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日蓮大聖人・池田大作

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求法の旅路

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
4  釈尊ゆかりの地を巡歴
 松本 その後、法顕は中インドから南インドへと歩を進め、仏陀とその弟子が活躍した各地を巡歴しています。一般に「史書なきインド」といわれるように、歴史の史料にとぼしいインドの仏教事情を知るのに、この法顕の巡歴記が貴重な役割を果たしていますね。
 野崎 まず摩頭羅マトゥラ国からみていくと、ここから南は「中国」と名づける、とあります。しかも中国は、寒さと暑さがよく調和していて、霜や雪も降らないという。
 池田 われわれが今、中国といえば、それは中華人民共和国のことであるが、当時の中国人で仏教者である法顕にしてみれば、中天竺つまり中インドが「中国」であったわけですね(笑い)。では法顕は自国をなんと呼んでいたかというと、ここでは「秦」とか「漢」と表記している。これは五世紀前半のアジアの文化事情を知るうえからも、いろいろ重要な史料を提供していますね。なかでも興味ぶかいのは、このマトゥラ国では、国王をはじめ左右の王臣一同が皆、仏教を信奉し、三千人の僧侶と二十の僧伽藍があって、うたた仏法が盛んであった、という記述です。それによって人民は豊楽であり、戸籍官法とでなく、人びとは自由に耕作し、だれでも住みたいところに住み、殺生や飲酒もみられず、刑網も用いる必要がなかったほどであるという。
 野崎 この国では、仏法が人民の規範となっていたので、法顕の眼には「王治には刑網を用いず」と映ったのかもしれません。また面白いのは、国王が鉄券に書録して布告を発していることですね。当時の中インドでは、まだ紙が伝えられていませんから、銅板や鉄板に文書を刻印したというのも、この時期の文化史的な証言となっています。
 松本 マトゥラ国の仏教事情としては、衆僧の住処に舎利弗塔、目連塔、阿難塔、ならびに阿毘曇あびどん(論)律・経塔があったということです。これは、釈尊の十大弟子のなかでも、とくに智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)、神通第一のマウドガルヤーヤナ(目犍連もっけんれん)を崇拝する部派で、しかも多聞第一のアーナンダ(阿難)については、彼が世尊に女性の出家を許可するよう請願したことから、この国では比丘尼のあいだで供養されていました。
 さらに「摩訶衍まかえん」すなわち大乗の人は、般若波羅蜜、文殊師利、光世音(あるいは観世音)を供養していた、とあります。また、この国では、従来の伝統的な部派が禁じていた「非時漿ひじしょう」も許されていたようですし、それらを勘案すると、どうやら大乗仏教を生みだした国の一つに数えられるようです。
 野崎 次に法顕は、僧伽施サンカシャ国で約千人の僧尼が食事をともにし、大乗と小乗の学問を兼学しているのを見ています。さらに次の罽饒夷カノウジ城では、ことごとく小乗学が学ばれていた。そして、いよいよ拘薩羅コーサラ国のシュラーヴァスティー、すなわち「舎衛城」に入るわけです。
 池田 ここは、釈尊が通算二十五年間にもわたって滞在し、最も意欲的に布教活動を展開した国ですね。とくに日本人には『平家物語』の有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」との一節でもよく知られているように、ここにはスダッタ(須達)長者が寄進した「祇園(園)精舎」があった。釈尊はことを拠点にして九十六種(または九十五種)の外道と対決し国王、大臣、居士、人民らの面前において、ことごとく論破したと、伝えられています。
