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日蓮大聖人・池田大作

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4 人間の善悪両面性  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  デルボラフ ヒューマニズムとキリスト教は西洋人を多少なりともきびしくしつけましたし、寛大の方向にしろ、その逆の厳格な方向にしろ、いずれにしても一定の道徳規範を教えこみました。にもかかわらず、西洋人が人間的に少しも良くなっていないということはいなめません。これは、しかし、矛盾ではありません。というのは、背徳者、驕慢な者、また罪人としての人間の過失性が矯正不可能であることは、この二つの精神的支柱も、十分認識しているところだからです。
 換言すれば、最高のヒューマニズムやキリスト教的教養をもってしても、ヨーロッパのキリスト教徒が野蛮な行為に逆もどりすることを防げませんでしたし、現在でもできません。それは、この愚かな蛮行が激しい雷雨のように突発するか、反乱、戦争、大量虐殺という、人間に特有な行動のなかにあらわれるかいなかとは、無関係なのです。
 この点に関して、あなたはいくつかの説得力ある例を西洋世界からひきだしておられ、また同時に、第二次世界大戦中、日本人が敵国でおかした残虐行為も忘れずに述べられました。このことは、結局、人間の過失性というものがヨーロッパ特有の現象ではなく、すべての宗教的・文化的世界にあらわれていることを意味します。つまり、有史以来、人間は自分に向けてその悪の門を開いている暗黒面と対決しつづけているわけです。
3  池田 そこで大事なことは、このような善悪両方の生命が自分の内にあることを、一人一人が自覚し、残虐な破壊的衝動を抑制するよう努力することです。まず、第一段階として、このことを知るだけでも、抑制力は大きく増します。
 多くの場合、人間は、悪いのは相手であり、自分は善良であると思い込んでいます。そして、自分は善良であるから、自分のやっていることは正当であるとの信念から、残虐行為を醜いとも気づかずにおこなっているのです。それが、仏教でいえば地獄の、キリスト教的にいえば悪魔のような、醜い行為であると気づけば、大多数の人は回避するにちがいありません。
 もちろん、みずからの醜さに気づいてなおかつ、はげしい感情的衝動や欲望に負けて行動する場合もあります。それを止めるには、ただ生命の真相を知らせ醜さに気づかせるだけでは不十分で、そうした悪の生命を克服できるよう、善の生命(仏教で説く仏や菩薩の生命)を強くする必要があります。これを、私どもは「人間革命」と呼んでいます。仏教の教える修行を実践することは、この「人間革命」のためであるともいえます。
 それはともあれ、私は、真実のヒューマニズムとは、人間――とくに自己自身――の善の面だけを見ているのではなく、悪の面をきびしく見つめ、それを抑制できるようになってこそ、その理想に一歩近づけるのだと考えます。
4  デルボラフ あなた方が仏教の教えと実践によって乗り越えようとされる諸々の欠陥は、二つの次元で考えられるかと思います。
 あなたが第一の欠陥として指摘しておられるのは、多くの人々に見られる、自分の権利を主張し、相手をまったく不当だとする片意地な偏狭さです。このような態度を示す人々――この種の人間は東西両洋どこでもいると思いますが――に欠けているのは、要するに、人格形成のための教育です。この教育のめざすべき成果は、世界を客観化し、かつまた自己の要求を相対化することにあるということができます。つまり、人格形成は、必然的に自己評価への批判的能力といったものをふくむのであり、それゆえにこそ、すべての人間に要求されるのです。
 二番目の欠陥として、あなたは、とくに西洋ヒューマニズムを取り上げ、これが善悪両面に対し現実的な眼をもっていない、と指摘しておられます。つまり、仏教的認識による地獄から菩薩にいたる自己完成の状態への段階的秩序に対して盲目である、と批判しておられます。
