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日蓮大聖人・池田大作

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5 生命世界の調和  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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2  デルボラフ これまで述べてきたヒューマニズム思想のすべてに共通する特質として、人間を、そのあまりに強烈な自己志向のゆえに、人間性以前の本性に対するどんな興味もすべて失ってしまった存在、と定義する傾向が見られます。ヒューマニズムのこうした人間中心的傾向は、それが本来、距離をたもっているユダヤ・キリスト教とも、あらゆる形態において共通しています。ユダヤ・キリスト教でも、人間はまさに「創造の栄冠」なのです。
 たしかに、この二つの思潮に共通する自己志向性には人間以外の生命に対する思い上がりがあり、これはだれ人も容認しないものです。
3  池田 いまさら取り上げるまでもないところですが、こうした考え方の原点になっている言葉として『旧約聖書』の創世記の、つぎの一節があります。
 「そこで神は言われた、『われわれは人をわれわれの像の通り、われわれに似るように造ろう。彼らに海の魚と、天の鳥と、家畜と、すべての地の獣と、すべての地の上に這うものとを支配させよう』と。そこで神は人を御自分の像の通りに創造された」(『旧約聖書―創世記』関根正雄訳、岩波文庫)。
 これは、人間こそ、この地上のあらゆる生物を意のままに支配する権限を全能の神からあたえられている、とするユダヤ・キリスト教の教えを示しています。
4  デルボラフ 先にも見たように、自然をたんなるモノとしてのみ承認しようとする傾向が、ヒューマニズムの本性にあるといえます。ユダヤ教やキリスト教では、人間以外の自然も、いちおう、神の創造による秩序に属していますから、まったく軽視するわけではありません。
 しかし、それにしても、人間がその主人となるよう委任され、自然は人間の意のままになるべく定められているのです。キリスト教的解釈によると、動物は、人間を「意図する」、すなわち、人間をめざし、人間になろうとするが、それは、とうぜん、無理なこととされるのです。自然物、動植物は人間の救済という恩恵にあずかりませんし、そのため、存在論的には二流の地位に転落するわけです。動物は聖典のなかでは何の役割も担っておりません。
 中世の伝説で、ときとして動物たちは、粗野だが善意をもって隠遁者を助けるものとしてえがかれます。それでも、動物はけっして同等の相棒というわけではなく、あくまでも隠遁者につかえる立場にいます。
 こうしたなかで、ただ一人、人間以外の生き物にも眼を向けたカトリック教会の聖者が、アッシジの聖フランチェスコでした。彼は森の動物たちを自分の兄弟と呼び、また、鳥たちに説法しました。
 こうしたフランチェスコの精神は、とうぜん、キリスト教会内部にはほとんど浸透しませんでした。教会の道徳論には、動植物的自然に対する人間の関係を義務的に規制したり、動植物に有利な光をあてるような規範はまったく見られません。
5  池田 中世の悪魔伝説を見ると、悪魔は山羊の姿をしているとされますね。そうした民間伝承を信じ込んでいる人にとっては、山羊のようなけだものは、悪魔的な存在と映ったのではないでしょうか。
 また、広くいえば、中世人にとっては、森や山など自然そのものが悪霊の巣と思われていた傾向があるのではないでしょうか。
6  デルボラフ 自然には暗黒面もあり、それがまた人間と自然の関係をいくらか明らかにしてくれます。この暗黒面は、生きとし生けるものの相互関係を思い浮かべてみると、はっきりあらわれてきます。つまり、「自然の秩序」というのは、各種の動物がたがいに「他の生命を奪うことによってのみ命を維持できる」という理由から、追い求め、食いあさりあう、ということです。
 人間もこうした、他の生命を奪うことと、それにまかさざるをえないこととの均衡状態のなかに組み入れられているわけです。それというのも、人間も自然界の一つの類であり、動植物を栄養源としているからです。
 しかし、人間は自然界の一部であるにとどまりません。このため二重の意味で、人間の状況は変わってきます。一つは、人間は自分の行為の意味を知っており、自然界への介入をとうぜんの権利としたり、あるいは、罪過として感じることもできるということです。つまり、法的・道徳的カテゴリーのもとに判断できるわけです。もう一つは、この自然界への介入という行為を、動物的な生存闘争の可能性をはるかに超えるやり方でおこなうことができるということです。
7  池田 道徳律や理性は、神から人間にのみあたえられたもので、それが律している世界が光の世界であり、それがおよばない自然界――森――は闇の世界であったわけですね。
8  デルボラフ ええ。そこからふたたび、先に論じた近代化という現象の影響に立ちもどってみたいと思います。工業的生産経済の枠組みにおいては、自然はたんに栄養源であることから、人間による搾取の対象へと変化し、人間の利害計算に完全に屈伏させられることになります。
 たとえば、養鶏場や、純粋に利潤追求をめざしての動物飼育、森林の伐採、生きている土地のセメント化、また、排気ガスや工場の環境汚染による生態学的生活基盤の破壊等、すべて、近代化の過程で生じている弊害を考えてみれば、これらは明らかです。
 この近代化の過程は、洋の東西を問わず、それぞれの自然発生的な文化と宗教の体系に対して、技術的・経済的上部構造として形成されています。近代化の過程はそうした伝統的基底部によって抑制されたり、多少なりとも変形されたりするかもしれません。
