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日蓮大聖人・池田大作

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1 西洋ヒューマニズムの背景…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
2  デルボラフ ギリシャ・ローマの古典研究や古典文化の伝統の継承において、人間に対する関心を前面に出したのが、いわゆる「教養的・学識者的ヒューマニズム」です。そして、ヒューマニズムの根本理念がこのような形態のなかにもあらわれていることは、この理念の多様性を示してもいるわけです。教養的ヒューマニズムは、けっして一度かぎりの現象ではなく、さまざまなかたちであらわれています。
 最初は、ギリシャの中心思想をラテン語文化に受容して成立した“ローマ時代のヒューマニズム”でした。ローマ時代の詩文は、ギリシャ的特色を明確にたもっています。ギリシャ人の哲学者は、ローマで、とくにスキピオ家の人々に歓迎されました。ローマ青少年の教育にあたった教師たちは「グレクリ」と呼ばれたギリシャの教養人で、征服されたギリシャ本土から奴隷として連れてこられたのでした。
 つぎに“カロリング王朝時代(七五一年―九八七年)のヒューマニズム”、また“オットー王朝時代のヒューマニズム”、そして、あなたが指摘された、中世から近代の啓蒙期への転換として位置づけることができる“ルネサンス期のヒューマニズム”があげられます。
 最後に、十九世紀初頭の“古典主義的ヒューマニズム”、あるいは“新ヒューマニズム”、また、一九二〇年代には“児童教育学的ヒューマニズム”があらわれます。
3  池田 それだけギリシャ・ローマの古典は、一貫してヨーロッパ人の思考の源流としての役割を果たしつづけてきたといえるわけですね。とくにギリシャの哲人たちは、人生・世界の万象について、あらゆる角度から思索・探究し、汲めどもつきない思考の泉となったといえます。
4  デルボラフ ギリシャ・ローマの古典文化とヨーロッパ精神がどのように結合したかという問題について、少し説明したいと思います。ギリシャ・ローマの文化は、その当時の他のあらゆる文化と同じように地域的な民衆文化でした。ただちがう点は、そのなかに、未来を志向する創造的な成果を包含していたということです。
 ですから、ギリシャ・ローマの両文化が受容されていくのちの過程でも、その普遍的人間性を重視する性格は保持されていったのです。ギリシャ・ローマ文化にかかわるさまざまな問題や衝突、それがたどった運命、また人権などの理念のなかに、ヨーロッパ人はつねに自分自身の姿を見いだせる、と信じてきたわけです。ギリシャ・ローマの文学的遺産は、多くの世代にとって大切な教材とされてきたのです。
 キケロは、その理由をつぎのように述べております。すなわち「あらゆる人間以外の生命形態は成長してその個性をあらわすか、生まれながらに個性をあらわすかしている。人間だけはその発生において未完成のままで、したがって――教育とか教養を身につけることによって――自身を“完成”しなければならない、自分の個性を自身の手でつくりあげていかねばならない。そこで、人間を人間らしくさせるための適切な学習、すなわちギリシャの伝統を身につけることがもっとも適当だと思える」と。これはルネサンス期に「人間研究」(Studia humaniora)または「人間性の研究」(Studia humanitatis)と呼ばれました。
 こうして教養的ヒューマニズムは、ヒューマニズムの根本構造のいうなれば“教育学的差異”をあらわしているわけです。つまり、自然人がいかにして「精神」の高みに高揚されるのかを示しているのです。
 ただし、この努力はかならずしも成功するとはかぎらず、目的から外れることもありえます。すなわち、教養の形成過程から生まれてくる完成した“人間性”ではなく、たんなる“社交性”にすぎなくなってしまう場合があります。そこでは、人間の学習が、たんなる博識とか教養をもてあそぶ社交の次元に落ちこみ、言葉や会話は活発にかわされても、創造的な行為として結実しないのです。
