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日蓮大聖人・池田大作

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4 法か人格神か  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 仏教とキリスト教の相違点のなかでも、もっとも根本的な問題は、仏教が“法”を究極にあるものとしているのに対し、キリスト教は“人格神”を究極の存在としていることであると私は考えます。
 もちろん、キリスト教においても、カトリックとプロテスタント、さらにはギリシャ正教とでは大きなちがいがありますし、さらに、それぞれのなかに、さまざまな流派があって、それぞれに教義内容もちがうでしょう。しかし、いちおう、バイブルが共通の原典であるかぎり、天地万物を創造した唯一神が、全キリスト教徒にとってのいっさいの根源であり、この神はまた、はげしい愛憎の感情をもった人格的存在でもあります。その点では、各派のちがいは、ほとんどないといえるでしょう。
 これに対し、仏教では、実際にこの世界にあらわれた釈迦牟尼仏だけでなく、経典のなかには、過去・現在・未来にわたり、また広大な宇宙のなかのたくさんの世界を舞台に、数えきれないほどの多くの仏陀が存在しているとされます。本来“仏陀”とは「真理を悟った人」を意味し、真理は時間・空間を超えた普遍的なものですから、時空のあらゆる広がりのなかに、それを悟った仏陀は無数に存在しうるのです。のみならず、いまは悟りを得ていない人々も、修行し、思索を深めることによって、仏陀になる可能性をもっています。
 「真理を悟った人」が仏陀であるということは、「真理」こそ、あらゆる仏陀を生ぜしめる根源であるということでもあります。ゆえに、仏教では、この「真理」すなわち“法”こそ、あらゆる仏陀の親であり、師であり、主君であると説くのです。
 そして、現実に生きている人々の幸・不幸を決定していくのは、人々がこの“法”に合致した行動をとるか、そこから外れ、背いた生き方をするかであるとされます。
 仏法でいう“法”とは、人間が社会的に制定する“法”ではなく、自然界のあらゆる事象がのっとっている法則性のようなものです。したがってたとえば、引力の法則を知り、それに合致した行動をとればケガをしたり命を落とさないですむのに、それをわきまえないで、五十㌢の高さから飛びおりるようなつもりで五十㍍の高さから飛べば、即死はまぬかれません。
2  それと同じように、そして、もっと深いところで、人間の生命活動を左右する“法”が働いており、それに合致した行動をとるかどうかが、人々の幸・不幸を決定する根本であるというのが、仏教の明かしている問題です。また、この幸・不幸は、たんに現在の人生のなかでの、物質的・社会的な幸・不幸だけではなく、死後においてもつづいていく幸・不幸です。
 私は、意思や感情、また知性をもった人格神が人々の運命、幸・不幸を支配しているとするキリスト教的考え方は、高度な抽象的思考のできない人々を教化するのには、説得の即効性をもっていたでしょうが、抽象的思考もできるようになった人々にとっては、不満足であるばかりでなく、かえって、さまざまな疑問を生ぜしめるのみであろうと思います。たとえば、現実の社会では、善人よりも悪人のほうが神によって守られているように見える場合が少なくありませんから、神の公平さも、さらには神の英知さえも、信じがたくなることもあるわけです。
 今日、キリスト教を信仰する人々のなかにも、究極の存在を人格的な神とするよりも、“法”に近い概念でとらえようとする傾向があると聞きますが、教授は、この問題について、どのように考えておられるでしょうか。
3  デルボラフ 事実、キリスト教に対するありとあらゆる異論は、かれこれ二千年におよぶキリスト教神学と教会の歴史のなかで、徹底して考えつくされてきていますし、ひんぱんに、はげしい対立抗争の原因となってきました。人格神の理念に対する擬人論批判も、その一つです。
 そこで、私としてはこうした一連の批判、反省点の核心だけを取り出し、ここでの中心テーマを三段階に分けて考えてみたいと思います。
 最初に、表面的にですが、あなたの論点に対するキリスト教の擁護を試みてみましょう。ただし、キリスト教圏内でも、人格神という観念に対しては批判的啓蒙がなされ、この観念がかなり稀薄になっていることはいなめません。したがって、これに関連して、宗教と哲学、さらに個別科学との関係を考慮する必要があります。同時に、この関係が東洋ではどう解釈されるのか、おたずねしたいと思います。
 第二の思考過程では、キリスト教的意味での「人間と神の取り引き」としての救済史と、仏教的理解における「輪廻転生」を対比させたいと思います。そうすることにより、あなたの言われているキリスト教と仏教の差異の問題を、深く考察できます。
 最後に、第三の思考過程で明示すべき問題は、キリスト教の伝統的教義が信仰者自身にとってどのような点で理解しがたく、疑念の対象となるのか、また、はたして信仰者はこうした困難をどのようにして乗り越えることができるのか、ということです。
 この三つの思考過程は、キリスト教と仏教の比較の範疇にあり、あなたの異議に対して答えを出すことになるはずです。
4  あなた自身が思っておられるように、仏教がキリスト教よりも優れているということは、すでにニーチェが、彼の著書である『反キリスト者』(一八八八年刊)のなかで明瞭に言いきっています。彼は、まず、両者をともに「虚無主義的」で、退廃的な宗教である、と特徴づけています──このことは、両宗教が貧しい人、弱者に最大の関心をはらっているという事実を裏づけているとし、そのあとで一気に、仏教はキリスト教よりも「百倍も現実的」である、と言っています。というのは、仏教は「客観的で冷静な問題設定の仕方を身につけており」、また、「“神”という概念をすでに片付けている。それは仏教が何百年間にもわたる哲学的運動の後に」やってきたからだ。したがって、仏教は罪にではなく、苦悩に対して戦うのであり、すでに「善悪の彼岸」に立っているのである、と。
