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日蓮大聖人・池田大作

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南岳慧思と法華経

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  法華第一の旗を掲げて
 松本 インドから中国へ仏教が伝えられて以来、ほぼ五百年間にわたる中国仏教界の流れをみてきました。その間、数多くの訳経僧が西域の回廊を通って渡来し、また中国人の求法僧も輩出して、大乗と小乗の膨大なる仏典が伝えられ、いわゆる「南三北七の諸家」も生まれました。
 そこで、いよいよ南岳大師・天台大師の時代に入っていくわけですが、ここでは『法華経』が仏典中でも最高の経典であることを明らかにしていきたいと思います。
 池田 そうですね。との「仏教対話」では、中国に仏教が伝えられて以来の全般的な流れをたどっているので、中国仏教のなかで南岳大師・天台大師が、どのように位置づけられるかを検討していったらどうだろうか。その意味でも、とくに南岳・天台大師という中国仏教に傑出した二人の法華経観をみていくことが、ここでは重要になってきますね。
 松本 中国仏教史の流れからいえば、この二人が出現したのは、布施浩岳氏のいう第二期の「学派時代」の末期にあたります。
 さきに「6 教相判釈の展開」のところで話題になりましたが、その布施浩岳氏の五期に分ける説によると、ちょうど智顗(天台大師)が天台山入りした五七五年ごろから、次の第三期「折衷時代」に入ることになります。また、この時代は、いわば「権実相対」が明らかになっていく段階であるという問題提起もありましたが……。
 野崎 たしかに「折衷時代」といった場合の″折衷″という語は、あまりいい感じを与えていません。その点は、布施氏もまた自ら認めておりますが、実際には、この時代が最も若々しく、かつ中国仏教が隆盛を極めた時期にあたっています。
 つまり、布施氏が「折衷時代」と呼んだ真意は、むしろこの時代に「南三北七の諸家」が互いに交流し、各学派が一段と高い次元にまで発展・止揚していったわけですから、そこに積極的な意義を認める立場にあります。
 池田 そうですね。とくに南岳大師・慧思の場合は、彼が滞在していた大蘇山というのが、ちょうど南北の境界近くにあり、そこに後の天台をはじめとする優秀な学僧が数多く集まっていた。いわば、北地と江南の二つの流れがあった仏教界を、融合するうえで重要な役割を果たしている。いわゆる「学派時代」の諸家分立の混乱状態を、法華最第一の旗を高く掲げて収拾する役目を果たしたともいえますね。
 また天台大師・智顗の場合は、その南岳大師の後を承けて、事実の姿のうえに『法華経』が最も第一の経典であることを、生涯説きつづけてやまなかった私が、さきに「折衷時代」といわれる時期の特徴を「権実相対」のうえから指摘した理由も、そこにあります。
 野崎 また慧思は、中国の仏教史上、いちはやく″末法意識″をいだいていたことで知られています。時代の状況からしても、後漢王朝が崩壊して以来、魏・呉・蜀の三国鼎立から五胡十六国時代、そして魏晋南北朝の時代へと、めまぐるしい変転を遂げている。戦乱は続き、民衆は苦悩にあえぎ、まさしく世は末法の近きを思わせるものがありました。そのようなときに、とくに実践を重んじる大乗仏教者として立った慧思が、早くから末法意識をもっていたということは、転換期における仏法の革新をめざしていたものと思われます。
 松本 布施氏の時期区分では、五七四年に北周武帝の廃仏があり、それによって北方の仏教者が数多く江南に逃れ、そこから「折衷時代」が始まった理由としているようですが……。