 この二面性は、現在にいたるまでの古典の受容の仕方にあらわれています。ギリシャ・ローマ精神はつねに人間性を涵養する理念という性格を保持し、そのため、つねに新たな理由づけと釈明が求められてきましたが、それと同時に、形式的な遊びに堕落する危険が存在していたのです。
5  池田 書を読んでも、それを自己の生命に肉化して人格向上の糧にするか、たんに知識として受けいれ“社交性”の具にしてしまうことで終わるか、これはきわめて大事な問題です。日本でも、後者を「論語読みの論語知らず」という格言をもって戒めてきました。
 ところで、ギリシャ・ローマの古代人も、その人生・生活は、神を抜きにしては考えられないものでしたし、彼らの残した思想・文学・芸術においても、神が主役でした。しかし、彼らの神々は、きわめて人間的であり、むしろ人間以上に人間的であり、ただ、そのスケールがちがうだけでした。
 それに対し、キリスト教の神は、その絶対神としての特質が強調されましたから、人間らしさを払拭されてえがかれました。
 それが、中世キリスト教の特質であり、人間は、この絶対神によってつくられ、神の恩寵による救済をあてにしなければならない、罪にけがれた、弱い存在とされたわけです。神の子イエスが人々を救うために人間として生まれ、人間の罪をあがなって亡くなったというキリスト教の教義のなかにも、人間イエスという考え方の萌芽があったわけですが、根本的には「人間らしさ」は、罪のあらわれであるとともに、さらに新しい罪を生ずる種子として排斥されたのではないでしょうか。
 ダンテは中世キリスト教的世界観の総括者であるとともに、ルネサンスの幕を開いたとされます。彼は、ギリシャ・ローマの古典に登場する人物たちをキリスト教の考え方から裁き、位置づけ、これによって、ギリシャ・ローマ古典に対する人々の目を大きく開かせたといえると思います。そして、それを通じて「人間らしさ」のもつすばらしさが再評価されるようになり、ギリシャ・ローマの神々が、絵画や、彫刻の題材としてさかんに取り上げられるようになりました。
 それとともに、『旧約聖書』の登場人物や、さらにはイエスも、なまなましい肉体をそなえた人間的な姿でえがかれたり、彫刻されるようになりました。言いかえると、イエス自身、人間的存在としてえがかれるようになったわけです。
 キリスト教は、ひたすら神に関心をそそぐよう人々にすすめたのですが、しかし、人間にとってももっとも関心のある対象は、やはり人間であったわけで、そこに、神をすら人間的にとらえたギリシャ・ローマの古典が人々を強くひきつけた原因があったといえるのではないでしょうか。
 そして、すべてを人間的なものとしてとらえる考え方が、キリスト教の解釈にまでも広げられ、たとえば、ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の、あの「天地創造」の天井画のようなルネサンス芸術が生みだされたのだと思います。
6  デルボラフ ルネサンス期の人々にとって古典の文人たちが魅力ある存在であった、というあなたのご指摘は正しいと思います。彼らは人々の現世的な喜びをいわば先取りし、承認していたわけです。また、神々の世界の人間らしさと、ヒューマニズム的研究が当時の宗教観にあたえた人間化への影響を、あなたは強調しておられますが、とうぜん、古代世界にも“悲劇”のなかで表現されるような暗黒面はありました。
 ただ、人間は極限 状況でのみ不可解な運命と対決していたのであって、それ以外は、同じ人間の世界や神々の世界とまったく自由な関係にありました。人間からはじまって、英雄、巨人、半神人、そして最後に神々にいたる階層的秩序体系は、この神々が超自然的存在ではなかったために、人間が独り立ちするうえで障害となることはありませんでした。
 すでに古代ギリシャのホメロスや、彼の後継者である古代ローマのヴェルギリウスやその時代の多くの詩人たちも、神々を彫塑的な具象性をもって、また同時に、人間界との親密な交流のなかであらわそうとしたのです。
