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日蓮大聖人・池田大作

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4 ドイツ帝国と日本  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 日本とドイツに共通した様相をもたらしているのは、その内的な集団志向性ばかりでなく、そのおかれてきた外的環境もあると考えられます。日本は東アジアにおける文明の中心であった中国から見ると、辺境の国として歴史をきざんできました。一方、ドイツは、西方世界における文明の中心であったローマ帝国の、やはり辺境の地でした。
 興味深いことに、日本が中国文明の影響を受けはじめた時期と、ドイツがローマ文明の影響を受けはじめた時期が、西暦三―四世紀ごろと一致しています。そして、九世紀、ドイツではアーヘンにカール大帝の宮廷文化が開花したころ、日本では平安朝文化が華麗な花を咲かせていました。
 その後、中世のあいだ、封建社会を経験したことも共通ですし、十九世紀、近代国家として統一が実現した時期も、それほど離れていません。しかも、それらに一貫しているのは、周辺の国々からくらべた場合の後進性です。
 もちろん、日本のような島国と、ドイツのような大陸のなかの国とでは、その後進性ゆえに受ける周囲からの圧力には、根本的にちがいがありましょう。とくにドイツが十七世紀に宗教戦争の舞台となって国土を蹂躙されたのに対し、日本では、そのころ徳川幕藩体制のもと、平和な時代に入りました。
2  しかし、十九世紀になってからの、後進性を克服しようとする国民的焦燥というべきものは、まったくよく似かよっています。一刻も早く国力――とくに経済力と軍事力――を増強し、周辺の国々に対して優位に立とうとする焦りから、一つの目的を達成するのにもっとも効果的な体制として、中央集権的な帝政を採用したわけです。日本が明治新政権によって近代化を開始したとき、もっとも日本と共通項をもっている、近い先輩がドイツでした。
 そこに、明治期の日本の指導者たちがドイツに親しみをおぼえ、一種の憧れをいだいたゆえんがあったわけですが、私の見るところでは、ドイツの人々は日本に対して、かならずしも親愛の情はもっていなかったのではないかという感じがします。のちに“黄禍論”なるものがもてはやされたのも、帝政末期のドイツでしたし、概してドイツ人の非白色人種に対する偏見は根深いものがあったように思われます。
 教授のお生まれは一九一二年のウィーンですから、北のプロシャとはまったくちがいますし、ドイツ帝政の当時についての直接のご経験というわけにはいかないと思いますが、帝政期のドイツ人のいだいていた日本に関する認識や感情は、どのようなものだったのでしょうか。
 もっとも、オーストリア・ハンガリー帝国のほうでは、クーデンホーフ・カレルギー伯が駐日オーストリア・ハンガリー公使として滞日中、日本人女性・青山みつさんと結婚され、そのご子息がパン・ヨーロッパ運動の生みの親となられたリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー伯で、ある意味で、この方との対談が私の欧米知識人との対話の口火となったのです。ウィーンのほうは、古くから東洋との接触があり、ドイツとはずいぶんちがいがあると思われますが、そうしたこともふくめてお話ししていただければ幸いです。
3  デルボラフ 日独両国の歴史的構造および地理上の類似ないし相違点に関するお話には、たいへん納得させられます。
 私は、ドイツという国を問題にする場合には、ケルト・ゲルマン人の先史時代も考慮すべきかと思います。
 周知のとおり、シーザーならびにその後継の政権下にあったローマ人は、ガリアやイングランドも支配しました。彼らは、一進一退をくりかえしながらも、これらの支配地で徹底したローマ化政策を実施しました。これは、ケルト語圏で最大の成果をあげました。
 このローマ化の波は、四世紀のゲルマン民族の大移動とともに止まり、また、少なくともゲルマン人に対しては衰退してしまいました。ある時期にはローマ人の母国であるイタリア自体が、ゲルマン民族のヴァンダル族により征服されたり、東ゴート族により支配されたりしました。
 このローマ帝国の衰亡と歩調をあわせて、いちおうの国家体制をつくりあげたのが、カール大帝統治下のフランク人で、大帝はのちのフランスの国土にあたるローマ帝国西方領土と、のちのドイツの国土にあたる東方領土を一つの帝権のもとに統一しました。その後まもなく領土は東西に二分され、オットー諸帝によって建設された帝国(「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」の前身となる)が、結局かつての統一国家の中央ヨーロッパにあたる領土を代表することになりました。
