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玄奘の大長征
「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)
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1
唐文化と玄英の偉業
松本
西暦七世紀に入って中国は、隋に続いて唐王朝が国家を統一し、絢爛にして強大なる″大唐文化″を築くことになります。この唐代には、いわゆる中国仏教も黄金時代を迎えました。その唐代の仏教興隆に重要な役割を果たしたのは、なんといっても玄奘ですね。
池田
たしかに唐の文化は、単に中国の歴史上にとどまらず、世界史のうえでも特筆されるような、まさに画期的ともいうべき文化であった。当時の首都長安は、さながら国際都市のような活況を呈していた。日本をはじめ、多くの周辺諸国からも使節が派遣されて、唐の文化を学んでいった。ともあれ、その全アジアに及ぼした文化的な影響力は、巨大なものがあったといえるでしょう。
そのような唐代の中国において、仏教が果たした役割を見ておくことは大事ですね。とくに玄奘三蔵の大遠征は、後に『西遊記』として翻案され、中国の多くの人びとに親しまれてきた。現在でも玄奘は、中国の民族英雄として称えられています。
野崎
歴史上の人物を評価する場合、その時代によって、あるいは史観によって、さまざまな浮き沈みがあるようです。たとえば秦の始皇帝などは、有名な「焚書坑儒」の施策によって、今までは反文化的な暴君のように考えられてきました。しかし最近では、中国で初の統一国家を築いた人物として、また奴隷制を打破し、万里の長城を築いて北方の守りを固め、儒家を斥けて法家を採用した君主として、その革命的な政策が評価されています。
そうした歴史的評価の浮沈を考えると、玄奘が今なお″民族英雄″とされているのは、やはりたいへんな偉業を成し遂げたからですね。
池田
そうです。なにしろ玄奘は前後十七年(十九年間との説もある)にわたる長旅で、見聞した国は百三十八カ国、将来した梵文仏典は六百五十七部、それを運ぶのに馬二十二頭を要したというのだから、たいへんな量だね。しかも、帰朝後の二十年近くのあいだに漢訳した経論は、じつに七十五部千八百九十七巻にの、ぼった。むろん、これらの数には異説もあるが、いわゆる翻訳僧としても玄奘は、鳩摩羅什らと並んで四大訳経僧といわれるほどの仕事をしていることは事実です。
詳細については、これから具体的に検討するとして、ともかく玄奘が並みの人間にはできないような、まさに非凡としかいうほかはないような偉業を達成したことは間違いない。
松本
玄奘に対する評価は、当時すでに、漢民族の生んだ巨人という表現が、けっして不自然ではない受け取り方がされていたようです。とくに日本の場合は、総計二千人以上もの遣唐使を送り、なかには玄奘の弟子になった学生もいるくらいですから、すでに玄奘の在世中に、その入竺求法の壮挙は伝えられていたわけです。
また西欧世界でも、『大唐西域記』が十九世紀に英訳・仏訳され、中央アジアやインドの研究者、さらにシルクロードの探検者のあいだでは、今なお手放すことのできない名著となっています。
池田
たしかに玄奘は、そのような探検者として偉大であったという一面もあるでしょう。西暦七世紀の交通不便な時代に、あれほどの大旅行を敢行したこと自体、驚嘆に値することですから……。
しかし、仏法の正統学派である天台学の立場からみると、玄奘は結果的には法相宗にとどまるわけだが、この点は一応おくことにしよう。ただ重要なことは、そうした玄奘の偉業の達成も、すべて仏法を求めるという強靭な一念によっていることを忘れてはならない。当時の中国においては、果てしなく続く流沙を渡り、峨々たる峻険を越え、道なき途を踏んでも仏法の真実を求めようとする熱い機運があった。その求法の情熱こそが、若い玄奘をして万里の彼方にまで足を運ばせたということです。