 ニーチェが、この最後の二点と虚無主義説において正しい見方をしたかどうかは、ここでは問わないことにします。いずれにせよ、彼は仏教を精神的に成熟した男性的宗教として性格づけており、ここに、キリスト教と対比した場合の、もう一つ別の相違点にふれているわけです。
5  キリスト教的信仰理解というのは、疑いもなく、子どもっぽい性格をもっています。人間は自分を「神の子ども」と理解し、信仰上の自己実現においても、ふたたび子どものようになることを理想としています。イエスは「子どもたちが自分のもとに来るよう」に呼びかけ、その一人でも侮辱したり、危害をくわえる者にはもっとも厳格な罰をあたえると嚇すのです。そこで、イエスは人々に対し福音を告げるときも子どもに接するような態度をとります。すなわち、神話的に、神なる父を思いうかべ、その子としてのみずからのあり方と救済の使命について語ることになります。もっとも、この種の言いまわしは仏教でもめずらしくありません。宇宙の法についても、あなたが述べられたように、法が父であり、師であり、主君であるとするのは、そうした人格的観点から考えることによってはじめて、そこにあたたかさが生まれるからです。
6  池田 仏教は究極に存在するものを“法”としますが、それを覚知した“仏陀”は人々に対し主・師・親の三徳をそなえているとします。すなわち、仏陀はただ“師”として人々に“法”を教え示すだけでなく、“主”として人々を守り、また、“親”として慈愛します。仏教においては“法”は仏陀がつくり定めて人々に押しつけたものではなく、本来、仏陀より先行して存在しているのです。
 したがって、その“法”を人々に示す仏陀は、いわば“法”と“人々”との仲介者という立場になります。もし、仏陀が“法”をつくったのであるとすれば、この関係は逆転し、“法”が仏陀と人々との仲介物になるでしょう。
 ところで“法”はそれ自体では語りませんから、人々が“法”を知るためには、それを仲介する人を必要とします。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、預言者が重要な役割を占めているのは、このためである、と私は考えます。その預言者の特権的地位は、教皇やカリフなどに受け継がれ、これらが人々に対して絶対的ともいえる権威を保持することになったわけです。
 仏教では仏陀が仲介者であり“法”が究極にあるものですから、人々は仏陀の教えにしたがって学び修行することによって、“法”を悟れば、同じく仏陀になることができます。それに対して、一神教の宗教では、究極に存在するのは人格的な神であり、この絶対神の意志がすべてを支配しているとされます。仏教でも人々を子として見ますが、それは、やがて、大人になるべき存在としてであるのに対し、一神教が人々を見るのは、永久に神にしたがい、神に慈しまれる子でありつづける存在としてです。
7  デルボラフ カトリック信仰史を見ると、献身的信仰から生まれる空想が神話的想像世界をより具体化し、補完するということが、しばしばおこっています。比較的近い過去から例を引いてみましょう。
 聖書の聖母マリアの記述をもとに、マリア信仰(この場合、マリアは「第二のエバ」と呼ばれます)が生まれましたが、マリア信仰は、ポーランドだけではなく、さらにはヨーロッパ以外の多くの国々でも、根強い伝統になってきています。こうした聖母マリア崇拝者は、父なる神とその子イエスは天に君臨し、神なる母は地上的死をあまんじて受け、他の人間と運命をわかちあうという教説に、不満をいだいてきました。多数のキリスト教徒のこうした想いに応じて、教会は一九五一年に「聖母マリアの昇天」を教義化し、天上界に「聖家族」を統一したのです。
 他方、このようにつぎつぎと泉のように湧き出てくる信仰上の空想に対して対抗するのが、啓蒙主義的な反省能力です。これは、そのようなイメージはかりそめの幻にほかならないとして、信仰の本質を浮きぼりにすべく、「非神話化」に努力しています。よく引きあいに出されるルドルフ・ブルトマンの非神話化キャンペーンは、哲学的あるいは個別科学的な信仰啓蒙主義によって、何百年もまえからなされてきたことです。
8  このキリスト教信仰啓蒙主義には、神秘的側面と同時に合理的側面が示されています。たとえば、初期プロテスタントの地域では、神智学的サークルが形成されましたが、そこでは、受肉、十字架上の死、救済という神的プロセスを、歴史的事実性を考慮しつつ、個人の霊的生活の問題におきかえることがおこなわれました。また、少し別の考え方では、神は人間のなかに自己自身を認識し、自己自身に還るとされました。
 他方、この信仰啓蒙主義がもつ合理的要素にしたがって、キリスト教の創造説、救済の教義は「神は世界を創造したが、その後の発展は世界独自の自然史的動力学にまかせた」とされ、神自体も抽象的神へと還元されました。この説は「理神論」と呼ばれます。そして、この「背後の神」も、哲学や科学が世界の発生について神の効力にかわる説明をするようになると、結局、まったく不必要となります。
 そこで、最後の結論はどうなるかといえば、「理性的世界秩序」の理念に到達し、仏教の説く法の理念にかなり近くなるわけです。ここで思いだすのは、同じように、古典哲学の「自然神学」が古代啓蒙思潮によってストア学派の「世界法則」の理念になったことです。
9  池田 一個の人間の成長過程を見ても、しだいに知恵を身につけ、自我意識をもつようになると、いつまでも父親の言いなりになっているだけでは満足できなくなるのがとうぜんです。自分で世界を解釈し、自分で人生を歩みたいというのが成長した人間の本然的欲求でしょう。
 仏教が、すべての人に仏陀になる道を教えているのは、この人間の自立の欲求に合致しているといえましょう。ヨーロッパにおける信仰啓蒙主義の運動も、この人間的自立への欲求が、その原動力となったといえるのではないでしょうか。
