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日蓮大聖人・池田大作

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2 勤労の倫理  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 日本人とドイツ人に共通するものとしてもっともよく目につくのは、その勤勉さです。自分の仕事に対する忠実さといってもよいでしょう。その意味で、私自身、世界のさまざまな国を訪問しましたが、滞在していても、もっとも安心感をもてるのはドイツ人です。
 たとえば、約束した時間を正確に守る点で、ドイツ人は日本人以上です。そうした勤勉さ、正確さが、種々の生産活動にも製品の品質の良さとなってあらわれ、両国の経済的繁栄をささえている土台となっているのではないかと思われます。
 もちろん、ここで誤解のないようにことわっておかなければなりませんが、たとえばドイツ以外の、イギリス人やフランス人が信頼できないとか、勤勉さがないということではありません。どこの国にも、自分の仕事、職業に高い誇りをもって取り組み、称賛すべき製品を世に送りだしている人々は少なくありません。
 ドイツの場合、人々の勤勉さの土台をなしてきたものは何であるとお考えになりますか。また、とくにドイツ人についてしばしば指摘されてきた、宗教的信念に裏づけられた労働観というのは、今日では昔とずいぶん変わってきているのではないかと思われますが、将来、どのように変化していくとお考えになりますか。
2  デルボラフ 時間厳守というのは、いつも思うのですが、日本人の特別な性格ではないでしょうか。ドイツ人も、一般的には、この点で頼りになりますが、かならずしも日本人ほどではありません。仕事に対する勤勉さについては、両国民は同程度といえるかもしれません。
 ヨーロッパ民族の仕事に対するさまざまな姿勢やドイツ人の、よく言われる「熱狂的労働意欲」をある程度理解するためには、その古来の精神的源泉であるギリシャ古典時代とキリスト教にまでさかのぼってみる必要があります。
 古代の市民的・ポリス的文化は、周知のとおり、労働はもともと奴隷のなすべきものという現実のうえに成立していました。かといって、職人や商人や事業家がいなかったわけではありません。結局、指導階級では、たんに生計を立てるための実利的な労働に対して、文学・哲学・政治といった高尚な精神活動に従事するために必要な余暇のほうが重要視されていたのです。この指導階級がヨーロッパの文化的伝統の本来の創設者となっていったのです。
 『旧約聖書』では労働をも否定的にみなし、楽園から追われた人間に終生つきまとう「呪い」と位置づけています。地上に放りだされた人間は、以後、額に汗して暮らしを立てなければならないとされました。生きたいという欲求と、働かねばならぬという義務が表裏一体であったことは、パウロの「働かざる者食うべからず」という言葉に反映されております。
 しかし、労働がキリスト教徒の日常生活のなかで実際に「呪い」的性格をもつのは例外といえます。たとえば境遇の結果として、あるいは人間の罪によって、労働がほんとうに難儀なものになるというような場合だけです。気候は比較的安定していても、社会構造が異なる中央ヨーロッパでは、個々に見れば「きびしい労働」もありますが、原則的に「労働の悲惨」とか「非常事態としての労働」などというものはありませんでした。
 したがって、ヨーロッパ人は、欲求をみたしてくれる労働にたちまち積極的な姿勢を示すようになり、それがそのまま前近代世界の特徴となっていたのです。そこには宗教的色調も加味されていました。中世の手工業・商業規則はキリスト教的な臭味をおびており、今日でも、「労働の日常」と「仕事じまい」という区別に、その名残が見られます。ドイツ語の「Feierabend」(仕事じまい)の「feiern」――祝う、休む――という語は元来、宗
 教上のならわしを履行するという意味をふくんでいます。
3  池田 そうした勤勉さの背景には、宗教的信念と勤労精神との結びつき、自然環境や共同体社会の仕組み等々、さまざまな要因が考えられると思います。
 たとえば、マックス・ウェーバー以来しばしば指摘されるところですが、ドイツの場合、プロテスタンティズムの倫理においては、勤労はそれ自体、神への奉仕と考えられており、そこから、人が見ていようといまいと神の目にかなうよう、まじめに仕事に取り組む精神がつちかわれたといわれます。
 日本の場合でいえば、伝統的な仕事は、その独自の神をもっている場合もあり、近代的な企業においても、職場のなかやオフィス・ビルの屋上に神をまつっている例も見られます。これなどは、勤労精神と宗教の信仰とが結びついている一つの例ともいえましょうが、おおむね形骸化しつつあります。
