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日蓮大聖人・池田大作

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唐代仏教と妙楽湛然

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  湛然の業績と意義
 松本 続いて湛然の業績と思想をみておきたいと思いますが、その著作は大きく分けて二つの部類に分けられます。
 まず註釈類としては『法華玄義釈籤』十巻、『法華文句記』十巻、『摩訶止観輔行伝弘決』十巻の、いわゆる「天台三大部」の註釈が有名です。それに、『止観大意』『止観輔行捜要記』などの天台教学に関する論著の他、『維摩経略疏』といったものもあります。
 もう一つの部類は対他的な論文で、これは主として華厳、法相、それに禅宗の教学を破折するために著されたものです。とくに有名な『金錍論』一巻は華厳を破し、『法華五百問論』三巻のなかでは法相を対破し、そして『止観義例』では達摩禅を破折しています。
 野崎 第一の註釈類については、日蓮大聖人の御書にも「天台三大部」とともに引用され、私たちにもなじみの深いところですね。「御義口伝」でも、大聖人は、まず天台の文を引かれ、続いて場合によって妙楽の註記を紹介した後、さらに文底観心の立場から甚深の法門を御教示されていますね。
 第二に対他論文は、天台教学の対外的な応用面として位置づけられると思います。妙楽が活躍した中唐時代には、すでに仏教諸派の論議も出揃った感があり、それらを総体的に見極めつつ、各宗と天台学との相違を明らかにしていきました。まさに湛然の横溢した折伏精神の成果であると思われます。
 池田 そのとおりですね。
 湛然の業績としては、やはり第一に天台三大部の正確にして詳細な註釈を残したことでしょう。それは、仮に妙楽の著作がまったくない場合を想像すれば、よくわかる。たとえば日本には、湛然と同時代の鑑真和尚が天台三大部を将来しているが、あまりにも難解であった。後に伝教大師こと最澄が入唐し、妙楽大師の弟子の道邃どうすい、行満の二師に教えを受けて、初めて日本に天台の法門が正しく伝えられたわけです。
 また妙楽大師にとっても、天台三大部の註釈こそ生涯の労作であり、まさにライフワークといったものであった。妙楽大師は人生を賭けて悔いないものを、そこに見いだしたにちがいない。それによって若き湛然は、当時の中国仏教界に聳え立つ天台哲理の巨峰を、ついに征服することができたわけです。
 松本 難解な天台家の著作を解読するには、妙楽大師の註釈書を指南とするのが、仏教研究の常道にもなっていますね。
 さらに湛然は、天台大師の打ち立てた法門を敷衍しながら、仏法の哲理をより深いものにしています。その代表的なものとして挙げられるのが『法華玄義釈籤』に説かれた「十門不二説」と、『止観大意』『金錍論』に説かれた「真如随縁説」です。
 池田 十門不二は、十不二門ともいわれるが、色心不二、依正不二などが、ここで初めて説かれたわけだね。
 松本 天台大師の『法華玄義』には本迹二十妙が立てられていますが、そのうちの迹門の十妙は私たちにもなじみの深いものです。境妙、智妙、行妙、位妙、三法妙、感応妙、神通妙、説法妙、眷属妙、利益妙がそれで、私たちもよく感応妙や眷属妙という言葉を使いますが、それは、ここから出ているわけです。
 湛然は『法華玄義釈籤』で、この迹門十妙についての釈のあとに、十門の不二を述べています。色心不こにはじまって、内外不二、修性不二、因果不二、染浄不二、依正不二、自他不二、三業不二、権実不二、受潤不二というように、相反すると思われる二法が、じつは相即不二であることを示したものです。
