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日蓮大聖人・池田大作

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5 倫理と政治家  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 倫理とは“人間のふむべき道”ですから、人間のあらゆるいとなみに関係していくわけですが、そのなかでも職業として、倫理性の有無が大きな影響をもつものに、政治家と医師があげられます。そして、倫理感の喪失が顕著になっている今日、もっとも深刻なかたちでその結果があらわれているのが、まさにこの二つの職業であると思います。
 政治家のあるべき姿として、ヨーロッパでは、古代ギリシャのプラトンが「国家論」において“哲人政治”を説いたことが、あまりにも有名です。知と徳との合一を説いたソクラテスの弟子として、プラトンの言った“哲人”とは、たんに知識や知性として哲学をする人にとどまるものではなく、汝自身を知り、正義をわきまえて、実践する“徳”の人、強固な倫理感をつちかった人を意味することは、いうまでもないところでしょう。
 これと共通する思想として、東洋では、中国の儒教哲学が、仁・義・礼・智・信の五つを、人間のふむべき道の基本として説き、とくに為政者は万人の模範とならなければならないと教えました。
 私は、現代社会における一般的認識から政治家を“職業”としてここで位置づけていますが、本質的には、政治家は“職業”の枠におさめられるべきではないものをもっており、また、政治家自身、それを自覚しなければならないと考えています。まさに、そのゆえにこそ、一般の人々以上に強い倫理感が政治家には要請されるのです。この事情は、医師についても同様ですが、医師については別の項で論じましょう。
 政治家は、社会の権力機構をとおして、直接的にせよ間接的にせよ、その社会に属する多くの人々をしたがわせ、動かす立場にあります。そして、社会の成員から集められた税金によって報酬を得ています。つまり、人々に対して命令者であると同時に奉仕者でもあるわけです。命令者であるためには、人々から尊敬されなければなりませんし、奉仕者としては、公平かつ私心のないふるまいでなければなりません。
 もちろん、すべての政治家が、このような理想のとおりになるということは不可能でしょうし、事実、歴史をふりかえってみても、完璧に理想を実現した政治家をあげることはできません。しかし、政治家は一般の人以上に努力して、人々から尊敬される人間になることをめざすべきであると思います。
2  デルボラフ 政治家の倫理性、あるいはもっと厳密には、政治と倫理の問題は、今日ますます緊急になりつつある、いわゆる「職業倫理」の問題でもあります。私は前節で、教育学も、教育にかかわる専門知識のほかに一種の倫理観をふくんでいることを指摘しました。このことは、「政治」や「医学」にもあてはまります。厳密にいえば、以上の三つの職業のほかに、さらに一連の、おのおのの専門知識と倫理的内容をともなう学術的専門職があります。私が提唱している「実践学」は、こうした専門職が担う部分的責任を現代社会のなかに体系化しようという試みなのです。
 その対象となるのは、家庭生活や社会生活を基礎としたさまざまな活動分野です。具体的には、技術、経済学、医学、教育学、戦略学、法学、政治学や情報科学が一方にあり、他方では芸術や宗教の実践をあげることができます。こうした実践学は、けっして新しいものではなく、その起源はソクラテス、プラトン、アリストテレスにまでさかのぼることができます。
 若きプラトンはソクラテスの教えにしたがって、公的な仕事に段階秩序をもうけようとしました。その前提として、そうした責任ないし実践はさまざまな価値を生みだすが、その実践の効果に関しては、それぞれに価値が異なり、より高い立場からの指示を必要とする、という考えがありました。このようにして一連の段階が生まれ、その頂点には政治が「王者の芸術」としておさまります。
 「王者の」というのは、政治が他のあらゆる実践をその価値の使用に関して指示し支配するからであり、政治は「国王」の自然な義務に属するものであるからです。あなたが言及された、国王は同時に哲学者であるべきだという有名なプラトンの説の位置づけも、このことから明確になるかと思います。
