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日蓮大聖人・池田大作

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10 三武一宗の難と民衆

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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1  戦時下の仏教弾圧
 野崎 この対話は、第三部に入ってからこれまで、インドから中国に仏教が渡された西暦紀元前後に始まり、妙楽大師が天台教学を再興させた八世紀まで、およそ七百年から八百年間におよぶ中国仏教の歴史を、おもに『法華経』の流布に焦点をあててたどってまいりました。
 そこで今度は、やや視点を変えて、一般に「三武一宗の難」と呼ばれる受難の歴史を取り上げ、そのなかから仏法が民衆の生命の大地に根づいていった過程を掘り起こしてみたい。また、そのことを通して、中国古来の伝統思想と仏教との関係、あるいは王法と仏法との関係を検討しておきたいと思います。
 松本 いわゆる「三武一宗の難」については、たとえば塚本善隆氏の詳しい研究がありますので、それらを参照しつつ、まず史的事実を紹介しながら話を進めます。
 最初に「三武」ですが、これは北魏・太武帝の廃仏、北周・武帝の廃仏、それに唐・武宗の仏教大淘汰のことで、仏教徒が「三武の法難」と呼んでいるものですね。
 池田 むろん、それ以外にも仏教徒は、数多くの法難を受けているが、国家的規模において中国の仏教者が弾圧を受けたのは、この三人の皇帝の時代において最も顕著であったという意味ですね。
 ふつう中国の皇帝は、その政治や人柄の特質をとらえて死後におくりなされるわけだが、この三人の場合、いずれも武断的な皇帝であったことを示している。
 つまり、文治的な面よりも、武力をもって周辺諸国の征服に向かう側面が強かった。
 これは中国の皇帝のみにかぎらず、一般に戦時の支配者というものは外来思想を排斥し、その国の伝統思想を重んじることによって、民族意識を喚起しようとするものだ。それによって国内を戦時体制にもっていとうとする。そうした傾向というか、時代背景をよく知っておく必要がありますね。
 松本 いま問題となっている「三武の法難」においても、その弾圧体制の強化というものは、いずれも戦時体制の進行と並行して進められています。
 たとえば、北魏第三代の太武帝の時代、西暦四二五年に険西地方(長安周辺)を攻めましたが、その年に帝都に道教の寺、すなわち天師道壇が建てられています。続いて四二九年に蠕々ぜんぜん族を討伐した太武帝は、四三九年には甘粛地方を攻略し、次々に侵略の兵を進めて、華北統一の野望を果たそうとしていました。その間、四三一年には「州・鎮にととごとく道壇を立て、各々に修道者一百人を置け」との布告を出して、いわば道教を国教化していくわけです。
 野崎 そうした動きと呼応して、四三八年には五十歳以下の沙門を還俗させる勅が出されました。さらに太平真君七年(四四六年)正月、太武帝は険西地方に起きた反乱を討伐するために長安へ兵を進め、同年の三月、ついに廃仏を宣する詔を出します。
 それによると――今より以後、仏像を造る者は一門すべてが誅殺され、地方長官たる者は寺塔、仏像、胡経を、ことごとく撃破し焚焼ふんしょうせよ、さらに沙門は少長を問わず、ことごとく之を坑殺せよ――という徹底したものですね。
 池田 当時の記録をみても、実際に軍隊が派遣されて寺を焼き、掠奪し、僧尼はことごとく還俗させられ、もし逃げ隠れたりする者があれば、これを追いかけ逮捕し、さらし首にしたといわれる。「一境の内、また沙門なし」とあるように、きわめて厳しい廃仏政策が、徹底して断行されたようですね。その結果、北説においては国中に一つの寺もなく、一人の僧もみられなかったという。