 中世の“キリスト教世界”ではまったく事情がちがってきます。ここでは、超越と内在、天国と地獄の遠近が奇妙なかたちで混ざりあっています。キリスト教神学は、さまざまな道程のなかで神を合理的に説明しようと苦心しましたが、結果として、神学は神的なものが彼岸(超越の世界)に漂いさるのを食い止めることができませんでした。
7  しかし、キリスト教神学自体は、この苦労が報いられなかったためにかえって救われたのです。つまり、不完全なものからより完全なものへと段階的にのぼり、神的なものにいたる上昇の道は、この鎖の最後の環がなお“内在”につながったままであるため、通行不能であることが明らかになりました。また、その反対の、神を概念的に規定しようとするすべての試みを体系的に否定していく消去法の場合には、空虚なものに落ち込むことはまぬかれたとはいえ、間接的にしか接近できず、そこには乗り越えられない距離が横たわっていることを、いやでも自覚したわけです。したがって、人間と神との関係については、大きな疑問を残したままとなります。
 これと類似する問題が、もっとも痛烈なかたちであらわれたのが、一二一五年の第四回ラテラノ公会議での表現でした。それは、創造主(神)と被造物(人間)のあいだの差異については、いかなる類似性をもってしても語ることができない、というものです。これはとうぜんのことながら、満足できる解答ではありません。
 そこで、現代の偉大なプロテスタント神学者であったカール・バルトも伝統的な“存在類推論”を、従来の接近法にある障害をかんたんに跳びこえるような別の“言語類推論”におきかえたのです。すなわち、ただ神がわれわれに語りかけるがゆえに、つまり、神の啓示があるゆえにこそ、われわれは神に語りかけ、神について語ることができるのである、というのです。
8  池田 古代や中世のキリスト教においても、神を超越的にとらえる考え方ばかりでなく、古代ギリシャ人たちと同じように、身近にあって語りかけてくる神、祈ればすぐに耳をかたむけてくれる神、という考え方も、現実の庶民の生活のなかにはあったのでしょうか。
9  デルボラフ 素朴な中世キリスト教徒には神の超越性の問題は、まったく無縁でした。彼らは善悪の不可解な現実を、もっと具体的な仕方で体験していました。
 つい最近、私は何カ月もまえから国際的なベスト・セラーの一つになっている小説を読んで、われわれ現代人と中世人の意識のちがいが明確になりました。小説の題名は『薔薇の名前』(一九八〇年刊)といい、イタリアの博識家であるウンベルト・エーコが著したものです。
 中世の人間は人間界のいたるところに神あるいはイエス・キリストが、また悪魔や悪霊がほんとうに存在していると信じていたのです。ですから、自分の行為は神の助けによるものか、そうでなければ逆に悪魔の世界原理に堕落したものか、どちらかであると理解していました。カトリック教会も、疑いをもちながらも、また決定を修正しながらも、悪魔にとりつかれた者としての異端者の有罪宣告や処刑を、正当とみなしておりました。
 ルターでさえ、人間の意志は神か悪魔かのいずれかによって支配されているという確信から、ロッテルダムの偉大な人道主義者エラスムスの穏健な自由説を、不適当として拒否したのです。
 にもかかわらず、ルターは超越的で不可解な存在である神の計画を見とおすことは不可能であり、ただ「憐れみ深い神」に嘆願する以外ないと考えたのです。ここに人間が独り立ちできなかった事情があることは、あなたの中世時代に関するご説明のとおりです。
 これに反し、ルネサンス・ヒューマニズムがギリシャ・ローマ古典文学へ方向転換したことは、スコラ哲学的超越論を無益な“屁理屈”とみなし、それから決別することを意味していました。それは同時に、キリスト教的悪霊信仰の偏見、つまり天国と地獄の、極端な二元論からの解放をも意味していたのです。
