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日蓮大聖人・池田大作

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6 医師と倫理性  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ たしかに、西洋の医学上の倫理は「ヒポクラテスの誓い」と、そこから育成されていった医者の職掌に対する義務感によってかなり早い時期から明確な指針をもっていました。東洋でも、仏陀や孔子はおのおのの仕方で医者の責任を形成するのに貢献しています。この点、キリスト教の場合――預言と病人の治癒との形式的結びつきを別にすると――福音書作者の一人であるルカは、医者であったにもかかわらず、比較的無言のままです。
 医学が比較的早く専門的倫理を確立したのは、医学が、失敗の許されない職務遂行をつねに義務づけられている立場にあったからばかりではありません。むしろ、ひんぱんに極限状況、あるいは「ジレンマ」に立たされてきたことと関連しています。この場合、明らかに、範例にのっとることが不可欠となります。おのおのの事例について、何が本来の問題なのか、そもそも処置すべきなのか、また、いかに対処すべきなのか、という問題点を徹底的に解明する必要があります。
 これらの問いが医学的専門知識だけから明確な答えを得られるのは、たいへんまれなケースです。さらに、医療活動はその影響において、たとえば法律活動のような他の領域と錯綜しています。したがって、つねにその結果も考慮されねばなりません。
3  池田 宗教のなかには、そのドグマ的な考え方からいっさいの医療を拒絶するものもあります。あるいは、そこまで極端でないまでも、医学の進歩に対して否定的作用をする場合が少なからずあるものです。
 そうした宗教の場合は別にして、一般的に宗教の担う大切な役割は、医学の進歩と医療の発達がとかく人間性を忘れがちであるのに対し、医師には、人間として忘れてはならない患者への思いやり、また患者自身には精神的なはげましといったものをもたらしていくところにあると思います。
4  ① 安楽死の問題
 池田 今日、医療上問題になっている安楽死は、苦しみを終わらせるために積極的に死期を早める積極的安楽死でなく、なにがなんでも生命を引きのばすような特別の処置をさしひかえて、自然の力にしたがうという消極的安楽死のほうです。
 こうした安楽死運動に関連して“死ぬ権利”の主張、“尊厳死”の主張、医療辞退の遺言等も話題になっていますが、この問題については、どのように考えておられますか。
5  デルボラフ たしかに、人はだれでも自分自身の死に対する権利、つまり、人間らしく死ぬ権利をもっています。しかし、人間の病気や苦悩の多様性と悪性化により、残念ながら、この権利は非常に制限されています。
 たとえば、アリストテレスからストア派にいたる古代の哲学者たちは、自殺を容認していましたから、そこでは、積極的な安楽死も非道徳だとしてしりぞけられることはありませんでした。これに対しキリスト教は、生命は神聖にして不可侵であるとの考え方から、自殺を、したがってとうぜんのことながら、積極的安楽死を禁止してきました。これには消極的安楽死はふくまれません。私が知るかぎりでは、ドイツの医者──そのなかには多くの熱心なキリスト教信者がいますが──は、患者の生きのびるチャンスが実質上皆無であれば、通常、患者の希望を聞き入れて、延命の投薬や治療をすべて中断します。そこで、延命が苦しみを引きのばすことであれば、私としては「隣人愛」から──仏教徒であれば「慈悲」ということになりますが──消極的安楽死に同意するでしょう。
6  池田 たしかに、苦しみを引きのばすだけの延命は、人間らしい尊厳なる生とはいえないでしょう。
 安楽死問題のポイントは、どのようにすれば心身ともに安らかな、“よき死”を迎えられるかということにあります。消極的安楽死も、患者の苦痛の除去または緩和に焦点があてられています。
 私は、医学が、たとえばペイン・クリニック(=痛みの軽減を専門とする医療部門)等をさらに発達させて、患者の身体的痛みの除去にいっそうの努力をする余地はあると思います。だが、人間の苦しみには、身体の痛みだけでなく、精神的・実存的苦悩もふくまれます。とくに、死に直面したときには、死の不安、恐怖をふくめて、実存的な苦悩がともない、それが、身体的痛み、精神的・心理的悩みを増幅していくものです。こうした精神的・心理的悩みには、家族や医療関係者の人間愛、慈愛の行為が有効です。
 一方、死自体のもたらす実存的苦しみを克服するには、宗教の死生観がきわめて大きな役割を果たすと思われます。医学の進歩、周囲の人々の愛情、宗教の死生観が相互に協力しあってこそ、人間の尊厳性にかなった“よき死”を迎えられるのではないでしょうか。
7  ② 死の臨床をめぐって
 池田 つぎは、不治の病にかかって、死を待つばかりになった患者をどのように看護するかという問題です。
 アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラ・ロスは、多くの患者と対話をかさねてまとめた『死の瞬間』(一九七一年刊)のなかで、患者が死にいたるまでの精神状態を五段階に分けています。第一は否認、第二に怒り、第三に取引、第四に抑うつ、第五に受容です。
 これらの五段階の経過に、医療関係者はどのようにかかわっていけばよいと教授はお思いですか。
8  デルボラフ 不治の病にかかっている人に、死を迎える準備ができるようにと、生きている人間が彼の運命について啓蒙することが許されるのでしょうか。また、すべきなのでしょうか。私は、これ自体、かんたんに答えられることではないと思います。
