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日蓮大聖人・池田大作

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3 仏教はキリスト教に影響を…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ キリスト教の愛と仏教の慈悲はその意図から見て、たいへん接近しています。とくにキリストの受難に見られるように他者の苦悩へのキリスト教徒の共感は、深く無限な慈悲以外のなにものでもないように私には思われます。しかし、仏教の慈悲の姿勢にも、キリスト教的愛の特徴である自己否定、いな、自己放棄の要素が入っています。
 明らかに一種の救世主の理想像の追求である菩薩の理念が、大乗仏教に受け継がれた事実を、私は少なくともこのように理解しています。信者は救済を菩薩――または、のちに複数で登場するので、菩薩たち――に求めます。菩薩とは「正覚」すなわち「仏界」を得るべく定められているが、同胞にかぎりなくつくすために、この究極目標を断念できる者のことです。
 ただし、キリスト教の隣人愛と仏教の慈悲が傾向として似ているからといって、そこから必然的に両者の歴史的依存性があったとは断定できません。
3  池田 もちろん、断定は不可能です。ところで、西紀前三世紀の人と想定されるアショーカ王は、仏教の慈悲の精神に立った政治をおこなうとともに、遠く国外に使節を派遣し、慈悲の思想と平和の理念を伝えさせています。
 その派遣先として記されている都市には、ギリシャやエジプトの都市の名が見られます。当時すでに、アレキサンダー大王のアジア遠征によって、インドと西方世界との交流は、かなりひんぱんであったことは容易に想像できます。
 地理的・文化的条件からいっても、インドの人々にとっては、ヒマラヤ山脈、パミール高原、そしてタクラマカン砂漠といった、けわしい自然によってさえぎられている中国との交流よりも、西方世界との交流のほうが、ずっと容易であったし、本来の関係も密接であったはずです。それを考えれば、仏教が伝えられたのが、東南アジアの地域や中国のみで、西方には伝わらなかったということ自体、ありえないことではないでしょうか。
 ただ、西方世界にその後ひろまった宗教は、キリスト教、イスラム教と、いずれも、ユダヤ教的唯一神を立てる、はげしい排他性をもった宗教ですので、一時期は仏教の影響がおよんだとしても、あるいは、その教義の発生に仏教が反映していたとしても、強引にその痕跡が消しさられたとも考えられます。そのために、今日では、証拠としてあげうる痕跡は認められないとしても、影響がおよばなかったとは、むしろ考えにくい気がするのですが、いかがでしょうか。
4  デルボラフ 私自身、この問題について文献を調べ、専門家の見解も求め、つぎの結論にいたりました。アショーカ王とヘレニズム時代の君主との接触があったことはたしかです。彼の第八石柱詔勅には、シリアのアンチオコス三世や、その他のアレキサンダー大王後継時代の支配者に関する名前が出ています。
 初期キリスト教教会や教父が仏教と接触したことの証拠も存在します。紀元二百年ごろの、アレキサンドリアのクレメンスが著した『ストロマタ』(二一一年ころ)には、非凡な敬虔さのゆえにインド人の信奉者から神のように崇拝された「ブッタ」という人物がえがかれています。別の個所では、その生活様式からして仏教の阿羅漢と思われるインドの聖人たちのことが述べられています。
 紀元四世紀のローマ教父ヒエロニムスは、仏陀の信奉者は彼が処女から生まれたと信じている、と報告しています。これは、逆に、キリスト教的考えの仏教への影響を示唆しているかもしれません。仏教の影響の痕跡はマニ教徒にも見いだせます。
 こうした示唆はおそらく、ありとあらゆる場所に見いだされるでしょうし、その影響の大きさから見れば、氷山の一角かもしれません。例としては、インドにおけるトマス主義キリスト教徒と中国でのネストリオス主義者による宣教活動をあげることができます。
 この点について、われわれは途方もなく無知のようです。ちなみに――おそらく、トマス派キリスト教徒が介入したのでしょうが――仏陀の伝説が中世ヨーロッパでよく読まれたバルラームとヨサファトの物語に入り込み、そこから教会の聖暦にまで取り入れられたという奇妙な事実に見ることができます。それはさらにキリスト教的に粉飾されたあと、中国や日本で宣教師によってキリスト教に改宗した人々のもとへ帰っていったのです。人々は、その源泉が仏教にあることを知らなかったのです。