 あなたはルネサンス芸術における人間賛美の傾向を指摘され、また、その起源が、ギリシャ・ローマの理想像の受容に由来すると言われました。当時の芸術家たちは、その主題をたんにギリシャ・ローマの神話だけにとどまらず、聖書の伝承からもひきだしました。そのため、この光はキリスト教的象徴の世界をもくまなく照らし、そこにあった多くの暗黒の恐怖や不透明な部分を取りのぞくことになりました。そのよい例証が、ミケランジェロのフレスコ画であり、ラファエロの聖母マリア像なのです。
10  池田 つまり中世においても、素朴な庶民のあいだでは神は現世的な存在として理解されていた。しかし、教会の正統の教えではスコラ神学に見られるように、神は超越的な存在であったわけですね。
 それが、ルネサンス・ヒューマニズム以後は、正統的な教会においても、きわめて肉感的な現世的な存在として神の姿をえがいた天井画や壁画が堂々とかかげられるようになったということである、と私は理解します。このように、神をヒューマンな存在としてとらえなおそうとしたところに、ルネサンスの思潮のあらわれがあると思うのです。
11  デルボラフ ここで、その後のヒューマニズム受容の歴史、とくに十九世紀ドイツのフンボルト時代の新ヒューマニズムと、今世紀の児童教育学的ヒューマニズムについて、若干ふれておきたいと思います。フンボルトの指導のもとに遂行されたドイツ教育界の画期的な革新については、先に別の関連で述べましたし、彼の有能な同志についてもふれました。ルネサンスとは反対に、ここではもっと幅広く――しかも ラテン語という媒介なしに――直接ギリシャ精神に向かっていったのです。そして、これまでよりはるかに深く、人間性という地盤のなかへ定着していったと思われます。
 新ヒューマニズムの信奉者には、われわれとして感謝すべき重要な業績がいくつもあります。ギリシャ人をまるでドイツの哲学者ではないかと錯覚させるような出来ばえの、プラトンの翻訳を仕上げたことだけでなく、教育や学校のあり方のなかにヒューマニズム精神を浸透させたことです。
 その実例が、この時代の古典語ギムナジウムです。ニュルンベルク市のエギディウス・ギムナジウムの校長を七年間つとめたへーゲルが、そのへんの事情を彼の『訓話』のなかで明確に述べています。
 ヘーゲルはここで、ドイツ魂とギリシャ魂の親近性から出発し、ギリシャ人の芸術的基準を端的に“絶対的”と呼び、「彼らの完璧な公共生活に関する直観は、自分たちの時代にとって欠かすことができないものである」と述べています。へーゲルほど、近代と古代を親密なものとして結びつけた人はいませんし、ギムナジウムの生徒に対して、この模範的先輩たちのところに「住みこみ」、「寝食をともにする」ように、しつこくすすめた人はいません。
 こうしたドイツ=ギリシャの連帯のなかから古典的ドイツ劇、ゲーテの戯曲『(タウリスの)イフィゲーニエ』(一七八七年刊)も生まれてきたのです。この作品はおそらく、新ヒューマニズムのギリシャ崇拝が生んだ、もっとも完成された表現だと思います。
 しかし、そこには、限界も露呈されています。つまり、ギリシャ崇拝がギリシャ狂となり、ギリシャ人の猿真似になりかねないという点です。実際、その後の数十年間に、実用主義や経済主義、また歴史主義の影響下に、古典的基準と理想は急激に色あせていったのです。
12  池田 ただいまのドイツの経験からもいえるように、古代ギリシャの文化や人々の生き方、考え方を学ぶのは、現在の自分の生き方や社会のあり方を正すためでなくてはなりません。そうした現実への取り組みを忘れ、ただ学ぶことや模倣することが目的になってしまったときには、かえって害になってしまいます。
 ところが、またその逆に、現実に適応することしか眼中になく、一つの理想をもって現実をどう変革し、どのようにして、より高い水準に引きあげるかという視点を失ってしまうと、これも功利主義・経済主義におちいってしまいます。理想主義と現実主義の均衡をたもつことが肝要といえましょう。
13  デルボラフ そのとおりです。やっと今世紀の二〇年代になって、古典的な基準と理想にふたたび新たな生命を吹きこもうとしたのが、第三の、いわゆる児童教育学的ヒューマニズムでした。