10  デルボラフ 啓蒙思潮から枝分かれした合理主義は、また、別の方面でも貢献しています。つまり、宗教間の優位論争の毒気を抜くことができるのです。レッシングの『賢者ナータン』(一七七九年刊)に出てくる指輪の比喩は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に関して、このことを巧みに示しています。
 そこでは、これら三つの宗教が、三つの指輪にたとえられます。その持ち主は、彼が平等に愛している三人の息子に、指輪を一つずつあたえます。三つのうち一つだけが本物で、本物は、それをはめている人が神や人のまえに出ると、快感を受ける力をもっています。他の二つは本物と識別できないほどよくできていますが、模造品です。息子たちは、とうぜんのことながら、自分の指輪が本物である、とたがいに言いあらそいはじめました。そこで、ある賢い裁判官からさとされ、どの指輪がその本来の目的をもっともよく達成するか、おのおの実際に試すことになりました。
 このことは、先の三つの高等宗教に関して言うと、宗教体系の真理の主張とともにその優位というものが、歴史上とか教義上の論証によってではなく、実証によってのみ裏づけられる、ということを意味しています。そして、この証明書は「時の終わり」まで記入されないで残ることでしょう。
 さらにまた、この解決策には、先に述べた啓蒙主義の理神論にかなり近いものがあります。というのは、福音書で要請されている神や人間への愛が、神や人のまえでの快感という柔和な形態に変化してくるからです。私の聞いているところによりますと、これとたいへんよく似た意図をもつ仏教の比喩があります。それは、燃えている家屋のなかから子どもを外に誘いだすために、父親がおのおのに車をあたえると約束し、後で全員にもっとも美しい車をあたえる、という説話です。高等宗教が優位をあらそいあうのは――あなたも賛成されると思いますが――時代遅れの感を禁じえません。
11  池田 たしかに、正しい宗教は、人間愛を増長し、人間を柔和にするのでなくてはなりません。いずれの宗教が正しいかは、この視点から、人々によって判別されるべきでしょう。そうした“実証”を重んずることは、仏教でもとくに日蓮大聖人が強調されたところです。
 しかし、日蓮大聖人は“実証”のみで宗教を評価することはできない、とも言われています。仏教と名のる以上は、その主張が仏説の記録とされる経文に述べられている内容と合致していなければならないし、また、その説く法理が合理性をもっていなければならないのです。というのは、あなたも言われたように“実証”という証明書は、「時の終わり」までとはいわないまでも、短期間だけでは書きこまれないこともあるからです。
 あなたがあげられた経典の譬えは、法華経譬喩品にある「三車火宅の譬え」ですが、これがあらわしているのは、仏陀がみずから悟るとともに、人々にあたえたいと望んでいる法は、衆生の思慮を超えたものであるということです。すなわち、子どもたちは羊で引く車や、鹿、牛の引く車をほしがっていたのですが、父親は、はるかに立派な大白牛車をあたえたというのです。
 大白牛車とは仏陀になる法を指しています。仏陀の境界は最高に幸福な状態ですが、これはふつうの人々にとって経験的には未知な幸福です。ゆえに、人々はこれを求めようとする心をおこしがたいのです。
12  デルボラフ 信仰史を概観するうえでどうしても欠かせないのは、もっとも優れたドイツの宗教哲学者であるヘーゲルです。彼は神秘的で、かつ合理的な信仰啓蒙主義という大枝を弁証法的に考案するという、興味深い試みをしました。普遍的存在としての神は、みずからを人間の個人的精神に媒介させるのであり、その結果、この両者は愛の「聖霊」のもとで一体となり、この聖霊がキリスト教的共同体生活に光輝を放つ、というものです。
 もちろん、われわれの対話では神の問題に関するこのような思弁的解決策は、あまり役に立ちません。というのは、哲学的信仰による啓蒙主義は十九世紀なかばには、個別科学による啓蒙主義に取ってかわられ、キリスト教信仰の伝統の中身が一つ一つ取り上げられて、神がその子とともに天上界に君臨するとか、人間は神の被造物であるとか、人は皆、死後に永遠の生命を得られるとか、また最後に――絶対的真理を主張する他の高等宗教と同様――キリスト教は歴史的に比較不可能な唯一無上の宗教であるとする教義が、批判の対象とされたからです。
13  池田 みずから信奉する宗教について、他の宗教とは比較不可能であると主張することは、一見、とうぜんと見えますが、これは逆にいえば、信者の理性を度外視した信仰によってのみ成り立っているということでしょう。
 日蓮大聖人は宗教を客観的に批判するうえでの原理がなくてはならないと教えられ、その比較相対のうえでみずからの仏法の卓越性を示そうとされました。こうした比較相対の眼からみずからをさけている宗教は、科学的批判精神の発達した今日においては、人々の信仰という支持をとりつけることは困難であるといわなければなりません。もっとも批判精神をもたない人は、喜んで信仰するかもしれませんが……。
14  デルボラフ 科学は、物理学から生物学、心理学をへて歴史学(あるいは比較宗教学)にいたるまで、あたかも一つのスペクトルのようにならんで、宗教の仮面を徐々にはがしてきました。われわれがすでに信奉しきっている物理学的世界像においては、「上」とか「下」はなく、したがって、「神」や「悪魔」が居城をそなえている「天国」や「地獄」といったものも存在しません。ダーウィンの生物学的進化論は、人間的生命を動物的生命と結びつけ、そこから発生学的由来を説明しました。それとともに、人間の「被創造性」、神の子としての性格は排除されてしまった感があります。
