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日蓮大聖人・池田大作

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唐代仏教と妙楽湛然

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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2  甚深の法門を再興
 松本 荊渓湛然が世に出るまで、中国の天台宗学は″第一期暗黒時代″と呼ばれるような状態にありました。すなわち、天台大師が西暦五九七年に入寂した後、門弟三千余人のうち章安大師が法燈を継ぎ、さらに智威、慧威、玄朗と続いているわけですが、章安大師以後の百数十年間というものは、まったく振るわなかったといわれています。その原因がどこにあるかを調べておくと、妙楽大師の出現の意義も明らかになってくると思うのですが……。
 池田 そうですね。まず第一に挙げられるのは、天台大師の構築した教学体系が、およそ凡人の理解を絶するほどの高度なものであった点が考えられる。
 なにしろ三千人もの聴衆のうち、天台大師の三大部の講義をほんとうに理解できたものは、章安大師ただ一人であったといわれている。しかも、その章安大師でさえ、たとえば『法華文句』の講義を受けてから講義録を完成させるまでに、なんと四十二年もの歳月をかけているほどです。
 そうしたことから考えても、当時の中国仏教界一般が天台家の甚深の法門を理解するのは、並大抵のことではなかったと思われます。むろん、単なる片言隻語は理解され、よく知られていたかもしれないが……。
 野崎 さきほど話題になった真言系統などは、その天台教学の片言隻語を盗み入れています。たとえば、善無畏三蔵の門人に一行禅師がいたわけですが、彼は前に天台学を修学したことがあります。開元九年(七二一年)に勅を奉じて宮中入りした一行は、善無畏の下にあって『大日経』を訳し、さらに『大日経疏』を作って密教を唐土に弘めました。
 もともとインド伝来の真言は、呪術的な事相と陀羅尼が中心であって、哲学的な教相は知られていません。しかも「諸法実相」の教理は、明らかに中国仏教の、なかでも天台仏法の独自の法門として打ち立てられたわけですから、それがもし大日真言の中にもみられるというのであれば、それは天台家の教理から盗み取ったものという以外にないわけです。
 松本 妙楽大師が天台宗を中興する以前の仏教界は、いま挙げられた真言宗をはじめ、玄英、慈恩の法相宗、南山道宣や義浄の律宗、それに法蔵らの華厳宗などが、長安を中心に隆盛をきわめていました。それに対して天台家の教学が振るわなかったのは、天台山が首都長安から遠く離れた江南の地にあったからである、とする地理上の理由も考えられていますが……。
 池田 それも一つの理由として考えられますね。しかし、そうした首都から離れていたという地理的条件が、政治上の権力に毒されることなく、仏法の正統教学を純粋に伝えるために必要であったとも考えられる。
 唐文化の中心である長安に仏教各派が栄えたといっても、やはり唐の朝廷では道教を国教としている。そのため、仏教の側から政治上の権力に近づけば近づくほど、道教的な色彩を帯びていったことは、さきほど密教の例にもみられたとおりです。後
 年、妙楽大師が朝廷との関係にきわめて慎重な態度をとったのも、そういった例を数多くみていたからではないだろうか。
 野崎 たしかに、それは考えられるところですね。
 ところで湛然は、初め儒家に生まれ、儒学者として成長しています。本来なら「科挙」の試験を受けて官吏となるコースを歩むはずですが、十七歳のときに浙東せっとうに遊学し、金華の芳巌ほうがんから天台の教観を学んだことによって、仏法の奥深い法理を究めることを志したといわれています。すでにこのときから、湛然は世俗の出世コースを棄て、法理の究明に生涯を捧げる人生コースを選んでいたわけです。
 松本 金華の芳巌については、はっきりした記録がなく、天台大師から数えて五世の法孫である玄朗げんろうの弟子とも、あるいは玄朗と同門ともいわれていますが、ともあれ湛然は二十歳になると左渓山の玄朗の門に投じ、直々に天台の法門を研鎖することになります。
