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日蓮大聖人・池田大作

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4 子どもの教育  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 人間の倫理性は、あらゆる日常活動の基盤となるものであり、好ききらいの感情や、ときには生存本能とさえ対決しなければならないものです。したがって、これは人格の中核部分、意識の深層部分に打ち込まれ、確立されなければなりません。
 その意味で、倫理面の教育や躾は、子どもの成長のもっとも早い時期になされることが望ましいと私は考えています。
 日本の場合、かつては、子どもが学校へ行くようになる以前の段階で、母親をはじめ家族によって、基本的な躾がおこなわれていました。もちろん、両親の性格や家庭の伝統によって、躾のきびしさにも、その内容にも、さまざまなちがいはありましたが、少なくとも、この段階で、子どもをしつけるのは家族の義務であるという考え方は、共通にありました。
 ところが、第二次世界大戦後、とくに一九六〇年代ごろから急激に、倫理的・道徳的躾も学校教育のなかでなされるべきものであるという風潮が一般化してきました。なぜ、そうなったのか――原因は、さまざまなものがからみあっていると思います。
 たとえば、すでに述べた核家族化によって、家庭の伝統というものに対する意識が稀薄化したこともあります。くわえて、高度経済成長の波のなかで、働きに出る婦人がふえ、しばしば子どもの躾をかえりみなくなったこと、また、より根本的な要因として、第二次大戦での敗北によって、昔からの倫理体系が崩壊し(あるいは崩壊したと思い込まれ)、いかなる躾をすべきかわからなくなったこともあります。また、小学校で道徳教育をするようになって(第二次大戦後、一時、道徳教育は科目としてなくなっていました)、両親も、これは学校にまかせておけばよいという気持ちがいっそう強まり、なかには、両親の躾が授業で教えることと食いちがった場合、教師が困惑するので望ましくないといわれたようなケースもあったようです。
 しかし、倫理・道徳の躾は、先に述べたように、人格の枠組みのなかに組み込まれる必要があります。その枠組みができる時期を、しっかりした躾なしに成長した子どもは、開放的で伸びのびしているという特長はあっても、苦難にあったときに耐える力に欠け、さらに、成長とともに強まる欲望や衝動を、自分の意志力で律することができない人間になりがちです。
 その意味からも、倫理的・道徳的躾は、家庭での早い時期からなされる必要があると考えますが、教授は、どのようにお考えになりますか。
2  デルボラフ 児童教育は、その起源にさかのぼって考察すると、家族の課題なのです。一つの世代からつぎの世代への経験の伝承は、ふつう訓練を通じてなされます。これが、あらゆるやり方のなかで、障害が少ない方法でしょう。
 ゲーテは「私はイドラ島(エーゲ海南部の小島)島民の躾法を讃えたい」と、つぎのように述べています。「彼らは島の住民であり、船乗りであり、子どもたちを一緒に船に乗せ、仕事中にも自由に動き回らせている。子どもたちが仕事を手伝えば、収穫の一部にありつけるのである。このようにして、子どもたちは早くから商いや交換、そして漁撈に携わり、最も有能な航海士、最も利口な商人、かつ最も大胆な海賊へと育っていく」(『文学と倫理に関する箴言と省察』)と。
 教育が制度化して、学校が建てられ、教育の仕事が職業化すると、学校も結局は実生活に奉仕するものだということが、忘れられがちになります。知識の伝授という課題が肥大化し、本来不可欠の倫理的指導ということが駆逐されてしまうのです。
 こうした過程の進行は、東西のあらゆる文化圏で見られるところですが、それは一種の発展法則、つまり、制度化された生活は遊離し、独り歩きをはじめるという原則にしたがうからです。このような弊害に対して、学校制度や教育内容を改革し、教養方面の関係者を躾にたずさわらせることで調整をはかろうとしていますが、さほど好ましい成果をあげていないのが実情です。