この一点を見失うと、玄堤の旅行記も単なる史料的価値にのみ限定されてしまう。しかも、それが西欧列強の植民地統治のための研究資料などに利用されたとすれば、玄奘としても不本意とのうえないことであろうし、そのような利用のされ方は、生前には考えも及ばなかったろうと思う。
野崎
なるほど、そのとおりですね。せっかくの大旅行も、それが植民地主義の手引きにされてしまったと知ったら、地下の玄奘も、さぞ悲しんだことでしょう。
池田
ですから、いかなる偉業であれ、それが何のためになされたか、という目的観が大事になってくる。遠くローマやイランからシルクロードを通って長安まで、数多くの商人が往来しました。そのほとんどは、一攫千金を夢見るキャラバンであった。また漢の
張騫
ちょうけん
のように、西域経営の国是に志願して、この地域を探索する者もいる。その目的は、異民族支配のための戦略であり、そのための冒険旅行であった。
さまざまな動機、遠大な目的をいだくシルクロードの往来者のなかにあって、西から東へは大乗仏教を伝える者、そして東から西へは仏法を求めに行く者、この二つの純粋なる宗教者の流れがあった。
すでにまえにも話題になったが、そのような入竺求法の確固たる目的をもった玄奘の遠征であった点に意を留めて、しばし『大唐西域記』を道案内にして、これから西域、月支(大月氏)、天竺の諸国を歩いてみることにしよう。
2
天竺行の動機と背景
松本
では、まず玄奘がインドをめざした動機からみていきたいと思います。
池田
それによって、彼が単なる旅行者や探検家ではなく、あくまでも仏法の求法僧であった事実が明らかになりますね。
松本
そうです。たとえば、
彦悰
げんそう
のまとめた『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』には、玄奘が生まれたとき、その母は法師が白衣を着て西のほうへ去っていくのを夢に見た話が記されています。むろん、後から作られた話でしょうが、母が「汝はこれ我が子、いま何処へ去ろうとするか」と聞くと、法師は「法を求めんが為の故に去るなり」(大正五十巻222㌻)と答えた。これが西遊の先兆である、というのです。
野崎
そうした話は、往々にして後世に付加された部分が多いですね。とくに玄奘のように、帰朝後は唐の朝廷の帰依を受けたほどの人物となると、その幼時にまで遡って非凡さが宣揚されることになります。
池田
たしかに、その点は注意してみる必要があるでしょう。
ただし、もう一面からいえば、この彦悰というのは玄奘の弟子でしょう。すると、玄奘自身が弟子たちに、自分の生い立ちから始まってインド行を決意するにいたった動機などを、何回となく話して聞かせていたことも考えられるね。
松本
とれも彦悰の伝えるところですが、やはり玄奘の場合も、当時の衆師に遍く会ってみたが、それぞれ説を異にしているところに疑問をもったようです。
野崎
それは信用できますね。当時の中国においては、隋から唐に代わってまもない激動期で、政治的にもまだ安定していなかったし、新都も復興中であった。道を求める若き玄堤も、出家した兄の
長捷
ちょうしょう
とともに、長安から蜀(四川省)の成都へ、そして今度は単独で荊州へ、さらに北へ向かって相州に八カ月、それより北方の越州にも十カ月と、各地を転々としています。
池田
そのように玄奘が、優れた師を求めて広大な中国を西へ、東へ、そして北へと動きまわった姿のなかに、すでに求道精神が横溢していますね。おそらく玄奘は、一カ所に落ち着いて安住するような性格ではなかった。しかしまた、さらに別な観点からいえば、若き玄奘の心に燃えさかる求道の炎を満足させるような、優れた師がついに中国では見いだせない状態にあったともいえる。つまり玄奘の器は、当時の中国仏教界の状況では、もはや満たされないほど大きなものであった、とも考えられる。
松本
