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日蓮大聖人・池田大作

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天台智顗と三大部

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  南岳慧思との出会い
 松本 さて、こうして出家した智顗は、まず湘州・果願寺の法緒について仏教の基本を学び、続いて慧曠えこうに師事している。そして二十歳になると具足戒を受け、いよいよ青年僧侶として立つわけです。
 野崎 智顗は十八歳にして出家し、二十三歳のときに南岳大師・慧思と出会うわけですが、その間の五年間の研鎖は、とくにたいへんなものだったようです。彼は衡州こうしゅうの大賢山におもむいて、『無量義経』『法華経』『普賢経』の、いわゆる「法華三部経」を二旬にわたって読誦し、三部経に精通したと伝えられているのが、ここで注目されますね。
 池田 そこで智顗は、ある一つの不動の確信を得たと考えられる。つまり『法華経』こそ一切経中の王であり、仏典の最高峰に位することを、彼なりに内証を得たということです。その意味で私は、賢山における『法華経』の読誦こそ、智顗の法華開悟の第一の大事として捉えたい。
 野崎 『別伝』によれば、このとき智顗は法華三部経を読誦し、方等懴法ほうどうせんぼうという行を修したところ、ある″勝相″を現出したとありますね。
 それは智顗が、さまざまな経像が紛雑した堂中に入って、口に『法華経』を誦しながら高座に在り、経文を正しく整理している光景を夢みた、ということですが……。しかもこの後、心神融浄にして、常の日よりも爽利なり」(大正五十巻191㌻)と記されています。
 池田 それは、後に天台大師が法華最第一の教相判釈を確立した事実を象徴するために、あとで付け加えられたエピソードともいわれているが、しかし何の根拠もなしに創作された物語ではないでしょう。やはり天台自身が、晩年になって半生を回顧し、つねに章安大師こと灌頂かんじょうなどの門人に語って聞かせていた話が伝えられたものでしょうね。
 松本 ただ問題は、一般には智顗の場合、大蘇山にいた南岳大師・慧思について初めて開悟することができた、とされていますが、その「大蘇開悟」と、この大賢山における勝相との関係を、どのように理解するか、ということがあると思います。
 池田 仏法では「自解仏乗」といって、究極の悟りは、自ら得る以外にないのです。ですから、天台大師における悟りの原点は、大賢山における勝相にあったでしょう。ただ、それはまだ確証のない、明確な形をとらない内心の悟りにとどまっていた。それに対して、明確な裏づけを与え、形を与えていくのが″師″との出会い――つまり、天台大師においては慧思への師事であったといえる。
 いわゆる「因果倶時」で、根本的な因が植えられれば、すでにそのなかに未来の果を含んでいるのです。大賢山において『法華経』とそ諸経中の王であるとの確信を得たという事実が″因″で、それは″果″としての大蘇山における開悟に直結していたのです。だから智顗が、大蘇山にいた慧思を訪ねたのも、その胸中に搬いた法華の種子を、薫発し、やがて開花させるための確認に赴いたと考えられます。
 野崎私 もそう思います。なぜなら、当時の江南の仏教界では、やはりまだ涅槃第一の教判が根強かったのに、智顗はわざわざ慧思に会うために戦乱の大陸を北上し、光州の大蘇山を訪れているからです。
 池田 そうです。この光州の地は、まさに『慧思伝』にもあるように、陳と斉との国境にあって、兵刃の交わる戦場のようなものであった。しかも慧思すなわち南岳大師は、すでに法華最第一の旗を掲げていたから、北方の仏教徒からは迫害され、南方の仏教界からも当然受け入れられやす、いわば名誉の孤立を余儀なくされていたわけです。その大蘇山の慧思を訪れるのは、よほどの決意と覚悟がなければできないことであった、と私は推測したいのです。
 野崎 すなわち智顗は、法華最第一を主張する慧思こそ、わが生涯の師とすべき人物であること、その師の下で『法華経』の真髄を究め、自身の胸中にある悟りの確証を得るために、大蘇山に向かったということですね。