 あなたが述べられた戦後日本の道徳教育の、家庭から学校への移行ということは、限定つきですが、ドイツでも同様です。ただドイツの場合には、道徳教育という課題は別の衣装をまとっていました。五〇年代のなかばには「政治教育」への要求が高まり、七〇年代にはそれにかわって技術教育がさかんとなりました。こうして、従来、ドイツの学校生活に欠けていた実践的指導を、教育活動の自制によって確保しようとしたわけです。
 ドイツ人の民主主義的自覚を疑わせたのは、ワイマール共和国の崩壊につづくヒトラー独裁政権の樹立という恥ずべき体験でした。テオドア・リットは一九五五年に「ドイツ国民の政治的自己教育」と題する小論を書き、そのなかで、戦後デモクラシーを永続させるには、青少年のみならず大人の世代も、徹底した新しい政治的指導を必要とする、と強調しました。
 それ以後、「政治教育」が、ドイツの学校教育構想の中心的要素となってきています。しかし、これもまた知識の伝授と実践的指導がバラバラであるため、改革政策がつぎからつぎへと必要となって、まるで「連続燃焼炉」のような状態になっているのです。
3  池田 同じような傾向は、第二次世界大戦後の日本でも見られました。日本の場合は、軍国主義と軍部独裁への反省から民主教育への情熱が高まりました。しかし、戦後教育への干渉がふたたび露骨になっていきました。
 それと、もう一つは受験戦争の加熱で、よりよい上級学校にすすむためには、膨大な知識をしこまなければならず、いずれの学校も知識の詰め込みに追われる状況となっています。
4  デルボラフ ドイツでは知識義に対する抗議が、これまで何回となく、くりかえされてきております。その解決策として、まず採用されたのが「範例学習方式」の原理で、これは学校で習う知識を、その基本構造とそれがおよぼす影響に対する認識に還元することを意味しています。
 つぎに、学習目標の目録を作成することで、それによって、その媒介となる行動様式を制御できるようにしようというのです。この方式のジレンマは、実践的・倫理的指導を、器用さや要領のよさというかたちで、いわば“技術的”に達成しようとしたことで、これは、あらゆる生活分野にはびこった技術崇拝からくる誤りでした。
 しかし、まさにこの実践倫理の基本的指導こそ、あなたが正しく強調されるように、幼年時代の早期にはじめられ、学校教育の全過程をとおして一貫して保持されるべきもので、そうしてはじめて「倫理的品行」にいたるのです。そのさい、中心的役割を担うのは家庭であり、子どもは家族の風習になれながらおぼえることになります。それは、まず“実践的”に体験し、なされたものでないと――少なくとも道徳教育の分野では――あとになってから「理論」を教えても代替できないものです。アリストテレスが、倫理的人格形成とは「教え」を理解することではなく、本質的に倫理的経験を啓発することである、と言ったことは周知のとおりです。
5  池田 仏教では、人々を正しい方向へすすむのを助ける働きを「善知識」と言っていますが、この善知識に三種があるとしています。すなわち教授と同行と外護です。教授とは、理想を示し、理論・知識を教え授けることです。同行とは、一緒に実行して見せること、手本を示すことです。外護とは、よいことをすればほめて守り、悪いことをした場合は罰してこれをやめさせることといえます。
 倫理・道徳の教育にあたって大切なのは、とくにこのなかでは「同行」であると考えられます。家庭生活のなかで幼児に対しておこなわれる躾は「同行」と「外護」の両方がふくまれますが、やはり基本になるのは「同行」であると考えられます。
6  デルボラフ 素朴な人間教育の問題にかぎれば、おっしゃるとおりだと思います。しかし、制度化された教育の場合には多少、事情が異なります。学校教育のどんな形態にも問われる中心的な課題は、いかにして知識が実践的なものになるか、あるいは、さらに極端な言い方をすれば、どのようにしたら「情報」(インフォメーション)が「動機づけ」(モチベーション)に転換されるか、ということです。これは教育学のなかでもっともむずかしい問題です。
 知識というものは、根本的に実践とかけ離れたものではありません。学校で習う知識が実践と遊離した印象をあたえているのは、東西の古典教育に見られるように、現実からかけ離れた歴史文学の知識などが多いためです。これに対し、経験に裏打ちされた専門知識は、その前提条件を探求していくと、技術的で実践的な展望がそこに開かれています。厳密にいうと、あらゆる行動は認識にかかわる、技術的で実践倫理的な観点をもっており、またその場合、後続の観点は、そのまえの観点のなかで前提となっているのです。