兄の長捷と、成都には四年滞在したわけですが、二十歳になって具足戒を受けた玄奘は、すでに学ぶべきものは何もなくなったということです。しかも兄弟の名声は、遠くにまで聞こえるほどであった、と伝えられています。
野崎
この兄弟の性格の違いのなかに、二人の法を求める姿勢が、よくあらわれています。兄の長捷は学究型で、仏教の外、儒学や老荘の学にも通じていた、といわれています。それに対して弟の玄奘は、ひたすら仏教のみを研究し、どちらかといえば行動型で、次々と師を求めて求道の旅を続けるわけです。
池田
いずれも若き求道者として、将来を嘱望された兄弟といえるでしょう。兄は成都に落ち着いて、その学識の広さからも、土地の人びとに慕われるような人物であった。これも大事な生き方であると思う。
一方の玄奘は、静かな学究生活だけでは満足せず、兄の制止も振りきって、また法規を犯してまでも旅に出るような、いかにも行動的な性格ですね。兄が学僧タイプとすれば、弟は実践者の道を進んだものといえるでしょう。
松本
さて、ふたたび長安に戻ってきた玄奘は、すでに二十三歳。諸国を遍歴し、高徳の僧を各地に訪
ね歩いたが、まだ仏道について確信を得るところとはならなかった。
さきの彦悰による伝記によれば、彼は各地の衆師の説に異同があり、それを仏の聖典と照合してみたときに、陰に陽に違いがあるところに疑問をもったようです。
野崎
そこでついに入竺を決意するわけですが、とくに彼は『十七地論』の原本を得ょうとした。――これは、梁の時代にインドから来たパラマール夕、中国名は
真諦三蔵
しんだいさんぞう
が訳出したものがありましたが、それは部分訳でした。その完本が得られるならば、玄奘は自らの疑問も氷解できるであろう、と考えたのですね。
池田
要するに玄奘は、無著・世親の流れを汲む唯識思想を究めようとしたわけだね。すなわち『十七地論』というのは、弥鞠菩薩が説いたのを無著がまとめたもの、とされている。ここには、
瑜伽師
ゆがし
所行の十七地が明かされているところから『瑜伽師地論』とも呼ばれ、現に玄奘自身、その論題で帰朝後に百巻を訳出したのが、今日にまで伝えられています。青年時代に描いた夢に、ともかく生涯をかけて、その一つを実現したわけだ。
むろん、この『十七地論』の原本を得ょうとしたのは、あくまで直接的な動機でしょう。すでに述べたように、彼が入竺渡天を決意したのは、仏法の発祥地であるインドを見聞して、そこに大乗仏教の真髄を求めようとしたものと思われる。また、かつての法顕の偉業を見ならうところもあったかもしれないね。
3
文明の十字路を行く
松本
入竺求法を決意した玄奘は、唐の太宗の貞観三年秋八月、西暦では六二九年に長安を出発しました。これには貞観元年(六二七年)、玄奘二十六歳のときとする説もありますが、ここでは彦悰の記述によって話を進めたいと思います。
野崎
出発の以前に、まず玄奘は何人かの同志とともに、西域へ赴くための願書を提出しています。これは当時、中国では西は玉門関(甘粛省安西付近)を限りとして、関外への交通は国法で禁止されていたからです。そのため、彼らの願書はただちに却下されてしまった。同志は皆、そこで断念してしまうのですが、玄奘だけは重ねて願い出た。しかし、やはり勅許は出なかった。それでも彼は、ひるむことなく、ついに国禁を破っても入竺の夢を果たそうとするわけです。
池田
まさに信念の人ですね。大事をなすためには、崇高な目的への熱い一念と、巌をも砕く不退転の信念がなければならない、ということです。
それにしても、小説『西遊記』では、たしか唐の太宗が法師を召し出し、出発にあたっては通関手形と紫金の鉢、それから遠出の従者二人、さらに白馬一頭まで賜ったことになっていたが、話はまったく逆だね(笑い)。天子みずから見送ったことにもなっているが、実際の玄奘の旅立ちは、だれも見送る者とてない初秋の朝であった。
野崎