 心理学も、何もしないでいたわけではありません。まずフォイエルバッハが、ついで、マルクス、ニーチェ、フロイトが「天国の永遠の生命」は人間的希望と憧憬の投影であることを証明しようとしました。この種の永遠の生命というのは、見とおされればその空虚さを暴露してしまうものである、と。このことは先にヒューマニズムの説明をした個所で、すでに確認したとおりです。
 そして最後に歴史的比較宗教研究が、ある特定の宗教のいかなる要素・特徴も、独占的性格をもつものではなく、したがって、ある宗教の絶対性の要請は正当化できない、ということを立証したのです。
 私は、何十年もまえにレニングラードの無神論博物館に行ったことがありますが、その無神論的信念を勧誘する仕方に強烈な印象を受けたことがあります。そこでは、キリスト教が独自の教義だと主張している、たとえば、処女懐胎、神の受肉、メシアの死による救済、また最後の審判でさえも、こうしたすべてが他の宗教にも共通している要素でもあることが、一目瞭然にわかるように示されていました。
15  池田 ソビエト連邦をはじめとする社会主義国は、いま言われた西欧の反宗教的思想家たちの考え方を引き継いで、それを社会原理としているわけですが、ソ連や東ヨーロッパ諸国は元来、民衆のあいだに宗教的伝統が根強く、古い歴史をもつキリスト教寺院は、いまも、たくさんの参詣者でにぎわっているようです。それがまた、初期のころ、権力者が反宗教的キャンペーンをせざるをえない要因になったというとらえ方もあります。いまは、社会主義諸国の宗教に対する政策も、変わってきているようですね。
16  デルボラフ そうかもしれません。そうした信仰批判から、さらにすすんで、イエスの史伝が、教会教義によってずっとあとになってつくりあげられたということ、さらに、イエスの“神の子”という特徴、マリアの永遠の処女性、そして神の子を懐妊するという彼女の役割等が、ヘレニズム的起源を踏襲したものであることなどが、十分納得いく仕方で証明されていきました。
 そこで、こうした個別科学による信仰破壊をまえにして、神学自体も同じ方向に走ったのも不思議ではありません。マルチン・ハイデッガーの影響のもとにルドルフ・ブルトマンは、伝統的信仰の本質を分析し、人間が、たんなる罪深い「人」になりさがってしまった赤裸々な事実をまえにして、そこから神を肯定する「自己」へ飛翔しようとしたことを、明らかにしています。
17  池田 近世から近代にかけて、キリスト教はそのドグマをもって科学に圧迫をくわえてきました。しかし、科学の実証性のまえに、ドグマの押しつけは通じなくなり、キリスト教の生き残れる場は、きわめて狭いものになってきたというべきでしょう。
 宗教の場が近代化につれてせばめられてきたことは、東洋においても同じですが、仏教の教えているものを正しく理解するならば、そこには科学と拮抗する内容はきわめて少ないことがわかります。仏教は、科学によってせばめられるものがないのです。
18  デルボラフ キリスト教は、少なくともここ百五十年来というもの、哲学や個別科学をまえにして、撤退しているように思えます。それでも、疑問として残るのは、抽象的な「哲学者の神」になるか、個別科学の無神論に帰着するかということのみが、ほんとうにこの問題における決着なのか、ということです。
 ここでほんとうに納得できる答えを提示しようとするなら、その問題提起や把握の方法について個々の専門科学にならう必要がありますが、そのそれぞれには、体験全体から濾過した独自の意味段階が存在している、ということをわきまえておかなければなりません。たしかに、宗教の意義というのは、もっとも複雑で、もっとも多くの前提条件をふくむものであり、したがって、そこに提示される救済という出来事は、いかなる科学的観点にも、本質的には関与しない性格をもっています。
 もちろん、キリスト教信仰の解釈や裏づけについては、個別科学に関連した諸問題がつきまとっています。たとえば、原典の適切な批判、あるいは解釈学的意味づけの問題とか、また、信仰史の厳密な研究の問題などです。しかし、キリスト教徒が「神々しい」ものとして理解することは、物理学の視点でも、生物学、心理学、また歴史学の視点においても見いだせるものではなく、これらの学問のいずれにとっても異質なものです。また、経験的・世俗的歴史学があつかいうるのは、仏陀やイエスという人物は生存していたのかどうかとか、彼らがある特定の運命を体験し、おのおのの確信を表明したとか、彼らの教えから特定の影響が発生した、という過程のことでしかありません。いわゆる奇跡を認定したり、その確信と教義の真理性を記録することなどはできません。
 「救済史」についていえば、事情は別です。ここでは、新たな宗教的意味の領域への移行があります。すなわち、「アブラハムとイサクの神」は「理性的世界秩序」を代表する「哲学者の神」ではなく、救済史上重要な三つの時点で、「歴史の支配者」として名のり出てきます。つまり、神の世界創造と最初の告知、救世主としてのイエスにおける神の肉化、そして、最後の審判、つまり歴史の「終末」においてです。キリスト教的信仰伝承とユダヤ教的信仰伝承とは、契約の履行を要求する点で同じものと考えられてしかるべきです。
 さて、この「神の人間に対する救済行為」は、キリスト教徒が確信していることであり、彼らの希望の源泉です。そのために、神の人格性が不可欠な根本的前提条件となるのであって、それは人間が自分に似せてつくりあげた虚構である、と第三者が指摘したところで、削除できる項目ではないのです。
19  池田 神が世界や人間を創造したという考え方は、日本でも古代神話には見受けられるところであり、ほとんどあらゆる民族の神話にあるといえるでしょう。
 しかし、創造神話と救済神話とはどうしても矛盾せざるをえません。なぜなら救済ということには罪をおかして苦しむことが前提としてあるわけで、もし神が創造主であるなら、なぜ罪をおかすように人間をつくったのか、それは創造の失敗を意味することになるからです。
 私は、神の行為を創造から救済への歴史的流れとしてとらえようとするところに無理があると感じます。
