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日蓮大聖人・池田大作

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6 「人間らしさ」の条件  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  すなわち、仏教では、仏陀になることを究極の目的とし、そのための修行法を六波羅蜜として説きました。仏陀とは「衆生のなかで尊極の存在を仏陀という」と説明されるように、もっとも完成された人間の理想型にあたるといえます。したがって仏陀となるために求められる修行法とは、結局、もっとも完成された人間の理想型がそなえるべき条件にほかならないわけです。別言すれば「人間の条件」ともいえます。
 六波羅蜜の内容は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で、説明的にいえば、布施とは他者とくに弱い存在への扶助、持戒とは自己抑制、忍辱とは苦難に対する忍耐、精進とは向上へのたゆみない努力、禅定とは精神の集中と安定、そして智慧とは事態への賢明な判断と対処といえましょう。仏教では、この六つのいずれを欠いても、仏陀になることはできないとしていますが、これも大事な点です。
 なぜなら、たとえば、どんなに智慧が優れていても、他者へのあたたかい思いやりの心が欠けていれば「人間らしさ」があるとはだれも思わないでしょう。その反対であっても同じだと思います。また、他者への思いやりはあっても、自己が抑制できなければ、その人の行為は、周囲の人たちにとって「ありがた迷惑」になるでしょう。
 私は、この六波羅蜜の教えは、おそらく非仏教徒の人の眼から見ても、「人間の条件」を見事に網羅したものとして、承認されるのではないかと考えています。
3  デルボラフ おっしゃるとおり、「最高の人生」という理想なしには、いかなるヒューマニズムもありえませんし、考えられないと思います。あなたの場合には、完全なる悟り、完全なる智慧としての仏界にいたることこそ人間の自己完成であるという、仏教的理想を信奉しておられます。
 そこで、この自己完成という究極目的に達するための、一連の努力・実践が前提となります。智慧と悟りを得ようとする者は、そうした実践をとおして、自己を慈しむ“利己”と、他者に献身する“利他”という二つの方向のバランスをたもとうとするわけですね。このバランスというのは、西洋でも、ヒューマニズムの本質にかかわる問題です。
 あなたが説明された仏教の教えを、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった西洋古典哲学の源泉と比較してみると、多くの共通性を見いだすことができます。この三人の哲学者は、「最高の人生」「もっとも完全なる人間のあり方」、また、「最高の善」としての幸福とは何か、を問いつづけました。内容的には相当な差異があるにしても、傾向としてはあなたの言われる六波羅蜜に近い、善行・美徳の段階的秩序に到達したのです。
4  池田 私も、そうした共通性には気づいています。あらためて申し上げるまでもなく、仏教では、存在は根本的に苦であるとします。そして、それゆえにこそ、いっさいの存在への同苦を菩薩修行の基盤とするのです。慈悲とは、抜苦・与楽の両面を実践することであるとされます。そしてこの慈悲こそ菩薩としての修行の不可欠の要素であるとともに、その修行を全うした仏陀にそなわる特質ともされるのです。
 弱者への慈悲はだれ人にもおこる心の働きですが、しかし、ふつうは自分にとって関係の深い人々、妻や子、姉妹などにかぎられることが多いものです。無関係の人の苦悩については無関心であることが多く、憎んでいる相手の苦は、自分にとってむしろ喜びになってしまうこともめずらしくありません。
 これに対し、菩薩や仏の慈悲は、あらゆる人々に平等にそそがれます。菩薩や仏は、あらゆる人々の苦悩を自身の苦悩とすることによって、その苦悩を乗り越える道を教えるのです。
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦」と言われました。そして、苦悩が大きければ大きいほど、それを乗り越えていくことによって、偉大な智慧と喜びの境界が得られることを「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と述べられています。