西のほう、秦州(甘粛省)までは孝達という僧侶と一緒で、そこから蘭州、涼州(武威)へは旅人、官馬を送って帰る男などと行をともにしました。涼州では、早くも都督に呼びつけられ、都の長安に帰還するよう命じられています。ひそかに脱出した玄奘が、さらに西に進んで瓜州(安西)に滞在しているとき、やがて手配書が回ってくる。役人の温情で早々に出発し、夜陰に乗じて玉門闘を去り、沙漠中の五つの峰台も、なんとか通過することができた。
松本
そうした厳しい警戒網を突破してみると、今度は流沙の沙漠地帯を何日も飢えと渇きに苦しみながら、西へ西へと進むわけです。「危難百千にして備さに叙する能わず」と表現されていますが、実際の西域旅行の困難さについては、まえに「5 求法の旅路」のところで、法顕の『仏国記』によりながら詳しくみていますので、ここでは玄奘のとったルートだけを確認しておきたいと思います。
野崎
西域最初の伊吾(今の
哈密
ハミ
周辺)から高昌(トルファン盆地にあった国)に滞在し、そこでは国王
麹文泰
きくぶんたい
の供養を受けています。この王は熱心な仏教徒で、この国には数千の僧徒がいたという。玄奘が『仁王般若経』の講義をしたときには、国王はじめ大臣、高僧たちも聴聞し、国王みずから床にひざまずいて背を踏ませ、法師を講壇に登らせたという話も伝えられていますね。
池田
『大唐西域記』をみても、玄奘は行くさきざきで、そうした仏教が盛んな様を描写していますね。西域のオアシス国家は、それぞれ小さい国で、人口も少ない共同社会だったから、まず国王が仏教を信奉するようになると、国を挙げて信者になっていったのでしょう。
玄奘が次に立ち寄った
阿耆尼
アグニ
国(今のカラシャール地方)でも、その次の
屈支
クチャ
国(今のクチャ周辺)でも、文字はインド系で、インド伝来の経をそのまま読んでいたというから、おそらく仏の教えが、彼らの共同社会の規範にもなっていたにちがいない。まさに仏法が、これら西域諸国に広宣流布していた姿は、このまえの法顕紀行の時と同じですね。
松本
ここで屈支国というのは、三百年近くも以前に鳩摩羅什を生んだ、かつての亀茲国のことで、城門には仏像を安置し、妙なる音楽を奏して玄奘を迎えています。まさに仏教文化の精華の地であったわけですね。
野崎
それから玄奘は、天山山脈を北側に越えて西トルキスタンに入り、中央アジアの高原、シルダリア(葉河)なども渡り、サマルカンドに着きました。ここは国王以下、一般市民にいたるまで
波斯
ペルシア
教、すなわちゾロアスター教を信じていましたが、それでも仏寺が二つあったということです。
ここから道を南に向けて鉄門を出、さらにアムダリア(
縛蒭
ばくすう
河)を渡ると、現在のアフガニスタン領に入ります。
池田
そこから南は、かつては「月支」(大月氏)とも呼ばれた地方ですね。文字どおり″文明の十字路″というにふさわしい興亡の地です。
松本
いよいよ大雪山、すなわち今のヒンドゥークシュ山脈に入った玄奘は、山高く、谷は深い尾根を、盛夏にも凍ったままの道なき途を、渓谷に沿って進みます。山賊が横行し、妖怪でも現れそうな六百余里を行くと、眼前に
梵衍那
パーミヤーン
国が現れました。
玄奘の『大唐西域記』によると、この国は東西二千余里、南北三百余里で、雪山のなかにありました。仏寺は数十カ所、僧徒は数千人もいて、国王みずから玄奘を迎え、宮殿に招いていますね。とくに玄奘の目を驚かせたのは、王城の東北の山の
阿
くま
に立つ仏像で、高さは百四、五十尺もあり、金色に輝いてまばゆいばかりであったという。
池田
その金色の仏像が、一説によると八世紀から九世紀にかけて侵入したイスラム教徒によって顔面を削りとられ、無惨な姿を今に曝すことになる。さらに十三世紀には、ジンギスカン(成吉思汗)に率いられた蒙古軍が殺到し、バーミヤーン(梵衍那)の城塞は一木一草にいたるまで根絶やしにされて、ここは″死の谷″とも″幽霊の都″とも呼ばれるようになった。
かつては仏都として栄えた地が、めまぐるしい歴史の変遷につれて、後世このような姿になろうとは、おそらく玄奘自身には予測もつかなかったことでしょう。