 池田 もちろん、そうした外在的な理由もあったでしよう。しかし、すでに南岳大師・慧思が法華最第一の旗印を掲げていたのは、北周武帝の廃仏より以前のことですね。また、各学派のあいだでも、相互に交流がなされていたことは、当時の記録などによっても明らかです。したがって、むしろ「折衷時代」と呼ばれるような仏教界の動きは、心ある仏教者のあいだに内在的な要因としであった。それゆえにこそ、南岳大師の「動執生疑」が波紋を呼び、後に天台大師の法華経講義が注目を集めていったのではないだろうか。
 松本 なるほど、それでだいたい、この時代の見通しがついてきました。
2  慧思の法華開悟
 野崎 そこでまず、南岳大師・慧思と『法華経』との関係を話題にしたいと思いますが、なかでも「法華三昧」とは何か、が中心となりますね。
 池田 それは、すなわち慧思が「法華三昧」を覚知したことが、仏教史上どのような意味をもっているか、ということですね。
 松本 妙楽大師こと湛然は「今家の教門は龍樹を以て始祖となす。慧文は但だ内観を列ねて視聴するのみ。南岳・天台におよんで復た法華三昧に因て陀羅尼を発し、義門を開拓し観法周備す」(大正四十六巻459㌻)と述べています。
 これによってみると、天台家というのは、まずインドの龍樹教学の流れを汲み、続いて中国では、南岳大師の師である恵文禅師が『大智度論』によって内観し、それを慧思が「法華三昧」として開花させた。その後、天台大師・智顗が「円頓止観」として法華三昧を体系化し、天台家の観法を確立した、ということになりますね。
 野崎 つまり天台家では、龍樹を曾祖師とし、慧文を祖師、南岳大師を父師と呼んでいたことが、やはり妙楽の『止観弘決』に出ています。
 池田 妙楽大師はまた「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」(前出)ともいっている。そうすると、いわゆる天台大師の「円頓止観」なるものは、まさに法華経によるものであって、南岳大師の開悟した「法華三昧」が、非常に大きなウエートを占めることになる。
 では、その「法華三昧」とは何か、ということが知りたくなるところだけれども、そのまえに、慧思がどのような経過をたどって彼における究極の悟りというものに到達したかを、もういっぺん簡単にみておいたらどうだろうか。それによって『法華経』の意義も明らかになってくるはずです。
 松本 南岳大師が「法華三昧」を悟るにいたった経過については『続高僧伝』のなかの「慧思伝」(正式には『陳南岳衡山釈慧思伝』)などに詳しく記されていますが、それらを整理してみますと、ほぼ次のようになると思います。
 ――西暦五一五年に生まれた慧思は、若くして出家してから十年間、ひたすら『法華経』等の諸大乗経典を読誦していった『立誓願文』には「法華経および諸大乗を誦し、精進苦行す」とあります。さらにまた七年間、さまざまな師を求めて遍歴し、方等を修し、大乗禅師としての厳しくも真剣な求道生活が続いた。そして三十二歳ごろ、慧文禅師について九旬、すなわち三カ月間、慧思は一心に坐禅入定し、法華経の奥義に肉薄していった結果、ついに一時に円経の極意に通達した、といわれています。
 野崎 その悟達の瞬間は、『慧思伝』によると興味ぶかいものがありますね。
 「夏おわって歳を受け、獲るところ無きを慨し、自ら昏沈こんちんにして生きて空しく過ぐるを為すを傷む。深く慙愧を懐いて、身を放って壁にるに、背未だ至らざるの間、霍爾かくじとして開悟し、法華三昧大乗の法門、一念に明達して、十六特勝、背捨、陰入すなわち自ら通徹し、他に由って悟らず」(大正五十巻563㌻)
 池田 すなわち慧思は、出家してからの十数年間、『法華経』をはじめとする大乗経典を何千回も読誦し、坐禅も小乗禅から大乗禅へと進み、七年間も自己に厳しく修行したけれど、なかなか究極の悟りには到達できなかった。いわゆる「法華三昧」を一時に開悟するまでは、まったく空しく生きてきたようにも慙愧された。
 ということは、いくら『法華経』を文上だけで読んでも、その奥底にあるものを究めなければ意味がない。また、どんなに厳しい荒行のような修行を積んでも、何年坐禅を組んでも、仏の悟達に近づくことはできない、ということでもある。