3  池田 彼の言う「哲学」とは、師匠のソクラテスの精神をついで、「知(ソフィア)を愛すること(フィロ)」であり、「知」とは、正義とは何か、愛とは、善とは等々といった、人間が人間として生き、行動していくうえで根本となる問題についての正しい認識を意味していたわけですね。
4  デルボラフ プラトンは、哲学だけが、国家という統一体のなかでの芸術分野や職業の世界を、その理論的背景や倫理的要請のうえから見とおすと同時に、おのおのの職業に付随する「規制的理念」と呼ばれる倫理的任務の低下を防ぐことができると考えたのです。政治家自身もある規制的理念にのっとって行動しますが、その理念は、政治家が社会で占める位置に即して、二重の性格をもっています。つまり政治家は市民の公共福祉を促進するとともに、市民のあいだに「正義」を実現することを責務とするのです。
 ここに、「正義」というのは、禁令と義務、利得と負債等、あらゆる動的利害の分配に関するもので、それは立法によって規定されています。利益と負債の分配が「正義にかなう」とされるのは、その割り当て率が公的に承認されるときです。
 「公共福祉」も、いわば政治的に市民に保証されている生活水準に関連しており、それは、所有や収入ばかりでなく、人生を精神的にみたすために公共秩序が提供するものもふくめてあらわされます。
5  池田 「正義」といっても、けっして抽象的で漠然としたものではなく、具体的な社会のなかにおける“公平”さといった内容をもっていたのですね。
 そうした考え方は古代中国人にもあり、伝説的な帝王であった尭や舜は万民を公平におさめ、満足させたといわれています。その故事を引いて日蓮大聖人は「堯舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり」と、仏のそなえる属性の一部であるとされています。
6  デルボラフ 政治倫理は通例、公共福祉と正義にかかわる義務と理解されています。政治家は、プラトンや孔子が一致して望んだように、市民に対する倫理的模範であるべきであり、人間的徳をなににもまして体現すべきなのです。
 したがって、政治家という専門職は、他の職業と同様に報酬を受けてはいても、たんなる専門職以上の意味をもっています。ドイツ語では、この微妙な相違が「職業」(Beruf)と「まねき呼ばれた使命」(Berufung)として明確にあらわされます。この用語によれば、政治家は、自分に課せられた使命を全うすべく、その官職に「招聘され」た存在ということになります。
 あなたが指摘されるように、多くの政治家は、実際はこうした理想にほど遠く、公選制度を背景にする民主的政体も政治の質やモラルをかならずしも保証できません。ここで一つの手助けとして、先に述べた範例的原理の意味で、誤った政治態度をいわば“悪徳目録”のようなかたちで列挙したらいかがでしょう。私としては、「利権政治」「権力政治」「陰謀政治」「テロ政治」、そして「汚職政治」等を区別し、それぞれの政治をあてはめてみるのがよいと思います。
 十戒やヒューマニズムの徳目のどういう禁令を破るかは別にして、ここにあげた悪徳政治形態はすべて、まず、正義、あるいは公共福祉という要請にそむいているところに発生します。
7  「利権政治」は、個々の(だいたい、自分が所属する)団体を他の団体よりも優遇することにより、正義に反します。「権力政治」はそのうえさらに、自己の優位を確保するためには、法律の違反をも恐れず、弾圧、抑留、拷問、殺害等の非人間的手段を行使します。「陰謀政治」は、政権闘争の手段として巧みに道徳を利用し、政敵を中傷して悪者に仕立てあげます。「テロ政治」は策動や革命などの威圧により、現体制を、より良いと信じる他の体制へ変えようとします。
 最後に、「汚職政治」は公共の福祉や世論の要請よりも利己的利害を選びます。このジャンルに属する政治家は、党派主義と買収へのもろさから、自分の義務をおこたり、権力者としての特典を利用して、正義に反する仕方で私腹を肥やしたり、権力や名声を得ようとします。
 ここにあげた悪徳政治形態のなかでは、汚職政治がもっとも評判が悪いのですが、それは、たいてい、堕落した性格のあらわれでもあるからです。利権政治や権力政治は、現行の法規や道徳上の信念をひどく傷つけないかぎり、どちらかといえば容認されています。陰謀政治は、嘘つきの権力者が、その信憑性を失うとき――したがって政治的威信を失うとき――には終焉します。他方、テロ政治に対しては、現体制からの合法的反動がありますが、ただ、目的を貫徹し、新体制を樹立したときは、結局、認められることになります。