野崎
こうしてヒンドゥークシュ山脈を越えると、いよいよ念願の天竺、北インドに入ります。時期的には貞観四年(六三〇年)の冬ごろと思われますが、
濫波
ランバ
国(今のラグマーン地方)から
健駄邏
ガンダーラ
国(今のぺシャーワル周辺)へ向かい、やがて信度(インダス)河を渡って中インドから東インドへ向かうわけです。
松本
しかし、かつての″ガンダーラ美術″を生んだほどの一大仏教センターも、玄奘が訪れたときにはみる影もなく、千余カ所の仏寺も朽ち傾き、仏塔も倒れたままの状態でした。ここは、その昔、大月氏の都が置かれ、無著・世親の兄弟や、
脇尊者
きょうそんじゃ
なども活躍した所ですので、玄奘も落胆したのではないでしょうか。
池田
インドの仏教は、このとろすでに衰運に向かっていたわけですね。これまで通ってきた西域諸国には、まだ仏教の盛んな地もあったが、あれほど期待してきた西北インドでは、わずかに遺跡が残されているだけの所も多い。玄奘ならずとも、往時を知る仏教者にとっては一様に悲しむべき姿であったことでしょう。
松本
事実、後に
摩掲陀
マカダ
国を訪れた玄奘は、釈尊成道の
尼連禅河
ナイランジャナー
の畔、今の仏陀伽耶の菩提樹下にいたって五体を地に投げ出し、悲哀懊悩したと伝えられます。
彦悰
げんそう
の『大慈恩寺三蔵法師伝』によれば、そのとき玄奘は自ら傷嘆して言いました。
「仏が成道したとき、この身は何処で、いかなる生を送っていたのであろうか。しかし今、像法時代に万里を渡ってここに至った。思うにこの玄奘は、なんでこのように業障が深く重いのであろうか」(大正五十巻236㌻、参照)
そのように仏法が衰えたことを泣き悲しんでいると、折から
夏安居
げあんご
のために集まっていた遠近の僧が数千人、その姿を見て、もらい泣きする者があった、ということです。
その後、玄奘は
王舎城
ラージヤグリハ
の北郊にあった
那爤陀
ナーランダー
寺に迎えられ、そこで最上の待遇を受けて滞在しています。
このナーランダー寺には、主客の僧数千が主に大乗仏教を学んでいました。当時のインドでは最大規模の寺院で、他の部派の教義はもとより、古典ヴェーダや因明、声明、医学、数学などの諸学問も研究されていたようです。創建いらい七百余年を経過し、毎日百余カ所で講座がもたれ、寸暇を惜しんで学ぶ好学の風があふれでいたということです。
池田
創立七百年というと、現在のオックスフォードやケンブリッジとほぼ同じですね。ヨーロッパのこれらの大学は、キリスト教神学が中心だったわけだが、近世以後は神学研究は影をひそめてしまった。もちろん、時代の推移の速度が違うこともあるが、七百年間にもわたって仏教研究の真剣な伝統が続いていたということは、偉大なことだ。仏法哲理の深遠さ、広大さを感じさせられる。さながら仏教大学といった学問の府ですね。
ここには正法蔵こと
戒賢
かいげん
法師がいて、この百歳を超す碩学から、玄奘は大いに学んでいる。瑜伽論の講義を三回、純正理論を一回、顕揚・対法の二論を各一回、中論と百論を二回ずつ、因明、声明、集量等を二回ずつ聴講したという。『倶舎論』は疑問点を質すだけであったが、その他にも古代梵語から仏教時代のサンスクリット(梵語)にも精通し、多くの梵書も学んでいる。その間、いつしか五年間が過ぎたということであるから、玄奘は三十代の若々しい頭脳に、当時の天竺の仏法哲理の精髄を、可能なかぎり刻印していったと思う。
松本
それからまた旅に出て、広大なインド亜大陸を東に行き、南にも下り、
僧伽羅
スインハラ
国と呼ばれた現在のスリランカにも渡ろうとしています。結果的には渡島を断念していますが、さらに西行してアラビア海の沿岸にも達し、インダス河の下流を渡って北へ向かい、そこから帰路につきました。
野崎
東の
迦摩縷波
カーマルーパ