20  デルボラフ キリスト教を仏教から区別する本来の深淵を見る思いがするのは、擬人観の問題ではなく、むしろここで述べた歴史神学です。キリスト教徒にとって歴史とは、それが世俗的形態において何ら真実の発展とは認識されないとしても、一つの目標をめざす意味をもっています。
 これに対して、仏教徒にとっての歴史とは、無限の過去や無限の未来へ流れていく、あるいは永遠にくりかえす転生の連鎖、または循環なのです。その「終末」は、その後の転生において、天上の楽園に入り、地獄からまぬかれること、そして、浄化され、自己完成が達成されて、業のために転生することは不要となって、自分の存在が最終的に消滅することにあるのでしょう。
21  池田 消滅するというのは、仏教のなかでも、いわゆる小乗仏教と呼ばれる教えが説いていることです。ヨーロッパ世界にまず紹介された仏教は、セイロン(現スリランカ)、タイ、ビルマ(現ミャンマー)などにひろまっていた小乗仏教でした。中央アジア、中国をへて日本に伝えられた仏教は、大乗仏教といってその内容がかなり異なります。大乗仏教、とくに法華経では、最終的に到達する目的を仏陀になることとしますが、それは生死流転をくりかえしながらも、永遠の生命を覚知しているがゆえに苦悩に沈むことのない、むしろ生死を楽しんでいく境界であると説かれています。生死をくりかえす個体の生命は、じつは永遠常住の宇宙生命と一体であるということです。
22  デルボラフ たしかに、宇宙生命を基礎にした個体生命の「転生」に関する教説は、「肉の復活」に関するキリスト教の教義よりは思考しやすい面をもっています。これらは、先に示したように、最終的には「理性信仰」の対象となります。
 ただ、仏教の歴史観に暗にふくまれているような、自己がさまざまな形態をとるという意味での「同一なものの永劫回帰」なる思想は、キリスト教徒にとって異質な感をおぼえます。
 ここで忘れてならないのは、ニーチェがこの説を展開しましたが、それは「神は死んだ」と宣言し、歴史の無意味性を確認したあとのことです。したがって、この立場は、神の救済計画のなかに組み込まれていると信じる人にとっては、虚無主義的性格をもつといってよいと思います。
 そこで、私たちは、仏教の転生説も、つぎの二つの点において人間理性に応じるものであるかぎり、やはり、人間的な意味づけの限界に組み込まれてしまっているのではないのか、と問うてみなければなりません。
 その第一は、カルマ説と結合して考えられる宇宙の法則は、人間の正義感を満足させるようになっています。そして、善行は、来世だけでなく、すでに現世においても幸福という体験としてもどってくるとされることです。
 第二には、個人がその悟りのなかで宇宙法則と一体となる、または、自然や宇宙の法則と調和するという仏教の究極目的も、典型的に人間的な発想です。
 この両方の要請には、疑いもなく、仏教の偉大さと自負が読みとれます。しかし、少なくとも、宇宙法則がその影響力において人間の質にかかわる基準にしたがうという想定のなかには、擬人的思考が入り込んではいないでしょうか。というのは、先にすでに述べられたように、法が「父親」「師」「主君」という人間の衣をまとうことは別にしても、宇宙の法則は、仏教徒にとっては、現世と来世を永劫に支配する正義の最後の保証だからであり、正義とは結局、深い人間的な分配と秩序の原理だからです。
23  池田 おっしゃるとおりだと思います。それは、仏教の究めた“法”が、大宇宙・万物をつらぬくものであるとともに、人間自身の幸・不幸を左右する法理でもある、ということです。さらに、付けくわえれば、仏教は、すでに述べましたように、“法”を根本とする宗教です。このことは釈尊が入滅の直前に、弟子たちに「わが亡きあとは、法を師とせよ」と教えたことに象徴的にあらわれています。
 しかし、より多くの民衆のあいだにひろまっていくにしたがって、“人”が信仰の対象として大きい比重を占めるようになりました。釈尊自身を神格化して仏像にきざみ、崇めるようになったのがその例です。この傾向は時代を追うにつれてはなはだしくなり、釈尊以外のさまざまな仏陀や菩薩、また釈尊の直弟子であった舎利弗や迦葉などをきざんだ羅漢像などが、つくられるようになりました。
 またさらに、教理の探究や修行を必要としない、ただ仏陀の慈悲を信じてそれにすがれば救われると説く宗派も生まれ、これが民衆のあいだで大きな勢力となっていきます。こうした信仰において本尊とされたのは、阿弥陀如来や大日如来といった、釈尊以外の仏陀たちです。こういった仏陀は実在の仏ではなく、経典のなかにふれられているにすぎません。仏教を説いた釈尊を根本とするならば、釈尊は“法”を指し示し、そこへ人々をみちびこうとした仏なので“法”を学び修行することが必要です。ところが、阿弥陀如来などの仏陀は実際に出現したのでなく、したがって“法”を説くこともなかったのです。そして、仏自体が信仰の目的とされるようになったのです。
 このような仏陀信仰が主流となってきた結果、仏教といっても“法”中心ではなく“仏=人格的存在”中心の宗教であるかのような実態になってきたことも事実です。
24  デルボラフ ここで、考察をさらにすすめて、キリスト教的信条の堅牢さと思惟上の困難という問題にふれてみましょう。あなたが言及されたように、キリスト教のいわゆる神の「善意」は、現実世界での明らかに不平等な富の分配の問題と対比して、しばしば指摘されるところです。
 たしかに、現実生活のなかには、事実上解消されない悪条件というものがあり、それに対してキリスト教神学者は、神をその責任から解放するため、ありとあらゆる論拠を探してきました。とうぜん、こうした神の弁護(「弁神論」)は成功しておらず、また、この方向でのあらゆる試みは、かりのものでしかありません。苦悩を、試練であり訓練であり、われわれのかぎられた悟性では不可解な神による定めであるとする解釈は、最終的に納得できるものではありませんし、他にもさまざまな疑問を残します。