 また、自然環境の面についていえば、本来、自然条件が適度のきびしさをもっている場合には、努力と創意工夫が必要とされますから、おのずと勤勉の精神がやしなわれます。自然条件に恵まれて、土地をたがやし肥料をほどこさなくても十分な収穫が得られるところとくらべて、生き方そのものに相違が生ずるのはとうぜんといえるでしょう。
 社会の仕組みや状態という点でも、社会全体に勤勉を美徳とする風潮がある場合と、労働よりも享楽に人生の意義を求める風潮がある場合とではちがいますし、また、働かなければ生きていけない仕組みの社会と、働かなくても社会保障制度がととのっていて生きていけるという社会とでは、とうぜん、人々の勤勉さに差異がでてくるでしょう。
4  デルボラフ 日本の手工業でも、各業種に独自の守護神があるように、ドイツの場合でも職種ごとに聖者が名をつらねており、いまも、年に一度の祭日を祝う習慣があります。
 こうしたキリスト教的な勤労のエートス(道徳的気風)も工業化時代の熟成とともに世俗化しました。世俗化したキリスト教は、いまでも資本主義の「企業家イデオロギー」のなかに余韻を残しています。
 この点については、あなたのおっしゃるとおり、マックス・ウェーバーが「世俗内禁欲」というカルヴィニズムの原理にまでさかのぼってとらえなおしました。カルヴァン派の人々にとり、生産のため正当に富を使用することは、たんに人生における創造的使命であるばかりでなく、敬虔な神の業でもあったのです。
 ところが、昔の欲望充足型経済は、生産・投資・拡大を目的とする経済へと変容し、新たな可能性と同時に、問題と緊張状態も生じてきました。業績優先の考え方から、とうぜん、まず労働過程の担い手が排除され、労働者はたんなる経済的原価計算上の数字に格下げされてしまったのです。
 工業化初期のそうした経験が、カルヴィニズムの企業家イデオロギーへの反動として、マルクスが定着させたような労働者イデオロギーを生むにいたったことは、けっして不思議ではありません。
 前近代世界の商工業活動においては、職場の見とおしがきき、人間関係も個人的であり、また、労働成果が具体的で、自分自身、納得できるという利点がありました。
 ところが、新たな工業組織は労働者を一律的に、テオドア・リットの言う「盲目的な仕事」(=不可解な職務遂行のこと)へと強要します。少なくともベルトコンベヤーのもとでは、小さくかぎられた同じ作業のくりかえしであり、完成品の出来ぐあいを見て満足感を味わうこともありません。他の同僚との人間的接触もありません。
 マルクスはこの工業的労働組織の悪影響を三重の疎外として特徴づけました。人間の、生産物からの疎外、労働者間からの疎外、そして最後に自己自身からの疎外です。そこでマルクスは、カルヴァン派的な「敬虔な」資本主義に対し、あらゆる経済的私有財産のみならず社会的階級差も止揚されるべき「超資本主義的未来の楽園」を提唱したのです。
5  池田 しかし、マルクス主義は現実には、人々の労働意欲を低下させ、生産性をさげてしまう場合もあるようですね。たしかに人間の心理を考えた場合、「持てる者」と「持たざる者」の差別は、それ自体は好ましいとはいえませんが、「持たざる者」も努力すれば「持てる者」になりうるという希望があれば、努力は増大します。その希望が絶たれることは、労働意欲を失わせてしまうでしょう。
6  デルボラフ マルクスの提案した生産財の共有化への方途は、それが政治的現実に移されたとき、疎外問題の現実的解決とはなりませんでした。現実の場では明らかに、西欧の自由主義経済のほうが成功しました。
 西欧は、労働者の自己防衛団体(労働組合)の導入によって資本主義経済の搾取を制限し、労使関係を人間的なものにしようとしただけでなく、人間を尊重する労働環境の整備にも努力し、この両面があいまって、間接的に経済の生産性を伸ばすことができたのです。さらに労働者も、勤勉で、時間を守り、超過勤務を喜んでやることが高い生活水準を約束してくれるとわかると、業績を楽しむ経営者の姿勢を自分のものにしていきました。
 したがって、勤労道徳と勤労意欲はけっして一つの定数ではなく、むしろ状況に適応していく変数であり、新しい局面に応じてかたちを変えていくように思います。このため、自由で社会的な西洋諸国の市場経済では積極的色調をおび、一種の業績主義的イデオロギーにまで凝縮されたのです。
 ドイツにはイタリア、スペイン等の、実り豊かで、どちらかといえばあまり働かずにすむ南国から来た労働者がたくさんいます。「何もせずに楽をしよう」と、ときどき口ずさむ彼らも、工業的生産過程に組み込まれると、そくざにきびしい労務規定にしたがうようになります。
