Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

2 知性重視と生命尊重  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 ヒューマニズム、すなわち人間を尊厳とする考え方がなによりも重んじたのは、とくにヨーロッパの場合、人間の知的能力という面ではなかったでしょうか。つまり、人間が尊いといえるのは、優れた思考力、知性をもっているからであるという考え方が、ヨーロッパの精神的伝統に一貫しているものであると思います。
 ヨーロッパの哲学は、古代ギリシャのタレスやアナクシマンドロス、また、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者に源を発し、中世キリスト教時代には、その知的伝統はアウグスティヌス、トマス・アクィナスなどに代表される神学にあらわれました。
 そして、近代には、デカルト、カント、ヘーゲルなどの哲学が力強い伝統を形成しています。とくにデカルトは「我れ思う。故に我れ在り」と述べ、思惟に人間存在の基盤をおきました。また、パスカルが人間を「考える葦」であると定義し、肉体的には葦のようにかぼそく弱い存在である人間が、その思考によって宇宙をも包含できる存在である、と述べたことはあまりにも有名です。
 しかし、このように、人間の尊厳の根拠を合理的知性、哲学的思考に求める考え方は、知性をもたない他の生き物への蔑視を生みだし、さらには、同じ人間であっても、そうした思考の訓練を受けていない人々や、ちがった思考法をする人々に対して、軽視するような風潮を強めてきたことは否定できません。
2  仏教では「いかなる生き物も、みずからの生命を至上の宝として惜しみいとおしむ。したがって、それを傷つけたり、奪ったりすることは罪になる」と教えています。
 この道理からいうと、どんな生物も、みずからの生命を保持し、少しでもながらえようとする本能をもっていますから、生き物を殺すことは、その相手が何であれ、罪になるわけです。ただし、そのみずからの生命の尊さへの認識の深さや、みずからの生命をどこまで価値あるものにしようとしているかの度合いは、生き物によってもさまざまにちがいがありますし、同じ人間同士でもちがいがあります。
 みずからの生命の尊さを深く認識している存在、また、その生命を価値あるものにしようとしている存在を殺した場合は、よりいっそう、その罪は大きくなるのです。では、生命を価値あるものにするとは、どういうことかといえば、他の生命を助け、その幸せを増大するためにつくすことです。とくに自分が助けてもらい恩恵を受けている者が、そうした恩恵をほどこしてくれた人を殺すことは、もっとも大きな罪になるとされます。
 この考え方は、人間の生命尊厳の名のもとに、他の生物を犠牲にして顧みないといった人間のエゴイズムにブレーキをかけるものであると同時に、生命尊重の名のもとにいっさいの殺生を禁じ、自己の生命否定におちいることをも防ぐ、もっとも道理にかなった考え方であると思います。
3  デルボラフ 知性を絶対と見る傾向の西洋合理主義を、自然や生きものすべてを慈しむ仏教と対比させたあなたのご指摘は、正しいと思います。宇宙における人間の特別な位置づけを表現したパスカルの有名な箴言については、彼流のヒューマニズムの人類学的差異を明らかにするために、あとで言及したいと思います。
 デカルトはすでにパスカルよりも極端で、実体的二元論におちいっていました。それは、動物界を機械的世界のなかにひっくるめ、動物界には、同胞に眼を向け愛情をそそぐ動機であり、前提である生命という存在を認めない考え方です。人間のみを精神的存在として、自然界から人間を引き離すことにおいて、これ以上極端な考えはありません。
 後日、人類学者のなかで合理主義を批判する人々は、人間を「精神的に病んだ動物」とか「知性の肥大により誇大妄想的となった猛猿」と呼んでいます。これは、人間のおかれている状況のパラドックスを正しく特徴づけるものでした。
 こうした態度から、かんたんに、人間以外の生物や才能の乏しい人たちに対する思い上がりがおこることは明白です。それはまた、西洋人が、自然へのかかわりと同胞へのかかわりとを鮮明かつ決定的に切り離して、狩猟や家畜の屠殺は自然な生計の道であり、同胞を殺害することは道徳的な罪であるとして、厳密に区別した理由でもあります。同胞の殺害、つまり「殺人」は極悪犯罪とみなされます。