 ヨサファトの背後に隠れているものは、ほかでもない「ボーディサットヴァ」(菩提薩)の俗称的省略形の「ボーディサット」であり、バルラームは、「世尊」と同じ意味の「バガバン」から「ビラウバー」をへて派生したものです。
5  池田 バルラームもヨサファトも、ペルシャ人の名前ですが、これは仏陀すなわち釈尊の伝記を記した「普曜経」などを基礎にし、中央アジアあるいはイランで中世ペルシャ語のパフレヴィ語で、キリスト教の聖者物語に書きあらためられたといわれていますね。
 そこからアラビア語、ギリシャ語、ラテン語に訳されて、中世には、西ヨーロッパの各国語にも訳され、聖者バルラームとヨサファト王はついに実在の人物とされるにいたったと聞いています。
 いま教授が言われたように、それが宣教師によって中国や日本へも伝えられたという点については、日本のキリシタン文献のなかに「聖者ばるらあんとじょさはつの御作業」というのがあります。
6  デルボラフ 今日でも重みをたもっている仏教研究家ヘルマン・ベックは、これに関連して、つぎのように述べています。「後に忘れ去られた仏教的伝統要素がキリスト教の伝説形成の中に受容されていったことは、西洋における仏教の有効性を促すものではなく、逆に、キリスト教がいかに非キリスト教的な、例えばインド的な救済説を受け入れ、自己流に消化する能力があったかの傍証となるものである」と。
 いずれにせよ、このことは、中世と近代初期についてあてはまるといえます。
7  池田 しかし、それはキリスト教にかぎらず、あらゆる宗教や思想に共通することでしょう。むしろ、キリスト教は全般的に見て排他的であるという印象が強いなかにあって、このように他の宗教の考え方も摂取してきたことが、意外性をはらんでいるということではないでしょうか。
8  デルボラフ 十九世紀初頭の西欧では、アジアの支配的宗教共同体としての仏教の意義が大きく注目されました。仏教思想に対し、まず哲学者が、つぎにインド学や言語および文化に関する比較研究者が興味を示し、原典批判を基盤として研究をすすめました。
 そのさい注意をひいたことは、仏典とキリスト聖典および聖典外福音書のあいだの、驚くべき類似性で、これは仏教の影響を示唆していました。エッセネ派の人々のいた地域こそ、イエスがインド思想と接触した場所ではないかと推測されました――イエスはエッセネ派の人ヨハネと出会い、洗礼を受けることによって、その教団に入っているのです(この見解はかなり大胆です。しかし、イエスは、ヨハネの死後から巡回説教期のあいだの謎の時期にオリエント地方に旅をし、仏教と接触したという、もっと大胆な見解もあります)。
9  池田 マタイ伝福音書には、この間のことについて「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 『ゼブルンの地とナフタリの地、
  湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
  異邦人のガリラヤ、
  暗闇に住む民は大きな光を見、
  死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』」(新共同訳、日本聖書協会)
 と述べています。
 しかし、他の福音書は、いずれもこの期間、イエスが三十歳になるまでのあいだのことについては、どこで何をしていたのか述べていませんね。オリエントに旅をして仏教に接触したというのは少し大胆な推測ですが、まったく否定もできません。オリエントヘ行ったとは言わないまでも、アレキサンドリアで仏教にふれた可能性がある、と言っている人もいます。
10  デルボラフ 一八八〇年代の初頭にルドルフ・ザイデルは文献を比較して、パーリ語経典と『新約聖書』のあいだに五十個所以上について類似性が証明できると主張しています。彼の方法論は批判されたのですが、のちにアルベルト・エドマンズとリヒャルト・ガルベは、六つないし四つの類似個所を確認しています。
 すなわち、シメオンが寺院でのちのイエスの伝道を預言する個所と、幼児ゴータマが長じて仏となるというアシダ仙人の予言、先述のイエスと仏陀に対する悪魔の誘惑、そして水面を歩いたり、大勢の人にあたえるためにパンが増える話です。