5  池田 西洋のヒューマニズムに、その視点が欠けているとはいえないかもしれません。西洋の考え方にも「天使と悪魔が同居している」とする視点があるからです。ただ、仏教が説いているほど詳細に解明していないということはできるかと思います。
6  デルボラフ 人間はだれしもこの段階的秩序のすべての状態を可能性としてもっており、そのために、より悪い状態に逆もどりすることもあれば、またより良い状態に前進することもできるわけです。
 たしかに、西洋の哲学的思考空間には、仏教の場合のように豊かな自己完成の向上度を段階的に測定できる尺度は欠けており、これを欠陥と見るのにも、十分根拠があります。ただ、ソクラテスからアリストテレスをへてカントにいたるまでのヨーロッパ哲学は、善悪に関する経験領域を明確に表現する努力をしております。私としては、こうした思惟形態が、あなたの言われる仏教的思惟の構造に近づいていることを、つぎに述べたいと思います。
 ソクラテスについては、彼は哲学を天空から町の広場に引きずりおろした、すなわち、ソクラテス以前の人々の宇宙論的幻想を「人間の哲学」に取りかえた、といわれております。実際、彼にいたってはじめて、ヨーロッパ思想における「人間学的転回」について語ることができ、道徳性という複雑な領域を、体系的に解明する作業がはじめられたのです。
7  この問題に関連して、ソクラテスの業績を二つあげることができると思います。まず彼は、持続的な自己吟味の必要性を強調しており、反省なき人生はまったく価値がないと見ています。つぎに、教育の任務は、学習者の魂の誕生を監視し、その魂からより良いものをつぎからつぎへとひきだすことにあるとし、産婆術にたとえました。両方とも、個人の自己完成論への示唆と理解できます。
 ただ、ソクラテスは、はじめから知っていて不正な行為をするものはだれもいない、という確信から、この習得過程を多分に知的に解釈しすぎて、たんなる“善の認識への登り口”としており、“倫理化への入口”だとはみなしていません。そこで、ソクラテスにおいては、倫理的人格形成が理論的なそれに限定されてしまったのです。
 これに修正と補足をほどこしたのが、アリストテレスでした。彼はまず、悪の由来を分析することによって、ソクラテス的「知性主義」を乗り越え、つぎに、人間存在のさまざまな意味づけを区別しました。
 悪は性格的弱さから、すなわち、良心が感情や情熱によって打ち負かされるということからおこりうるのです。このことは、あなたご自身が、抑制がきかない可能性として見ておられる一例です。しかし、また悪というのは、誤った教育や歪められた教育によっても、あるいは、まったくの無規律からも生じます。
 これは、教育上の欠陥に由来する場合です。悪魔や悪霊が人間の精神を占有するという、いわゆる「不当な神秘」と呼ばれるキリスト教的伝承は、アリストテレスにとっては異質なもので、彼は認めなかったことでしょう。むしろ、アリストテレスはそのような考え方は人間にとっての屈辱であり、隷属化と見たにちがいありません。
 二番目の説でアリストテレスは、“快楽の人生”、“実践的行為(政治)の人生”、そして“認識の人生”を区別しています。ここでは、仏教の段階的秩序に、少なくとも傾向として近づいているものが考えられているといえるでしょう。
8  池田 なるほど。仏教においても、釈尊の教えやその後のインドの論師たちの段階では、十界はバラバラのかたちでは示されていましたが、一人の人間生命にそなわる状態の多様性として、まとまったかたちでは説かれませんでした。これを一つの体系としてまとめあげ、人々の自己省察の規範として確立したのが中国の天台大師でした。
 いま言われたように、ヨーロッパでも、アリストテレスなどいく人かの哲人は、この仏教の十界論に近いものを説いてきたのでしょうが、それが体系化されるとともに、そうした教えが人々の自己反省のうえで、みずからの生命状態を明確に映しだす鏡となり、自身の生命的向上の手がかりとなっていくことが、なにより望まれますね。
 天台大師(五三八年―九七年) インド以来の大乗仏教の真髄を正しく伝えるために天台宗を開く。法華経の思想を根本に新たな中国的仏教を築き、その後の中国、日本の仏教の展開に大きな影響をあたえた。

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