 では、なぜこれほど徹底した廃仏政策が進められたかというと、一つは支配者の側からすれば、仏教の出家者が″兵役のがれ″の非生産者集団として映ったのであろう。いまの例でいえば、まず五十歳以下の沙門が還俗を命じられ、壮丁に戻されていることからしても、ほぼ察しがつく。つまり戦時においては、経文を読み、異国の教えを説く仏教者というものが″高等遊民″のようにみられたのではないだろうか。
 野崎 そうですね。それが最も顕著なのは「三武の法難」のうち、第二の北周・武帝の廃仏のように思います。
 西暦五六〇年に十八歳で即位した武帝は、江北を二分する北斉を討伐しようとして、早くから富国強兵の政策を進めていました。武帝みずから先頭に立って武技を練り、着々と戦備も整え、士気の高揚をはかっています。
 そうした、なかに建徳三年(五七四年)五月十七日、仏・道二教(仏教と道教)を倶に廃するという勅が出されました。記録によると、数百年来の歴史をもつ寺院は尽く地を掃い、仏像は溶かされ、経典は焼かれ、三百万の僧侶が還俗させられ、軍民に復帰したという。そして翌年七月、武帝は大将軍以下を召集して北斉討伐を告げ、宣戦の詔を発して大挙、北斉に雪崩れ込んだわけです。
 松本 このときの廃仏は、いま話にあったように、単に仏教だけではなく道教も含めて、すべての宗教を廃棄しているところに特徴がありますね。
 池田 銅で作られた仏像を集めて、新銭鋳造の材料にしたということだが、これは戦時中の日本でも、全国の寺々から梵鐘を集めて兵器の生産に役立てようとしたのと、相通ずるところがあるね。すなわち、戦争に勝つためには一国の総力を挙げて臨もうとした、いわば臨戦体制の一環として、宗教者を弾圧して還俗させ、挙国一致の非常時体制を布こうとしたものと思われる。
 野崎 北周・武帝の廃仏は、それのみにとどまらず、翌五七六年末に敵を打ち破り、翌年(五七七年)正月に北斉の都であるぎょう(今の河北省臨漳りんしょう)に入城すると、今度は北斉の全仏教界に教団全廃の厳命を下し、ここでも廃仏を断行しています。
 当時、いわゆる魏晋南北朝時代の後期にあたりますが、江南仏教界では天台大師・智顗が活躍し、江北では北斉において最も仏教が盛大をきわめていました。それを全廃したわけですから、この北周・武帝の廃仏によって、北中国一帯からはまったく仏教は影を消してしまったといわれます。
2  廃仏政策の背景
 池田 中国における仏教弾圧の歴史をみて気がつくことは、第二に儒教や道教など、伝統思想との角逐かくちくの結果として、廃仏がおこなわれたということも重要な問題となってくる。たとえば、いずれの場合でも、必ず道教や儒家の有力者が皇帝の側近となって″入れ知恵″を授け、廃仏政策を断行させていった歴史の事実がある。
 そこで、このことは政治と宗教との関係を考える場合でも、非常に重要な問題なので、次にそうした観点から「三武一宗の難」をみていったらどうだろう。むろん、それは、すべて同じパターンをとるとは限らないだろうが……。
 松本 たしかに、中国に入った仏教の歴史は、儒教や道教などの伝統思想と、あるときは対立し、あるときは共存するという事態を繰り返す歴史であったともいえますね。むろん長期的には、概して儒・仏・道の三教は共存関係にあったわけですが、たまたま絶対的権力をもっ皇帝が儒教や道教を偏信するような場合、まず外来思想である仏教が弾圧され、徹底的な廃仏政策がとられます。
 野崎 そうした関係を「三武の法難」についてみると、まず北魏・太武帝は熱心な道教信者ですね。さきほどの話にもあったように、帝都に天師道壇を築き、全国各行政区に官立の道教寺院を建て、道教を国教化していったわけです。
 ただし太武帝は、初めは仏教を容認して、即位したばかりのころは、自ら四月八日の「行像」にも出御し、散華をおこなっているほどです。それは当時、北中国一帯は仏教の黄金時代といわれるほどの隆盛をきわめ、遊牧民族の出である太武帝も、民