 こうしたキリスト教に対する仏教的伝承の影響の問題は、近年、より具体的になってきています。ロイ・アモアは、ダンマパダ(パーリ語経典の第一部)と山上の垂訓の関係性から出発し、仏教と原始キリスト教のさまざまな類似点を、歴史的関連から考察しました。彼の仮説は、マルコ福音書のほかにマタイとルカが福音書構想の手本とした共通の「箴言源泉Q」が、仏教からかなり強い影響を受けているというものです。
 原則的にいって、キリスト教原典が後期のものであればあるほど、仏教の影響という点での信憑性は高まる。なぜなら、仏教徒とキリスト教徒が展開した布教運動は、多様なかたちで遭遇しあっているはずだから、と言っています。
11  池田 しかし、マタイやルカが手本としたものが仏教の影響を受けているということは、たんに仏教とキリスト教が布教の過程で接触し、影響しあったからというだけでなく、そもそもイエスの考え方の出発点から、仏教の影響があったと見なければならないのではないでしょうか。
12  デルボラフ そうかもしれません。アモアはイエスの教えの核心となる福音でさえ、ヘブライ・ユダヤ教からでなく、インド・仏教的源泉から由来していると見ています。これは、キリスト教の愛は仏教の慈悲の変形だと見るあなたの見解に近くなります。
 私自身、こうした解釈はたいへんに興味深いものだと思いますが、ただ、つぎの理由からくみするわけにはいきません。まず第一に、イエスが愛の戒めを説いている『新約聖書』の決定的個所は、『旧約聖書』中の記述を基盤にしています。その『旧約』の記述は、もちろん、ユダヤ人だけにかぎられていますが、隣人愛を要請しており、自己愛から隣人愛をみちびきだしたものです。
 第二に、キリストの説く隣人愛は、一方は、完全な自己否定と自己放棄にいたり、他方は、敵への愛にまで高まっていくものです。これは、『旧約聖書』に見られるユダヤ人の戒律宗教に対抗するものとして、はじめて理解できます。こうした愛の絶対的な要請は、当時、もっとも厳格なかたちで浸透していた報復原理――「目には目を、歯には歯を」に典型的にあらわれています――を止揚し、克服しようとしたのです。もとより、仏教の慈悲論の影響によって、それがさらに増大したということはいえるかもしれません。あるいは、こうした根本的な部分での一致が、別の領域で相互に影響しあうことを本質的に容易にしたといったほうがよいのかもしれません。
 ここで問題にしているのは、こうした相互影響の一面、つまり仏教のキリスト教への影響だけですが……。
13  池田 キリスト教では神を信じない者は、死んで地獄に堕ちるとされますが、そうした“地獄”の概念も、もちろん、ギリシャ人の死後観に、それに似た“冥府”の考え方はあるにしても、より以上に、仏教の因果律のうえからの“地獄”にその範をとった、あるいは、そのイメージを借りたもののように思われるのですが、いかがでしょうか。
 というのは、日本の神話にも黄泉の国が死後の世界とされていますが、この内容はギリシャ人の考えていた冥府と非常によく似ています。いずれも、それは生前のおこないの善悪にはあまり関係のない、いわゆる死後の世界です。それに対して、仏教やキリスト教の説いた地獄は、生前のおこないの悪さと関係しており、いわゆる因果応報の考え方がそこに反映しています。
14  デルボラフ この点では、仏教に歴史的関係性をもっていたということが信憑性が高いと思います。ビザンチンの東方教会に見られる地獄絵ばかりでなく、西洋ではダンテの「地獄」が、その傍証として存在しています。
 そのゾッとするなまなましさは、ペテロの黙示録にならったものです。ルネサンス芸術はこの主題を受け継いでいったわけです。とくに、地獄が山岳風景としてえがかれているパドゥアのジョットのフレスコ画とか、地獄でのありとあらゆる責め苦をえがいたヒエロニムス・ボッシュの奇妙な空想画などをあげることができます。
 西洋でダンテ以来普及した地獄の渓谷、地獄腹、漏斗状に下に傾斜した地獄の部屋という考えは、完全に仏教との類似を想いださせます。仏教では、地獄はたいてい単独ではなく、生けるものすべてがかかわる宿命的因果関係、つまり、サムサーラと呼ばれる輪廻転生の一環としてえがかれていますね。