 池田 おそらく智額は、それこそ生命を賭して悔いない覚悟で大蘇山に向かったにちがいない。といっても、彼には悲壮な暗い影はなかった。大賢山で得た不動の確信は、自己の担った未来への偉大な使命として、その生命に明るく輝く光と力を発現させていたにちがいない。おそらく智顗は、そうした若々しい希望にあふれた姿で、孤高の師・慧思に対面したものと思われる。このとき、慧思は四十六歳、智顗は二十三一歳、二人のあいだには二十三歳のひらきがあった。
 松本 なるほど、そのような背景があったからこそ、慧思は智顗を迎えて「昔日、霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして今、復た来る」(前出)と語ったわけですね。
 池田 慧思は会ったその瞬間から、智顗が法華の内証を得た人物であると判断したにちがいない。生命の奥底からの感応というか、確かな交流が瞬時に実感としであったはずです。そうでなければ、このような言葉を発するはずもない。
 また智顗が、このときまだ法華の内証を得ていなかったとすれば、南岳の言葉の意味を理解できなかっただろうし、すぐに忘れてしまったでしょう。二人の出会いの瞬間に、このような言葉が発せられ、しかも智顗は南岳大師を生涯の師として後々まで肝に銘じたということは、この言葉がけっして不自然でないような、深い宿縁が二人にあったからなのです。
3  大蘇開悟から天台山へ
 松本 智顗とその師・南岳大師との出会いの場面については、このくらいにして、次に大蘇山における法華開悟に移りたいと思います。
 野崎 大賢山での「法華三部経」の読誦による勝相を、天台大師の法華開悟への第一関門とすれば、いわゆる「大蘇開倍」というのは第二の大事ということになりますね。
 池田 そうです。その順序でいえば、。後の天台山華頂峯における「頭陀証悟ずだしょうご」といわれるものが、まさに第三の大事ということになる。一般には、この頭陀証悟がほんとうの智顗の悟達であるという説も通用しているが、しかし私は、むしろ「大蘇開悟」を重視したいのです。
 というのは、その理由は段々と明らかにしていきますが、結論だけさきに言えば、この大蘇山を下りる際に智顗は、南岳大師から付嘱を受けているからです。大蘇山における七年間の修行によって、すでに智顗は師と同位、いやそれ以上の境地に達していたことは間違いない。しかも、それは二人の最初の出会いの瞬間に、根本的には決定されていたとみてよい。それが、仏法の″師弟不二″と呼ばれる原理からして必然の出会いであって、慧思が「霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして」という″宿縁″の意味ですね。
 松本 それで慧思は、弱冠二十三歳の新来の弟子に対して、直ちに普賢道場を示し、自身の悟達したという「法華三昧」を教えているわけですね。
 池田 そうですね。当時の大蘇山には、慧思の下に少なくとも七十人以上の門人がいたと考えられているが、なかでも智顗に対する期待が大きかったさまがうかがわれます。
 野崎 『別伝』によれば、当時の慧思の名声は「名は嵩嶺こうれいよりも高く、行は伊洛いらくよりも深し」(大正五十巻191㌻)ということで、法を重んずる俊英が、この孤高の師のもとに、あえて危険をかえりみず大蘇山に続々と集まってきたようです。『慧思伝』にも「帰従するもの市の如し」(大正五十巻563㌻)とありますが、なかでも若き智顗の修行と実践は際立って光るものがあった。
 松本 大蘇山における智顗の修行過程についても、ここでは『法華経』と関連する部分についてのみ簡単に触れておきたいと思います。
 まず慧思から、「法華三昧」の行法を指示された智顗は、その教えのままに修行したところ、「二七日を経て、誦して薬王品の『諸仏同讃、是真精進、是名真法供養』に至る。ここに到りて一向に身心豁然、寂として定に入り、持、静に因て発す。法華を照了すること、高輝の幽谷に臨むがごとく、諸法の相に達すること、長風の太虚に游ぶに似たり」(大正五十巻191㌻)と『別伝』にあります。これが、いわゆる「大蘇開悟」と呼ばれるものですね。
 野崎 その情景描写についても、すでに述べられていますので、続いて智顗が自らの開悟した境地を師の慧思に話したところ、二人は四夜にわたって問答を重ねたとされる部分に移りたいと思います。
 『別伝』には「恩師、歎じていわく、『なんじに非ずんば証せず、我に非ずんば識ることなからん。所入の定は法華三昧の前方便なり、所発の持は初旋陀羅尼なり。たとえ文字の師、千群万衆、汝が弁を尋ぬるとも窮むべからず。説法の人の中に、おいて最も第一たり』と」(大正五十巻192㌻)――このようにあります。