 衆の信仰心を認めざるをえなかったからだと思われます。
 問題は、その太武帝の側近に極端な仏教ぎらいである漢人学者の崔浩さいこうがいて、やがて宰相となり、その手引きで道士・冠謙之こうけんしなる者が帝師となったときから始まります。二人は太武帝を道教の信奉者にさせ、さまざまな画策によって廃仏政治を施行させているわけです。
 その冠謙之という道士は、かなりいかがわしい人物であったようだ。なにしろ洞窟で修行中、しばしば天神の宣託を感得し、道書六十巻を授けられたという。いささかマユツバ的な話だが、それを利用した崔浩という人物も曲者ですね。太武帝も最初は半信半疑であったというが、何回となく執勘に崔浩から推薦されると、いつしか信用せざるをえないように変わっていったのでしょう。
 ともかく、その結果として廃仏があり、北魏も一時は強大になったが、結末は崔浩も処刑され、悲惨な生涯を閉じている。権力の絶頂にあるときは、いつしか魔が忍び入ってきたのも知らずに、おかしな人物を登用し、やがて身を滅ぼす。これは、歴史の教訓として知っておく必要があるね。
 松本 その点、次の北周・武帝の廃仏においても、蜀(四川省)からきた衛元嵩えいげんすうなる人物が重要な役割を果たしています。
 もともと北周は、鮮卑せんぴ族の字文氏が長安に建てた国ですが、国号を「周」としているように、その昔、長安に都した周の文王、武王の仁政にならい、儒教を根本とした政治を理想としていました。武帝も即位後、儒学者を政治顧問に迎え、儒家の礼典をもって国を治めようとしています。
 たまたま五六七年、武帝が二十五歳のときに、衛元嵩なる奇矯な言動の僧が上奏文を奉った。それは、従来のすべての寺や僧は真の仏教ではないから、これを全廃し、国家を寺とする一つの平延大寺を建てるべきである、というものです。なかには「周皇帝こそ即ち如来である」などとあって、いかにも野心ありそうな人物ですね。
 池田 ただし、そうした上奏文が後になって利用されたということは、当時の仏教界の側にも責任がなかったとはいえない。
 というのは、度を越えた大寺院を建て、僧官を通じて栄達し、満足に仏典も読誦できない僧尼も大勢いて、しかも教団が治外法権になっていたようだ。また最初、武帝は儒・仏・道の三教を協和させるために、三教の学者を集めて会談をさせたが、なかでも仏僧と道士とは互いに反目し、憎悪しあったりしたので、それが後年になって仏・道二教を廃棄する原因ともなったと考えられている。
 しかし、単にそれだけであれば、あれほど苛酷な廃仏政策の根拠として、まだ決定的要因とはならなかったかもしれない。やはり、さきほども問題となった国家臨戦体制のための整備が進められ、やがて衛元嵩の上奏文を利用する道士の張賓ちょうひんなる人物が登場して、さかんに政治的工作をおこなった結果、歴史的な廃仏の嵐が吹き荒れるようになったのでしょう。
 野崎 第三の唐・武宗の場合には、そうしたさまざまな要素がさらに加重されて、仏教の大淘汰と呼ばれるほどの深刻な打撃をうけています。もっとも、すでに唐代も末期となると、重なる戦乱で仏教の側にもふたたび立ち上がる力が弱まっていたともいえますが……。
 松本 この「会昌の難」とも呼ばれる廃仏は、西暦八四〇年に即位した武宗によって着々と進められ、会昌五年(八四五年)八月には仏教淘汰の詔が出されて、壊滅に近い大がかりな廃仏がおこなわれました。それも一挙に弾圧されたのではなく、いわば計画的に順次進められたところに特徴があるようです。
 武宗は即位以前から道教を重んじていたわけですが、これは、前にも話題になったように、もと唐室の祖は李氏の出であり、道教の教祖と仰がれる老子の姓も「李」であったのに由来するといわれます。
 ところが、その唐祖の教えである道教よりも、仏教のほうが隆盛をきわめていたことから、武宗は最初、個人的な信仰面で仏教を排斥し、やがて即位してからは強大な政治権力をもって、国家的規模の廃仏政策にひろげていったわけです。