7  池田 なるほど。意欲や努力というのは先天的に決められているものではなく、そのおかれた環境の状況によって左右されるということはいえますね。努力すれば、それだけの報いがあり、努力したことによって大きい結果を築いた先例があれば、それが人々に刺激をあたえて、全体としても意欲・努力が強まっていくものです。
 したがって、民族的・人種的に先天的になまけ者であるとか、勤勉であるなどと決めつけることはまちがいですね。仏法でも仏道修行という努力において、この人は先天的に努力ができないなどということはないとしています。
8  デルボラフ どんな勤労道徳も状況に依存しているということを示すもう一つ別の例に、西洋流の工業国のほとんどが体験した、完全雇用経済から景気型や構造型の恐慌経済への変遷があります。社会福祉国家の成果が無制限に効力を発揮できた一九六〇年代、七〇年代は、ドイツの勤労道徳もかなりいいかげんで、いわゆる「仮病で休む」ことも大目にみられました。
 しかし、このいいかげんさは失業者が増加するにつれてすみやかに消えうせました。だれも職を失いたくないからです。また、それは生活水準をたもちたいという理由だけではなく、職務のなかに一種の人生の意味を見いだしているからなのです。そのための犠牲は惜しみませんし、場合によっては、自分の教育水準以下の仕事さえやれるのです。
 だからといって、ドイツ人労働者が勤務時間短縮を迷惑がるということではありません。自由時間をフルに使いこなすだけの趣味は、たいていの人がもっています。ドイツ人労働者が時間短縮を有意義で適切だと考えるのは、それによって失業がなくなる場合のみですが、これは無理な話です。
 したがって、職業訓練や就業の可能性がなくなり、職を失ったり、また短期・長期の失業状態がつづくということは、社会生活参加の機会を奪われる若い世代にとっても、また、仕事に自分を賭けてきた中年の世代にとっても、そして、まだ壮健であるがゆえにスクラップにされたくないと思っている高年労働者にとっても、じつに不幸な事態です。
 こうした状況が示唆しているのは、失業が増大するにつれて、労働というものが、皆が肯定し、喜んで努力し、献身的につとめたいと願うような価値ある社会的・文化的財産へとふたたび昇格するだろうということです。
 もちろん、遠い将来には事情も変わってくるかもしれません。ただ、完全雇用にもどることは構造的に不可能ですし、それと関連して、失業率の高い状態がつづくかと思います。こうした状況をまえにして、社会の能率基準を修正する必要性も生じうるでしょう。つまり、ダニエル・ベルが提言したような、労働から解放された生き方に特有な快楽主義的基準が、これに取ってかわるかもしれません。
 しかし、それはたんなる心理学的修正でしかないでしょう。経済の生産性が維持され、労働の恩恵に浴さない人々も生活を保障されたとしても、結局、業績を優先する基準に変化はないと思います。この問題について、日本の場合はいかがでしょうか。
9  池田 少なくとも現在の世代についていえば、労働せずにすむことを恩恵と感じる日本人は少数で、大多数はむしろ苦痛を感じるでしょう。しかし、若い世代には、現在でも労働せずにすむのをありがたがる人々がふえており、これは将来、ますますふえてくると思われます。
 そこで支配的になっていくのは、たぶん快楽主義的風潮です。生産部門はオートメーション化され、働くのはロボットで、人間の多くは働かないで、快楽の追求に身をひたしているといった時代が、あるいは来るのかもしれません。しかし、私は、結局は、多くの人々がそうした生活にむなしさをおぼえて、人間自身が労働していく道にもどるのではないかと思います。
10  マックス・ウェーバー(一八六四年―一九二〇年) ドイツの経済・社会学者。経済行為や宗教現象の意味を把握する社会学的理論を構築した。著書は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『経済と社会』他。
 カルヴィニズム フランスの宗教改革者カルヴァン(一五〇九年―六四年)がとなえた教説で、神の絶対的権威、禁欲的信仰生活等を柱とする。
 マルクス(一八一八年―八三年) ドイツの哲学者、経済学者。エンゲルスとともに科学的社会主義を主張し、資本主義経済の没落後に共産主義が到来する必然性を理論的に追究。『資本論』を著し、国際共産主義運動を推進した。
 テオドア・リット(一八八〇年―一九六二年) ドイツの哲学者。ボン大学教授で、デルボラフ教授の前任者。精神科学、現象学、弁証法の成果をもとに教育学の体系化をめざした。
 ダニエル・ベル(一九一九年―) アメリカの社会学者、ジャーナリスト。ハーバード大学名誉教授。著書に『脱工業社会の到来』『イデオロギーの終焉』。

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