 池田 『仏祖統紀』によると、開元十八年(七三〇年)に二人が初めて会ったときのこと、「渓(左渓玄朗)は之と語り、道器たることを知れり」(大正四十九巻188㌻)という一節がみられますね。
 これは短い一節だが、すでに師弟の出会いの一瞬において玄朗は、湛然が並みなみならぬ器であることを見抜いている。それほど青年湛然は、まさに後生おそるべしといったものをもっていたにちがいない。
 野崎 湛然は事情があって三十八歳になるまで出家しなかったわけですが、すでに玄朗は儒学者の着る処士服のままの湛然に対して、天台の教観二道を授けています。いかに期待が大きかったかが、よくうかがわれますね。
 池田 玄朗は八十二歳の長寿をまっとうしたが、おそらく妙楽大師のような優秀な人材が輩出するのを心待ちにしていたと思われる。
 首都長安や洛陽では、真言、唯識、禅、華厳といった各派が一世を風靡し、天台家の深旨は江南において、わずかに孤塁を守るのみであった。インドから仏教が伝えられてより七百年、中国に根を下ろした仏教の正統派である天台の法門を一日も早く大唐の四天下に弘めたいものだ。――玄朗は、そういった念願を強くもっていたのではないだろうか。
 松本 そうした師の悲願を、湛然はひしひしと身に感じていたと思います。玄朗が入寂したのは天宝十三載(七五四年)、湛然が四十三歳のときのことですが、法燈を譲り受けた彼は、その後、各地に闊歩して大いに天台の法門を弘通し、初めて「天台宗」の名乗りをあげています。
3  湛然の業績と意義
 松本 続いて湛然の業績と思想をみておきたいと思いますが、その著作は大きく分けて二つの部類に分けられます。
 まず註釈類としては『法華玄義釈籤』十巻、『法華文句記』十巻、『摩訶止観輔行伝弘決』十巻の、いわゆる「天台三大部」の註釈が有名です。それに、『止観大意』『止観輔行捜要記』などの天台教学に関する論著の他、『維摩経略疏』といったものもあります。
 もう一つの部類は対他的な論文で、これは主として華厳、法相、それに禅宗の教学を破折するために著されたものです。とくに有名な『金錍論』一巻は華厳を破し、『法華五百問論』三巻のなかでは法相を対破し、そして『止観義例』では達摩禅を破折しています。
 野崎 第一の註釈類については、日蓮大聖人の御書にも「天台三大部」とともに引用され、私たちにもなじみの深いところですね。「御義口伝」でも、大聖人は、まず天台の文を引かれ、続いて場合によって妙楽の註記を紹介した後、さらに文底観心の立場から甚深の法門を御教示されていますね。
 第二に対他論文は、天台教学の対外的な応用面として位置づけられると思います。妙楽が活躍した中唐時代には、すでに仏教諸派の論議も出揃った感があり、それらを総体的に見極めつつ、各宗と天台学との相違を明らかにしていきました。まさに湛然の横溢した折伏精神の成果であると思われます。
 池田 そのとおりですね。
 湛然の業績としては、やはり第一に天台三大部の正確にして詳細な註釈を残したことでしょう。それは、仮に妙楽の著作がまったくない場合を想像すれば、よくわかる。たとえば日本には、湛然と同時代の鑑真和尚が天台三大部を将来しているが、あまりにも難解であった。後に伝教大師こと最澄が入唐し、妙楽大師の弟子の道邃どうすい、行満の二師に教えを受けて、初めて日本に天台の法門が正しく伝えられたわけです。
 また妙楽大師にとっても、天台三大部の註釈こそ生涯の労作であり、まさにライフワークといったものであった。妙楽大師は人生を賭けて悔いないものを、そこに見いだしたにちがいない。それによって若き湛然は、当時の中国仏教界に聳え立つ天台哲理の巨峰を、ついに征服することができたわけです。
 松本 難解な天台家の著作を解読するには、妙楽大師の註釈書を指南とするのが、仏教研究の常道にもなっていますね。
 さらに湛然は、天台大師の打ち立てた法門を敷衍しながら、仏法の哲理をより深いものにしています。その代表的なものとして挙げられるのが『法華玄義釈籤』に説かれた「十門不二説」と、『止観大意』『金錍論』に説かれた「真如随縁説」です。
 池田 十門不二は、十不二門ともいわれるが、色心不二、依正不二などが、ここで初めて説かれたわけだね。