 もちろん、殺人や撲殺の犯罪にもその残酷さに程度の差があり、それによって刑の重さが判断されます。ただ、キリスト教的ヒューマニズムの理解では、人間の生命が根本的に神聖でおかすべからざるものであって、だれの生命がどのように奪われたかという、質の問題は第二義的な意味しかもちません。
4  池田 仏教では、人間がみずからの生命をたもつために、他の生き物を殺して食べることにより罪をつくるが、そのように保持した生命を他の多くの人々の幸せのために使っていくならば、その罪は償われると教えています。つまり、生き物を殺すことを認めても、あくまで、みずからの生命を保持するためであり、保持した自己の生命を価値あるものにすることによってその罪は償われるのであって、殺すこと自体を楽しんだり、過剰に殺生することなどは正当化されませんし、自己の生命の価値ある使い方をしなければ罪をつくるだけになることを忘れてはなりません。
5  デルボラフ 先にも指摘したことですが、環境保護運動によって西洋で自覚が高まっている、自然への責任、とくに動物の生命の尊重ということは、今世紀の大きな主題になるのではないかと思います。事実、今日ではすでに、ある種の素朴な山岳民族の菜食主義をみならって、動物を栄養源とするのを原則的に放棄すべきだ、とする声が出てきています。
 先ほどからのお話では、あなたご自身は、ここで中道を説かれ、食用としての動物の殺生も、生きとし生けるものに対する献身と保護をほどこすことにより、道徳的に許される可能性を見いだしておられるわけですが、私も同感です。
 しかしさらに、このこと自体を正当化できるような均衡主義の道があるかもしれません。というのも、自然は、本来、みずからの力で各種の動物たちの生命の秩序を維持すべく調整しており、個々の種族のあいだの均衡をたもち、いずれも死滅しないようにしています。老いたり、病気にかかったものは淘汰され、若くて力強いものがあとを引き受けていきます。また、ある種族に後継者が多すぎると、その剰余分は他の種族に食われてしまい、逆に、後継者の生産が弱いときには保護期間があたえられるのです。
6  こうした自然の秩序維持に、人間はその身勝手な、または計画的な侵略行為によって無秩序をもたらしたのです。したがって、逆に、たとえば猟師に対して、この自然秩序の現状を維持すべき執行者としての自覚を、うながすようにしてはいかがでしょう。また、自然の秩序のなかではもはや生きのびることのできなくなった動物だけを狩猟するよう、猟師に要請することはできないものでしょうか。さらに、家畜業者に対しては――家畜はすでに野生ではありませんので、かぎられた範囲でのみ可能だとしても――家畜の飼育を、自然環境の条件にかなう程度に義務づけることはできないものでしょうか。
 すべての人が動物性食品を全面的にやめるとなると、彼の職業上の権利を奪うことになってしまいます。こうした職業の分野での制限は、食用のための動物飼育という非道さを償うものとして、あなたが強調された生物界への思いやりということを具体化することになると思います。このことは、多少なりともだれの目にも明らかなことですし、市場需要うんぬんで汲々とする必要のない職業分野では、すでに実践されているところです。
7  タレス
 (前六四〇年ころ―前五四六年ころ)ミレトス派の自然哲学を創始。万物の根源を水ととらえ西洋哲学の祖といわれる。ギリシャ七賢人の一人。
 アナクシマンドロス
 (前六一〇年ころ―前五四六年ころ)ミレトス派の自然哲学者。タレスの後継の弟子。無限者アペイロンが万物を生成するもとであり、しかも永遠不滅であると説いた。
 アウグスティヌス
 (三五四年―四三〇年)古代キリスト教会をリードした思想家。教父。
 トマス・アクィナス
 (一二二五年ころ―七四年)イタリアの中世最大の神学者。中世のスコラ神学大系の発展に寄与。
 デカルト
 (一五九六年―一六五〇年)フランスの哲学者、数学者。近世哲学の父。主著『方法序説』で疑う自己を疑いえない哲学の出発点とし、精神と物体が独立した別個の実体だとする徹底した二元論の哲学をつくった。解析幾何学の創始にもつくした。
 カント
 (一七二四年―一八〇四年)ドイツの哲学者。批判哲学を創始。認識が対象にしたがってつくられるのではなく、意識一般の先験的形式が対象を構成する〈コペルニクス的転回〉を主張。人間理性の認識能力等の批判をとおし、独断的判断を排することにつとめた。
 パスカル
 (一六二三年―六二年)フランスの科学者、哲学者。科学者としては、流体の圧力伝播に関する「パスカルの原理」など数多くの発見をした。その一方、『パンセ』では実存哲学の先駆けとなる考えを展開。

1
1