 この難題は、とうぜんのことながら、キリスト教だけでなく、仏教の場合にも、道徳的おこないと幸福体験とのあいだに現世での均衡が可能であるとするかぎり、出あうことになります。つまり、仏教もまた、道徳上のおこないと今世で授かる幸運のあいだにしばしば生じる不一致を、けっして論破できないはずです。
25  池田 この問題は、私たちの信仰している仏法の宗祖である、日蓮大聖人に対してもあびせられた疑問でした。すなわち法華経には法華経の行者は現世において安穏であると述べられているのですが、法華経を行じられている日蓮大聖人のご生涯は迫害の連続であったからです。
 日蓮大聖人はその主著の一つである「開目抄」のなかで、この疑問を取り上げ、さまざまな角度から答えられております。これをこまかく説明することはここではしませんが、少なくとも日蓮大聖人は、いま教授が提起された問題にまっこうから取り組まれたのであり、私たちは、そこでの説明に納得しています。
26  デルボラフ なるほど、キリスト教の信仰は、仏教にくらべて理解しにくい点をもっていることはたしかです。
 すでにパウロや、そのあとにつづいたアウグスティヌス、カルヴァン等、多くの神学者たちは、キリスト教的救済説を予定説と結びつけ、神はたしかに多数の人間を召したが、少数のものだけを選んで、残りをまったく見放したと考えたのです。
 神のまえでは皆平等であるという思想にまったく矛盾するこの選民主義的な傾向は、仏教では、正覚を得る可能性に関するかぎり、出家宗教としての性格を放棄することで、比較的早い時期に克服されています。法華経にしたがえば、すべての人に、成仏の可能性への道が無制限に開かれているわけです。
 しかし、そこからさらに、キリスト教の歴史において意見が鋭く対立した、二つ目の難題が生じてきます。すなわち、われわれ自身の道徳的業績は、そのために得られる天上での幸福とともに、自分の力によるのか、それとも神の恩寵のおかげなのかという疑問です。
 私が知るかぎりでは、仏教の伝統のなかにも、とくに阿弥陀教に代表されるように、恩寵を救済の前提条件と見る考え方があります。――そのゆえに、著名なプロテスタント神学者のナタン・ゼーデルブロムは、これを「贈り主なき恩寵という賜物」と呼んだのです。別の仏教的傾向ではこうした見解は拒否され、日蓮はこの阿弥陀教の恩寵説に「地獄への道」さえ見いだしたのですね。
27  池田 阿弥陀教は、西方十万億の国土を過ぎた彼方にいるとされる阿弥陀如来の恩寵にすがろうとする教えで、その基本的考え方は、神の恩寵にすがろうとするキリスト教やイスラム教と、きわめて似かよっています。異なっている点は、阿弥陀如来自身、仏法を修行して仏陀となったとされており“法”の先行性・優越性が前提とされていること、したがって阿弥陀如来は大宇宙のなかに存在する無数の仏陀の一人にすぎない、とされていることです。
 日蓮大聖人が阿弥陀教を「地獄への道」であるとしたのは、この阿弥陀経をもとにして宗派を立てた法然が、法華経の信仰は無益であると主張し、人々に法華経の信仰を捨てさせて阿弥陀教をひろめたからです。すなわち、阿弥陀如来という仏陀に先行し優越する“妙法”をけなし、それに背いているのですから、いかに阿弥陀如来の恩寵をあてにしても、救われることは不可能であるというのです。
 これは、たとえていえば、向かいあった崖の向こうに母がいて、こちらの崖から飛びだそうとする子どものようなもので、母を慕う気持ちは純粋であっても、引力のすさまじい力で崖の下に叩きつけられることはさけられないのと同じです。
28  デルボラフ 私があなたのご意見に賛同する点は、普遍的恩寵説が人間から自由を奪いとり、幼児のようにしてしまうという点です。ここからキリスト教徒のジレンマが生じてきます。
 そこでは、あきらかに、人間は全能の神が欲する以外のことは何も望めません。そうでなければ、人間自身が自分の王国の小さな神になってしまうわけです。しかし、にもかかわらず、人間が自分の自由を確保しなければならないとき、神の思し召しと自分の自由意思とを、どのような割合で釣りあわせるかという問題が生じます。
 単純に二つを加算することは、ここでは意味をなしません。おそらくこの疑問は、ただ弁証法的にのみ解決できるかと思います。つまり、自身で決定し、自己本来の業績を達成できる自由な私というのは、神の恩寵による賜物である、と理解すべきだということです。あるいはアウグスティヌスが表現したように、自分の功績を同時に神の賜物と解釈することです。教条主義とは無縁の「哲学的信仰」をとなえるカール・ヤスパースも、この、自分自身が恩寵の存在であるという点に、宗教の根本体験そのものを見ています。
29  池田 それを仏教の立場でいえば、結局、卑賎な凡夫である自分が、尊極の存在であるということになるでしょう。一神教では、この自分という存在が神の賜物であるとすることによって、この自覚に立とうとしたのに対し、仏教では、自身の内に仏性があると覚知することによって、同じ自覚に到達させようとしたといえると思います。
30  デルボラフ さらに、キリスト教的信仰実践でより大きな問題と思えるのは、神への関係において“報酬を得るためにあたえる”という態度です。
 人間の法的・倫理的共同生活においては、相互性の原理がその機能的基盤とされるのは、正しいのです。これは善悪ともに他人に向けられた傾向に対して相応の報いがあたえられてこそ、秩序と正義が守られるという原理です。贈り物に対してはお返しの品が、愛には感謝が、犯罪には処罰が不可欠なものとして結びついています。
 このように見たがる人間の発想の中心には、均衡への欲求があります。この人間の相互関係をすべて決定している原理を、はたして、人間と神の関係にまでも適用できるのでしょうか。簡潔にいえば、供養とか善行のお返しを、神は要求されてしかるべきなのか、もっと別の言い方をすれば、神は「買収」できるものなのか、ということです。