 信仰に根ざした人は、宗教的に死を受けいれることができるので、自分の運命を知る権利があるかと思います。キューブラ・ロスが示した自分の死との対決の諸段階は、信仰をもつ人々も通過していくのでしょうが、信仰をもつ人は他の人々にくらべて、自分自身のさけがたい最期をより容易に受容できるのだろうと思います。とうぜん、生きることに執着し、自分の死をまだ認められない人に対しては、医者が率直に死を告げることは適切でないかもしれません。
 私としては、医者であり、詩人であったアルトゥール・シュニッツラーの有名な作品『死に臨んだ患者への援助』に登場するベルナルディ教授の意見に賛成です。死との戦いに幸福を見いだしていたある若い女性の患者に、牧師が臨終の秘跡──それは、死がせまっていることを告げることになるのですが──をあたえることを、彼は拒否したのです。
 そのような患者には自分の幻想をもたせてあげ、人間的に乗り越えられない課題を負わせないようにするのが、人間性の命ずるところでしょう。また、それ以上に大切なのは、思いやりと共感ではないかと思います。さもなければ、結局、たんに死の苦痛を増大することにしかならないと思います。
9  池田 教授の見解に同意します。宗教・哲学をもち、死生観を確立している人は、死に対峙しても、容易に受容の段階にまでいたると思われます。
 仏法を信仰している人の場合を見ていると、たとえ、死に直面していることが判明しても、一時のショックからすみやかに立ちなおり、自分なりに死の意味を発見し、それを確認しつつ死生観を深め、最後には悲しみのうちにではなく、むしろ人生を創造的に生ききった満足感と生命自体の充実感につつまれて死を受容する例が多いようです。仏法では、このような受容を、“臨終正念”と称しています。
 しかし、教授が指摘されたように自分の死をまだ認められない人、また死への準備ができていない人には、あたたかく見守っていくことがその人への慈愛といえましょう。そして、本人がいよいよ死を自覚した段階で、死の不安を克服するために最大の援助をすべきだと思います。
10  ③ 人工妊娠中絶をめぐって
 池田 つぎに、今日、とくにアメリカ、ヨーロッパ、中南米等の諸国で議論を呼んでいる人工妊娠中絶の問題ですが、その倫理的判断の基準は、胎児は完全な人間生命なのか、それとも、ある時点までは母体の付属物としてあつかうのか、という点だと思います。今日では、妊娠四カ月になると、羊水穿刺によって胎児の染色体異常を調べることができます。やがて、胎児のDNAの検査も可能になるでしょう。
 もし、検査によって、先天的な異常が発見された場合、中絶すべきかいなかというジレンマにおちいります。この問題について、どうお考えですか。
11  デルボラフ ここでは二つの点が問題になります。つまり、第一に、人工中絶は許されるのか、第二に、遺伝病がはっきりしている胎児は堕胎してよいのかということです。
 第二の問題については、私は全面的に賛成するつもりでおります。理由は、遺伝病にかかっている胎児は、人間らしい人生を歩むチャンスがほとんどないからです。ドイツでは――たとえば、風疹のように――母胎のなかの子どもの完全さをそこなう重病の場合には、その子を出産しないように、医者から妊婦にすすめています。
 第一の問題については、少なくとも、胎児がある成長段階に入った場合には、キリスト教信者として私は「ナイン(否)」と答えたいと思います。この考えは、西ドイツの現行の法律の考え方に反します。西ドイツの刑法二一八条は、両親が社会的苦境にある場合、人工中絶を認めています。その根拠は、物質的条件が新生児に対して健全な、そして、幸せな幼児期や青年期を保証できないのであれば、出産しないほうがより人間的である、というのです。
 ところが、この論拠は説得力を欠いていて、かえって実存的苦境にある生活環境こそが、ときには、若い人たちに限界を乗り越える力を発揮させることがあります。このことは、また、病理学的障害のある家庭環境についても該当します。
 ここに、しばしばあげられるベートーヴェンの例があります。優生学的見地からすると、父親は酒飲みで、母親は一連の病的な流産をしていましたから、彼は生まれてくるべきではなかったことになります。しかし、もし彼が堕胎されていたら、そのことによって受ける人類文化の損失は、はかりしれないものとなったでしょう。
12  池田 私も、基本的には人工妊娠中絶に反対です。ただし、胎児が遺伝的障害をもっていることが判明した場合、重症のときには胎児の状況、障害の程度をよく説明し、情報を十分にあたえたうえで、両親に判断させるべきではないかと思っています。
 つぎに経済的・物質的条件が問題である場合については、教授と同意見です。むろん、両親の決断が基本ですが、その場合にも、人工中絶の意味を示し、経済的に苦しくても子どもを愛情をもって育てるよう啓発すべきではないでしょうか。まして教授の示されたベートーヴェンの例は、優生学的観点からいって、憂慮されたであろうケースですが、安易に中絶すべきではないという説得力のある優れた例といえます。
13  キューブラ・ロス(一九二六年―)アメリカの女性精神科医。患者の死をとおして現代医療のかかえる問題点、医療側の本来のあり方を追求。著書に『死ぬ瞬間』『死ぬ瞬間の対話』など。
 アルトゥール・シュニッツラー
 (一八六二年―一九三一年)オーストリアの劇作家。戯曲『アナトール』を発表し、医師から新ロマン主義の流れに立つ作家活動へとすすんだ。
 ベートーヴェン
 (一七七〇年―一八二七年)ドイツの作曲家。ハイドン、モーツァルトとならぶ古典派の巨匠。晩年、聴力を失うなかで数々の名曲を残す。
 DNA
 デオキシリボ核酸の略。細胞核内にある染色体を構成する重要な成分。遺伝情報の保存、複製をリードしており、遺伝子の本体とされる。

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