュテッカーの『パーリ語教本』に『仏教教義要理』を追加し、ドイツにおける仏教運動の制度化に、本質的な貢献をしました。
 ここには、ドイツの仏教運動における理論的意図と実践的意図の交差が見られます。つまり、インド学の専門家ばかりでなく、東アジア各地の仏教との個人的出あいをとおして仏教に改宗した実践家も、布教を目的に仏教を習得しようとしましたし、法律家、医者、自然科学者たちは、仏典の解明をとおして、布教や組織活動を援助することにつとめたのです。
7  池田 たしかにドイツ人にかぎらず、ヨーロッパ人全般に、宗教に対するその姿勢は、理論と実践の両立を重んじる伝統があるということを、私も強く感じています。たんに実践面だけを押しつけようとしても、理論的に納得できなければ受けいれられません。逆に、理論的に納得できると、それを実践化していく気風があります。
 そうしたヨーロッパ人の気質をよく理解できないと、理論ばかりを求めているように誤解しがちですが、ヨーロッパ人は理論さえわかれば、みずから実践していくようです。その点、日蓮大聖人の仏法は「行学たへなば仏法はあるべからず」と明言されているように、理論と実践の両立を根本としており、ヨーロッパ人にとっても、受けいれやすいと考えています。
8  デルボラフ この運動の二番目の特徴は、いく人かの個人を中心としていることにありました。運動の首唱者はたいていベルリン、ライプチヒ、ミュンヘン、フランクフルト、ハンブルク、ドレスデン、ハノーバー、ブレーメン、ヴィースバーデン等の大都会に、現在にいたるまでつぎつぎと同好会、連盟、連合、集会所を設立していきました。これらは布教や教育のセンターであり、多くの場合、定期刊行物を発行し、ある一定の会員数を保持しただけでなく、さらに、それ以上の賛同者を得ました。
 このように、地域に限定された組織形態から、ドイツ、ヨーロッパ、全世界にまたがる仏教徒の代表的総合組織へと進展しようとする努力が実を結ぶのは、比較的のちになってからのことです。一九五五年になってはじめて「ドイツ仏教徒協会」が成立し、五八年に「ドイツ仏教徒連盟」と改称され、六一年には「世界仏教連盟」に加入しています。そして、七五年には「ヨーロッパ仏教連盟」が設立され、七七年に、その最初の会議がローゼンブルクの「静寂の家」で開催されました。
 このように遅れた理由は、こうした集結への努力をはばむ、さまざまな諸状況があったからです。つまり、おのおの独自に仏教を習得することを主張して宗派性の傾向が容易に打破できず、そのため、各地域の仏教運動そのものも圧迫されたのです。
9  池田 宗派的対立は、いずれの宗教にも見られる共通の現象ですが、私は、その本源にあるもっともやっかいなものは、人間の貪欲・瞋恚・愚癡という、釈尊が三毒と呼んだものである、と考えています。
 仏教における多くの宗派の誕生と対立は、多数ある経典のいずれを根本とするかということ、つぎに同じ経典によっていても、その真意をどう解釈するかによるものです。日蓮大聖人は、この問題は釈尊自身の教えという原点にもどれば、おのずと解決することであるとの立場から、この混乱と対決されたのですが、往々にして真理を尊重する心よりも、権威や利益に執着する三毒の邪心が強い人々のために混乱はおさまらず、今日に尾を引いています。
 日本をはじめ、東洋の仏教が混乱をつづけているために、そのなかのさまざまな宗派から学んだヨーロッパの学者や宗教家は、同じ混乱をヨーロッパの仏教界にも、そのまま移植する結果となったように思われます。
10  デルボラフ つぎの特色は、ドイツの仏教運動がまず小乗仏教を求め――だからこそ、パーリ語経典を好んで選択したわけですが――僧侶の伝統にしたがおうとしたことです。在家仏教という形態が発展したのはずっとのちになってからです。先にあげたツィマーマンは『仏教教義要理』で、世尊の教えを自己の生活の宗教的・道徳的基準とすべきとし、先鞭をつけました。
