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日蓮大聖人・池田大作

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2 日本は何をなすべきか  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 わが国において近代化とは、おもにヨーロッパ世界に起源をもつ科学技術の発達をいかに取り入れるかということでした。これは日本にかぎらず、非ヨーロッパ世界には共通のことであろうと思います。したがって、近代化と伝統の問題がよりきびしくて切実なかたちをとってあらわれるのは、非ヨーロッパ世界においてであることはとうぜんです。
 ごく最近の世界史の動向においても、インド、中国、イラン、また、東南アジアやラテン・アメリカ諸国の諸問題を見るとき、それぞれの国の事情と背景は異なっても、共通の根として、近代化と伝統に関する軋轢、対決、調和の問題が横たわっているように思います。今後も、非ヨーロッパ世界の発展途上国においては、近代化にあたって、政治的にも経済的にもその他の面でもまだまだ激動が予想されるでしょう。
 ところで、これら非ヨーロッパ世界のなかにあって、日本は、もっとも早く、積極的に近代化に着手し、いまでは外面的な日本人の生活スタイルや社会制度、また科学技術の発達に関するかぎり、日本の「近代化」はほぼ成ったといってよいでしょう。
2  デルボラフ 日本の近代化が、西洋のように土着の伝統から成長してきたものではなく、したがって、伝統との軋轢をひきおこさざるをえなかったという事情は、よく理解できます。
 あなたが、日本以外にあげられた中国、インド、イラン、東南アジアや中南米等、元来の文化的伝統はそれぞれに異なっていても、外来文化に適応することのむずかしさはどこでも共通ですし、安直な和合策で単純に解決できる問題ではありません。日本は、この点で先駆者としての役割を担ってきましたし、他国に対して、とりわけ発展途上国の人々に対して、幾多の貴重な体験を伝えることができると思います。
3  池田 そのとおりだと思います。ところで、日本は近代化されたといっても、日本民族古来の伝統文化をまったく捨ててしまったわけではありません。近代化された諸制度のなかに生きていても、日本人一人一人の心情には、やはり日本民族固有の伝統文化が息づいています。それは、日本風に造られた一階の上に、欧米風の二階をのせた家にたとえられます。そこで日本人は、階段を始終のぼりおりして、欧米スタイルと日本風スタイルとをじょうずに使い分けているというのです。
 私の考えるところでは、この譬えは日本人の器用さを指摘しているのですが、それとともに近代化、つまり西洋化がどこまですすんでも、民族固有の伝統文化は厳然と生きているということをも見事にあらわしています。
 本来、近代化といっても、伝統を否定するのでなく、伝統と協調しあい、生かしあいながら、未来の社会を模索すべきものでなければなりません。
 もっとも、近代化の行き過ぎ、欠陥、矛盾も、日本はもとより多くの国々で露呈されていますが、日本の近代化と伝統の問題は、今日において、一つの大きな世界史的な実験を提供しつつあるように思うのです。その意味において、二十一世紀の人類のために、日本は、いま何をなすべきかという問題について教授はどのように考えておられるでしょうか。
4  デルボラフ 貴国は、おっしゃるようにここ百年ほどのあいだに完璧な近代化をなしとげ、その結果、難なく西洋諸国民と競争できるまでになりました。この背景には、貴国でもっとも普及している神道と仏教の影響が大いに関係しています。この日本の二大宗教は、一方で自然崇拝を、他方では瞑想的自己実現を主としていることから、近代合理主義化の障害とはなりませんでした。
 ですから、下が伝統的な和風で上が近代的な洋風の二階建ての家に日本をたとえても、けっしていやみはありません。むしろ、このイメージは、先に申し上げたような近代化の型にまさしく合致するものです。つまり、近代化というものは、伝統や風習に対して中立的な上部構造をなしているのです。
 とうぜん、あらゆる民族や文化のうえにこの種の上部構造をなんの軋轢もなしにのせられるわけではありませんし、上にも下にも支障をきたすといった事態にいたることもまれではありません。