 池田 この場合にも、やはり趙帰真ちょうきしんなる道士が宮中に入って暗躍し、党派争いによって宰相の座を得た李徳裕と組んで、廃仏政策を進めていますね。禁中に道教の修行道場が設けられて、斎会や修法がなされたという。また内裏では、仏僧と道士の教義問答もおこなわれたようだが、すでに道教の熱心な信者である武宗の前では、初めから仏教に勝ち目はなかったといってよい。
 さらに唐・武宗の時代には、しばしばウイグル族が北方から侵入し、まさに戦時体制にあったことも忘れてはならない。ですから、そうした背景のもとに、八四二年には僧尼整理令が出され、銭物、米穀、団地、庄園を所有する僧尼は官に納入を命ぜられている。また翌年には、新たに僧尼となった者はすべて捕らえられ、三百余人が長安に送られて処刑された、とある。最終的には銅仏などの銅製品は新銭に鋳造され、鉄仏は農機具に、金・銀・真鍮もすべて国庫に納められたというから、まさしく戦時経済だね。
 野崎 ただ仏教徒にとって、せめてもの救いは、その武宗が短命であったことのようです。廃仏の詔が出された翌年(八四六年)三月、武宗は三十三歳で崩御し、つづいて即位した宣宗によって、直ちに仏教復興の事業が着手されています。
 ちなみに、道士の劉玄靖、趙帰真ら十二人は、武宗に廃仏をおこなわせた罪で誅殺されたといわれます。
 松本 最後の「一宗の法難」というのは、西暦九五五年に五代の後周・世宗せいそうが仏教に加えたものですが、これは政治権力をもって教団を粛正し、整理統合をはかったものとされています。「三武の法難」にみられたような、徹底した″廃仏″ではなく、教団を国家的統制のもとにおくことに目的があったようです。
 野崎 ただ問題は、私度僧を認めず、戒壇も両京と大名府、京兆府、青州におくだけで、すべて出家受戒をする者は官庁の監督下にあったことです。また夜間の法会は禁止され、新たな寺院の創建も一切禁じられました。さらに無名額の寺は廃せられ、あるいは私寺は有額の寺に併合させられたりしています。
 池田 要するに仏教が、すべて国家的統制のもとに服せられたということですね。それを「法難」の一つに挙げているのは、仏教者にとっては活動の手足を縛られたようにも感じられたからにちがいない。仏法が「王法」の枠に組み込まれた姿といってよい。
 しかし、もはやこのころになると、総じて中国の仏教は衰退の方向にあったとも思える。世法に流され、寺院や教団も財産を隠したり、税役をのがれるための逃避場となり、真実の求道心は失われつつあったようだ。したがって、ある意味では自ら招いた事態ともいえるのではないだろうか。
 野崎 詳しいことはわかりませんが、それ以前の「三武の法難」のときには、必ず難の後に仏教が復興されていますね。また廃仏の真っ最中でも、皇帝に諌暁する僧や、数多くの殉教者も現れています。とくに北周・武帝の廃仏に際しては、仏教者は敢然と法難に挑戦していった事実が認められていますね。
 そうした姿と、この「一宗の法難」とを比較しても、やはり仏教者の側に主体的な問題があるようです。
3  :中国仏教の特質
 松本 弾圧に抵抗した仏教者は、第一回の北魏・太武帝の廃仏の際にもいましたが、これなどをみますと、中国仏教徒の根強さのようなものが感じられますね。
 たとえば四五二年に太武帝が崩じると、十月に即位した北魏・文成帝は、その二カ月後に早くも仏教復興の詔を発しています。それは廃仏期間中、七年間にわたって民間に潜伏してきた仏教徒が、直ちに熱狂的な復興運動を巻き起こした結果とみられます。北魏末には僧尼大衆二百万、仏寺三万有余といわれるほどの大教団に復興しました。
 池田 一般的にも「雨降って地固まる」などといわれるが、この北魏・太武帝による廃仏は、むしろ仏教者の覚醒を促し、仏教の隆盛をもたらした側面も見落とせない、ということですね。実際、それ以前には堕落し、腐敗した面もあった教団が、弾圧をうけたことによって立ち直り、かえって後の発展のための戒めとした姿もみられる。