 松本 慧思は日にただ一食、特別な供養布施も受けずに、ひたすら『法華経』等の三十余巻を誦して、数年のあいだに千遍にも及んだ、ということが『慧思伝』に出ています。
 野崎 そのときは、まだ慧文師に就いていない段階ですね。ということは、それほど厳しい修行を自らに課しても、また『法華経』等を何回読誦しても、やはり仏法の世界においては、正しい師につかなければ、なかなか奥底の悟りは究められないということですね。
 池田 いや、究極の悟達は自得であり、自身の生命に内証する以外にないが、そこにいたる過程において優れた師がなければならない、ということです。ある意味では、慧思の十数年にわたる難行苦行と彷徨は、その師を求めぬいた道程ともいえるでしょう。天台家の伝承において、慧文を祖師として位置づけているのも、その意味からではないだろうか。
 松本 ただ、その場合、南岳大師と天台大師の師弟関係は明確になっていますが、慧文については、あまり知られていませんね。
 池田 それは『摩訶止観』の章安大師の序に、簡単ではあるが、述べられていますね。
 野崎 たしかに「南岳は恵文禅師につかう。斉高の世にあって河准かわいに独歩し、法門は世の知るところにあらず、地をみ天を戴きて高厚を知ることなし。文師の用心は一に釈論に依る。論はこれ龍樹の説くところにして、付法蔵のなかの第十三師なり」(大正四十六巻1㌻)とあります。
 池田 すなわち慧文師は、付法蔵第十三(または第十四)の龍樹菩薩の流れを汲んで、なかでも釈論、つまり『大智度論』等に精通していた。南岳大師は、その恵文のもとにあって「法華三昧」を開悟していくわけです。
 なるほど『大智度論』は、端的には『般若経』の注釈書でもある。しかし、そこには『法華経』が、かなり大幅に引用され、いわばインドの大乗仏教の正統を伝える膨大なる論書です。それを、西暦四〇一年に長安入りした鳩摩羅什が、中国にもたらしたことについては、すでにみてきたとおりです。しかも、その羅什三蔵には、『妙法蓮華経』の名訳がある。となれば、とこに『法華経』の正流が流れていたことは間違いない。したがって、中国仏教界で最初に「法華三昧」の境地に達したのは南岳大師であるが、その開悟をもたらした人物として慧文禅師の役割を評価し、南岳の師としているのでしょう。
 また、たしかに慧思は、師の慧文よりは優れているようにみえる。しかし、そう言ってしまえば、後の天台大師はまた、師の南岳大師より一段と偉大であったといわざるをえない。ですから、ここで「従藍而青」という言葉が生きてくるのです。「藍よりして而もより青しとやせん」と『摩訶止観』の冒頭にもあるでしょう。つまり優れた弟子をもつということは、それだけ師もまた偉大であったという証明にならないだろうか。
 松本 それは理解できますが、ただ南岳大師は『法華経安楽行義』において「法華経は大乗頓覚とんがくにして無師自悟、疾く仏道を成ず」〈大正四十六巻697㌻)と記していますので、慧思は慧文を師としていたか
 どうか、疑問視する向きもありますが……。
 池田 そこは前後をよく読めばわかるように、『法華経』が「無師自悟」であるというのは、究極の真理の悟りについていっているのであって、次第行に終始する方便権教の修行法との相対のうえでいっているのです。文証を示せば、やはり『法華経安楽行義』に「法華菩薩は(中略)是れ利根の菩薩にして正直に方便を捨て、次第行を修めず、若し法華三昧を証せば、衆果悉く具足す」(大正四十六巻698㌻)とある。
 すなわち南岳大師は、十数年聞にもわたって『大品般若』や『涅槃経』などの三乗次第入、つまり歴劫修行を重ねてきたけれども、どうしても仏法の奥底に達することはできなかった。ところが、慧文師のもとで禅定に入るや、一時に「法華三昧」を開悟したわけでしょう。ですから慧思は、三乗次第入の痛切な反省のうえに立って、『法華経』こそ一時円証、大乗頓覚、無師自悟、疾成仏道の法であると宣言したのではないだろうか。なにも、師としての慧文を否定するために「無師自悟」といったのではないと思うのです。
3  法華三昧とは何か