 松本 天台大師の『法華玄義』には本迹二十妙が立てられていますが、そのうちの迹門の十妙は私たちにもなじみの深いものです。境妙、智妙、行妙、位妙、三法妙、感応妙、神通妙、説法妙、眷属妙、利益妙がそれで、私たちもよく感応妙や眷属妙という言葉を使いますが、それは、ここから出ているわけです。
 湛然は『法華玄義釈籤』で、この迹門十妙についての釈のあとに、十門の不二を述べています。色心不こにはじまって、内外不二、修性不二、因果不二、染浄不二、依正不二、自他不二、三業不二、権実不二、受潤不二というように、相反すると思われる二法が、じつは相即不二であることを示したものです。
 野崎 「一に色心不二門とは、且く十如の境乃至無諦まで一一に皆総別の二意あり。総は一念に在り、別は色心を分かつ……」(大正三十三巻918㌻)というように、天台大師の説いた迹門の十妙を、よりダイナミックに展開していますね。「総在一念」という言葉も、ここから出たものです。
 池田 おそらく湛然は、迹門十妙の名目だけでは、相即不二ということが、人びとに十分理解できないだろうと考えたのではないだろうか。この十門不二説は、天台教学に新しい理念を付け加えたともいえるね。湛然が単なる解釈者ではなく、仏法哲理を一歩深めたことは確かだ。
 松本 また『止観大意』では、真如随縁説を初めて説いています。自らの心法に一切法を具して、即空、即仮、即中となることを明らかにした後で、「是の如く観ずる時、心性を観ずと名付く、随縁不変の故に性となし、不変随縁の故に心となす」(大正四十六巻460㌻)と述べているところが、それです。
 さらに、不変即随縁、随縁即不変を説いて、相即不二のうえから、己心の実相、三千円具を証得すると主張しています。
 野崎 これは、当時の華厳系統の論師たちの天台教学に対する批判に答えるという側面もあるようですね。『摩訶止観』には「心はこれ一切法なり、一切法これ心なり」(大正四十六巻54㌻)と説かれていますが、それではどのようにして心から一切法が生ずるのか、その過程が明確でないという批判が、当時あったからです。
 不変随縁の説は、もともとは馬鳴菩薩造と伝えられる『大乗起信論』に説かれたもので、華厳系統の論師はこれを依拠として、諸法がどのようにして生成するかという一種の生起説を立てていたわけです。そして、天台大師の一念三千論には、生起が説かれていないといっていました。湛然は『止観大意』や『金錍論』で、そのような批判を打ち破っています。
 松本 『金錍論』は、湛然最後の著作といわれますが、そこでは表現もいちだんと明快になっています。「万法は是れ真如なり、不変なるに由るが故に。真如は是れ万法なり、随縁なるに由るが故に」(大正四十六巻782㌻)と、真如を不変と随縁という二面から捉え、その相即を説いていますが、これによって、随縁面のみを強調する華厳教学よりも、天台の法門のほうがはるかに深いことを論証したわけです。
 野崎 さらに『金錍論』には、草木瓦礫にも仏性があると説かれていますが、これは「草木成仏」を認めたものとして、きわめて重要な法理の展開となっています。
 池田 湛然が出るまえは、当時の風潮としては華厳学派のほうが理論的に優勢だった。それを湛然は見事に逆転したといえますね。不変随縁という言葉を用いたために、仏教学者のなかには、湛然が華厳の法門を取り入れたという人もいるが、そうではない。不変随縁の説を、まったく独自の立場から応用して、天台の法門を起信論的な表現をもちいて展開したというべきだろう。
 ともあれ、これらの説によって、天台家の法門がいちだんと輝きを増し、大きく発展していったといえる。この時代に、妙楽大師が出現した意義はまことに大きい。
 野崎 日本へ仏教の正統派を伝えるための橋渡しをしたともいえるのではないでしょうか。
 池田 妙楽大師は「末法の初、冥利無きにあらず。且く大教の流行す可き時に拠るが故に」(大正三十四巻157㌻)と述べているが、明らかに末法に流通すべき大教の存在を意識していますね。
 中国においては、この妙楽大師が天台宗を再興した後、理論面では最高の頂点を究め、それからは仏教界全般が衰微への下り坂を歩んでいる。天台宗も″第二期暗黒時代″といわれる状態になるが、それとは対照的に日本では、比叡山の天台学が中心となって仏教界が活況を呈していくわけです。
