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日蓮大聖人・池田大作

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2 倫理的行動の基盤  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ 私の理解が正しいとすれば、仏教は、キリスト教とは正反対に、人間解放の穏健な宗教だと思います。なぜなら、仏教は、原始宗教や鬼神崇拝などが約束するような、一時的な救済への欲求を超えて、自己認識と智慧の獲得をめざしているからです。仏教における自己認識は、合理性や道徳に通じている部分もありますが、むしろ、こうした表面的なものを突きぬけ、あらゆる外面性からの解放をもたらす「精神的深み」をめざすものです。
 キリスト教は、この点からいうと、自己解放への要請ということを知りません。イエスがあらわれたのは『旧約聖書』の律法を解消するためではなく、それを実現するためでした。すなわち、イエスは、神への畏敬を中心とする十戒を継承しつつ、それに自己愛を基準とする人間愛や神の愛をくわえたのです。その倫理観は他律的であり、自律性はまったく存在しません。
 たとえキリスト教が個人の良心を認めているとしても、それはあくまでも律法のもとにあり、律法に服従すべきものなのです。別の言い方をすれば、キリスト教が自由思想を容認するのは、外から強要されてのことなのです。この「外」というのは、先に何度かふれたヨーロッパ精神のヒューマニズム的合理性以外の何ものでもなく、これは内省と自己完成をソクラテスが提示したとき、はじめて開花したものです。
3  この点に関して、あなたはコーンフォードのすばらしい表現を引用しておられます。実際、内面性という視点こそ、まさしくソクラテスの新機軸なのです。あなたご自身もこの「内面への道」が、人々を律するに足る道徳を正当化し、根拠づけるためにぜひとも必要なものであると理解しておられます。
 「内面性」というのは、二重の意味をもつ概念です。それはまず、「比較級的内面性」(カント)という意味で生活の内側と考えることができますが、この場合、内面性は空間的カテゴリーに属することになり、これは「私的である」ということと符合します。
 それに対し現実には、フロイトの言うように、人間の知性の表面下に無意識の場が存在し、霊的生命の構造のなかに一つの「層」を構成しているのがそれであるかのように理解されることがあります。これは「誤解された内面性」で、このことについては、またあとで私の考えを述べたいと思います。
 もちろん、私は、ここでいう内面性を、いわゆる「非合理的なもの」として、合理性から極端に分離させるつもりはありません。なぜなら、そのようにすれば、本来一つの弁証法的関係にあるものが、分析的対立となってあらわれてしまうからです。
 むしろ、「前合理的」という呼び方のほうが適切ではないかと思います。というのは、真実の内面性とは、つねに合理的なもの、あるいは普遍的なものを要素としてもっていたのであり、それが啓蒙思想によって表面化されるときには、その由来がかんたんに忘れさられて自立性を獲得し、「内面への道」ということが軽率に「下方への道」、つまり空間的運動として誤解されてしまうからです。
4  池田 仏教では、人間の生命を濁らせ、毒しているもっとも基本的なものを、貪欲、瞋恚、愚癡の三つであると示して「三毒」と名づけました。そして、この三毒にけがされている生命の層のさらに奥に、本来の清浄な生命の層があることを教え、この清浄な生命を力強く発現させるための実践法を説いたのです。これが、仏教の修行の意義、目的でもあります。
 ヨーロッパの人々が重んじてきた知の伝統からすれば、こうした実践は、その伝統精神をふみはずすもののように見えるかもしれませんが、私は、ヨーロッパ人の多くも、現代では生命の深層に無意識の世界が広がっており、そこからおこってくる力に対しては、人間の知的努力ははるかに無力であることを認めはじめていると思います。
 仏教の修行というのは、知的努力の重要性も認め、事実、その意味での実践も織りこみつつ、知性を超えた深層に入っていくために、信と行という修行要素を、より以上に強調しているのです。