 ここでも活躍したのはイギリス人で、アラン・ベネット・マクグレガー(一八七二年―一九二三年)という人は、一九〇一年にビルマ(現ミャンマー)の僧院に入籍するとともに、ドイツの仏教徒に聖職を授与できる制度を導入しました。仏教の僧院を、まずスイスに、それから北海にあるジュルト島とベルリンのフローナウ地区に設立する計画を立てたのですが、失敗しました。
 一九一一年に入って、ドイツの仏教僧侶がセイロン(現スリランカ)南部のポルガスドゥワ島に木造五棟からなる庵を建設しました。この島は「隠棲の島」と呼ばれ、第一次世界大戦がはじまるまで七人の僧侶と三人の修行僧が生活していました。この島は、一四年に売りに出され、両大戦中は修行生活が中断されましたが、完全に停止することはありませんでした。
 こうしたアジア諸国でのヨーロッパ人僧侶の活動には、一九〇三年―一四年、二四年―三九年、そして五三年以降の三波があり、総勢千人ほどのヨーロッパ人仏教徒が参加しました。五〇年代後期には、活動は、多少低下ぎみになりました。
 以上、ドイツで見られた仏教運動の個々の動きに存在した、イデオロギーおよび教義上の相違について述べてきました。最初のころ、そうした差異は、仏教実践家と仏教研究家のあいだの緊張関係から生じたものでした。後者は仏教のインド的発生源であるヴェーダに心を寄せていたため、仏教本来の問題に対する理解がうすかったという事情があります。しかし、この緊張関係はむしろ短期の付随現象にとどまり、おおかたのドイツ仏教の宗派や連盟の中心者は、研究と布教・実践的生活方式とを統一しようという考えをもっていました。
11  池田 大事な志向性です。先にも信行学が仏教の基本であると述べましたように、研究と布教・自身の実践的生活は本来、一つに融合してこそ仏道修行になります。
 人間は、それぞれに特性をもっていますから、研究は得意だが、布教は苦手だという人もいれば、布教はするが、自身の実践は十分ではないという人もいます。しかし、正しい仏法者は、この三つを自分のなかに兼ねそなえるよう努力すべきですし、もし自分は苦手であっても、それに秀でた人を尊重していくべきです。
12  デルボラフ こうした運動の統一性がかなり急激に崩れていったのは、いわゆる旧仏教と新仏教の代表者間の論争のためです。カール・ザイデンシュテッカーは、まず一種の仏教布教団体を設立しました。これは一九〇六年に「仏教協会」と名称を変更し、『仏教徒』という雑誌を発行し、会員数は五十人ほどでした。これにザイデンシュテッカーとヴァルター・マルクグラーフという人が世話人をしていた「ドイツ・パーリ語協会」がくわわりました。
 のちに、つまり一九二一年にカール・ザイデンシュテッカーとゲオルク・グリムは、「ドイツの仏教徒共同体」を『仏教世界鑑』という雑誌とともにおこし、仏教を素人にも魅力あるものにする最初の試みをしたのです。
 とくにグリムは大いに文才を発揮し、彼の論文は英語、フランス語、そしてベトナム語にまでも翻訳されました。彼は仏教に一種の生活の指針を見いだし、つまりショーペンハウエルの詩的・神秘的解釈から決別して、三段論法的に証明できる教説を包含する、まったく現実に即した合理主義であると理解したのです。
 グリムの対極に立ったのが、ベルリンの医師のパウル・ダールケでした。彼は、理論上の新機軸を打ちだすとともに、ドイツにおける仏教受容の第二期として、僧院設立の意図をもって、新仏教を導入したのです。
 グリムとダールケが仏門に入ったのは、ともに時代批判の精神、つまり宗教的姿勢が衰退し、道徳的根本価値も破滅したという状況認識からでした。にもかかわらず、「我」(「汝」)とか「自己」などをいかに解釈するか、という問題において対立するにいたったのです。