 しかし、自然発生的なものすべてを超えながら、進歩的に形成していくという根本的傾向性をもっており、これは何ものもはばむことができません。近代化を阻止しようとしても、失敗するのは必定ですし、人間を原始状態にもどそうとすることは、無邪気な試みにすぎないということになります。
 したがって、西洋のヒューマニズムやキリスト教会も、今日の工業化時代の業績と成果に対して、根本的に異議を申し立てることはしないでいるのです。批判のマトになるのは、せいぜいたんなる行き過ぎや非人間性や倒錯の問題です。しかし、彼らはこのような行き過ぎが生じるのを阻止することさえできません。というのは、それは、近代性への進歩のなかに、同時に、プログラミングされたものであり、彼らもこの進歩を全面的に肯定しているからです。こうした流れに逆らうということは、事実上、自分を乗り越え、前進するという権利を人間から剥奪することになってしまいます。
9  池田 東洋思想のなかにも、自然に対して征服主義的なものが皆無というわけでは、もとよりありません。しかし、東洋思想の全体を特徴づけているのは、自然との調和であるといってよいでしょう。
 それに対し、西洋思想のなかにも聖フランチェスコに代表されるような調和を大切にする考え方もないわけではありませんでしたが、全体的には征服主義的な考え方が、西洋の文化を特徴づけてきたといってよいと思います。そのどちらも人間尊重、すなわちヒューマニズムに原点があるわけですが、具体的なあらわれとしては、このように大きなちがいがあるわけです。
 こうした東洋と西洋のヒューマニズムのちがいという問題に関して教授は、どのようにお考えになっているでしょうか。
10  デルボラフ あなたご自身のように、仏教の指導者たちが全世界を駆けめぐり、平和と理解を求めていくとき――それはキリスト教の教皇の回勅や他の大教団の平和宣言と似てはいますが――あなた方は、けっして近代性の全体系を疑問視しているわけではなく、むしろ、その人間的な運用を訴えておられるのだと思います。
 そこで、そのための確かなる指針が、仏法の教えにあるというのがあなたのご意見ですが、私としても、その確信に異議をとなえるつもりはありません。
 ここでふたたび、西洋人の“自然との関係”に話をもどせば、キリスト教では生命に関する倫理への手がかりが欠けています。また、先に見たように、西洋ヒューマニズムはその人間中心的な基本姿勢において、人間以外の自然へのかかわりを――これがまた科学技術的計画の本来の攻撃点となっているのですが――道徳的に規制することをおこたっています。これは惜しむべき欠陥であると思います。
11  しかし、この欠陥にも――補足しますと――かならずしも、美徳をおしすすめる集団道徳や個人道徳が、入り込めるだけの間隙がないわけではありません。たとえば、医学者による解剖台上の動物実験に精力的に反対する動物保護主義者たちの道徳とか、家庭での動物の飼育や養護の仕方を極度に慎重に規制し、また、ペットの墓地をつくるところまでエスカレートする動物愛護者の道徳等があげられます。さらに――ドイツばかりでなく日本でもそうだと思いますが――マスメディアの刺激で高まってきた動物研究への関心があり、こうした興味・関心は、これまでの自然に対する積極的姿勢に、専門知識と理解のための基礎を提供しています。
 インド、中国、日本の人々と比較して、西洋人の場合は、自然や人間以外の生物への感謝の念が欠けているというあなたのご意見に、私は賛成です。つまり、われわれ西洋人は――教育的背景が不備なため――一般にこの領域に対しては無思慮に行動しており、仏教徒であるあなたにとっては、しごくあたりまえな、自然への責務に気づくためには、相当にがい体験を積む必要があるようです。
12  東洋の国々の子どもたちは、事実、たいへん早い時期に自然や宇宙への大いなる開放性と献身を教えられます。これに対し、キリスト教は、またヒューマニズムも同様ですが、人間への正当な配慮をめざすあまり、人間の自然的基盤への配慮をおこたり、一種の「忙しさによる盲目的な状態」を呈しています。
 しかし今日では、この怠慢への反省、批判が出はじめており、エコロジー運動の高まりが見られます。これはドイツでは、とくに若者に、新しい種類の自然保護と自然に対する責任についての関心をおこさせました。
 ですから、私としては、こうした自然に対する責任感、つまり、動植物の生命を傷つけずに尊重していくという考え方が、二十世紀後半の倫理上の重要な主題となることは、けっして不可能ではないと思っています。この問題は、十八世紀には奴隷制に対し、十九世紀には拷問や死刑といった処罰に対して、その非人間性が問題にされたのと同様、ある種の「罪悪感」を一般社会に広く呼びおこすのではないかと思います。
13  池田 それは、可能性としては大いにありうると思います。
 東洋の伝統では、動物を家族の一員として一緒に生活することが、動物愛護などという特別な意識なしに、きわめて自然なこととしておこなわれてきたと思います。それに対し、ヨーロッパの人々の場合は、かなりはっきりした意識をもっておこなわれているように思われます。ヨーロッパの人々にとっても動物との共存は、さらに多くの人々のとる一般的な考え方になっていくでしょう。
 しかし、人間自身に関するとらえ方が他の動物とのちがいに根本をおいていくかぎり、あくまで強者としての人間が弱者としての動物を保護し、愛護するという考え方の枠から出ることはないと思われます。
14  聖フランチェスコ
 (一一八一年ころ―一二二六年)イタリアの聖人。フランチェスコ教団の創立者。

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