国(今のアッサム地方)へ行ったときに、一度はチベットを通って四川省に出る路を考えたようですが、これは道が険しく、毒蛇毒草があって危険なので、あきらめたようです。それで、ふたたび西へ向かってヒンドゥークシュ山脈を越え、今度はパミール高原をぬけて西域南道を通り、ようやく貞観十九年(六四五年)正月二十四日、ついに帰朝することができました。貞観三年(六二九年)に出発したとすれば、前後十七年、ときに玄奘は四十四歳であった、といわれます。
池田
玄奘の帰朝を正月七日、四十六歳のときとする説や十九年間の長旅であった、とする説もあるが、ともかくたいへんな難行であり、苦行の旅であったと思う。それは『大唐西域記』や玄奘の伝記を直接、読んで実感する以外にないが、これほどの大偉業を達成してしまえば、その苦しみもすべて生命の貴重な財となって、ときに楽しい思い出に変わるものだ。玄奘としては、この大旅行によって得たものを唯一の宝とし、誇りともして、帰朝後の二十年間、その生涯を終える日まで翻訳の筆を措くことはなかったといわれますね。
4
宗派時代に入る
松本
ところで、これまでにも話題になった布施浩岳氏の中国仏教史を五期に分ける説によりますと、いわゆる第四期の「宗派時代」というのは、との玄奘が帰国した年、すなわち西暦六四五年から始まることになっています。ということは何を意味するかといいますと、布施氏の視点からすれば、それほどまでに玄奘の帰国は大きな意義をもつことになります。つまり中国の仏教史上、玄奘は″宗派意識″いうものをもちこんだ中心人物であった、というこことになりますね。
野崎
たしかに玄英は、後に法相宗の祖と目されるわけですが、すでに生前から大きな影響力をもち、かなりの実力者であったようですね。たとえば仏典の漢訳にしても、彼以前に訳された多くの経典をすべて「旧訳」と呼び、自らの訳を「新訳」とするよう皇帝に奏上して、それを認めさせています。
ともかく玄奘は、その大遠征行によって得た名声と、唐の太宗の絶大な政治権力を後楯として、隆盛を極めた唐代の仏教界に君臨している。そのため後世、仏教者のあいだでは、かえって玄奘に対する評価は大きく二つに分かれることになります。
池田
そうですね。いま問題になった「新訳」と「旧訳」の呼び方にしても、たしかに玄奘訳のほうが優れているものも、なかにはある。しかし、総じて「新訳」のほうが「旧訳」よりも優れているかとなると、必ずしもそうとばかりはいえない。やはり鳩摩羅什訳や、陳の真諦訳のほうが優れている場合も多いからです。
それから玄奘は、教義の面においても、中国仏教史の大きな流れからみると、やや後退しているとみる学者もいる。たとえば最初にも問題になったが、彼は摂論宗義に関して疑問を生じ、その解明のためにインドへ向かった。しかし帰国後は、従来の無著・世親の唯識学よりも、彼が師事したのが護法の流れを汲む戒賢の唯識説によったために、同じ唯識学派でありながら摂論宗は衰えている。
松本
詳しいことは省きますが、摂論宗は唯識論でも
阿摩羅
アンマラ
識(第九識)まで説いています。ところが玄奘らの法相宗義では、第八識の
阿頼耶
アーラヤ
識までしか認めていません。
池田
それからまた、玄奘らの法相宗義では「無性不成説」や「一乗方便説」を主張している。すなわち、仏性のない悪人は成仏できない三乗が真実で一乗を説くのは方便である、というものです。
これらも、いままで話し合ってきた中国仏教史の流れからいって、大きな後退ですね。すでに江南仏教では、仏性のない悪人でも成仏できるし、三乗が方便で一仏乗こそ真実であるということは、天台出現の以前からも仏教者のコンセンサス(共通認識)として認められようとしていた。それを逆行させてしまったわけです。
野崎
宗派として法相宗を確立したのは、玄奘の弟子で慈恩大師と呼ばれる
窺基
きき
ですね。彼は『法華玄賛』の著者としても知られていますが、これは明らかに天台大師の法華解釈を意識して書かれ、なおかつ後退している。
また玄奘門下からは、師の訳出した『倶舎論』について解釈を加える者も多く現れ、それが後に倶舎宗を成立させています。