 こうした政治的「悪徳」は、いずれもけっしてなくなることはありません。とくに政治的腐敗がそうです。それはたんに権力者になることの誘惑が大きいためばかりでなく、権力ヘいたる道がけわしく、厄介な競争相手を排除するためには、ありとあらゆる手段を使うことになるからです。
8  池田 政治家を選挙で民衆が選びだす民主主義社会において、政治家の現実は、残念ながら、理想に近づいているどころか、逆に遠ざかっているように思われます。
 選びだす民衆全般に、倫理性を重んずる風潮がなくなり、倫理性などという建て前よりも、自分たちにどのような利益をもたらしてくれる人物かを投票の条件にしていることも、大きな原因であることは明らかです。
 したがって、まず、社会全体のなかに倫理性を尊重する風潮が定着しなければならないわけですが、そのためには、どうすべきか、ということになります。この人間の心のなかの問題、しかも、一人、二人でなく、社会の大多数を占める民衆の心の問題を解決することは、容易ではありません。
 しかも、それは、知識や理性の次元の問題でなく、意識の深層から無意識の世界にまで分け入らなければなりません。そこに、宗教運動が、その鍵になる必然性がある、と私は考えるのです。
9  デルボラフ あなたの言われるように、政治倫理は少数の為政者の問題にとどまらず、民衆の大多数も心すべき問題です。それに関連して私は、まさにこの問題を解決するためにドイツの学校で実施されている「政治教育」のことにふれておきたいと思います。
 この政治教育は、原則として、道徳問題を基本としています。すなわち、おのおの特定の課題分野、あるいは問題状況をその構造から説き明かし、同時に、その技術的可能性と責任の全貌を明確にします。その場合、職業的行動分野が、基礎構造を構成する枠組みとなります。そこで、先の悪徳目録に対して、政治の役割と責任性の目録を比較してみることができるわけですが、“経済政策”を例として取り上げてみたいと思います。
 経済の実践活動には労働市場政策、賃金政策、課税政策、さらに、財務、通貨、為替、生産、通商政策等、数多くの専門的な観点があります。いずれの政策分野も比較的限定されていますが、しかし、たがいに錯綜しており、また、各分野の課題は現象論的、技術的、実践的に解明することができます。
 ドイツの学校での政治教育は、こうした方向ですすめられていますが、ここで二つの次元に問題を区別できると思います。
 一つは、責任をもって行動し決定をくだす人々の、専門知識のための政治実務上の啓蒙であり、他は、政治学や政治に関する知識の基礎教育の次元の問題です。後者の目的は、政治の全活動分野に関するたがいの連関を、わかりやすく伝えることです。これによって、市民個々人としては、直接、政治にたずさわることは、機会もないのでできませんが、全体として少なくとも、ともに考え、批判していくことができるようになるはずです。
10  池田 現実の政治や社会のあり方を客観的に見すえるためには、それだけの知識と見識が必要です。したがって、いまおっしゃったようなドイツの政治教育は、もしそれが、まったく党派的色彩をもちこむことなくおこなわれているのであれば、大いに評価されてしかるべきであろうと考えます。
11  デルボラフ 政治倫理に対する“宗教”の貢献について私の考えを言わせていただくと、宗教ができることと、その限界がどこにあるかという問題を明確にする必要があると思います。
 私の言う意味は、政治を、あの偉大な教育者のフリードリッヒ・ヴィルヘルム・フェルスターがめざしたような「組織化された隣人愛」の分野とみなすことはできないし、政治は同情を計画的に利用するものではないということです。
 しかし、宗教は、その道徳規範にしたがって、政治家や政治関係者の世俗的行動を変革させるのに貢献できます。そこから、殺生、欺瞞、虚偽といったことの禁止や、所有物の不可侵権のような、われわれの社会における基本的な規範に対する違反を規制し、権力欲、物欲、名声欲といった好ましからぬ情念の増大を抑制することができます。さらに、宗教は――あなたのご指摘のとおり――世俗的良心を超越したところの、人間の心の中心から生まれるものであるゆえに、世界に対する根本姿勢に対して積極的なかたちで影響をあたえることもできるのです。
 フェルスター(一八六九年―一九六六年) ドイツの教育学者。大学教授の職を辞し、キリスト教思想による教育の改造をこころざした。

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