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日蓮大聖人・池田大作

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序文  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  私たち二人は、日本とドイツでの出会いを通じて、すでに発刊されている「トインビー・池田対談」「ユイグ・池田対談」「ペッチェイ・池田対談」「ウィルソン・池田対談」と同じ対談のかたちをとりながら、東西両文化のあいだに橋を架けるべく、ともに対話をかさねていこうという決意にいたりました。東京での出会いが実現した一九八二年十一月に、こうした考えが具体化され、私たちの対談の主題を決めることができました。
 対談の流れとして、まず、「日独両国の歴史的関係」に端を発し、そこから徐々に、より根本的な問題に入ります。「伝統的生活の近代化」がその問題の最初であり、つぎに「西洋と東洋のヒューマニズム」、第三番目に「倫理と宗教の役割」を取り上げ、「仏教とキリスト教」という問題で頂点に達する構成になっております。最後に、現代の危機的状況を多元的に分析しながら、その基礎のうえに未来を展望しようとしていますが、この最終章のまえに、人類の将来を考えるための前提としての「教育」をあつかうべく、一章をもうけました。
 最初の、相互理解を深めるための対話を終えてからは、対談を口頭ではなしに、書面ですすめました。そのさい、東洋文化の代弁者としての日本側の対談者(池田)が、各章の主題およびそこから派生する問題点の解説を担当し、西洋文化を代弁する役になっているドイツ側の対談者(デルボラフ)は、主題を体系的に解明する任にあたりました。そのつど残された問題については、再度、ともに検討をくわえ、いちおうの結論を出しております。私たち著者としては、論旨が明確となるよう心がけましたが、追究している問題があまりにも多く、広範囲におよび、また、複雑であるという事情から、かならずしも理解しやすくはなっていないかもしれません。
2  私たちは、東西両文化圏を眺望できる専門家ではありませんし、また、すべての点で見解が一致しているわけでもありません。しかしなお、共通の精神的基盤は十分広いはずであるし、したがって、確実な成果をみちびきだせたものと思っております。さらにまた、ここに取り上げた諸問題は、たんに興味深いばかりでなく、時代の要請する緊急問題であるという確信に立ち、その解決に少しでも貢献できればと希望しております。
 「新しい人間像を求めて」という本書の原題は、多分にあつかましく聞こえるかもしれませんが、少なくとも私たちの問題提起の方向を示しています。容易に察せられるように、この題名はマルセル・プルーストの有名な小説の題名『失われた時を求めて』にならっておりますが、しかし、その求める方向はちがいます。つまり、以前の、追想すべき出来事ではなく、今後われわれの身にふりかかってくるとともに、克服すべき問題が、私たちの主題なのです。
 ただし、対談の全体をとおして、若干の結論をのぞくと、「新しい人間像」に関する展開がほとんどないことは奇妙に思われるかもしれません。その理由は単純です。つまり、たんに「求められる」べきものとしての人間像(人間性)というものは、取りかこみ、詰めていくことはできても、直接とりあつかえる問題ではないからです。ヒューマニズムに関する章でも、人間性の新しい形態ではなく、むしろ、部分的にすでに陳腐化してしまった古い諸形態に言及しており、未来については、とうぜん、おぼろげなままです。われわれの全技術政策的発展が世界的におかれている進化への圧力や、われわれの生活条件が進歩し洗練される急激な速度、また、それにともなっておこる疑問などをまえにして、つぎの百年といわず、五十年、否、つぎの十年でさえ信頼できる予想などはできないのです。
 未来学を志す人は多いのですが、現実の急速な進展に、むしろ驚くことすらあるようです。私たちの対談のなかでの状況分析では、部分的ながら、警戒をうながす結果が出ていますが、それを先取りしないでも、つぎのことだけは言えると思います。つまり、われわれは今日、進歩が人類を滅亡へみちびくという、はじめての体験を目前にしています。人類の技術的過剰効果が、自分の足元をすくってしまうことになりかねないのです。自然界の種族が死に絶えることは、生物学者にとって何も目新しいことではありませんし、われわれの天体の外の仮想の観測者にとっては、「ホモ・サピエンス」という種の没落と自滅も驚くべきことではないかもしれません。