 西洋文明が歩み、この地球上の他の文明圏にも影響をあたえてきた“進歩”の基調をなしているのは、人間的欲望、肉の欲望のあくなき追求と充足であったといっても過言ではないでしょう。いうなれば、天国における霊の救済をめざした中世人とは逆に、近代人は、この世における肉の救いを理想としました。ここで、救済を可能にするのは“神の恩寵”にかわって“科学技術の恩寵”です。
5  仏教においても、身体ばかりでなく心も罪悪の根源であるとして、心身ともに捨てさることを理想とした考え方が、初期のころはありました。身を灰とし、智を滅すること――すなわち涅槃(ニルヴァーナ)を、到達すべき究極の理想としたのです。また、その後、キリスト教の天国のイメージに相当するような“浄土思想”がひろまり、それが仏教のほんとうの教えであるかのような錯覚をもっている人が、いまも少なくありません。
 しかし、真実の仏教の教えでは、罪の根源は心身のいずれにもあるわけでなく、心身の用い方によって罪もつくれば、徳もつくりうるということです。すなわち、利己のために他を犠牲にする場合は罪悪をつくるのであり、他を利するために自分の心身を使うことは徳を増すというのです。
 ここでは、倫理のもっとも大事な基盤である罪悪が、抽象的思弁ではなく、具体的な他者とのかかわり、自身の実践に一体化してとらえられ、示されているわけです。その意味で、私は、人間の真実の倫理観、倫理的行動を実現していくための基盤として、仏教の宗教的実践がかならずや要請されるであろうと信じています。
6  デルボラフ 人間は、正しい仕方で自分を見つめるときには、自分を善とか悪とかの一方だけで理解することができなくなります。そこから、あなたがおっしゃるように、ヒューマニズムが、他方ではキリスト教や種々の形態の仏教が、人間は地獄から仏界、また、善悪すべての領域をふくむ豊かな可能性を自分のなかにもっていることを説いているわけです。
 あなたは、こうした内面的倫理を理解する第一の手がかりを、仏教の、とくに貪・瞋・癡の「三毒」についての教えに見いだし、各人が自分の自己中心性を打破し、他人をたんに手段としてでなく、“課題”ととらえるためには、この「三毒」を克服しなければならないとされています。
 あなたもきっと興味をもたれるかと思いますが、古代ギリシャの倫理観には――すでに述べたソクラテスとの関連のほかに――あなたの指摘されている倫理観に近いものがあります。アリストテレスは彼の道徳論のなかで伝統的諸説を集め、整理していますが、そのなかで彼自身が何度も提起している問題は、道徳とは人間の自己中心的感情への補償にほかならない、ということです。徳とはあたかも情欲の浄化剤、もしくは鎮痛剤以外の何ものでもない、と解釈しています。
 彼は、節制を自尊心と怒りに、勇気を不安に、正義を貪欲と物欲に、そして最後に、智慧を愚かさに対応させました。こうして情念を制限することによってはじめて、自己完成への道、また、さらに別な要求をもつ他者を対等な相手として、また課題としてとらえる道が開かれていくのです。
 このように見ていきますと、宗教的枠組みはかなり異なっていても、東西のあいだに明瞭な関係性があると思いますが、いかがでしょうか。
7  池田 おっしゃるとおりです。私は、人間が人間としての意識をもちはじめた初期の段階において築いた倫理概念は、洋の東西を問わず、きわめて共通したものであったのではないかと思っています。
 それに対し、高等宗教というかたちで抽象化された理念体系が発展するにいたって、東洋と西洋とで大きな相違を示すようになったのでしょう。仏教の基本概念にふくまれる倫理と、アリストテレスの考え方とがそれほど食いちがっていないのは、こうした人類初期から伝えられた倫理観を表現したものだからであると考えます。
8  コーンフォード
 (一八七四年―一九四三年)イギリスの古典学者。ケンブリッジ大学の古代哲学史教授を歴任。主著に『プラトンの宇宙論』他。
 シュテーリヒ
 (一九一五年―)著述家。ゲッティンゲン大学教授。主著『世界の思想史』(原題は『世界哲学史要』)、『世界科学史要』。

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