15  池田 ダンテがえがいている地獄のなかには、さまざまな苦悩の種類があります。そのなかには、仏教で立てる餓鬼界や修羅界などもふくまれているように思われます。仏教では地獄だけでも熱地獄に八つ、寒地獄に八つを立てており、それぞれに、堕ちる罪業が厳密に区別されています。
 そこには、人間の行為の善悪についてのきわめて詳細な考察と、その想像力の豊かさがうかがわれます。
16  デルボラフ ラマ教の「生命の輪」というマンダラでは、この輪廻が恐ろしい悪鬼のかたちで描写されています。その悪鬼は爪と歯で、神や悪鬼、人間、獣の世界、また煉獄の火や地獄等を内円におさえ、外周には、その形態が変遷する因縁が十二に区分してえがかれています。輪廻を脱した仏陀は、この両方の円の中心か、またはその外の蓮華座に禅定の状態ですわっております。この生命の輪は、その他いろいろな形で表現されていますが、ふつう、かんたんに「地獄」と呼ばれています。私自身この種の壁画を一幅所有していますが、このテーマをあつかっているあいだに、その意味が明らかになったしだいです。
 キリスト教の分野では、先に述べた地獄の山とか、地獄渓谷から、「天上の都市」に対応するものとして想定された地獄の都市の絵なども、えがかれていきます。だが、キリスト教的理解では個人の存在は天国か地獄で終わります(持続はしても転生はありません)。したがって、仏教的存在界とちがって、われわれの地獄絵の場合、罪と、それに相応する刑罰のさまざまな種類を表現したものになります。ヒエロニムス・ボッシュ、またはピーテル・ブリューゲルの絵は、残酷な空想を愛らしい細密画に表現したものです。
17  アショーカ王
 生没年不詳。古代インド・マウリヤ王朝第三代の王〈在位前二六八年ころ―二三二年ころ〉。はじめは各地を攻略し領土拡大をはかったが、のちに戦争の悲惨さを痛感、仏法に帰依し〈法〉の統治を実行した。あらゆる宗教、とくに仏教を重んじ、法の理想を磨崖や石柱に刻印。戦争放棄・福祉政策・平和外交を表明した碑文もある。
 アレキサンダー大王
 (前三五六年―前三二三年)マケドニア王〈在位前三三六年―前三二三年〉。遠征軍をひきいてギリシャ、ペルシャ、インドのオリエント世界を征服、空前の大帝国に。東西の民族・文化の融合をはかりヘレニズム文化の基礎をつくった。
 アンチオコス三世
 (前二四二年―前一八七年)シリア王〈在位前二二三年―前一八七年〉。国内を統一した後、東方遠征をおこない、エジプトの宿敵プトレマイオス家をおさえたりしたが、ローマに敗れた。
 クレメンス
 (一五〇年ころ―二一六年ころ)初期のギリシャのキリスト教神学者。著書は『ギリシャ人への勧告』『教育者』。
 ヒエロニムス
 (三四〇年―四二〇年ころ)ローマの古代教会の教父。ラテン語訳聖書を完成。
 トマス主義キリスト教徒
 中世イタリアの神学者トマス・アクィナスの教説を信奉する。
 ネストリオス主義
 総大主教ネストリオス(三八一年ころ―四五一年ころ)がとなえたキリストの人格・神格分離説。中国では景教と呼ばれた。
 ヘルマン・ベック
 (一八七五年―一九三七年)ベルリン大学教授をへて宗教活動家に。著書に『ベルリン王立図書館のチベット語古文書目録』、パーリー語『涅槃経』のドイツ語全訳等がある。
 ルドルフ・ザイデル
 (一八三五年―?)著書は『イエスの福音と仏陀の教えとの比較』。
 アルベルト・エドマンズ
 (一八五七年―一九四一年)フィラデルフィア・オリエンタル・クラブ会員。著書『仏教およびキリスト教の福音』。
 リヒャルト・ガルベ
 (一八五七年―一九二七年)ドイツのインド学者。チュービンゲン大学教授。ヴェーダ学などの権威であり、インドの哲学思想を教えた。
 ロイ・アモア
 (一九四二年―)アメリカの宗教学者。著書『仏教とヒンズー教の生命説話』。
 ジョット
 (一二六六年ころ―一三三七年)ルネサンス美術の道をひらいたイタリアの画家。「聖フランチェスコ伝」など主に教会の壁画をえがいた。
 ヒエロニムス・ボッシュ
 (一四五〇年ころ―一五一六年ころ)初期のネーデルランド絵画を代表する画家。「快楽の園」「乾草の車」など。
 ピーテル・ブリューゲル
 (一五六四年ころ―一六三八年ころ)オランダの画家。火事や煉獄の炎を巧みにえがくので〈地獄のブリューゲル〉と称された。父親は同姓同名で農民の風俗をよくかいたので〈農民ブリューゲル〉と言われた。

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