 グリムは小乗・大乗という対立をある程度こえながら、色・受・想・行・識という、個人の構成要素のなかに持続する永遠の本質的我というものは存在しないとする、仏陀自身の本来の教義を求めようとしました。
 この認識論上の基本的傾向では、ダールケもグリムも同じ観点に立っていました。両者ともにまず、我(あるいは汝)とか自己、つまり「アッタ」の経験的実在性を否認しますが、グリムはさらに一歩進めて、「汝は無なり」ということを「世界のなかの無」、すなわち「真理は世界の彼方にある」と解釈したのです。そして、すべては汝の自己ではない、「全世界はアナッタ(無我)である」という結論に達したのです。しかし、それとともに彼は――ダールケが反論したように――ふたたび「超越的」アッタ(我)の解釈にもどってしまったのです。ダールケ自身は、我(汝)というものを、一つの概念上の抽象だと理解したのです。
 そこで、たしかにダールケはドイツの仏教徒の若い世代をグリムから転向させ、“我”の問題に関して彼が確立した実証主義的解釈の味方にすることができました。ただ、銘記すべきは、両者ともに、隠された弁証法の一面のみを認めていたということです。
13  池田 いま、お話をうかがうかぎりでは、グリムとダールケの対立は、仏教のなかでもずっと論争と対立がつづけられてきた大乗教と小乗教の相違とあい通じるものであるように思われます。
 小乗教では、当時のインド社会に支配的であった現世義を打ちやぶるために、一切は無常であり、人生は苦であり、無我であり、不浄である、と説きました。
 大乗教では、そうした現実世界の無常や個我の無実体性を認めつつ、その奥底にある法の世界において実感される大我は常住であり、その境界は清浄で楽しみにみちているとします。
 そして、その常住不変の大我が、生と死という変化の姿を示しながら、転生していくとするわけです。
14  デルボラフ 今日ではほとんど忘れさられたこの論争をよりよく理解するために、二つだけ注釈を付けくわえておきます。
 自己の恒常性と同一性は、サムサーラつまり輪廻転生説の根本的前提条件の一つではあっても、人間の経験的存在の状態からは支持できないものであると、二人ともくりかえし指摘しています。このことはドイツの旧仏教徒と新仏教徒の両方から提起したもので、問題の重要性と執拗さをあらわしています。
 他方、この議論は、カール・ヤスパースが一九五〇年代に苦心して明らかにしたように、龍樹によって展開された弁証法のかげに隠れてしまいました。ヤスパースも比較的新しい仏教受容者の仲間に入りますが、哲学者としてとどまり、仏教に改宗することはしませんでした。
 龍樹の弁証法についていえば、最初にプラトンの『パルメニデス』のなかで練られ、中世の否定神学のなかで輪郭が明確になり、最終的にヘーゲルによって二重の否定という原理にまで止揚された方法に近いものがあります。ただ、龍樹のほうが、より緻密であり、より過激かもしれません。
15  私見では、龍樹は眼に映る事象と言語による名称や区別を、存在しないもの、すなわち、実体のない迷いであるとみなし、そこから、あらゆる立場を哲学的に徹底的に批判する、形而上学的実存主義と純粋な現象主義を超えた独自の立場を樹立しようとしました。それは、世界から(そして解脱からさえも)解脱することを可能にし、諸法(世界にとらわれている状態)の“空”化と無効性をえがく立場です。この“空”においてはじめて、ふつうは隠れている真理が「勝義の真理」としてあらわれる、もっと具体的にいえば、“空”があるから仏がある、としたのです。