 野崎 「一に色心不二門とは、且く十如の境乃至無諦まで一一に皆総別の二意あり。総は一念に在り、別は色心を分かつ……」(大正三十三巻918㌻)というように、天台大師の説いた迹門の十妙を、よりダイナミックに展開していますね。「総在一念」という言葉も、ここから出たものです。
 池田 おそらく湛然は、迹門十妙の名目だけでは、相即不二ということが、人びとに十分理解できないだろうと考えたのではないだろうか。この十門不二説は、天台教学に新しい理念を付け加えたともいえるね。湛然が単なる解釈者ではなく、仏法哲理を一歩深めたことは確かだ。
 松本 また『止観大意』では、真如随縁説を初めて説いています。自らの心法に一切法を具して、即空、即仮、即中となることを明らかにした後で、「是の如く観ずる時、心性を観ずと名付く、随縁不変の故に性となし、不変随縁の故に心となす」(大正四十六巻460㌻)と述べているところが、それです。
 さらに、不変即随縁、随縁即不変を説いて、相即不二のうえから、己心の実相、三千円具を証得すると主張しています。
 野崎 これは、当時の華厳系統の論師たちの天台教学に対する批判に答えるという側面もあるようですね。『摩訶止観』には「心はこれ一切法なり、一切法これ心なり」(大正四十六巻54㌻)と説かれていますが、それではどのようにして心から一切法が生ずるのか、その過程が明確でないという批判が、当時あったからです。
 不変随縁の説は、もともとは馬鳴菩薩造と伝えられる『大乗起信論』に説かれたもので、華厳系統の論師はこれを依拠として、諸法がどのようにして生成するかという一種の生起説を立てていたわけです。そして、天台大師の一念三千論には、生起が説かれていないといっていました。湛然は『止観大意』や『金錍論』で、そのような批判を打ち破っています。
 松本 『金錍論』は、湛然最後の著作といわれますが、そこでは表現もいちだんと明快になっています。「万法は是れ真如なり、不変なるに由るが故に。真如は是れ万法なり、随縁なるに由るが故に」(大正四十六巻782㌻)と、真如を不変と随縁という二面から捉え、その相即を説いていますが、これによって、随縁面のみを強調する華厳教学よりも、天台の法門のほうがはるかに深いことを論証したわけです。
 野崎 さらに『金錍論』には、草木瓦礫にも仏性があると説かれていますが、これは「草木成仏」を認めたものとして、きわめて重要な法理の展開となっています。
 池田 湛然が出るまえは、当時の風潮としては華厳学派のほうが理論的に優勢だった。それを湛然は見事に逆転したといえますね。不変随縁という言葉を用いたために、仏教学者のなかには、湛然が華厳の法門を取り入れたという人もいるが、そうではない。不変随縁の説を、まったく独自の立場から応用して、天台の法門を起信論的な表現をもちいて展開したというべきだろう。
 ともあれ、これらの説によって、天台家の法門がいちだんと輝きを増し、大きく発展していったといえる。この時代に、妙楽大師が出現した意義はまことに大きい。
 野崎 日本へ仏教の正統派を伝えるための橋渡しをしたともいえるのではないでしょうか。
 池田 妙楽大師は「末法の初、冥利無きにあらず。且く大教の流行す可き時に拠るが故に」(大正三十四巻157㌻)と述べているが、明らかに末法に流通すべき大教の存在を意識していますね。
 中国においては、この妙楽大師が天台宗を再興した後、理論面では最高の頂点を究め、それからは仏教界全般が衰微への下り坂を歩んでいる。天台宗も″第二期暗黒時代″といわれる状態になるが、それとは対照的に日本では、比叡山の天台学が中心となって仏教界が活況を呈していくわけです。
 そうした流れからすると、妙楽大師の打ち立てた天台家の「理の一念三千」の法門の体系は、中国から日本へ正統仏教を伝えるための重要な橋渡しであったといえると思う。
 野崎 湛然の伝記がある『宋高僧伝』や『仏祖統紀』によると、妙楽大師はまた法を継ぐべき俊英の育成に力を注いでいますね。日本から最澄が入唐したときに、天台家の法を伝えたのが妙楽大師の弟子であったことからしでも、その人材育成の労作業が実を結んだものといえると思います。
