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日蓮大聖人・池田大作

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1 倫理規範の源流  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
6  デルボラフ 人は、他人の幸福のためにつかえるべきであって、「道徳的」であろうとすれば、自分の幸福を直接めざすべきではない。にもかかわらず、「幸福になるに価する」人間として、おのおのが幸せになる権利をもっており、その権利を断念すべきではない――このジレンマを埋めあわせるものとして、カントは「理性信仰」の審理機関を導入しました。換言すれば、自分の道徳的完成への努力が偶然の死によって無に帰するのではなく、死後の世界にまでその成果が存続することはだれもが望むところです。
 それと同じように、各人は理性的存在者として、自然の秩序が道徳の秩序と一致すること、つまり、道徳的であると認められる人間には相応の幸運を要求してもよい――という考え方を導入したのです。こうした「理性信仰」において、その一致を仲介する審理機関が創造神です。つまり、この神が、欲望充足の基盤としての自然と、人間の道徳的行為との一致を保証するわけです。そこで重要なことは、この信仰が、けっして盲目的で勝手気ままなものではなく、人生と世界に対する人間の正当な要求にもとづき、理性に根ざした信仰であるという点です。
 さて、因果の理法の妥当性への仏教の確信は、このような「理性信仰」として理解できるかと思います。つまり、その確信は理論的には証明できず、ただその実証をめざして信仰実験をくりかえすしかないということです。
 それでも、それが納得できるかどうかに関しては、議論がないわけではありません。ソクラテスやカントのように、道徳的なものがそれ自体価値をもつものであるとすれば、それはけっして消えさるものではなく、その軌跡はなんらかのかたちで残り、人間の運命に対して積極的に働きかけると考えられるのではないでしょうか。ただ、この場合にも、自然の秩序と道徳上の秩序の密接な関係は、超自然的な神などによって保証されるのではなく、むしろ、両方の領域をつつむ理法、たとえば仏教的な法などが――おそらく、よりマトを射て――求められている目的を達成するのではないかと思います。

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