 こうした考察の鋭さと深さからすると、先に示したような論争は二義的問題です。もちろん、まじめに受け取るべき問題ではありましたが、やがてその重要性は失われてしまいました。私自身、興味をいだくのは、この問題が日蓮仏教の伝統のなかで取り上げられているかどうかですが、いかがでしょうか。
16  池田 前述しましたように、この対立は小乗教と大乗教のあいだであらわれたもので、大乗教のなかでは、いわば解決ずみとされています。日蓮大聖人の仏法は、もちろん大乗教の伝統を受け継いでいますから、このことはすでに解決されたこととして、ことさら取り上げて論議されることはありません。
 日蓮大聖人の仏教において取り上げられたのは、「勝義の真理」である常住不変の法、すなわち大我とは何なのか、それはどうすれば覚知しうるのか、という問題です。
17  デルボラフ ドイツ仏教運動は、本質的に、小乗から大乗仏教へますます傾斜していき、また仏教の他の教義にも眼を開いていきました。このことは、とうぜん、運動をさらに細分化し、分立させることとなり、統一への努力をさまたげました。
 とくに、一九五九年にダライ・ラマが亡命してからチベット仏教が勢力を増して、日本の仏教もますます勢力を増してきました。前者の場合、有名なツルプ僧院を本拠地とするカルマ・カギュ派、ダライ・ラマ自身が属するガルパ派、さらにアティサの門下から発生したサキャパ派といった、いくつかのたがいに抗争する伝統的宗派が存在します。いずれにせよ、その会員は直接か、またはスイス経由でドイツヘ入り、禅定と読経を根本とする実践をひろめました。
 日本の禅仏教もこの方向に影響をあたえ、その禅定形態のゆえに、イエズス会の修道士のあいだで支持を得ました。在家の人々は、呼吸をととのえながらの瞑想の実践、弓道、剣道、華道(生花)、茶道、書画にいたる芸術等、すべて同じ目的である悟りをめざす活動であることに魅了されていました。
 日本人の大厳秀英や鈴木大拙や、ドイツ人、アウグスト・ファウストが著した入門書は、当初あまり注目されませんでした。しかし、その後、急激に出版ブームが到来したのです。その事態を皮肉って、著名なプロテスタント神学者のエルンスト・ベンツは「昨今、禅があまりに普及してしまい、禅仏教と禅スノビズムの境界が流動的になっている」と言っております。
 中国仏教の大家の一人であるオーストリア人のフリッツ・フンガーライダーがこのブームに拍車をかけ、彼のローゼンブルクでの禅セミナーには多くのドイツ人や日本人が参加しました。その参加者の一人の岸長也という人は、それに刺激されて、他の禅グループ、たとえば、一九七一年に設立されたベルリンの「無門会」などの息を吹きかえさせたのです。
18  以上の禅仏教とは別に、親鸞に由来する浄土真宗も、五〇年代のなかごろには、ドイツだけでなく、イギリスやベネルックスにも、かなりの影響をあたえました。
 六二年にはドイツの五大仏教団体が、六百二十名の正規会員を擁するにいたり、その他に芸術家、文学者、知識人、自然科学者、医者等、おもに学術分野出身の仏教共鳴者は二千人から四千人ほどになりました。ただし、カール・ヨーゼフ・ノッツは、八四年に出した調査報告のなかでドイツの仏教運動を徹底的に追跡し、ドイツにおける仏教普及のチャンスは、今後とも大きいものがあると認めつつも、それが一つの大衆運動にまで発展することはないだろうと述べています。
 最後になりましたが、日蓮仏教については、あなたがたSGI(創価学会インタナショナル)の布教活動をあげるべきで、現在、ドイツではフランクフルトの本部を中心として活発な活動が展開されています。
19  池田 いま言われたように、ドイツにおいては――フランスもそうですが――禅がかなり広範におこなわれているようです。しかし、その瞑想主義はキリスト教の修道士などもおこなってきたもので、共通性があるがゆえに、いまのところ多くの参加者をみていますが、やがてはキリスト教自体に吸収されてしまうでしょう。