 そこで次に、では南岳大師が開悟したという「法華三昧」とは何か、という問題に移っていきたいと思います。
 野崎 『法華経安楽行義』を読むと、「法華三昧」というのは『法華経』に説かれた奥底にあるものを悟るための、当時の一つの修行法といえる面がありますね。
 菩薩が『法華経』を学ぶためには、一つは「無相行」といって、禅定に入って衆生の本性を観察する安楽行を修すること。もう一つは「有相行」といって、散心に『法華経』を読誦し専念する行を修すべし、と述べています。これを慧思は、『法華経』の安楽行品第十四と普賢菩薩勧発品第二十八の文から引き出してきたわけですね。
 池田 その「法華三昧」というのは、慧思の場合、具体的には三七日、すなわち二十一日間を期限として『法華経』を読誦し、そこに説かれる諸法実相、中道一実の妙法を諦観する修行ともいえるでしょう。しかし私は、それだけではないと思う。
 というのは、この「法華三昧」という語が『法華経』のなかにみえるのは、妙音菩薩品第二十四と妙荘厳王本事品第二十七であるといわれるそこでまず妙荘厳王本事品のほうをみると、そこには「浄眼菩薩は法華三昧に於いて、久しく巳に通達せり」(妙法蓮華経並開結654㌻)とある。これでみるかぎりは、『法華経』の奥底に通達するための修行法ともいえるが、妙音菩薩品のほうは、妙音が「久しく己にもろもろの徳本を植えて、無量百千万憶の諸仏を供養し親近したてまつりて、悉く甚深の智慧を成就し」(前出609㌻)た結果、法華三昧等の十六の三昧を得た、とありますね。
 ですから『法華文句記』に「実道所証の一切は皆法華三昧と名づく」(大正三十四巻186㌻)ともあるように、菩薩が『法華経』を如説修行して得られる実証そのものを「法華三昧」と名づけたと考えられる。
 松本 ただ、『法華経』を読むかぎりでは、いったい「法華三昧」とは何をさし、どのようにして得られるのか、ほとんど説かれていませんね。
 池田 やはり仏の悟りというのは、そう簡単にわかるものではない。経文にみえないということも、究極の悟達の境地は言葉では表現しえないからでしょう。それは「言語道断・心行所減の境地」ともいわれるし、法性の淵底に実在するもの、すなわち″諸法実相″にして、″円融の三諦″たる妙法そのものだからです。
 野崎 『法華経』は文上にとらわれるのではなく、文底から読みきらなければならないというのも、そのためですね。
 池田 そうです。ただし、ここで勘違いしてはならないのは、では文字を立てずに仏が見えるかといえば、けっしてそうではないあくまで究極の原理は『法華経』の文の底に秘沈されているのであって、『法華経』によら、なければ悟達は得られない、ということです。
 妙楽大師は『法華文句記』において「脱は現に在りと難も具さに本種を騰す」(大正三十四巻156㌻)と言っている。すなわち三世の諸仏は、みな『法華経』によって成仏というか、悟達したわけだけれども、それは文底にある「久遠の本種」(久遠本来の成仏の種子のこと)をあげることによっているのです。
 野崎 慧思が「法華三昧」を開悟したというのも、そのように『法華経』に肉薄していった結果、文底に秘沈された久遠の本種を、忽然と覚知したということですね。
 池田 簡単に言ってしまえば、要するに久遠を思い出したということです。私の恩師戸田城聖先生も、生前よく「久遠を思い出した」と言われていた。それは、戸田先生の『小説・人間革命』にも描写されているように、獄中において唱題を重ね、白文の『法華経』を読み進めるにつれ、ある日突然に、先生は霊山における法華経の会座を思い出された。このことは、あるいは不思議なことのように思われるかもしれないが、わが生命に「仏」を覚知したことと、まさに一つのものなのです。
 松本 後に大蘇山を訪れた智顗が、まず最初に慧思から言われたことは「昔日、霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして今、復た来る」(大正五十巻191㌻)ということですね。これは南岳大師が、新来の弟子智顗を尊敬した言葉であるとか、激励の意味であるとか、親愛の情をとめた発言であったとか、さまざまに解釈されていますが、やはり慧思も、そして「大蘇開倍」以後の智顕も、生命の奥底から霊山の法華聴者であったことを確信した言葉ですね。
