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日蓮大聖人・池田大作

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玄奘の大長征

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
4  宗派時代に入る
 松本 ところで、これまでにも話題になった布施浩岳氏の中国仏教史を五期に分ける説によりますと、いわゆる第四期の「宗派時代」というのは、との玄奘が帰国した年、すなわち西暦六四五年から始まることになっています。ということは何を意味するかといいますと、布施氏の視点からすれば、それほどまでに玄奘の帰国は大きな意義をもつことになります。つまり中国の仏教史上、玄奘は″宗派意識″いうものをもちこんだ中心人物であった、というこことになりますね。
 野崎 たしかに玄英は、後に法相宗の祖と目されるわけですが、すでに生前から大きな影響力をもち、かなりの実力者であったようですね。たとえば仏典の漢訳にしても、彼以前に訳された多くの経典をすべて「旧訳」と呼び、自らの訳を「新訳」とするよう皇帝に奏上して、それを認めさせています。
 ともかく玄奘は、その大遠征行によって得た名声と、唐の太宗の絶大な政治権力を後楯として、隆盛を極めた唐代の仏教界に君臨している。そのため後世、仏教者のあいだでは、かえって玄奘に対する評価は大きく二つに分かれることになります。
 池田 そうですね。いま問題になった「新訳」と「旧訳」の呼び方にしても、たしかに玄奘訳のほうが優れているものも、なかにはある。しかし、総じて「新訳」のほうが「旧訳」よりも優れているかとなると、必ずしもそうとばかりはいえない。やはり鳩摩羅什訳や、陳の真諦訳のほうが優れている場合も多いからです。
 それから玄奘は、教義の面においても、中国仏教史の大きな流れからみると、やや後退しているとみる学者もいる。たとえば最初にも問題になったが、彼は摂論宗義に関して疑問を生じ、その解明のためにインドへ向かった。しかし帰国後は、従来の無著・世親の唯識学よりも、彼が師事したのが護法の流れを汲む戒賢の唯識説によったために、同じ唯識学派でありながら摂論宗は衰えている。
 松本 詳しいことは省きますが、摂論宗は唯識論でも阿摩羅アンマラ識(第九識)まで説いています。ところが玄奘らの法相宗義では、第八識の阿頼耶アーラヤ識までしか認めていません。
 池田 それからまた、玄奘らの法相宗義では「無性不成説」や「一乗方便説」を主張している。すなわち、仏性のない悪人は成仏できない三乗が真実で一乗を説くのは方便である、というものです。
 これらも、いままで話し合ってきた中国仏教史の流れからいって、大きな後退ですね。すでに江南仏教では、仏性のない悪人でも成仏できるし、三乗が方便で一仏乗こそ真実であるということは、天台出現の以前からも仏教者のコンセンサス(共通認識)として認められようとしていた。それを逆行させてしまったわけです。
 野崎 宗派として法相宗を確立したのは、玄奘の弟子で慈恩大師と呼ばれる窺基ききですね。彼は『法華玄賛』の著者としても知られていますが、これは明らかに天台大師の法華解釈を意識して書かれ、なおかつ後退している。
 また玄奘門下からは、師の訳出した『倶舎論』について解釈を加える者も多く現れ、それが後に倶舎宗を成立させています。
 池田 世親と『倶舎論』については、すでにこの対話の第二部(『私の仏教観』)で取り上げている。そこでも話題になったように、これは小乗のアビダルマ仏教の基礎教典のようなものです。したがって、これを出家修行者が学習した時期があったのは当然としても、そこから独自の宗派が生まれているのは、本来の行き方とは違うところがあるね。
 野崎 つまり『倶舎論』というのは、あくまで「論」であって、それは拠りどころとすべき「経」ではない、ということですね。
 池田 そうです。宗派の「宗」という意味は本来、仏教でいえば何経を″宗とする″か、根本として尊敬すべき経典は何か、というところから出発している。それが『法華経』であったり、『涅槃経』であったり、『華厳経』であったりすれば、法華宗、涅槃宗、華厳宗と呼ばれていくわけです。すなわち、釈尊の一代聖教のなかでも、どの経典を最も重要とみるかによって、その人の宗派が決まってくるといってもよい。
 ところが、玄奘とその門下が開いた宗派というものは、法相宗にしろ、また倶舎宗にせよ、いずれも学問的な教理解釈をめぐるところから起こっている。ここに重大な、一つの陥穿がありそうだ。
 野崎 いったい玄奘は、あれほどの苦難を乗り越えてインドへ行き、仏法の真実を求めようとしたのに、なぜそのような陥穿に落ちこんでしまったのでしようか。
 池田 それを語るには、当時の中国の仏教界の状況を、もっと詳しく知る必要もあるが、いままで話し合ってきた結論としては、ひとまず次のようにいえると思う。
 たしかに若き日の玄奘は、まさに前人未到ともいうべき長征を敢行した。その入竺求法の精神と行動は、高く評価されていい。しかし問題は帰国後、すでに彼は体を痛めていたという事情があるにせよ、仏法の真実を弘めるという実践行が乏しかったように思われる。
 およそ宗教の生命というのは、絶えざる弘教の実践にあるといってよい。苦悩に沈む民衆を、一人でも多く救済するための布教活動が停滞しているときには、宗教のみずみずしい躍動も、発展もみられないものだ。
 そうした観点からすれば、なるほど帰国後の玄奘は、太宗皇帝をはじめとする唐朝廷の尊崇をうけ、たくさんの弟子も得て訳経に励んだが、それは、いわば貴族仏教的な色彩をもつもので、真実の大乗仏教の精神からは遠く離れたものであった。
 松本 それから『大唐西域記』にも書かれていますが、玄奘が訪れたときのインドでは、もはや仏教は落日の衰えをみせていたことも影響していますね。
 池田 インドと中国の仏教界を対照した場合、無著・世親が出現した四世紀を境にして、それ以後は中国仏教のほうがインド仏教をしのぐ勢いにあったと思う。とくに中国においては、五世紀から六世紀にかけて江南仏教が隆盛し、南岳大師、天台大師の出現以後は明らかに、その比重が逆転していたように思われる。
 ですから、七世紀に入ってインドへ渡った玄奘の時代には、もう中国仏教のほうが高い次元にいたっていた。玄奘のもち帰った仏教の法理が、いかにも後退しているようにみえたのも、そのような事情があったからではないだろうか。
 野崎 なるほど、そうした背景もあったのですね。
 池田 もっとも、それは現代の仏教者の立場からいえることで、当時の人びとには理解できなかったでしょう。玄奘にしても、インドに足を踏み入れるまでは、そこに″仏陀の国″があるものと確信して行ったわけです。帰国後も彼が、もっと天台の三大部などを徹底して研究していれば、あるいは別な視点が得られたかもしれない。
 松本 ちなみに、玄奘は臨終の床にあって「おお、白い蓮華が見える。なんと大きな、美しい花だろう」と咳いたといわれています。それが何を意味する言葉かは定かではありませんが、ここにが″大きな白い蓮華″が見えた、とあるのは、あるいは梵文『法華経』の題名に現れる「プンダリーカ」すなわち″白蓮華″のことをさしているとも考えられます。

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