 野崎 興味ぶかいことは、仏教復興の詔が下されると、それ以後、北魏においては仏像の彫刻が盛んになります。それも、大同(山西省)雲崗うんこうの大石窟として今日にまで伝えられているように、かなり大がかりな事業として進められています。これは、沙門統に任ぜられた曇曜どんようが、文成帝に奏上して開鑿かいさくの許可を得、いわば国家的事業として始めたものです。おそらく彼の意識の底には、もし将来、ふたたび廃仏政策がとられるようなことがあっても、巨大な石窟に仏像を刻んでおけば、やがて民衆が仏縁を結ぶことができるとの考えもあったのではないでしょうか。
 池田 たしかに、無形のものよりも、有形のものとして後世に遺そうとした意識のあらわれかもしれない。ということは、それほど太武帝の廃仏が徹底したものであったために、ことによると中国の各地から仏教が根絶されてしまうような危機を、仏教者が痛感したことも考えられる。現に、このころから中国では「末法思想」が現れていますね。
 松本 文化史的には、すでに敦煌(甘粛省)の石窟も造られていますし、西域地方の仏教芸術の影響を受けて、雲崗の石窟、続いて孝文帝の時代に龍門(江南省)の石窟が掘られたといわれています。しかし、より根本的な動機としては、さきほどから話題になってきたように、仏教者の主体的な意識の転換というか、廃仏による覚醒が大きな要因であったと思われます。
 また、いま野崎さんから指摘もあったように、第二回の北周・武帝の廃仏後にも、武帝の死後直ちに復興がなされ、五八一年に惰が建てられると、仏・道二教復興の詔が発せられています。とくに惰の文帝は熱心な信仰者となって、江南の天台教学を振興し、また華北の仏教界も再興させました。いわゆる隋・唐の仏教全盛時代は、ある意味では北周・武帝の廃仏という法難を発条として、そこから仏教界の革新の機運が盛り上がり、実現したともいえるのではないでしょうか。
 野崎 私も、そのように思います。というのは、後周・世宗の大淘汰と前の「三武の難」とを比較したときに、そこに仏教者の難に対する姿勢の違いがみられると感じたのも、まさにその一点にかかっているからです。
 北方の黄河流域を後周が支配していたころ、江南では呉越や南唐によって仏教保護政策がとられています。たとえば九五五年には、呉越では八万四千宝塔が鋳造されたりしていますが、同じ年に南唐は後周によって攻め込まれ、ここでも仏教淘汰政策がとられました。
 すでに十世紀ごろの仏教は、政治権力の保護にたよって、ようやく生き延びていた面と、打ち続く戦乱に巻き込まれてしまった弱さもみられます。かっての「三武の廃仏」といった法難をはね返すような、仏教復興の意気ごみは失われたようにも感じられますが……。
4  池田 そうですね。難を受け、たくさんの犠牲者を出すことは望ましいことではないが、その反面、真実の信仰者にとって諸難は覚倍のうえのことでなければならない。とくに今までみてきた「三武一宗の難」は、王法の難であったわけだが、それに臆することなく、敢然と挑戦して、自らの信仰を守りとおした多くの仏教者が存在した。また廃仏後、直ちに仏教の復興に取り組んだ信仰の姿勢というものは、われわれにとっても歴史の教訓としなければならないと思う。
 こうして「三武一宗の難」に象徴される幾度もの法難を通して、中国の仏教は民衆のなかに、そして中央官界から地方の諸国へと伝播していった。そこにも、中国仏教の一つの特質がありますね。
 もちろん、古代から中国の皇帝には絶対的権力があったが、その国家的規模の権力によって仏教が弘められたのではない。なかには熱心な崇仏皇帝もいたが、それだけでは宮中の一部で信仰されるだけで、まだ真に民衆の仏法にはなりきることができなかった。むしろ、王法による弾圧と廃仏という試練を経て、初めて仏教が中国の大地に根を下ろしていったのではないだろうか。