7  一つの例をあげてみましょう。私がアウトバーン(=ドイツの高速自動車専用道路)上で、事故のため道路端に止まっている車のそばを通りかかったとします。ここで、つぎのような可能性があります。一、その車に気づかずに通過する。二、その車の冷却器から漏れ出る蒸気に気づき、「ストップ。車の故障。救助の必要あり」といった状況判断をする。三、にもかかわらず、よそでの緊急な用事があるため、通過してしまう。四、おたがいに運転する者として力をあわせるべきであるとの要請にしたがい、助けるために車を止める。五、効果的な救助のための技術的前提条件を自分がみたしていないことを確認する。
 こうした、救助という行為を遂行するためには、一、状況の正確な判断、二、救助のための技術的能力、三、ともかく助けようという意志もしくは決断、が必要であるわけです。換言すれば、「車の故障」と判断された事象は、技術的課題と責任ある決断に分岐する一つの要求をともなうのです。そして、まさにこの例が示すように、教育も、認識から技術をへて、責任にいたるまで手探りしていくわけです。
8  以上のことから、道徳教育は、広く物事それ自体の論理構造や技術的可能性や倫理的要請に関する“具体的行為状況ないし実践場面の範例的啓蒙”である、ということが明らかになります。したがって、道徳教育には“指針的な規範の要請”に対する開放的態度ばかりではなく、この規範の要請が具体的に結びついている“状況”に対する知識も必要であるということになります。こうした課題を解決するためには、事情に応じて精神的に消化されるという前提つきで、専門知識が教えられなければなりません。
 この種の考察は、学術的教育学の専門領域に属することですが、教育は、社会の根本的要求から生まれるものですから、それ自体、規制的規範、つまりいわゆる“教育上の責任”の監督下にあります。こうした責任は、その本質からいって被教育者からひきだされるものであり、ここから、道徳上の躾と教養こそ、つぎの世代に対する教育において中心的課題となるものであることが明らかになります。
 こうした事情のもとで道徳教育が成功するためには、学校生活が、無償の道徳的な秩序と雰囲気のもとにいとなまれる必要があることは明らかです。
9  池田 非常に残念なことですが、今日、日本では、家庭内暴力や校内暴力の問題が深刻化しています。十四、五歳から十八歳ぐらいの少年少女が、家庭のなかでは母親に対して暴力をくわえ、学校では教師に暴力行為をはたらくという事件が広範におこっているのです。
 十四、五歳の少年はすでに、その親や教師と同じくらいか、あるいは、それよりも大きい体格であり、力も、成人なみです。ところが、精神的にはある意味で幼児とあまり変わっていないところに、衝動的に暴力に走ってしまう原因があるのではないかと思われます。
 また、教師の体罰の問題もあります。体罰が十分な正当性をもっておこなわれたときは、それなりの効果を生む場合もまったくないわけではないでしょうが、それであっても暴力をくわえられた人間のなかにかならず深い心の傷を残します。ましてや、教師が安易に体罰主義に依存している場合は、百害あって一利もないでしょう。これが、逆に、生徒の側からの暴力を誘発していることも少なくないようです。
 同様の暴力事件は、アメリカでも頻発していると聞きますし、事実、そうした問題をあつかった小説や映画が少なからずありますが、ドイツでも同じような状況なのでしょうか。
10  デルボラフ 家庭や学校における「暴力」は、先に私が言った秩序と雰囲気が壊れているという確かなしるしです。アメリカではかなり以前からあたりまえになっており、何回も映画の主題となっていますが、暴力が、日本でも大きな問題になりつつあることは残念なことです。その原因を追求することが必要ですが、その点については、別に論じたいと思います。
 ただ、ドイツにも校内暴力がありますが、ひんぱんにおこるのは生徒同士のけんかであり、教師や親に対する暴力行為はほとんど見られず、例外といってよいと思います。むしろ、親による「暴力」、とくに、幼児に対する父親の「暴力」のほうが問題となっています。
 私は、この「暴力の種」が、いつの日か、ドイツの学校でも芽を吹くことにならないかと心配しております。

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