 池田 要するに慧思は、まだ智顕の開悟が「法華三昧」の前方便であり、初旋陀羅尼の段階であると述べている。しかし、初旋陀羅尼というのは「旋仮入空」といって、法華経の真の中道実相には到達していないけれども、その前段階まではきているわけです。したがって、ここまでくれば、もはや究極の悟りの軌道に入ったとみてよい。
 ですから「爾に非ずんば証せず、我に非ずんば識ることなからん」うのは、まさに師弟が一体となった境地を示しているし、また「説法の人の中に、おいて最も第一たり」とまで讃嘆している事実、このころ智顗は、南岳大師の作った金字の『般若経』と『法華経』とを、師に代わって講義していますね。
 松本 その講席に、かつて智顗が師事した慧曠がいて、弟子の立派な成長ぶりを喜んだということですね。
 池田 ここにも「従藍而青」という言葉の生きた実証があったわけです。しかも、慧曠と慧思とが、互いに智顗を育成した功績を譲りあっている姿は、師もまた謙虚で立派な振る舞いですね。南岳大師が言うには、自分に功績があったのではない、まさに「法華の力によるのみ」というのも、あくまで″法″を中心に立てる仏法の精神を示している。これは、凡人にはなかなかできない所作です。
 松本 また、このときの智顕顗講義は、その智は日月にも比べられ、かつ懸河の弁にも類するほどであった、と『別伝』にあります。師の慧思が讃歎して「法、法臣に付し、法王無事なる者と調いつべし」(前出)と語っています。すなわち、すでに慧思は、自らの悟達した法の一切を若き智顗に付嘱する決意を固めていたわけですね。
 野崎 こうして智顗は、二十三歳から三十歳までの七年間、大蘇山において慧思のもてるものをすべて学び体得し、付嘱を受けて金陵に向かうわけです。
 松本 この金陵というのは、陳の都がおかれた都市で、現在の南京に当たっています。そとに智顗は八年間も滞在し、後進の指導と育成、そして法華弘通の教化活動をおこなっている。また陳の重臣、儀同沈君理の懇請を容れて『法華経』の経題を講義したと伝えられています。
 池田 その講義が、後に天台三大部の一つを構成する『玄義』の原形となっていくわけですね。むろん、今日にまで残されている『法華玄義』の体裁とは、かなり違ったものだったでしょう。ともあれ、大蘇開悟を得た智顗は、まだ三十一、二歳の青年僧であった。その彼が、陳の政都で最初に法華経題を開講した第一声は、いかにも初々しいものがあったにちがいない。ここに智顗は、南岳大師から付嘱された大法弘通の第一歩を印したというべきです。
 松本 天台大師の著作の内容については後に検討するとして、続いて三十八歳から十一年間、いよいよ浙江省にある霊峰、天台山に入るわけです。
 池田 ここで第三の「華頂頭陀」と呼ばれる証悟がある。それは、智顗が天台山中の銀地に草庵を構え、その北にある華頂峯に登って頭陀を行じていたときのこと、後夜に及んで大風が吹き、雷震は山をも動かし、さかんに魔が来襲したが、彼は深く実相を念じて本無に体達すると、憂苦が相ついで消滅した、という。そして明星が出ずるころ、神僧が現れて一実諦の法門を授けた、とある。
 たぶんに神秘的な部分もあるが、要するに智顗は、このとき法華円頓の中道実相の法門を悟った、とされていますね。
 松本 その後、天台大師は四十八歳のころ陳の少主叔宝に迎えられ、ふたたび金陵に出て霊曜寺から光宅寺に移っています。ここは有名な光宅寺法雲が、かつて『法華経』を講じた法華有縁の寺ですね。
 池田 そこで天台大師も『法華経』を講じ、それが後に『法華文句』としてまとめられることになるのです。法雲の法華学が平板な注釈的研究に終始したものであったのに対し、それを天台大師は痛烈に批判して、あくまで自己の生命の奥底からの悟達をもとに、『法華経』の法理を縦横無尽に生きいきと展開していった。
 野崎 その席に、後に天台三大部を集成した章安大師、すなわち青年僧・灌頂が控えていました。智顗五十歳、灌頂二十七歳のときのことで、この二人の年齢差も二十三歳ですね。
 松本 翌開皇八年(五八八年)、陳に対する討伐令が出て、後の煬帝となる晋王広を総帥とした惰の大軍が南下してくる。そのため智顗は、戦乱を避けて廬山へ赴き、そこから南岳衡山へ向かって慧思終罵の地を訪れ、師恩を深謝したという。その後、生地の荊州に帰って玉泉寺を創建し、そこで出世の本懐たる『摩訶止観』を講するわけです。
 池田 だいぶ慌ただしいたどり方だけれども、その晩年に三大部を説く部分は非常に大事であるので、次にその内容まで含めて、さらに詳しく検討することにしたい。