 私がネパールで体験したことですが、学者でも実業家でも、合理性の原理をとっくに自分のものとしていながら、人生のある局面に立つと、近代技術よりも因習的魔術に頼ってしまうという傾向があります。イスラム圏でも、同じように、労働の分野で生ずる要請と宗教的実践としての断食とのあいだで、双方を調停しなければならない、というむずかしさがあるように思います。
 日本はこうした問題からまぬかれており、逆に、外来の文明や技術を自分のものとするうえで驚くべき才能を発揮してきました。まったく何の根拠もありませんが、日本人は物真似がうまいといった嫌疑までかけられているしだいです。それが物真似でないということは、いく人かの日本の学者にノーベル賞が授与されている事実が証明しています。
 また、取り入れたものをすべて、ただちにまれに見る完成品にまで仕上げるという側面も無視できません。たとえば、ドイツのすべての州のオーケストラで日本人音楽家が活躍しており、さらに日本人の首席演奏者の数も増えつづけており、また日本人指揮者はヨーロッパで徐々に代表的地位を占めつつあります。
 だからといって、日本での伝統的音楽がないがしろにされているわけでもなく、新旧の音楽がともに育成され、対立感もまったく存在していません。こうした事情は、音楽だけでなく、他のあらゆる文化の分野についてもいえると思います。
5  池田 伝統文化を保持しつつ、外来の新しい文化を取り入れ、これらを調和させることは、日本人にとっては近代に入ってはじめて直面した問題ではありませんでした。
 遠くさかのぼれば、六、七世紀のころ、大陸中国の文化や仏教が伝えられたときに、すでに経験した問題であったのです。そのとき、日本人はたとえば、従来の大和言葉と漢字・漢語を併用して独自の言語文化をつくりだしました。
6  デルボラフ たしかに、伝統精神は近代日本人の心情のなかでいまなお生きつづけていますね。そこで、ヨーロッパ人が日本の家を訪問すると想定してみます。
 彼は、まず靴をぬいで座敷にあがり、着物を着た家の人たちと向かいあい、脚が曲がればの話ですが胡座をかいて畳に腰をおろし、最後に味覚だけでなく視覚でも味わう日本料理のもてなしを受けることになります。彼はこの変化にみちた印象のなかに、日本的伝統のなまなましさを感じとるはずです。
 もちろん、この種の日本的作法というのは、なお意識的に保護され、とりおこなわれている表面的なものかもしれません。むしろ、神社や寺院にこそ、日本人のほんとうの姿を見ることができるのではないでしょうか。
 私も何度か日本へ行っていますが、伝統崇拝者や極端な近代主義者はいるとしても、私を案内してくれた日本人のなかには伝統と近代性の軋轢に悩んでいるような人には、一度も出会いませんでした。ただ、ときどきテレビに映るような、人間のいない完全にロボット化された工場は、日本の超近代化志向の一端ではないか、とつねづね思っております。その設備はたしかに技術的にはすばらしいものですが、人間的・社会的に悪影響があるのではないかという点で問題があります。伝統と近代化の両面について、ともにその権利を認めながら調和をはかるべきであるということは、もっともだと思います。なかでも、非常に複雑化した近代世界にありながら、過去の精神的基盤が完全には崩壊しなかったのは、宗教への積極的なかかわりのおかげでしょう。
 日本でかくも成功した伝統文化と近代化の融合の経験が、まだ発展途上にある民族にとって、どの程度役に立つかは、一概にいえません。ただ、容易なことではないはずです。というのは、これら民族の文化的構造は、それぞれに異なっており、近代化という挑戦についても、異なった仕方で対応していくことになると思われるからです。
7  池田 たしかに、日本が成功したことが他の国にとっても、そのままで参考になるとはいえません。しかし、より良い社会を実現しようとめざす人々にとって、一つの国の成功は精神的に大きな希望をあたえます。
 私は日本が理想的なかたちで近代化に成功したとは思っていませんし、その近代化の過程では、近隣のアジア諸国への侵略や国内における弱い立場の人々への圧迫など、幾多の誤りもおかしました。また、現在も産業公害など深刻な問題をかかえています。大切なことは、そうした失敗の歴史をも冷静に見つめ、それをくりかえさないようにすることであり、そのためには、人的交流をよくし、正しい実態を開発途上の国々に伝えることが必要ではないでしょうか。

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