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日蓮大聖人・池田大作

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3 情念の抑圧と昇華  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 中世キリスト教神学において、倫理は、一方では絶対的な神の恩寵にゆだねられるとともに、他方では、抽象的思弁にもてあそばれた観があります。
 私が理解するところでは、キリスト教は人間の本質を罪悪にけがされたものとし、霊と肉の二元論を立てて、肉のなかにつねに悪に向かう本性があるとします。そして、神の恩寵のみが、この罪にけがされた人間を救うわけですが、この恩寵にあずかるためには、ひたすら肉の誘惑をしりぞけ、霊を神にささげるべきであるとし、極端な場合には、肉体をわざと痛め傷つける苦行さえ、熱狂的におこなわれたようです。
 しかし、バネが、強く押えられれば押えられるほど強い反発力を示すように、肉の欲望も、抑えられるほどかえって激しく燃えあがり、突破口を見つけて噴出しようとします。そうした人間のとうぜんの姿は、中世の小ばなしのなかに見ることができますし、ルネサンス期になると、ボッカチオなどによって露骨にえがかれ、人間解放の旗印をかかげたものと評価されています。
 一方、教会内では、ローマ教皇庁が、救いは神の恩寵によるとし、俗人がその恩寵にあずかるためには、教会に奉仕すべきであると説き、ついには免罪符を発行して金集めに狂奔するにおよんで、厳格な神学者であったルターなどの憤りを呼びおこし、いわゆる宗教改革が噴き出るにいたったわけです。
2  それに対し、仏教においては、先に述べましたように、自己の幸福のために他者を犠牲にすることは悪になるが、利他のために自己の心身を用いることは善になり徳を増すとし、倫理を具体的な他者とのかかわりとしてとらえています。
 それは、また、宗教と倫理との関係という視点からいえば、宗教が超越的な世界や死後の世界を本領として、そこから、この人間世界の倫理を定め、命令しているという関係ではなく、仏教の場合は、宗教も倫理も現実の人間のなかにおさまるものであるが、ただ宗教のほうが内面的な信念の次元に位置づけられ、倫理は他の人々とかかわる行動の次元に位置づけられているといえます。
3  デルボラフ キリスト教の肉と霊の説は、悪が肉体にやどっており、人間がどんなに努力しても、結局、神の恩寵にあずかることでしか克服できないというもの、とのただいまのご指摘は、使徒パウロの認識に近いといえます。ただし彼は、肉と精神の二つを並列させたのではなく、むしろ、「肉」のもとにまだ目覚めていない自然の人間を、そして「精神」のもとには信仰によって変わった人間を、見たのです。
 人間がどれほど変化し、しかも自力で罪障の重荷から自分を救いだせるのか、また、それがどれくらい神の恩寵によってなされるのかという疑問は、教会の伝統のなかでいく度となく発せられてきた問題ですが、明確には答えられておりません。
 いずれにせよ、人間は神の恩寵にあずかるべく努力しなければならないとされます。そしてここに、自然な欲求を、つまり「肉の悦び」とでもいえるものを抑制する要請も、少なからず意味をもっているわけです。それが乱用され、誤解されてきたことは、あなたが強調しておられるとおりで、そのなかには、たとえば、中世でひんぱんに実践されたように、自分の体にむちを打ったり、痛めつけたりする修行があります。
 その後、こうした実践がかならずしもただちに「天国へ入る」道ではないことが理解されました。また、情念を完全に抑圧するよりは、注意深く制御したり、精神的な仕事へと昇華させるほうが自然なやり方ではないか、と認識されるにいたりました。なぜなら、抑圧されたものはいつかは突破口を見つけるでしょうし、かえって弊害をもたらすものであり、このことは、ルネサンス期の文学でしばしば描写されたばかりでなく、後世の心理分析のテーマとなった体験なのです。
4  ここに、あなたは仏教を、道徳的核心をもつと同時に内面性を追求した宗教ととらえておられます。つまり、仏教は、宗教としては個人的・内面的自己にかかわる信仰であり、道徳としては他人への関係を規制する――と。
 ここでふたたび、内面性という概念がもつ二重の意味の問題にもどりたいと思います。あなたは仏教的意味での道徳的内面性を、外から押しつけられる他律的道徳と対比されていますが、じつは、それはすでに、カントが「自己立法」(自律)という良心論として古典的形式で発展させたものでもあります。この「自己立法」という概念は、孤立した内面的なものとか、私的な無意識、あるいはまた、魂の非合理的深層などを示すのではなく、逆に、そうした自我の殼を想定する考え方の枠を打ちやぶるものでした。
 自己立法は、カントの場合には道徳律の一般性を、仏教では普遍的自然法の一般性を、示しています。内面性と一般性、または、先に述べた意味での合理性と非合理性のあいだには、弁証法的緊張があらわれてくるのです。「無意識」が個人主義的あるいは自己中心論的に理解されるべきではないということは、すでにユングが、フロイトに対抗して、その集団的性格を指摘することによって明らかにしたところです。
 そして、仏教の自己認識と智慧の説に関して私自身が研究したところから考察すると、仏教はけっして自我やその殻に固執することをめざしているのではなく、逆に、自我の「空化」、自我が「全体のなかに溶けこむ」という現象をまねくはずです。この過程は、空間に関して使われる言葉では適切に表現できませんし、精神分析で使われる言葉でも不可能です。
 別の表現をすれば、仏教の内面認識の方法は、合理的意識だけではなく、その非合理的前段階においても効果があります。なぜなら仏教のやり方は、心理学の内面表象の対象的表象とはまったく別の方向を志向するからです。ですから、仏教的瞑想の実践は、キリスト教化の風潮からだけでなく、安易な心理学化からも保護されねばなりません。
 さらに、仏教には、前項で論じられたように、その内面化への努力の障害となる「三毒」を克服するため、適度の苦行も存在します。しかしふつう、仏教におけるこの種の苦行は、人間的本性を極度に抑圧したり、どうしても別の抜け道を探さざるをえないようなところまで駆りたてることはないようです。
5  池田 あなたが仏教的瞑想の実践と苦行とをあげられたのは、おそらく釈尊がその修行の過程においておこなったことからでしょう。また、仏教の多くの流派のなかにも、それを修行実践のうえで採用してきたものが少なからずあります。しかし、少なくとも苦行に関していえば、釈尊は六年間苦行をしましたが、心身を痛めつけ、疲労するのみで、かえって開悟のさまたげになるとの結論に達し、これを中止したのでした。このため、一緒に修行していた仲間が、釈尊は堕落したと軽蔑し、そこから去っていったというエピソードは有名です。
 釈尊は苦行をやめ、村の娘のささげた乳がゆを食べて心身に力の蘇るのを感じ、その充実した力で瞑想に入り、ついに悟りを開いたと伝えられています。したがって、苦行は、釈尊のすすめるところではないことが明らかです。あえて苦行といえば、仏の教えをひろめていく途上に種々の迫害があり、それを乗り越えていく忍耐が、釈尊の精神にかなった苦行に相当するといえましょう。
 瞑想は大乗仏教でも一貫して説かれ、釈尊自身も実践したようです。ただし、私の信奉する日蓮大聖人の仏法では、御本尊に題目を唱えることのなかにふくまれるとされています。
6  ボッカチオ
 (一三一三年―七五年)イタリアの小説家、人文主義者。近代散文小説の傑作『デカメロン』を著す。
 パウロ
 生没年不詳。紀元一世紀のローマ帝国への初期キリスト教宣教者。

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