 松本 たしかに、いわゆる五胡十六国の時代に、戦乱と廃仏の嵐に巻き込まれて多くの仏教者が命を落としましたが、その時に江南に向かって法を弘め、さらに四川省や西方の奥地にまで踏み込んでいったことが、仏教を全中国に浸透させる結果ともなっていますね。江南仏教の隆盛や、民衆仏教の独自な存在として注目される三階教など、いずれも北魏、北周の廃仏と無関係ではないと思われます。
 野崎 おなじく「武帝」といっても、たとえば梁の武帝のように、熱心な崇仏皇帝も出ています。この時代、江南では最も仏教が隆盛をきわめましたが、これは北朝において弾圧された仏教者が多く南へ逃れて定着した結果ともいわれています。
 池田 梁の武帝については、もう少し詳しく検討していい重要人物ですが、これまで繰り返し述べてきたように、あくまで民衆の側から仏教史を捉えるという視点に立てば、かえって国家権力によって仏教が保護されたために、そこから弊害も生まれている。たとえば光宅寺の法雲などは、開善寺の智蔵、荘厳寺の僧旻そうびんとともに「梁の三大法師」などと称せられ、宮廷に出入りして武帝と仏教研究に従事したといわれる。後に天台大師が、この法雲を厳しく批判してやまなかったのも、そのような国家権力に迎合する姿勢がみられたからでしょう。
 松本 梁の武帝は″皇帝菩薩″などとも呼ばれたわけですが、天監十六年(五一七年)には天下の道士をすべて還俗させたために、梁にいた道士の多くは北斉に亡命したといわれています。すなわち、かつて北魏の太武帝による廃仏が原因となって、仏教者が江南に逃れたのとは対照的に、今度は道士が北へ逃げたわけです。
 池田 それも梁の武帝による仏教の国教化が招いた弊害の一つですね。彼は、自ら菩薩戒を受けたばかりでなく、皇太子以下四万八千人もの人びとに戒を受けさせたと伝えられている。だが、そのうち果たして何人が仏教を心から信奉した結果によるものか、はなはだ疑わしい。信仰というのは、権力の強制によってもたせるものではなく、あくまで自発能動の主体的意志によって受持されるものです。また、そうでなければ、ほんとうの信仰とはいえないし、民衆のあいだに広まるものでもない。
 野崎 これは西順蔵氏も指摘していますが、数千年にわたる中国の長い歴史上、さまざまな思想や宗教が流入してきましたが、そのうち最も永続し、かつ広範な層に定着したのは仏教である。たとえばネストリアニズムやゾロアスター教、あるいはイスラム教やイエズス派のキリスト教まで入っているが、その長期にわたる中国思想への影響性からいっても、他の外来思想で仏教に匹敵するものはない、ということです。
 池田 これまで中国仏教の一千年の歴史を概観したわけだが、たしかに、その指摘は鋭いものがあります。最初は異国の教えとして入ってきた仏教が、宮廷や貴族のあいだで異国趣味的にもてはやされた。やがて士大夫したいふから民衆のなかにも浸透し、幅広く根を下ろしていった。そして儒教や道教など、古くからの伝統思想と競合し、かつ影響しあって、いつのまにか中国独自の仏教というものを形成していった。それは、もはやインド伝来の仏教というより、中国の民衆が信奉し、それぞれの生命の奥深くに息づいた仏の教えとして、まさしく中国の仏教となっている。
 そのような経過により、韓・朝鮮半島を経て日本にも伝えられ、いわば仏教は三国伝来のものとなった。この広大なアジア大陸と、その周辺諸国の民衆に信仰された仏教は、今や世界宗教の一つとなっているが、その歴史において、中国の仏教とその信仰者が果たした役割は、まことに大きく、かつ重要であったといえるでしょう
5  おもな参考文献一覧
 『新編日蓮大聖人御書全集』創価学会版
 『妙法蓮華経並開結』
 『大正新情大蔵経』大正新情大蔵経刊行会
 『卍続蔵経』中国仏教会影印卍続蔵経委員会
 『国訳一切経』大東出版社
 『天台大師全集』日本仏書刊行会