3  人類が未来へ向かって存続しようとすれば、まもなく終わろうとする二十世紀において、ますます大きくなっている諸問題に対して、一つの解答を見いださねばならないことは自明の理です。その解答というのは、私たち共著者が信じているように、まだ知られていない「新しい人間像」の確立にのみあるはずです。したがって、私たちは、「新たな人間像への途上にて」とか、「その途上にある」といった名称を選ばず、むしろ、「求めて」という言葉のもつ弁証法を恃んだわけです。この弁証法は最初、プラトンが発見し、のちに、アウグスティヌスが神への求道に転用しました。またその意味では東洋の伝統においても、「菩提(悟り)を求める人」すなわち菩薩として存在しています。悟りに到達した人を「仏」といい、その仏の悟りの境界にいたる道が法華経に示されています。
 求める者は、求めているものがまだないことを知っていますが、本来何を求めているのかを自覚しています。つまり、少なくとも、その根本的傾向というものを先取りしているわけです。ゆえに、アウグスティヌスは自分の神への関係を、もし私が汝をすでに見つけていなかったのであれば、汝を捜し求めることはしなかった、と表現することができたのです。興味深いことに、日本の偉大な宗教改革者である日蓮大聖人は、同じような意味で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」と述べています。私たちも、要求されている解答らしい何かをすでに知っておりますし、あるいは、少なくとも形式的にその輪郭をえがくことはできます。
4  ただ、しっかりした専門知識と懸命な責任感、また、強固な自制心をもってのみ、将来に待ち受けるものをこなすことができるのではないかと思います。たしかに、われわれは、未来を自分で形成していくわけですが、時折、軽率にも成り行きにまかせてしまいます。自分のつくりだしたものは、たいてい、硬直した事象構造としてわれわれに返ってきて、それがわれわれの将来に――ちょうど良いぐあいにはいきませんが――運命の刻印を押すことになるのです。この「新しい人間性」の形態は一つの内面的革命を前提とします。そして、その革命は、利己主義や商業主義、また、イデオロギーといったものに支配されるうわべだけの行動規範を克服するとともに、東西両洋の文化的伝統と、その核心である仏教とキリスト教という宗教の、正当で深い要請に向けてわれわれが解放されるような、急激な精神性の変遷を意味しています。本書の題名の解釈にさいしては、このことをつねに考慮していただきたいと思います。
 最後に、この対談の翻訳のためにご尽力いただいたリチャード・ゲージ氏、エルケ・ヤルヌート博士、松戸行雄氏に心からの謝意を表します。
   一九八七年六月
       ヨーゼフ・デルボラフ
       池田 大作
5  追 記
 この対談が完結して原稿の最終整理段階にあった一九八七年七月十四日、デルボラフ教授の突然の訃報に接しました。
 教授はそれに先立つ一カ月ほど前から体調をくずされ、ボンの病院に入院しておられましたが、病床にあってもなおこの対談集の原稿をはなさず、いつも目をとおしておられたとうかがいました。その後、愛嬢のエルケ・ヤルヌート博士が最終原稿を検討し完成してくださり、翌八八年三月、ドイツ語版『Auf der Suche nacheiner neuen Humanitat(新しい人間像を求めて)』が、ニュフェンブルガー社から発刊されました。
 そしてさらに、このほど、英語版『Search for a New Humanity』とともに日本語版が上梓されることは、亡きデルボラフ教授も、なによりの贐として喜んでおられると信じています。なお、日本語版の題名については、本対談のテーマをふまえ『二十一世紀への人間と哲学』と改題いたしました。
   一九八八年九月
       教授の御冥福を衷心より祈りつつ
       池田 大作

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