Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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6 分割と統一
「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)
前後
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池田
第二次世界大戦後のドイツにとってもっとも大きい悲劇は、米・英・仏・ソの四カ国による分割統治であり、とくに主権回復後もつづいている東西の分裂であると思います。
この分裂の悲劇が象徴的にあらわれているのがベルリンで、私も、ヨーロッパ訪問の折、あの壁のところへ行き、東側から脱出しようとして殺された人々の霊を慰めるためにささげられた花を目にしました。
いまは、行き来もかなり自由になっているというものの、もともと一つの国として形成されてきた共同体が、外国からの強制で二分されてしまうことの民族的悲劇は、察するにあまりあります。とうぜん、親戚や兄弟でありながら、この壁にさえぎられて会えなくなったという例もあったでしょうし、そうした人々にとって、この壁は、どんなにか非情なものだったでしょう。
私は、ドイツが分裂の悲劇を背負いながら、他の分裂国家がおちいったように戦乱に巻き込まれることもなく、着々と復興にはげみ、今日の繁栄を実現したことに、感嘆とともに敬意をおぼえずにはいられません。もちろん、日本の復興と繁栄も、世界の国々から驚異の眼をもって見られていることは知っています。しかし、日本の場合は海外の領土を失いはしましたが、本土を二分されるということはありませんでしたから、ドイツとは根本的に事情がちがっています。
ドイツの人々が、分裂の悲劇を乗り越えて、祖国復興に立ち上がっていった原動力は何であったのでしょうか。統一の回復はいまもドイツ民族の悲願でしょうが、そのために国を争いに巻き込むということはあえてせず、ひたすら経済的・文化的復興に力をそそいだとみえますが、ドイツ人をそのようにさせたものは、いったい何だったとお考えでしょうか。
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デルボラフ
第二次世界大戦と、その後の戦勝国間の紛争によってひきおこされた朝鮮およびべトナムの戦争は、苦しみながらそこに参加した国々にさまざまな結果をもたらしました。ドイツ、朝鮮、ベトナムは二分され、後者の二国の場合には、二分された同胞が敵として、はげしく、損害の多い戦闘をくりひろげるにいたりました。ただ、その分割は、朝鮮のように確定した場合と、ベトナムのように北から南への進出によって無効になった場合とがあります。
ドイツは分割こそまぬかれませんでしたが、軍事紛争までにはいたりませんでした。二つの原爆投下でひどい被害をこうむった日本の場合には、幸いにも、敵であったマッカーサーが平和交渉をつねに理性的におこない、戦争による被害を最小限にとどめようとしました。その典型は、日本を「東洋のスイス」にしたいという彼の言葉です。
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池田
日本についても、ソ連は二分を主張しました。幸いにして、このソ連の主張は連合国軍最高司令官マッカーサーによってしりぞけられましたので、日本は分裂の危機をまぬかれたのです。もし、分裂させられていたら、その悲しみ、苦しみは想像を絶するものとなっていたでしょう。
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デルボラフ
そういうわけで、ドイツと日本をくらべると、経済復興の出発点はけっして同じではありません。ただ同じだといえるのは、敗戦とその余波を全力で乗り越え、破壊されたものを生産によって創造的に埋めあわせるだけでなく、さらにそれを追いこそうという目標に、両国民が挑戦していったことです。
われわれドイツ国民の場合、この建設と復興への努力は、敗戦と国土分割というにがい体験を、なんとか埋めあわせようという単純な欲求のあらわれであったのかもしれません。また、かくも予想だにできなかったドイツ経済の復興と繁栄をもたらした結果は、この奇跡の生みの親であるルートヴィッヒ・エアハルトが奨励した消費志向だけだったのかもしれません。
同じような疑問は、分割されずにすんだ日本の場合にも提起できるかと思います。いずれにしても、日独両国民とも、この経済的成果のおかげで、極度に傷つけられていた自意識も回復してきましたし、あの陰惨で恥ずべき過去を乗り越えることができたといえるでしょう。
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統一の回復
一九九〇年十月に、四十五年ぶりに悲願の統一ドイツが実現。東西冷戦の象徴だった“ベルリンの壁”も八九年に崩壊した。
ルートヴィッヒ・エアハルト
(一八九七年―一九七七年)一九四九年に経済相に就任し旧・西ドイツの復興を推進。首相〈在任六三年―六六年〉もつとめた。
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