 池田 それは、妙楽大師の仏法史上における功績の一つに挙げられる点です。
 松本 具体的には、さきほど名前の出ました第七祖道邃、それから行満、また『菩薩戒疏』を著した明曠、さらに『文句私志記』の智雲など、いずれも日本の仏教界にも名を知られた門人が輩出しています。湛然の滅後、門下生の梁粛りょうしゅくは師の碑銘に「天台中興」と記したそうですが、それほど門人からも慕われ、高く評価されていたわけですね。
 池田 かつて島地大等氏も指摘しているが、すでにみてきたように、慈思大師と呼ばれた窺基きき賢首げんしゅ大師といわれた法蔵、それに善無畏三蔵や不空三蔵など、いずれも唐朝の王室に取り入って名声を轟かしている。そうした行き方が仏教僧の理想のような弊風が流れていた時代にあって、妙楽大師が法理の研績と、後進の育成に全力を挙げていたことは、ひとえに令法久住のための生涯であったといえるでしよう。
 しかも、それでありながら各地を遊行し、真言、法相、禅、華厳といった諸宗の論義を対破し、その誤りを正している。
 松本 それらの諸宗は、主として天台以後になって力を得てきたわけですが、理論的には妙楽大師によって乗り越えられてしまったわけですね。したがって日本へ伝えられてからも、もはや教相面では天台宗学に対抗しうるものでは、なくなっています。
 野崎 日本仏教への影響面については、また別の機会に改めて検討したいと思いますが、ここで妙楽大師の場合、華厳の澄観との関係を最後に少し触れておきたいと思います。
 池田 華厳の澄観という人物は、初め南山律や三論を学び、西暦七七五年には妙楽大師から止観を学んでいますね。ところが彼は、博識のわりには所依の経典に迷ったようで、最後には『華厳経』を別教一乗としたわけですが、長安では不空三蔵の訳場にも列なっている。百二歳で世を去るまでに唐朝の七皇帝の師となり、清涼大師と呼ばれたが、そうした生き方は妙楽大師とくらべると、まったく対照的だね。
 松本 妙楽大師は『法華経』を「超八醍醐」と名づけて、その位置を明確にし、そうした澄観の生き方を見事に破折していますね。
 池田 澄観の仏法に対する姿勢のあいまいさといったものをみると、彼は一切の規範となるべき仏法の峻厳さを理解していなかったといわざるをえない。人間の根本的な生き方の法を説いた仏教は、あくまで宗教として捉えるべきであって、単なる学問ではない。ですから、仏教各派のさまざまな要素を寄せ集めても、それは理論として破綻せざるをえないというべきです。
 野崎 妙楽大師としては、かつて自分の門で学んだことのある澄観に対して、つとめて名指しの批判は避けているようです。しかし、理論的には厳しく破折していますね。
 池田 とくに澄観の場合、かつて天台家で学んだことがあるゆえか、華厳の観門を説くにあたっても天台教学を借用し、たとえば『華厳経』の「心如工面師しんにょくえし」(心は工なる画師の如し)の文をもって「一念三千」の依文としているなど、後世に悪影響を及ぼしています。そうした態度は、人間的には寛容であっても、教学的には厳格な妙楽大師にとって、許すことのできないところであったと思う。
 ともあれ妙楽大師は、一見すると法理の探究に生涯を捧げた″静の人″のようにもみられているが、実際は正義を宣揚するのにきわめて情熱的であって、諸宗からの論難に対しても沈黙するようなことはなかった。広大な中国大陸を南から北へ、そして長江(揚子江)を遡って西へも足を運んでいる。さらに停滞していた天台家を見事に復興し、ついに「中興の師」と仰がれるまでの激闘の生涯であったことからしでも、まさに″動の人″と呼ぶのがふさわしいでしょう。

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