 ここから、あなたのおっしゃる対比がはじまるかと思います。元来、ドイツ帝国は弱い帝国的中央集権下の、しかも結束のない政治的統一体であり、その根本において、完璧な封建国家制度であるいわゆる領主制を許しており、彼ら諸侯が実質的な権力者でした。そういう意味では、日本の天皇制も、何百年というあいだ、将軍家という封建的権力者の支配により事実上は無力化されておりましたが、徳川時代の終焉とともに、すなわち門戸開放ののちに、ふたたび日本全土の権力者として復帰したわけです。
4  ところが西洋では、一八〇六年に旧帝国がナポレオンによって解体されたあと、自由主義者や民主主義者が旧統一体制を復興しようとしました。しかし、この十九世紀初頭以来つづいた努力は、体制側陣営の抵抗にあって挫折し、結局、武力で勝敗を決めざるをえなくなりました。そこで、ビスマルク政権が一八七〇年の戦勝でヨーロッパにおける覇権をフランスから奪いとりました。この軍事的成果がもたらした強烈な吸引作用により、新帝国建設をめざして、ドイツの各小邦国家が一堂に会することになりました。
 ただし、ビスマルクのドイツ国家は小ドイツ的解決であり、旧帝国の弱々しい代用にしかすぎませんでした。なぜなら、かつての核をなしていたオーストリアがその圏内に入っていなかったからです。オーストリアはといえば、その間、ドイツ圏の外へ追いやられており、ドイツ人、チェコ人、ハンガリー人、そして南スラブ人から構成される多民族国家へと発展し、十九世紀なかばには、おもにドイツ人とハンガリー人で構成される二重君主制の形態をとっていました(日本との通商条約は、この君主国家の旗のもとに締結されました)。
 しかし、東西両洋で、強力な帝国というかたちで権力の集中化をもたらしたものは、たんに愛国的な統一意欲ばかりではなく、帝国主義精神でもありました。その傾向性は、地図上の空白地帯を競ってぬりつぶし、植民地化したところに見られますが、この傾向性とあいまって、かの「黄禍」なる偏見、愚言が出てきたのです。
 私の知るかぎりでは、この言葉は、ヴィルヘルム二世が拳匪反乱(義和団事件)当時の中国を指して言ったもので、今世紀はじめモロッコ沖で実演した砲艦パレードにも見てとれる、えせイデオロギーの、また、おどし政策のあらわれであるように思われます。しかし、残念ながら、多くのドイツ人は、このやり方を熱烈に支持したのです。
5  オーストリア・ハンガリー君主国は多民族国家であったため、他の民族との交流という点では、豊富な経験を背景に「こつ」を心得ていました。そこで、不幸な結末にもかかわらず、ずっと理性的で、円満な外交政策をとっています。だからこそ、民族的偏見でわずらわされることもほとんどなかったのです。
 ただ、私自身の立場から申し上げておくべきことは、オーストリア人もドイツ人と同じように、狂信的国粋主義とまったく無縁ではないということです。オーストリアのあちこちで、人々が急速にナチズムに身を投じていった事実がなによりの証拠でしょう。
 幸いにも、当時の日独間の政治外交関係には、「黄禍」という言葉の悪影響は見られませんでした。今日、われわれ両国民のあいだには、個人レベルでもまったく偏見がないことは、長期にわたって日本で講師などをした私の弟子や同僚も語っているところです。彼らは日本人女性と結婚し、日本で家庭を築いたり、あるいは、ドイツヘ一緒に帰ってきております。
6  アーヘン
 フランス語名はエクス・ラ・シャペル。ドイツ中西部にあり、オランダ、ベルギー国境近くの歴史的都市。カロリング・ルネサンスの中心地。
 カール大帝
 (七四二年―八一四年)フランス語名でシャルルマーニュ皇帝。フランク王。西ローマ皇帝〈在位七六八年―八一四年〉。神聖ローマ帝国成立の基礎をつくる。都をアーヘンに定め、カロリング・ルネサンスを推進。
 クーデンホーフ・カレルギー
 (ハインリッヒ、一八五九年―一九〇六年)オーストリア人。外交官。
 リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー
 (一八九四年―一九七二年)ヨーロッパ統合運動の提唱者、哲学博士。旧ソ連とイギリスをのぞく全ヨーロッパ諸国の関税同盟、統一経済市場の創設を説き、欧州共同体(EC)の基礎をつくった。著書に『パン・ヨーロッパ』。対談 一九七〇年に来日中のカレルギー博士と三回にわたり対談。「サンケイ新聞」に連載された後、単行本『文明・西と東』と題して発刊(七二年)。
 シーザー
 (前一〇〇年ころ―前四四年)カエサル。古代ローマの政治家、将軍。終身独裁官になるが暗殺された。『ガリア戦記』『内乱記』を著す。
 ナポレオン
 (一七六九年―一八二一年)フランス皇帝〈在位一八〇四年―一五年〉。ナポレオン戦争をおこしたがヨーロッパに覇権を築くことに失敗。戦争で百万人もの兵士を失ったといわれる。ナポレオン法典を編さん。
 ヴィルヘルム二世
 (一八五九年―一九四一年)プロシャ王、ドイツ皇帝〈在位一八八八年―一九一八年〉。世界政策を積極的に展開し宰相ビスマルクを罷免し、一八九〇年以後、親政をおこない独裁的に。

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