 日蓮大聖人の仏法を実践しひろめているドイツSGIは、現在のところ千数百人ですが、独自の確固たる教義と信仰実践形態をもっていますので、そのひろまり方は徐々にですが、着実に伸展していくことはまちがいないと考えています。ただ、そのためには一人一人が深い日蓮大聖人の教えをしっかり学び、身につけていく必要があります。そうした教義、仏法の法理を正しく理解していくならば、ヨーロッパ世界が長い歴史のなかで築きあげてきた文化や学問の伝統を壊すことなく、むしろ、新しい息吹を吹き込み、発展させていくことができるでしょう。そのときには、一つの大きな大衆運動となっていくことはまちがいない、と信じています。
20  ショーペンハウエル
 (一七八八年―一八六〇年)ドイツの観念論哲学者。厭世論を基調としており、若きニーチェやワーグナーなどに影響をあたえた。主著『意志と表象としての世界』。
 龍樹
 (一五〇年ころ―二五〇年ころ)梵名ナーガールジュナ。インドの大乗仏教中観派の基盤を築く。『中論』を著し、空の思想を展開。中国、日本の大乗仏教の諸宗派の思想に影響をあたえ八宗の祖と呼ばれる。
 ヘルマン・ヘッセ
 (一八七七年―一九六二年)ドイツ生まれのスイスの作家、詩人。西欧文明への懐疑、人間存在の二元性の葛藤などを真摯に追求。一九四六年、ノーベル文学賞受賞。
 ヨーゼフ・V・ヴィドマン
 (一八四二年―一九一一年)スイスの作家。
 フィリップ・マインレンダー
 (一八四一年―七六年)ショーペンハウエルの厭世主義を受け継ぎ世界の破滅を説く。自殺をたたえ、みずから実行した。
 フリッツ・マウトナー
 (一八四九年―一九二三年)オーストリアの言語哲学者、作家。主著『言語批判』。
 デービッズ
 (一八四三年―一九二二年)イギリスの仏教研究者。ローマ字化したパーリ語聖典を数多く出版。
 エドウィン・アーノルズ
 (一八三二年―一九〇四年)イギリスの詩人、文筆家。インドで梵語学校校長をつとめ、帰国後、デーリー・テレグラフ紙の主筆に。
 カール・ザイデンシュテッカー
 (一八七六年―一九三六年)インド学者。著書『翻訳・パーリ仏教』。
 カール・オイゲン・ノイマン
 (一八六五年―一九一五年)オーストリアの仏教学者。パーリ語仏典のドイツ語訳として「法句経」「中部経典」「涅槃経」他がある。
 フリードリッヒ・ツィマーマン
 (一八五一年―一九一九年)ドイツの仏教学者。パーリ語の『仏教教義要理』を著す。
 ゲオルク・グリム
 (一八六八年―一九四五年)古代仏教共同体を創案し実践した。著書『仏陀の教え―理性の宗教』。
 パウル・ダールケ
 (一八六五年―一九二八年)医者であり仏教学者。ベルリンに仏教寺院を建てた。
 アウグスト・ファウスト
 (一八九五年―一九四五年)ドイツの哲学者。ブレスラウ大学教授。ナチスの全体主義に賛同した。
 エルンスト・ベンツ
 (一九〇七年―七八年)ドイツの教会史家。東方教会や禅とスノビズムについて研究。
 フリッツ・フンガーライダー
 (一九二〇年―)五五年からウィーン仏教協会会長をつとめる。ホーエンベルガーとの共著『仏教徒とキリスト教徒の対話』を刊行。
 旧仏教と新仏教
 ここでいう旧仏教と新仏教は、小乗仏教と大乗仏教を指す。
 ダライ・ラマ
 (一九三五年―)チベットのラマ教の最高指導者。五九年、数万の民衆とともにラサ市で蜂起しインドヘ亡命。八九年にノーベル平和賞受賞。
 大厳秀英
 (一八八三年―一九四六年)旧・成蹊高校(現・成蹊大学)教授。第一次大戦後、ドイツ留学中に『禅―日本における生ける仏教』(ドイツ語版)を刊行。
 鈴木大拙
 (一八七〇年―一九六六年)仏教哲学者。禅をはじめとする東洋思想の独自な研究を展開。学習院大学、大谷大学の教授を歴任。

1
2