5  デルボラフ 西洋には、悟りという仏教の究極目的に比較できるものはほとんど存在しません。ただ、中世のキリスト教的神秘主義においては「神を観る」とか、「神の至福的観照」ということが理想とされました。もっとも、アリストテレスは、幸福なる存在としての生命の意義をいかに実践的に実現すべきかをすでに知っていましたし、精神の自己認識にもとづく理論的至福にも気づいていました。
 しかし、この「至福の観照」も「自己自身を認識する個人的精神」も、ともに仏教では認めない神的原理を前提とする以上、仏教の悟りの思想とは性格を異にします。
 カトリックの重要な仏教研究家の一人、ハンス・ヴァルデンフェルスは、キリスト教徒が絶対不可侵とする神の人格性は、仏教徒にとってはせいぜい一つの「限界概念」でしかないと述べ、したがって、仏教には禅定はあっても、きわだったかたちでの祈りというものはほとんどないと指摘しています。
 逆に、哲学やキリスト教で訓練された思考様式をもつ西洋人には、仏教徒特有の悟りの体験というものは、ときとして魅了されることはあっても、実感として理解できないのです。仏教に改宗した多くのヨーロッパ人がひかれたのは、この宗教的深まりが二元論的な形態をとらない点ではないかと思います。
 他方、仏教における悟りへの前段階と西洋の善行・美徳の秩序のあいだには、本質的な相違はあるにしても、ある程度の一致点が存在することは無視できません。ヒューマニズムのどんな形態の道徳観をとってみても、「人間愛」(博愛主義)が根本的前提となっておりますが、仏教では、慈悲と呼ばれる、弱いものに対する“共感”とか“同情”などが、西洋の“人間愛”に取ってかわります。私自身の経験から見ても、“同情”や“共感”のほうが“愛”にくらべて発生的・本質的に先行する、つまり、より基本的なものではないかという気がします。
6  キリスト教徒がたんに試練と見るような、人間生命のさけられない苦悩の体験も、仏教徒にとっては、六波羅蜜が示すように、自己完成の途上で乗り越えていくべき存在の基本的なあり方になるわけですね。そこで、決定的な段階が、智慧へみちびく禅定の深まりです。キリスト教的倫理をふくむ西洋の倫理は、苦悩に対するそのような治療法をもっていません。したがって、――先に述べた中世キリスト教の神秘体験を別とすれば――物事を的確に判断する能力としての「智慧」に先行する「禅定」の徳というものは、西洋倫理にとっては異質なのです(ここでいう禅定とは無為の「自己自身のなかに沈潜する」という意味です)。
 ただ、西洋の徳に関する規範も、「智慧」(ソフィア)を讃えています。ここでいう智慧は“全体の秩序に対する洞察”を意味しており、個人における実践的な行為に対する反省としての賢明さとか、倫理的判断能力などとは明確に区別されます。
 結局、「自己完成」一般について申し上げれば、西洋的意識においても、これは一つの美徳ですし、もしかすると、考えられるもっとも普遍的な美徳かもしれません。なぜなら、自己完成は、ギリシャの市民道徳にあるような「節度を守る」ということからはじまり、ソクラテス的な「自己探求」をへて、さらに、カントが人格の中心的義務として課した「自分自身をつねにみがく」ということにいたるまで、一貫して認められるからです。
7  しかし、いかなる倫理体系も、自分を慈しむ、つまり自己実現への努力ということだけでは構築できません。自己に対する義務ばかりでなく、他者に対する義務もあるという観点は、西洋の道徳規範においても、仏教においてもとうぜんなこととされています(ここで私は、仏教の六波羅蜜をこのような道徳規範と考えてよいという前提で話をすすめています)。そこで、注目すべきことと思えるのは、仏教の自己完成の思想には、カントも断固として拒否した快楽主義への志向がまったくないことです。つまり、幸福は他者への奉仕にあり、自分だけの享楽にはけっして存在しないのです。
 以上の比較考察をまとめてみて、とくに私が強調したいのは、悟りヘみちびく仏教の六波羅蜜の教えは、その方法においては多くの西洋の倫理との共通項をふくんでおり、その目的においては、人道主義的理念やキリスト教的愛の理念にかわるものであるということです。それゆえ、われわれ西洋人も真剣に受け取るべき重要な理念であると思います。
8  「自己自身を認識する個人的精神」
 アリストテレスの「ノエシス・ノエセオス」のこと。精神活動に対する反省をいう。
 ハンス・ヴァルデンフェルス
 (一九三一年―)ドイツのカトリック神学者。ボン大学教授。京都学派・西谷啓治博士の「絶対無」に関して研究、博士論文を書いた。

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