 そうした流れからすると、妙楽大師の打ち立てた天台家の「理の一念三千」の法門の体系は、中国から日本へ正統仏教を伝えるための重要な橋渡しであったといえると思う。
 野崎 湛然の伝記がある『宋高僧伝』や『仏祖統紀』によると、妙楽大師はまた法を継ぐべき俊英の育成に力を注いでいますね。日本から最澄が入唐したときに、天台家の法を伝えたのが妙楽大師の弟子であったことからしでも、その人材育成の労作業が実を結んだものといえると思います。
 池田 それは、妙楽大師の仏法史上における功績の一つに挙げられる点です。
 松本 具体的には、さきほど名前の出ました第七祖道邃、それから行満、また『菩薩戒疏』を著した明曠、さらに『文句私志記』の智雲など、いずれも日本の仏教界にも名を知られた門人が輩出しています。湛然の滅後、門下生の梁粛りょうしゅくは師の碑銘に「天台中興」と記したそうですが、それほど門人からも慕われ、高く評価されていたわけですね。
 池田 かつて島地大等氏も指摘しているが、すでにみてきたように、慈思大師と呼ばれた窺基きき賢首げんしゅ大師といわれた法蔵、それに善無畏三蔵や不空三蔵など、いずれも唐朝の王室に取り入って名声を轟かしている。そうした行き方が仏教僧の理想のような弊風が流れていた時代にあって、妙楽大師が法理の研績と、後進の育成に全力を挙げていたことは、ひとえに令法久住のための生涯であったといえるでしよう。
 しかも、それでありながら各地を遊行し、真言、法相、禅、華厳といった諸宗の論義を対破し、その誤りを正している。
 松本 それらの諸宗は、主として天台以後になって力を得てきたわけですが、理論的には妙楽大師によって乗り越えられてしまったわけですね。したがって日本へ伝えられてからも、もはや教相面では天台宗学に対抗しうるものでは、なくなっています。
 野崎 日本仏教への影響面については、また別の機会に改めて検討したいと思いますが、ここで妙楽大師の場合、華厳の澄観との関係を最後に少し触れておきたいと思います。
 池田 華厳の澄観という人物は、初め南山律や三論を学び、西暦七七五年には妙楽大師から止観を学んでいますね。ところが彼は、博識のわりには所依の経典に迷ったようで、最後には『華厳経』を別教一乗としたわけですが、長安では不空三蔵の訳場にも列なっている。百二歳で世を去るまでに唐朝の七皇帝の師となり、清涼大師と呼ばれたが、そうした生き方は妙楽大師とくらべると、まったく対照的だね。
 松本 妙楽大師は『法華経』を「超八醍醐」と名づけて、その位置を明確にし、そうした澄観の生き方を見事に破折していますね。
 池田 澄観の仏法に対する姿勢のあいまいさといったものをみると、彼は一切の規範となるべき仏法の峻厳さを理解していなかったといわざるをえない。人間の根本的な生き方の法を説いた仏教は、あくまで宗教として捉えるべきであって、単なる学問ではない。ですから、仏教各派のさまざまな要素を寄せ集めても、それは理論として破綻せざるをえないというべきです。
 野崎 妙楽大師としては、かつて自分の門で学んだことのある澄観に対して、つとめて名指しの批判は避けているようです。しかし、理論的には厳しく破折していますね。
 池田 とくに澄観の場合、かつて天台家で学んだことがあるゆえか、華厳の観門を説くにあたっても天台教学を借用し、たとえば『華厳経』の「心如工面師しんにょくえし」(心は工なる画師の如し)の文をもって「一念三千」の依文としているなど、後世に悪影響を及ぼしています。そうした態度は、人間的には寛容であっても、教学的には厳格な妙楽大師にとって、許すことのできないところであったと思う。
 ともあれ妙楽大師は、一見すると法理の探究に生涯を捧げた″静の人″のようにもみられているが、実際は正義を宣揚するのにきわめて情熱的であって、諸宗からの論難に対しても沈黙するようなことはなかった。広大な中国大陸を南から北へ、そして長江(揚子江)を遡って西へも足を運んでいる。さらに停滞していた天台家を見事に復興し、ついに「中興の師」と仰がれるまでの激闘の生涯であったことからしでも、まさに″動の人″と呼ぶのがふさわしいでしょう。

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