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日蓮大聖人・池田大作

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1 倫理規範の源流  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ 私もあなたと同意見で、道徳と宗教は、その起源からたがいにからみあっていると思います。創唱宗教はいずれも、『旧約聖書』や『コーラン』のような権威ある道徳規範をもっておりますし、原始的な宗教でも、ある特定の行動規律を守ることによって救われるとしています。自律的倫理学の代表格であるカントも、その道徳的要請をキリスト教によって正当化しようとはせず、むしろそれが、神のおきてという役割においてこそ、一般の市民に対する信憑性を得るものと確信しておりました。このへんの理由づけの関係性は、彼が道徳的当為に付与した神聖という性格にもよく出ております。
 今日では、神が道徳的規範を設定したとか、あるいはカントの言う「神聖な義務」というような論議はほとんど問題にされず、一般市民の道徳的基盤は、あなたが強調されるとおり、功利主義や実用主義です。経済的観念が情念にまできざみこまれてしまっており、道徳的にいくら懸命に訴えたところで、利益を重んじる考え方のまえには何の効果もありません。
 そこであなたは、業(カルマ)という仏教の中心思想と関連する「因果」の理法を、このような退廃に対抗する治療薬として、推奨されるわけですね。
 私の理解が正しいとすれば、業とは、過去の行為に由来し、かつその折々の状態と同時に、その人の将来の運命をも決定する潜在エネルギーを意味しています。ですから、因果の理法とは、たんに善と悪とが世界的な広がりをもって影響するということだけでなく、自分の善い行為、悪い行為がそのまま自分自身に返ってきて、自分を幸福にしたり、不幸にするということです。
 したがって、こうした理法との関連性を洞察すれば、人はだれでも自分の幸福を断念できない以上、自分の行動についての道義上の責任を感じざるをえず、これはあたかも、自然界の法則を洞察することにより、人間が物理的秩序に対して従順にならざるをえないのと同じことである、ということですね。
3  池田 そのとおりです。私は仏教を信奉する一人として、仏法の説く、生命の因果の法理の概念は、現代人にとっても、十分、説得性をもっていると考えています。
 たしかに、因果律自体をも否定し、すべては偶然によるのであって、因果律があるように見えるのは確率の問題にすぎないとする考え方もあります。とくに生命の現象、なかんずく意識の働く世界にあっては、原因と結果を結ぶ関係というのは、容易にとらえがたいでしょう。そして、善行がかならずしも善い結果を生まず、善人がかならずしも幸福を得られない、むしろ悪人のほうが、少なくとも外面的には裕福になっていることが多いという事実は、この生命の因果に対する疑惑をかきたてていることを、私もよく知っています。
 しかし、それにもかかわらず、私は、長期的に見れば、そして、物質的・外面的側面だけでなく、内面的次元もふくめた立場で見た場合には、仏法の説くように、生命の因果律が成り立っていると考えますし、現代人も、それを受けいれていけるものと信じています。そして、いまおっしゃったように、ちょうど人間が自然界の法則を知って、それにかなった自分の行動を判断していくように、生命の法則を知れば、そこに善悪の判断がみずからの責任でなされていくようになると思います。
 すべての人にこのように期待することはあまりに楽観的だとしても、大多数の人には期待できるでしょうし、そこに崩れることのない倫理観の再建が可能となると考えます。
4  デルボラフ あなたも認めておられるように、因果の理法が今世で公正な埋めあわせを保証するとは、絶対かつどこでも経験的に実証されるというわけにはいきません。というのは、表面的に見れば、最善をつくしても成功しないことがあるし、さらに幸運にいたっては、これまでまったく不公平に分配されているとしか思えないからです。
 にもかかわらず、その合法性を保持するためには、因果の理法の存在を信ずるしかありません。この信仰が、いかにして正当化されうるか、西洋哲学の思考手段を借りてかんたんに示してみたいと思います。
 西洋の哲学的倫理思想においても、幸福と不幸の問題は大きな役割を担っております。アリストテレスは公共福祉のためにつくすのに必要なすべての財を所有している生活をエウダイモニアと名づけ、これを最高善としました。このアリストテレスの倫理的理念は「完全無欠なる徳」と呼びならわされています。
 とうぜん、アリストテレスは善良な人間であっても、自分の徳を十分使いこなすのに必要な手段を欠いていたり、運命によって奪われてしまうこともあることを知っていました。それでもなお、彼は、そのためにその人のもつ徳の絶対的価値がなくなることはないゆえに、善良な人間を「マカリオス」すなわち「真に幸福な人」と呼んでいます。
 この至福論はエウダイモニズムとも呼ばれ、カント以降は影がうすれました。カントは、幸福――もちろん、すべての性向を満足させるという、かぎられた意味での幸福ですが――は自分自身の人格のために追求するに価する道徳的目的ではなく、善良な意志こそ唯一真実の善であるととなえたのです。
5  池田 この点に関し、カントはつぎのような見解をとっています。
 人間にとって同時に義務であるところの目的は、自己の完成と他人の幸福である。これを逆にしてはならない。自己について幸福を求めることは利己主義であり、他人について完成を求めることは、不満しか残らないからである――と。
 私は、このカントの言葉は、生命の最高の完成としての成仏と、他者の幸福のために奉仕する菩薩道という仏教の考え方に合致するものと、つねづね思っております。
6  デルボラフ 人は、他人の幸福のためにつかえるべきであって、「道徳的」であろうとすれば、自分の幸福を直接めざすべきではない。にもかかわらず、「幸福になるに価する」人間として、おのおのが幸せになる権利をもっており、その権利を断念すべきではない――このジレンマを埋めあわせるものとして、カントは「理性信仰」の審理機関を導入しました。換言すれば、自分の道徳的完成への努力が偶然の死によって無に帰するのではなく、死後の世界にまでその成果が存続することはだれもが望むところです。
 それと同じように、各人は理性的存在者として、自然の秩序が道徳の秩序と一致すること、つまり、道徳的であると認められる人間には相応の幸運を要求してもよい――という考え方を導入したのです。こうした「理性信仰」において、その一致を仲介する審理機関が創造神です。つまり、この神が、欲望充足の基盤としての自然と、人間の道徳的行為との一致を保証するわけです。そこで重要なことは、この信仰が、けっして盲目的で勝手気ままなものではなく、人生と世界に対する人間の正当な要求にもとづき、理性に根ざした信仰であるという点です。
 さて、因果の理法の妥当性への仏教の確信は、このような「理性信仰」として理解できるかと思います。つまり、その確信は理論的には証明できず、ただその実証をめざして信仰実験をくりかえすしかないということです。
 それでも、それが納得できるかどうかに関しては、議論がないわけではありません。ソクラテスやカントのように、道徳的なものがそれ自体価値をもつものであるとすれば、それはけっして消えさるものではなく、その軌跡はなんらかのかたちで残り、人間の運命に対して積極的に働きかけると考えられるのではないでしょうか。ただ、この場合にも、自然の秩序と道徳上の秩序の密接な関係は、超自然的な神などによって保証されるのではなく、むしろ、両方の領域をつつむ理法、たとえば仏教的な法などが――おそらく、よりマトを射て――求められている目的を達成するのではないかと思います。

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