 カントが、功徳と報酬は道徳的行為の結果として生じるものではなく、道徳行為そのものと同時に存在するものであると宣言して以来、功徳と報いのゆえに善行をなすという考えは、道徳分野ではもはや不適切なものとなっています。世俗的・哲学的倫理学では、すでにこれほどまでに精練された基準が達成されているのです。ですから、人間と神の関係を宗教的に解明する場合には、これより下であってはならないのです。
 もし、神との関係において“報酬を得るためにあたえる”という意識を消滅させることができない場合には、キリスト教にとって死命を制するほどの大きな危機だと思います。同じことは、死後の至福を意識的な道徳的業績によって獲得できると信じている他の宗教についてもいえます。たしかに「買収できる神」というのは、憎悪や愛情をいだく神という人間的に考察された概念以上にはるかに大きい、宗教的感情への挑戦となります。
31  仏教の場合には、個人の倫理的おこないが自分自身か他人にかかわるものなので、このようなジレンマからまぬかれているように思えます。しかしキリスト教の場合に、このジレンマからまぬかれうる唯一の形態は、信者が神に対して、能動的にではなく、受動的に対応することであるように思われます。
 神に恩寵と救済を祈ることはできます――これは、日蓮仏法の信者も、「御本尊」(崇拝の対象としてのマンダラ)に願いをかけて祈るのと同じです。しかし、その代償としてなんらかの功徳を計算に入れることは許されません。
 いずれにせよ、イエスの救済宣言に対するキリスト教徒の考え方においては、神に帰依することは愛と感謝によってのみ動機づけられるべきものなのです。ここでいう感謝とは、神がまえもってすべての人を「義人」と認めてくれたという、報いがたい恩寵に対する感謝を意味しています。
32  池田 功徳をあてにして祈ることは、買収できる神ということになるのではないかとのご指摘は、まことに痛烈な皮肉です。仏教の場合も、おっしゃるように御本尊に願いをかけて祈ります。
 日蓮大聖人ご自身「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」と、大いに祈りなさいと教えられています。しかし、もう一方では「諸天が加護してくれないからといって疑ってはならない。この人生が安穏でないからといって嘆いてはならない」と、現世における功徳のみで信ずべきかいなかを決めてはならない、とも戒められています。
 一見矛盾するように思われるこの二つの教えは、何を意味しているのでしょうか。それは、仏教の教える究極の功徳は、自身が仏陀になることであり、いかなる人生の苦難をも悠々と克服していける、強靭な自己の確立です。この強い自己の確立の結果として「何事か成就せざるべき」という、自由自在の満足しきった人生が、実現されるということになるのです。
 ここで、根本的な問題は、くりかえし申し上げているように、仏教における信仰の対象は“法”であるという点です。人格的な神が祈りの対象である場合は、ご指摘のように「買収」という表現もあてはまりますが、“法”が対象である場合はちがってきます。すなわち、ただ祈ればその結果が得られるのではなく、祈って、道理にのっとった行動をし、努力することが肝要とされます。それは、すべての努力とその結果についてあてはまる原理であり、その努力する自己を強めていくために、御本尊への祈りが根本となってくるのです。
33  デルボラフ キリスト教的神が由来する『旧約聖書』の神は、まだ怒りと処罰の神でした。そこで、ユダヤ人は、個人や民族の苦悩と不幸のなかに、自分たちがおかした罪に対する神の懲罰を見ることになれていました。イエスはこうした神の考え方を克服し、怒りの神を愛と慈悲にみちた神にかえたのです。不幸な人々を頭から罪人であると烙印を押すのを、イエスは、「パリサイ的」(形式主義的)だとして拒否しました。
 しかし彼は、“報酬を得るために善をおこなう”という、神に対する自己中心的な意識を、人々の心からぬぐいさることはできませんでした。もしこれがぬぐいさられていたなら、中世にあったような、異端裁判や魔女狩りなどはおこるはずがなかったのです。こうした異端裁判や魔女狩りに見られる姿勢は、人間の肉体的・精神的に奇異な点を神の烙印によるものと理解し、人間がくだす判断、ないし判決を神がすでにくだした審判であるとして、正当化することになってしまいます。したがって、私としては、個々人の経歴のなかに神の行為をいちいちなぞろうとしたり、自分の理解力の限界を素直に反省しようとしないのはまったく感心しません。この点については、仏教の場合でも、個人の人生や社会の動きのなかにどの程度までカルマの原理の影響を認めるべきか、を吟味する必要があるかもしれません。
34  ところで、キリスト教の信仰理解のなかでもっともむずかしい問題は、「肉の復活」に関する教説であるように思います。この教説によって、地上の基準で決められた幸福に対する安易な考えを排除し、永遠の生命がくもりなき「神の観想」によってのみ体験できるものである、と仮定してみます。それでも、個人の死はあまりに決定的な終わりを意味するように思われ、「死後の生命」については疑わざるをえません。しかし“信じる”ということは、かつてニューマン枢機卿が表現したように、“疑いに耐える力がある”ということなのかもしれません。
 この意味で、宗教の最高の功績としてあげられるのは、人間に死を克服する力をあたえることができるということではないでしょうか。宗教は、たしかに、先に述べてきた道徳的指針のように、人生においても助けとなるものです。しかし、世俗的理性が人間、しかも、成熟した教養ある人間に対してあたえられないものについては、宗教も何も提供できないのです。ただ、死に関しては、世俗的理性は納得させられるだけの慰めを準備していません。あなたはこの見解に、仏教徒の観点から、賛同されるでしょうか。