 その結果、舎衛城の三分の一の人民はブッダの信奉者となり、ここに広宣流布の一形態が実現したわけです。もちろん、それまでには、いわゆる「九横の大難」のうちの孫陀利スンダリーそしりや、旃遮婆羅門チンチャバラモン女の誹謗など、さまざまな非難中傷を受けている。さらに後年、この国の王となった波瑠璃ヴィルーダカ王によって、釈迦族は皆殺しにあっているが、ともかく舎衛城における布教は、それこそ決死の覚悟によるものであったといえるでしょう。
 松本 そのような舎衛城における釈尊の活動について、法顕は詳しく紹介していますね。
 ただ、さすがに仏滅後千年近くも経て巡礼した法顕の眼前には、戸数わずかに二百余家の廃墟にも等しい城祉が見られるばかりであった。おそらく法顕は、うたた無常の感に襲われるものがあったのでしょう、次のように記されています。
 「法顕と道整は初めて祇園精舎に到り、むかし世尊がここに二十五年間住みたもうたことを思い、自らは辺夷の地に生まれ、諸同志とともに諸国を遊歴したが、あるいは還る者あり、あるいは無常(死)の者あるを傷み、今日ようやく仏の廃雄を見て、蒼然として心から悲しんだ」(前出)
 野崎 次に法顕は東へ向かい、迦維羅衛城カピラヴァストゥに到着しました。いうまでもなく、ここは釈尊が生まれ、育った都城です。
 松本 しかし、ここでも釈迦族は己に滅び、さびれ果てていました。「この城中にはすべて王民なく、はなはだ荒れはてている。ただ衆僧と民戸が数十家あるのみ」(前出)と記されています。
 池田 まさしく「諸行無常」といった感懐が、法顕の心をよぎったにちがいない。カピラヴァストゥの都城から五十里ほど東へ行ったところに、釈尊生誕の地である「論民ルンビニー」(藍毘尼)という王園があるが、そこにも法顕は足を運んでいますね。
 松本 しかし法顕は、ここでは、だいぶ恐ろしい目にあったらしいですね。迦維羅衛城の条の最後に、このように記されています。
 「カピラヴァストゥ国は非常に荒れはてていて、人民はきわめて少なく、道路には白象や師子が現われて恐ろしい。みだりに行くべきではない」(前出)
 ことによると、ライオンや象に襲われたようなことがあったのかもしれません。(笑い)
 野崎 さらに東行して、釈尊入滅の地、拘夷那竭クシナガラ城を訪れた法顕は、そこからリッチャヴィ族の住む毘舎離ヴァイシャーリー国を通ってガンジス河を渡り、南下して摩竭提マカダ国の巴連弗邑パータリプトラ(華氏城)にやってきました。ここは有名なアショーカ王が治めたところで、当時は大乗仏教の寺もあり、中インドでは最も富み、栄えていたようです。
 池田 マガダ国というのは、釈尊の在世中に最も仏教が栄え、ビンビサーラ(頻婆裟羅)王も熱心な信者であった。また、その子アジャータシャトル(阿闍世)王も、釈尊滅後には仏教僧団の支援者として活躍している。十六大国のなかでも、いちばん仏教と有縁な国であったわけです。
 そのマガダ国を母体として、後のマウリヤ王朝が初の統一国家を築いた。西暦前三世紀に出現したアショーカ王は、その第三代にして熱心な仏教信者となり、いわば仏法の理想を最大限にその治政に反映させている。ですから、法顕が訪れた時代にいたるまで、この国では最も仏教が栄えていたというのも、うなずけるものがありますね。
 松本 このあと法顕は、かつてマガダ国の首都であった王舎城へ行き、その東北に聳える嘗闍崛山グリドウフラクータ、すなわち「霊驚山」にも登っています。さらに、釈尊成道の地、伽耶ガヤー(仏陀迦耶)城をめぐり、初転法輪の地、波羅捺城ヴァーラーナシーの鹿野苑など、釈尊ゆかりの地を次々と巡礼しました。
 このころ法顕は、もう七十歳の高齢に達しています。
 池田 まさに信念の人ですね。そこまで徹底した人柄であったからこそ、それまでのあらゆる困難をも乗り越えることができたのですね。
 野崎 帰路は海路をとったわけですが、これも陸路に劣らぬ危険な旅で、三年もかかって故国に生還したときには、もう八十歳に近い。十数年にも及ぶ大遠征でした。
 帰国後の法顕は、建康、今日の南京において持ち帰った梵本を翻訳し、最後は荊州の辛寺に没したといわれます。享年は八十二歳とも、八十六歳ともいわれています。

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