 池田 そう思います。なぜなら、後に天台も「霊山の一会、厳然として未だ散らず」という有名な言葉を発しているからです。
 ここで一言、誤解のないために言っておけば、末法当今の菩薩の仏道修行としては、なにも南岳の「法華三昧」や、天台の『摩訶止観』に説かれる修行を必要とするものではない、ということです。
 野崎 それは、強いて霊山の儀式を思い出すまでもない、という意味に通じますね。
 池田 そうです。末法今時においては、日蓮大聖人が「霊山一会・儼然未散」(霊山の一会、儼然として未だ散らず)の儀式を借りて、その内証の境地を三大秘法の御本尊として図顕されているからです。私たちは、その御本尊を受持することによって、受持即観心で「直達正観」つまり直ちに仏道を成ずることができ、そのまま霊山の会座につながっていることになるのです。
4  仏を見ること
 野崎 さて「法華三昧」を開悟した後の慧思は、まるで人が変わったように心境を一変し、法華弘通の活動を展開しています。『立誓願文』によれば、慧思三十四歳のころ、河南弘教の旅にのぼって衆と論議し、悪比丘のために毒せられた、という。実際、慧思自身は一命を取り止めたが、食中に毒を盛られた弟子三人が命を失っています。その熱烈なる正法弘通の如説行は、いやがうえにも法難の嵐を巻き起こしていきました。
 池田 それは、当時の中国仏教界の状況からしても、当然に予想されたところですね。南三北七の諸家は、あるいは華厳第一、あるいは涅槃第一と唱え、法華経は第二、第三の位置に貶められていた。そのなかにあって慧思は、ただ一人、『法華経』を根本とする旗印を高々と掲げたわけですから、幾多の難が競い起こるのも必然であった、と思われる。
 松本 いわゆる「安楽行」というのも、慧思の場合は、一般に言葉のもつ響きから感じるのとは違うものがありますね。彼は何度か悪比丘や悪論師から毒殺されそうになっていますし、さまざまな迫害を受けている。そのような諸難を覚悟して、あえて『法華経』を弘めようとするのであるから、とても安楽な修行とはみえない。むしろ、それは「折伏行」に近い布教法をとっています。
 池田 ですから、南岳大師の「法華三昧」というのは、単に坐禅入定するだけではない。彼が開悟した『法華経』の哲理を、経典に説かれたように実践する法華菩薩の如説行であった、ともいえます。その意味からも、彼が三十二歳前後に開悟した「法華三昧」は、慧思自身の開眼にとどまらず、中国仏教史を大きく転換する強靭な発条となった、といえるでしょう。
 また、さきほど野崎君が「まるで人が変わったように心境を一変し」と表現していたが、慧思は「法華三昧」を開悟したことによって、大小乗を問わず、仏法の一切が明らかに見えてきたのでしょう。『法華経』という仏法の最高峰に登りつめたので、その他の群小の峰々が眼下に展望できるようになった。それから以後、慧思が当時の大乗・小乗の禅師や論師を向こうにまわして、堂々の論陣を張ることになったのも、『法華経』の奥底を究めた確信によるものと思う。
 野崎 後に大蘇山を訪れた智顗に対し、慧思はただちに普賢道場を示し、四安楽行を説いたとされています。すなわち『法華経』の普賢菩薩勧発品第二十八に従って法華経を読誦する有相行と、安楽行品第十四に基づいて修禅する無相行とを、真っ先に新来の弟子に伝えている。自身の開悟した「法華三昧」というものに、絶対の自信をもっていたさまがうかがえますね。
 松本 しかも智顗は、そのように慧思から伝えられた「法華三昧」行を、文字どおり如法に実修したところ、二七日ということは二週間を経て、突如として身心豁然かつぜんとなり、定に入ったといわれます。ここで天台大師も、いわゆる「大蘇開悟」に達したわけですね。