35  池田 宗教の最大の功績が、人間に死を克服する力をあたえることにあるということは、仏教徒の観点からいっても正しいと思います。日蓮大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と言われていますし、釈尊が出家して修行の道に入るにいたった動機も、生老病死の四苦の解決にあったことは経典にも記されているところです。
 この死を克服する点で、仏教が到達した解決とは、生命とは死によってなくなってしまうのでなく、生と死という変化の姿を示しながら永続していくものであるということであり、したがって、死とは一つの変化にすぎないと悟ることです。それによって、死の不安や恐怖が解消されるばかりでなく、現在の人生をいかに、また、何のために生きるのか、ということを考えるうえでの根拠が確立されます。
 この意味では、世俗的理性があたええないものを提供できるといえます。きょうが終われば無に帰するのでなく、きょうの連続としてあすがあることを知れば、あすのため、あるいは五年後、十年後のためにそなえた生き方を選ばなければならないからです。
36  デルボラフ われわれが関係している二つの宗教、つまりキリスト教と仏教の共通点と相違点を追究するなかで、私としては、キリスト教的信仰理解の前提条件群に多少深く入り込み、その強さとともに弱さも率直にあげたつもりです。あなたの異議に言及し、疑問にも答えるようつとめました。理神論的啓蒙主義の成果としての「哲学者の神」、あるいは「理性的世界秩序」という考えのなかには、キリスト教的思惟が仏教の“法”概念にとくに近づいていることが看取されます。
 さらに私は、今日でもまだ克服されていない衝撃をキリスト教にあたえた、個々の専門科学による信仰批判にもふれ、この衝撃をさけるには、信仰の意味が理論的意義づけに原理的に先行するということを明確にすればよい、と述べました。すなわち、信仰に関する教えは科学が科学的抽象の地平で取りあつかっているものとは別のものであり、より具体的な事象を意味するので、必然的に無理解のままにとどまるということです。
 そこで、個別科学的啓蒙思潮は、まず自分自身とその限界について“啓蒙”される必要があり、このことはヘーゲルもその宗教哲学のなかで要請しているところです。他方、信仰者は、今日でもなおときどき見受けるのですが、信仰内容を個別科学的側面から正当化しようとすることは、やめるべきでしょう。
37  さて、ここでおたずねしたいのですが、仏教の信仰において、これと似たような問題群と取り組む必要があると、あなたはお考えですか。仏教に改宗したヨーロッパ人は、まずだいたい、仏教の合理主義に魅了されているとのことです。実際、仏教徒は、その信仰上の前提から見て現代科学、つまり自然科学の成果と了解しあうのになんら困難を感じない、という意見を何度となく耳にします。
 たしかに仏教徒の場合には、キリスト教徒にくらべて、多くの点で荷が軽いかもしれません。たとえば奇跡を正当化する必要がありませんし、その自己完成は、心理学的に追跡可能な精神的過程だからです。
 ただ、多少事情が異なるのは、存在論的・宇宙論的前提の問題です。つまり、世界の永遠性、世界の多元性(たんに宇宙に存在する別の星雲系を意味しているのではありません)、そして最後に、宇宙生命の連続的再生産と転生への仏教の教えです。
 私が興味をひかれるのは、仏教が今日、キリスト教の場合のように、科学研究に対する防衛戦に巻き込まれつつあるのか、また、もし信仰と科学のあいだに見解の相違が生じるとき、仏教はどのような妥協の方法をとるのか、という問題です。この点いかがでしょうか。
38  池田 仏教の本領は、生命の法理を明かしたこと、人間の人格的向上への原理を説いたところにあります。これは、個別科学のなかでも精神科学と多分にかさなりあっていますが、今日われわれの知りうるかぎりでは、精神科学の発展は、仏教の説いているものがいかに正しいかを裏づけつつあります。
 もちろん仏教も、その説法のなかで、釈尊の時代にインドの人々が信じていた世界観や宇宙観を用いています。その世界の像は、今日では現実とあわないことが明らかとなっています。しかし、それはあくまで仏教の根本的教理とは関係のないもので、その点で、今日の科学的知識に席をゆずったとしても、仏教の成立基盤が崩れるということは、まったくありません。
 仏は覚者であり「三界の相を如実に知見」していると宣言していますが、この三界の相とは、物理的世界の姿を指すのではなく、人間生命の欲望や怒りと、それがまねく苦悩を指しており、したがって、いかにすれば人々をそうした苦悩から解放しうるかを知悉しているということなのです。仏教の場合は、個別科学があつかう分野に関しては、いつでも譲歩する用意があり、そこで経典に述べられていることと食いちがった真理が提示されたからといって、なんら争う必要はないのです。
39  法然
 (一一三三年~一二一二年)一一七五年、専修念仏をとなえ、日本浄土宗を開く。
 ルドルフ・ブルトマン
 (一八八四年―一九七六年)ドイツのプロテスタント神学者。ナチスのユダヤ人抑圧政策を批判し、さらに新約聖書の非神話化を提唱。戦後も影響をあたえた。
 レッシング
 (一七二九年―八一年)ドイツの劇作家、批評家。啓蒙思想家としての批評活動、および市民のための戯曲の創作活動をとおし、近代ドイツ文学の基礎づくりに挺身した。
 カルヴァン
 (一五〇九年―六四年)フランス生まれのスイスの宗教改革者。プロテスタント教会の形成に大きな影響力をおよぼした。一五四一年以後、ジュネーブで厳格な聖書主義に根ざした神権政治をおこなった。
 ナタン・ゼーデルブロム
 (一八六六年―一九三一年)スウェーデンのルター派神学者。世界的に教会合同運動を推進。一九三〇年のノーベル平和賞受賞。
 ニューマン
 (一八〇一年―九〇年)イギリスの神学者、詩人。オックスフォード運動の指導者の一人。のちに英国国教会に疑問をもちカトリックに改宗。著書『アポロギア』等。

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