 これは、古典の模範性を奪った歴史的批判の限界を超え、その歴史上の影響力という観点から正当性を訴えたのです。この偉大な先駆者たちの残した余韻は弱いものではありますが、ヒューマニズム思想が現在でも健全であることの証左でもあります。
 以上見てきましたように、こうしたヒューマニズム受容のすべてが、とうぜんのことながら、つねに危険をともなってきているわけです。つまり、ヒューマニズムといっても、人間性への興味のための人間研究にとどまるならば、それは、社交の必要性をみたすだけの表面的知識と資料がふえるのを、助けるだけになってしまうことになります。
 そうした場合には、人間性というのはむなしい言葉になりさがり、人間形成ということも、人間性の本来の意味から外れた、したがって、つねに存在するヒューマニズムの敵の批判的イデオロギーを喚起することになってしまいます。そのとき、教養ヒューマニズムは、とうの昔に内容がなくなっているのに、ただ人工的に生きながらえている「虚偽意識」としてあらわれます。
 そしてさらに、ヒューマニズムの道徳的核心も実体を失ってしまうことになります。つまり、われわれが何世紀ものあいだ、何度も苦しい体験をくりかえさねばならなかったように、人間性という名称から出発する道程が、いともかんたんに野獣的残忍さへと堕してしまうこともありうるのです。
 「虚偽意識」 マルクスの用語。史的唯物論で取り上げられ、現実を正しくあらわしていない思想やイデオロギー、社会意識のことをいう。ブルジョワジーの階級意識の産物として批判。
14  オットー王朝時代
 十世紀なかばからドイツを支配したザクセン家のオットー一世(大帝)、二世、三世の時代。“オットー諸帝の文芸復興”といわれるように、文学、芸術が興隆した。
 キケロ
 (前一〇六年―前四三年)ローマの政治家、哲学者。博学と雄弁で知られ、共和制の擁護を叫んだ。彼の文章はラテン語の模範とみなされ、後代に影響をあたえた。
 ダンテ
 (一二六五年―一三二一年)イタリアの詩人。フィレンツェで国政にかかわって追放され各地を流浪しながら、叙事詩『神曲』、詩集『新生』等を著す。
 ミケランジェロ
 (一四七五年―一五六四年)イタリアの彫刻家、建築家、画家。大理石像「ダヴィデ」や、壁画「最後の審判」など、ルネサンス美術を代表する数々の傑作を残す。
 ホメロス
 生没年不詳。紀元前八世紀ころの古代ギリシャの詩人。二大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。
 ヴェルギリウス
 (前七〇年―前一九年)ローマの詩人。美しい叙事詩『アエネーイス』を著す。第四回ラテラノ公会議 カトリック体制の強化を策し、ローマ教皇インノケンティウス三世がローマのラテラノ宮殿に召集。異端弾圧、第四回十字軍遠征などさまざまな議題を決議した。
 カール・バルト
 (一八八六年―一九六八年)スイスの神学者。“危機神学”を説き人間に対する神の超越と自由を主張。“存在類推論” 中世のトマス・アクィナスらは、被造物の存在と神の存在のあいだに類推が成立するとした。ここにはギリシャ的な思想が反映している。
 “言語類推論”
 バルトは、神と被造物とは有と無に等しい相違があり、したがって両者間には存在の類推は成立せず、ただ神の言葉(啓示)を中心にした信仰的な類推が成立するだけとする。
 ウンベルト・エーコ
 (一九三二年―)イタリアの記号論学者、作家。ボローニャ大学に創設された記号論講座の初代教授。サン・マリーノ大学国際記号論・認知科学研究センター所長も兼務。
 ルター
 (一四八三年―一五四六年)ドイツの宗教改革者。一五一七年、ローマ教皇許可による免罪符を批判した九十五カ条の提題を公表、宗教改革の発端となる。
 エラスムス
 (一四六六年ころ―一五三六年)オランダ出身の人文学者。『痴愚神礼讃』を著し、当時の貴族、聖職者を風刺、のちの宗教改革にも影響をあたえる。
 ラファエロ
 (一四八三年―一五二〇年)イタリアの建築家、画家。聖母子像、バチカン宮殿の壁画などに傑作を残す。サン・ピエトロ寺院の建築主任もつとめた。

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