 野崎 天台三大部の成立過程、および内容を含めて検討していくまえに、いったい天台大師にとって三大部とは何であったか、またそれは仏法史上、いかなる意義をもつものであったか――そのことを明らかにしておきたいと思いますが……。
 池田 たしかに天台の三大部は、いわゆる天台教学の中核である、ばかりでなく三千年に近い仏教思想の全体のなかでも、理論的には最も高度な内容をもっている。山にたとえると、ちょうど″世界の屋根″と呼ばれるヒマラヤの高峰に位置しているといってよい。それだけにまた、初心者には容易に近づきがたく、危険な山となっている。その高峰をきわめるには、練達な登攀技術と頑健な身体、それに豊富な経験がなければならないようなものです。
 松本 天台の三大部は、『法華経』の多角的な論疏となっていますが、もともと『法華経』そのものが、数ある大乗経典のなかでも最高峰に位置するわけですね。それを登りつめたものが三大部ですので、その高さは比類ないといえます。
 野崎 ここで、日蓮大聖人の「撰時抄」のなかに、この天台三大部を的確に位置づけられた御聖訓がありますので、若干長くなりますが拝読してみます。
 「像法一千年のなかばに天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去さらいにこにいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一千枚に尽し給う已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一しずくも漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にべ十界の依正を三千につづめたり、此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那しな五百年の人師の釈にも勝れたり
 ここに明らかなように、まず『玄義』と『文句』では法華経の題号と一経の文々句々が解釈され、さらに『摩訶止観』では一念三千の観門が示されているわけです。
 池田 すなわち、天台の三大部が著されて以後は、『法華経』の理論的な解釈は『玄義』と『文句』により、また諸法実相を観心する実践面は『摩訶止観』によって明確に開かれたといってよい。それによって中国の仏教者は、それぞれ自身の己心に仏を観ることができた、ということです。
 しかし、それはあくまで観念観法のうえのことであって、日蓮大聖人の事の一念三千の法門が顕されて以後は『法華経』の究極である三大秘法の御本尊を受持することが「受持即観心」といわれるように、われわれの生命に仏界を事実の相として涌現することになる。その違いを明確に把握したうえで、天台三大部を一つずつ見ていくことにしよう。
4  法華文句と章安の功績
 松本 一般に「玄・文・止観」の順に呼ばれますが、ここでは説時の順にしたがって、まず『法華文句』から入っていきたいと思います。
 最初に『文句』が、いつ、どこで説かれたか、ということですが、これについては巻第一上の冒頭に、後の章安大師とと灌頂が次のように記しています。
 「仏世に出づること難く、仏是れを説くこと難し。此を伝訳すること難く、自ら開悟すること難し。師の講を聞くこと難く、一遍にして記すること難し。余二十七にして金陵に於て聴受し、六十九にして丹丘に於て添削す。留めて後賢に贈り、共に仏慧を期せん」(大正三十四巻1㌻)
 陳の天嘉二年(五六一年)生まれの灌頂が、数えで二十七歳ということは、おなじく陳の禎明元年(五八七年)にあたります。ですから天台大師は、この年、五十歳のときに、首都の金陵で『妙法蓮華経』の文々句々を講義しました。ただし、金陵の何寺であったかは明らかではありません。
 ただ当時、智顗は十一年間にわたる天台山の隠棲時代を経て、首都金陵の光宅寺に止住していたことは確かですから、ここで『法華経』が講じられたものと思われます。
 野崎 一般的にも、それが通説になっていますね。天台が、陳の少主叔宝のたびかさなる招請に応じて、そこで大いに『法華経』を講じたことは十分に考えられます。
 池田 しかし、そうした説処の詮索よりも、このとき智顗がなぜ『法華経』を講じようとしたかの内的誘因を知ることのほうが、より重要であると思われる。すなわち、天台山の華頂峯上で、ある不思議な覚悟を得た智顗は、それより以後、『法華経』を中核とした教学体系を確立していく。その一大転機を境にして、彼は不動の確信をもち、当時の南朝の政都金陵に乗り込んでいったわけです。