池田
世親と『倶舎論』については、すでにこの対話の第二部(『私の仏教観』)で取り上げている。そこでも話題になったように、これは小乗のアビダルマ仏教の基礎教典のようなものです。したがって、これを出家修行者が学習した時期があったのは当然としても、そこから独自の宗派が生まれているのは、本来の行き方とは違うところがあるね。
野崎
つまり『倶舎論』というのは、あくまで「論」であって、それは拠りどころとすべき「経」ではない、ということですね。
池田
そうです。宗派の「宗」という意味は本来、仏教でいえば何経を″宗とする″か、根本として尊敬すべき経典は何か、というところから出発している。それが『法華経』であったり、『涅槃経』であったり、『華厳経』であったりすれば、法華宗、涅槃宗、華厳宗と呼ばれていくわけです。すなわち、釈尊の一代聖教のなかでも、どの経典を最も重要とみるかによって、その人の宗派が決まってくるといってもよい。
ところが、玄奘とその門下が開いた宗派というものは、法相宗にしろ、また倶舎宗にせよ、いずれも学問的な教理解釈をめぐるところから起こっている。ここに重大な、一つの陥穿がありそうだ。
野崎
いったい玄奘は、あれほどの苦難を乗り越えてインドへ行き、仏法の真実を求めようとしたのに、なぜそのような陥穿に落ちこんでしまったのでしようか。
池田
それを語るには、当時の中国の仏教界の状況を、もっと詳しく知る必要もあるが、いままで話し合ってきた結論としては、ひとまず次のようにいえると思う。
たしかに若き日の玄奘は、まさに前人未到ともいうべき長征を敢行した。その入竺求法の精神と行動は、高く評価されていい。しかし問題は帰国後、すでに彼は体を痛めていたという事情があるにせよ、仏法の真実を弘めるという実践行が乏しかったように思われる。
およそ宗教の生命というのは、絶えざる弘教の実践にあるといってよい。苦悩に沈む民衆を、一人でも多く救済するための布教活動が停滞しているときには、宗教のみずみずしい躍動も、発展もみられないものだ。
そうした観点からすれば、なるほど帰国後の玄奘は、太宗皇帝をはじめとする唐朝廷の尊崇をうけ、たくさんの弟子も得て訳経に励んだが、それは、いわば貴族仏教的な色彩をもつもので、真実の大乗仏教の精神からは遠く離れたものであった。
松本
それから『大唐西域記』にも書かれていますが、玄奘が訪れたときのインドでは、もはや仏教は落日の衰えをみせていたことも影響していますね。
池田
インドと中国の仏教界を対照した場合、無著・世親が出現した四世紀を境にして、それ以後は中国仏教のほうがインド仏教をしのぐ勢いにあったと思う。とくに中国においては、五世紀から六世紀にかけて江南仏教が隆盛し、南岳大師、天台大師の出現以後は明らかに、その比重が逆転していたように思われる。
ですから、七世紀に入ってインドへ渡った玄奘の時代には、もう中国仏教のほうが高い次元にいたっていた。玄奘のもち帰った仏教の法理が、いかにも後退しているようにみえたのも、そのような事情があったからではないだろうか。
野崎
なるほど、そうした背景もあったのですね。
池田
もっとも、それは現代の仏教者の立場からいえることで、当時の人びとには理解できなかったでしょう。玄奘にしても、インドに足を踏み入れるまでは、そこに″仏陀の国″があるものと確信して行ったわけです。帰国後も彼が、もっと天台の三大部などを徹底して研究していれば、あるいは別な視点が得られたかもしれない。
松本
ちなみに、玄奘は臨終の床にあって「おお、白い蓮華が見える。なんと大きな、美しい花だろう」と咳いたといわれています。それが何を意味する言葉かは定かではありませんが、ここにが″大きな白い蓮華″が見えた、とあるのは、あるいは梵文『法華経』の題名に現れる「プンダリーカ」すなわち″白蓮華″のことをさしているとも考えられます。
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