 『二十五史』藝文印書館
6  布施浩岳著『中国仏教史要』山喜房仏書林
 道端良秀著『中国仏教史』〈改訂新版〉法蔵館
 山崎■著『陪唐仏教史の研究』法蔵館
 鎌田茂雄著『中国仏教思想史研究』春秋社
 鎌田茂雄著『中国華厳思想史の研究』東京大学出版会
 玉城康四郎著『中国仏教思想の形成』筑摩書房
 武内義雄著『中国思想史』岩波書店
 龍谷大学編『中国仏教史』百華苑
 字野精一・中村元・玉城康四郎編『講座東洋思想6 仏教思想2 中国的展開』東京大学出版会
 塚本善隆著『中国仏教通史』(第一巻)鈴木学術財団
 塚本善隆著『中国中世仏教史論攷』大東出版社
 鎌田茂雄・上山春平著『無限の世界観〈華厳〉』(仏教の思想6)角川書店
 柳田聖山・梅原猛著『無の探求〈中国樋〉』(仏教の思想7)角川書店
 塚本善隆・梅原猛著『不安と欣求〈中国浄土〉』(仏教の思想8)角川書店
 常盤大定著『仏教と儒教道教』平凡社
 野村耀昌著『周武法難の研究』東出版
 道端良秀著『中国仏教と社会福祉事業』法蔵館
 道端良秀著『仏教と社会倫理中国仏教史の研究』法蔵館
 横超慧日著『中国佛教の研究』第二 法蔵館
 野上俊静・小川貫弌・牧田諦亮・野村耀昌・佐藤達玄著『仏教史概説』(中国篇)平楽寺書店
 『中国の仏教』(講座仏教4)大蔵出版
 増谷文雄著『東洋思想の形成』富山房
 川勝義雄著『魏晋南北朝』(中国の歴史3)講談社
 陳垣撰『釈氏疑年録』中華書局
7  宇井伯寿著『仏教経典史』東成出版社
 渡辺照宏編『仏教の東漸と道教』(思想の歴史4)平凡社
 塚本善隆編『唐とインド』(世界の歴史4)中央公論社
 深田久弥・長沢和俊著『シルクロード』白水社
 長沢和俊著『敦煌』第三文明社
 長沢和俊著『楼蘭王国』第三文明社
 長沢和俊一訳『玄奘法師西域紀行』桃源社
 長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』平凡社
 白鳥庫吉著『西域史研究』岩波書店
 神田喜一郎著『敦煌学五十年』筑摩書房
 井上靖著『西域物語』朝日新聞社
 羽田明著『西域』(世界の歴史10)河出書房新社
 松岡譲著『敦煌物語』日下部書店
 金岡照光著『敦煌の文学』大蔵出版
 宮崎市定著『大唐帝国』(世界の歴史7)河出書房新社
 塚本善隆編『肇論研究』法蔵館
 牧田諦亮編『弘明集研究』京都大学人文科学研究所
 長広敏雄著『雲崗と龍門――中国の石窟美術』中央公論美術出版
 宇井伯寿著『釈道安研究』岩波書店
 塩田義遜著『法華教学史の研究』地方書院
 坂本幸男編『法華経の思想と文化』平楽寺書店
 坂本幸男編『法華経の中国的展開』平楽寺書店
 横超慧日編『法華思想』平楽寺書店
 横超慧日著『法華思想の研究』平楽寺書店
 金倉圓照編『法華経の成立と展開』平楽寺書店
 玉城康四郎著『心把捉の展開』山喜房仏書林
 関口真大著『天台止観の研究』岩波書店
 京戸慈光著『天台大師の生涯』第三文明社
 佐藤哲英著『天台大師の研究』百華苑
 安藤俊雄著『天台学』平楽寺書店
 島地大等著『天台教学史』明治書院
 福田堯穎著『天台学概論』三省堂
 福田堯穎著『続天台学概論』文一出版
 佐々木憲徳著『天台教学』百華苑
 山口光円著『天台概説』法蔵館
 安藤俊雄著『天台性具思想論』法蔵館
 関口真大著『天台小止観の研究』山喜房仏書林
 田村芳朗・梅原猛著『絶対の真理〈天台〉』(仏教の思想5)角川書店
 日比宣正著『唐代天台学序説』山喜房仏書林
8  吉川幸次郎著『漢の武帝』岩波書店
 森三樹三郎著『梁の武帝』平楽寺書店
 吉川忠夫著『侯景の乱始末記』中央公論社
 前嶋信次著『玄奘三蔵』岩波書店
 『大唐西域記』(中国古典文学大系辺22)平凡社
 三枝充悳著『仏教小年表』大蔵出版
 松田寿男・森鹿三編『アジア歴史地図』平凡社

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