 野崎 なるほど。そうすると、形式的には陳の少主叔宝の七度に及ぶ招請を受けたことになっていますが、すでに智顗の側には、いよいよ『法華経』を講ずる万全の態勢ができていたということですね。
 池田 そうです。これを聴講した章安大師・灌頂が、その後、講義録を完成するのに四十二年間もかけていることから、よほどの大講義であったと想像される。むろん灌頂は、この講義を末永く後世に伝える意味から、慎重のうえにも慎重を期したのでしょう。しかし、さらに想像をたくましくするなら、まだ二十七歳の彼には、あまりにも高度な智顗の『法華経』講義を筆記するだけが精一杯で、その深遠な内容を理解できない面もあったのではないだろうか。
 だが、それにしても章安大師は立派ですね。天台の三大部の講義も、もし灌頂という優れた弟子がいなかったならば、そのうちの一つとして残されなかったかもしれない。現存する三大部は、すべて章安大師の筆録が元になっているわけですから。
 松本 たしかに「師の講を聞くこと難く、一遍にして記すること難し」(前出)というのは、おそらく章安大師の切なる実感が込められた言葉だと思います。
 それは、とくに『玄義』と『止観』についてもいえることで、この師弟は陳の金陵が隋の大軍によって陥落した際、いったん乱を避けるために離別していますね。その戦乱の渦中を、濯頂は師を追っていって廬山で再会し、さらに荊州まで陪従したことによって、続く『玄義』と『止観』の講席に列なることができたわけです。
 池田 しかも章安大師は、晩年の六十九歳まで『文句』の添削の筆を措くことはなかった。すなわち彼の生涯は、ある意味では天台三大部を完壁に仕上げ、それを後世の遺賢に贈るために捧げられた一生であった、といえるでしょう。そこに私は、仏法を後世に伝えるための「令法久住」の一念、さらには「師弟不二」の実践の姿を見る思いがします。
 野崎 そこで『法華文句』の内容ですが、これはさきほどの「撰時抄」の文にも簡潔に要約されているように、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』一部八巻の文々句々を、天台大師が因縁・約教・本迹・観心の四釈をもって解釈したものですね。
 松本 それに加えて、この『文句』で大事なのは、いわゆる天台の一経三段、二門六段といわれる分科ですね。これは『法華経』を、まず序分・正宗分・流通分の三つに分けて解釈していく。「天台智者、文を分かって三と為す。初品を序と為し、方便品より分別功徳の十九行の偈にいたるまで、凡そ十五品半を正と名づけ、偈従り後、経を尽くすまで凡そ十一品半を流通と為す」(大正三十四巻2㌻)と巻第一上の序品第一にあります。これが一経三段ですね。
 次に二門六段というのは、一経を二分して前十四品を迹門、後十四品を本門とするもので、これはよく知られた分け方です。その本迹二門を、それぞれ序・正・流通に分けて六段としているわけです。
 池田 詳しくは直接『法華文句』を読むに越したことはないが、ここで重要なことを一つだけ述べておきたい。それは古来、およそ『法華経』の注釈書は汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうをきわめるほどであるが、どんなに厳密な解釈がなされたとしても、『法華経』の根底に在るものは何か、つまり″法華経の心″を知ることなくしては、意味をなさないということです。この一点を見失った『法華経』の解釈は、極言すれば徒労に終わらざるをえない。
 その点、天台大師の場合には、まさに当時としては内鑒冷然ないかんれいねんであって、その悟りの境地から『法華経』を理論的に体系化していったわけです。とくに『文句』では、光宅寺法雲の『法華経』解釈に厳しい破折が加えられているが、それはおなじく光宅寺で講じられたからだけではない。法雲には『法華経』によって智顗が得たような悟達がなかったからであると思う。
5  法華玄義と五重玄
 松本 続いて『法華玄義』に移っていきたいと思います。まず『玄義』の場合、いつ、どこで説かれたか、明らかではありません。章安大師の『法華玄義』の私記縁起にも「次に江陵にありて玄義を奉蒙す」(大正三十三巻681㌻)と記されているのみで、どこの寺で、いつ講説されたかは示されていない。