 池田 南岳大師の一時円証にせよ、また天台大師の大蘇開悟にしても、そこで彼らは何を悟ったかといえば、それはわが身がそのまま仏身であるということですね。これは、日蓮大聖人の教えを学んだ私たちには、いかにも当然のことのように思われるかもしれないが、じつは深い哲理を含むものなのです。
 それまで、衆生は煩悩を断ずることなくして仏にはなれないもの、と考えられていた。そのため、一地から一地へと次第行を修し、難行苦行の果てに、ようやく仏道を成ずることができると思われていたわけでしょう。
 ところが南岳大師は『大智度論』に説かれる空定に入って、衆生身がそのまま如来身であり、凡種も聖種も無一不二にして、衆生が如来と同一の心性にあることを覚知した。それが「法華三昧」の境地であり、煩悩即菩提、無明即涅槃、一心具万行の世界であったのです。そこに、今まで見えなかった「仏」の地平が、ありありと見えてきたにちがいない。
 松本 なるほど、天台大師の『摩訶止観』を読んでも、そこに「仏を見る」とか「仏身をる」という言葉が何回も使われているのは、そのためですね。
 池田 そうです。「止観」というのは、まさに仏を見たてまつらんとし、衆生のなかに入って菩薩道を行ずるための、まず自己変革の法と捉えたい。ここに、後の禅宗のように、仏説の経典に依ることを排し、坐禅入定のみを事とする「禅」の修法を見ようとするのは、見当違いもはなはだしいと思う。
 たとえば『摩訶止観』に「よく一行三昧に入れば、のあたりに諸仏を見たてまつり、菩薩の位に上らん」(大正四十六巻11㌻)とある。すなわち、「法華三昧」にしろ「摩訶止観」にせよ、それは禅宗が唱えたような自己の心のみをすべてとしていく独善主義ではなく、あくまで一方には仏を求め、他方、民衆のなかに入って菩薩道を行ずるという実践と結びついたものであるわけです。
 つまり大乗仏教の精神は「上求菩提・下化衆生」という開かれた姿勢に立ったものである。「上は菩提を求め」とは、仏の悟りを得ようとする謙虚な求道の精神であり、「下は衆生を化す」とは、九界の衆生の大海のなかに入って民衆救済の実践に励むことであり、この両方をかねそなえて実践していくのが、仏法者のあるべき姿なのです。その根本精神を忘れて、独善的に自己のみに閉じこもり、坐禅や三昧行を修することは、仏法の精神を過つものといわなければならない。
 ともあれ、千五百年近くも前の中国と、現代とでは、時代の状況はもちろん、民衆の機根も違うであろうが、南岳大師や天台大師が四天下に向かって叫んだ「法華経の精神」だけは、見誤つてはならないと思います。
 松本 南岳大師・慧思は、すでに当時から″末法意識″に立っていたことは『立誓願文』などによっても明らかです。しかし、その学問的な考証については、ここでは省略します。
 その他、南岳大師とと慧思の法華経観については、天台大師が諮問した三三昧と三観智、すなわち一心三観の問題、天台大師に伝えた法華円頓の実体は何か、といった問題がありますが、それらは専門的な事柄に属しますので、また別の機会に検討してみたいと思います。
 野崎 天台大師の三大部を読んでも、どこまでが南岳大師の切り開いた部分で、それが後の天台家に伝えられたものか、また天台大師・智顗の独自の己証に帰せられるのは何か、そういった部分が判然としない面もありますね。
 池田 そうした教理的な掘り下げも必要ではあろうが、しかし細かい部分を詮索してみても、あまり意味はないと思う。南岳大師の場合でも、文字の解釈学に批判的だったのは、とくに当時の江南の仏教者が、仏法の根本精神を見失っていたからでしょう。そうした仏教を貴族階層の独占物と化することへの警告の意味をも込めて、彼は「法華三昧」の旗印を掲げたのではないだろうか。
 それから南岳大師と天台大師の関係ですが、結論として言えば「諸仏道同」の原理からしでも、究極の悟りは同じであって、そこに両者の違いを強いて探しだすこともないでしょう。仏は衆生の機根に応じて種々に法を説くといっても、悟りの内容は″妙法″そのものであることに変わりないわけです。

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