 ただ、後に戒応がつくった年譜には、これを開皇十三年(五九三年)、智顗五十六歳のこととし、また『仏祖統記』には「開皇十三年夏四月より玉泉に於て法華玄義を説く」(大正四十九巻183㌻)とあります。そこで一般には、これを開皇十三年、つまり『止観』が説かれる前年に、荊州の玉泉寺において『妙法蓮華経』の経題釈がなされたものとしているわけです。
 野崎 しかし、隋の文帝から「玉泉寺」の寺号が下されたのが、開皇十三年の七月二十三日であるために、それ以前に『玄義』が講じられたとすれば、玉泉寺ではなく、仮に玉泉寺でおこなわれたとすれば、秋か冬に講説されたものと推測する向きもありますね。むろん、これはさほど重要なことではありませんが……。
 池田 やはり『法華玄義』で重要なのは、その内容ですね。ここで天台大師は『妙法蓮華経』の経題を「名・体・宗・用・教」の五重玄をもって解釈し、その独自な法華経観を展開した。この独創的ともいうべき理論を布石として、いよいよ翌年には、その出世の本懐である「円頓止観」、後の『摩訶止観』が説かれるわけです。
 したがって『玄義』を論ずるには、いわゆる天台の五重玄を中心に、みておく必要がある。
 松本 『法華玄義』では、まず(1)釈名(2)辯体(3)明宗(4)論用(5)判教の五章を挙げ、この五章を釈するのに通別あり、として「通は則ち七番共解、別は則ち五重各説なり」としています。ここに七番共解というのは(1)標章(2)引證(3)生起(4)開合(5)料簡(6)観心(7)会異で、通じて五重玄の概要を述べ、次に五重玄義を別釈していくわけです。
 野崎 第一釈名章では『妙法蓮華経』の五字について「妙法」は法、「蓮華」は譬、「経」は通名とし、とくに妙法の二字の釈が中心ですね。――「法」について智顗は、これを心・仏・衆生の三法とし、この三法は無差別であって十界互具百界千如、一即一切なれば一実相であるとする。すなわち、一切の法は皆、平等円融なることを明かしているわけです。
 池田 ここで大事なことは、この『玄義』においては百界千如までで、まだ一念三千の法門は明かされていないということです。天台の法門は、教相と観心の二門が鳥の両翼、車の両輪のごとき関係にあるが、三大部では『玄義』と『文句』が教相、それに対して『止観』が観心であるといわれる。その決定的な違いは『止観』にいたって初めて「一念三千」が明かされるからですね。
 松本 次に「妙」の釈名では、通別の二釈が設けられ、通釈では相待妙と絶待妙とを開いて法華の絶妙なることが明かされる。また別釈では、本迹二門に各十種の妙義があるとして、いわゆる迹門の十妙、本門の十妙が説かれています。
 詳しくは略しますが、このあと「蓮華」については当体蓮華と譬喩蓮華が明かされ、さらに「経」の一字にも有翻と無翻の二義が挙げられ、釈名章を終わっています。
 野崎 続いて第二辯体章では「諸法実相」をもって一経の体とし、一切の万法は三諦円融の当体であることが示されています。
 第三明宗章では、一仏乗、師弟の因果をもって経の妙宗なることが明かされ、第四論用章では、断疑生信、増道損生をもって経の力用とされ、第五判教章では、南三北七の異解を挙げ、それを破折した後、『法華経』こそ超八醍醐の経なることが明かされているわけです。
 池田 天台大師によれば、あらゆる経文は五重玄に約さなければ、その玄意を知ることはできないという。
 その依文として、彼は『妙法蓮華経』の如来神力品第二十一の結要付嘱の文、すなわち「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法」これが名玄義であり、「如来の一切の自在の神力」これが用玄義、「如来の一切の秘要の蔵」とれが体玄義、「如来の一切の甚深の事」これが宗玄義、「皆此の経に於いて宣示顕説す」とある経が教玄義、として挙げられている。
 この五重玄をもって『法華経』を講じたところ、当時の仏教界に大きな波紋を呼んで、たとえば金陵の仏教界の指導者でも、天台大師の弟子となった者が多かった。それほど彼の『法華経』の講義は、歴史に残る名講義であったわけです。
6  摩訶止観と一念三千
 松本 では次に、天台三大部のうち最も重要な法門である『摩訶止観』に移りたいと思います。
 これは、いつ、どこで説かれたかは、巻第一の冒頭に明瞭です。いわく「止観の明静なることは前代未だ聞かず。智者、大陪の開皇十四年四月二十六日より、荊州の玉泉寺に於て、一夏に敷揚し、二時に慈■す」(大正四十六巻1㌻)と。
 ここに開皇十四年というのは、西暦では五九四年、智顗五十七歳、灌頂三十四歳のときにあたります。章安大師は一夏九旬、すなわち三カ月の夏安居中、終始これを聴講し、その聴記本を再三再四修治して、天台大師の死後に完成したのが、現行の『摩訶止観』十巻となったわけです。
 野崎 荊州の玉泉寺というのは、山色は青藍にけむり、白く清冽な名水を出す玉泉寺にちなんで名づけられたようです。そこに「荊州の法集に於て聴衆一千余僧、禅を学ぶ三百」(大正四十六巻809㌻)と智顗の遺書に記されているほどの聴衆が集まり、当時としては相当な盛況のうちに、この『止観』の講説がおこなわれたものと思われます。
 松本 ここに「禅を学ぶ三百」とあり、また最近では『摩訶止観』や『小止観』を坐禅の書のように受け取る向きがありますが、天台の″止観″の場合、現代の禅ブームなどとは根本的に違うものがあると思いますが……。
 池田 まったく違うものですね。その理由については、すでに「11 南岳慧思と法華経」のところで述べましたが、とくに智顗の場合、この『摩訶止観』を説くころには、つとめて″禅″の一字を代えて″止観″の語を用いていることからも明らかであると思う。
 第一、中国における禅宗の初祖とされる達磨について、智顗はほとんど言及していない。インドから達磨が来たのは六世紀の初頭とされているが、おなじ六世紀の中葉から後半にかけて活躍した智顗は、いわゆる達磨の禅など眼中になかったものと思われます。
 第二に、天台大師のが″止観″というのは、止は念を法界に繋げること、観は念を法界と一つにすることであって、あくまで己心に十法界を観じていくことです。したがって、坐禅のように単なる修行法としであるのではなく、あくまで『法華経』によって諸法実相、一念三千の理を観じていくものです。
 野崎 御書に「若し此の止観・法華経に依らずといわば天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん」と仰せです。いわゆる達磨の禅法と、天台の止観との決定的な相違は、まさに『法華経』に依っているか否かの違いによるわけですね。
 池田 そうです。今まで述べてきたことからも明らかなように、天台大師は『法華経』の文によって一心三観・一念三千の法門を説いていった。それが円融三諦の円頓止観であり、「摩訶止観」と名づけられるものです。
 『摩訶止観』の正説は十章から成り、それを日蓮大聖人が「十章抄」において明確に要約なされている。その御聖訓を拝読すれば、天台の止観と法華経の関係は一目瞭然たるものがあります。有名な御文ですが、そこを拝読してみたらどうだろうか。
 松本 「止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何にいわんや爾前に分へたる事なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」と。
 池田 いま拝した「第七の正観・十境・十乗の観法」の第一は、観不思議境と名づけられ、そのなかに念三千の法門が説かれる。それが、巻数でいえば『摩訶止観』第五の上にある次の文です。
 「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば己みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す。(中略)所以に称して不可思議境と為す。意此に在り」(大正四十六巻54㌻)と。
 これこそ、われわれの一念の心に三千の諸法が具足され、空仮中の同融三諦にして不思議の妙境を観ずること、すなわち天台の円頓止観の実相です。この止観を、章安大師は「己心中所行の法門」と呼ぶわけです。
 しかし、これは引用の文に明らかなように、あくまで一念三千を理論的に展開した法門です。それに対し、事の一念三千の法門は、日蓮大聖人が「観心本尊抄」において、この文を冒頭に据えて展開なされている。その究極の当体こそ、われわれの信仰の対境たる三大秘法総在の御本尊なのです。
 ともあれ天台大師は、年七歳にして『法華経』普門品を聴いて以来、五十七歳にして『摩訶止観』を説くまでの五十年間というもの『法華経』の研鎖を怠つてはいない。幼少のころから『法華経』とともに育ち、学び、そして仏法の奥底を究め、中国の大地に法華の種子を植えていった。ときに戦乱を逃れて南へ下り、北へ行き、そして南岳にまで足を踏み入れたけれども、その後の行動の足跡は、そのまま法華弘通の遠征でもあったのです。

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