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日蓮大聖人・池田大作

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求法の旅路

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  法顕紀行の意義
 松本 さて、ともかく法顕の場合は、仏教の発祥地であるインドへ行って、そこで「律蔵の残欠」を補おうとしたわけです。前後十四年にも及ぶ大旅行を敢行した結果、ひとまず目的を達して故国に帰還し、大衆部所伝といわれる『摩訶僧祇律』四十巻を訳出しています。
 野崎 しかし、仏教史上における法顕の功績は、やや違った面が評価されていますね。
 まず第一に、当時としては想像を絶するような大冒険旅行を敢行したことです。六十歳をこえた老躯に鞭打って、あのタクラマカン沙漠を西行し、パミール(葱嶺)の峻険を越え、インダス河上流の懸度の険を渡り、そしてついに天竺に入った。ここまでで六年かかっています。
 さらに天信正滞在すること六年の後、復路は危険な海路をとって、まず師子国、すなわち今日のスリランカに立ち寄り、そこから東方に向かってジャワあたりに漂着した後、今度は北上して、とうとう青州(山東省)にたどりついたときには、すでに法顕は七十七歳の高齢であったと推定されています。
 その遊歴した諸国は合計二十七カ国。まさに、世紀の大長征といった感がありますね。
 池田 そうですね。入竺求法僧といえば、一般には『西遊記』のモデルとなった玄英三蔵が、あまりにも有名であるけれども、それよりすでに二百年以上も前に、このような先駆者がいたことを忘れてはなりませんね。
 また、あえていえば、この法顕にしろ、玄奘にしろ、その見聞録を克明に記録したゆえに後世にまで語りつがれているが、むしろ私は、名も知られない他の多くの求法僧の身の上に想いを馳せたいと思う。なぜなら、著名な人びとの栄光の凱旋のかげには、多くの無名の求法僧の身を挺した協力があったからです。
 さらにまた、仏法の真髄を求める求法僧の相次ぐ輩出があったればこそ、遠くインドから中国へ、そして日本へと仏法思潮が流伝したのです。その法を求める強い一念があったから、仏教は三千年の長きにわたって今日まで伝えられ、世界宗教となりえたのです。
 野崎 なにか厳粛な思いがいたしますね。
 そこでふたたび法顕の旅行記をみると、そこには五世紀初頭の西域から天竺にかけての仏教事情が、簡潔ではあるが的確に記録されていますので、学問的にも貴重な文献資料となっています。欧米でも、すでに何回も英訳、仏訳等が出ていますが……。
 池田 さきほどもふれたように、法顕自身の本来の目的は、あくまで天竺に仏法の真実を求めようとしたところにあった。自分の記録が、二十世紀の西洋の学者のあいだで学問的に評価されることなど、夢にも考えなかったにちがいない。
 ですから、あれほどの大旅行であったにもかかわらず、全文わずか一万字足らずの、簡潔な、淡々とした紀行文となっている。しかし、それ故に、かえって人びとの胸を打つ名文となったともいえますね。
 この法顕の『仏国記』は、後の入竺求法僧の必読の文献となっています。いや、この書を読んで、初めて入竺渡天の旅を思いたった人が、何人もいたことは間違いありません。玄奘にせよ、義浄にせよ、その他、多くの求法僧にとって、この書が道標となったことは、義浄の『大唐西域求法高僧伝』の筆頭に「顕法師は則ちはじめて荒途を聞き……」(大正五十一巻1㌻)と記されている事実からしても、明らかですね。
 野崎 それからまた、法顕の『仏国記』の意義は、仏教が西域からインドにかけて、最も隆盛していた時代のようすを、つぶさに伝えていることです。このころ、つまり四世紀から五世紀初頭にかけては、釈尊に始まったインド仏教の発展が頂点に達して、いわば広宣流布した状態にあった。
 それに比較して、玄奘の入竺した七世紀には、すでにインドの仏教は衰微し、落日の趣があった。その違いが、はっきりと読みとれますね。
 松本 当時、西域諸国から天竺にかけて仏教が盛んであったことは、次のような記述で明らかです。
 「およそ沙河(ゴビ砂漠)以西の天竺諸国では、国王はみな厚く仏法を信じている。〔王が〕衆僧を供養する時には、すなわち天冠を脱ぎ、もろもろの一族群臣とともに手ずから食を施し、食を施し終えれば、絨毯を地に敷き、上座の衆僧に向ってその前に坐り、あえて胡床に坐らない仏在世の時、諸王が行なった供養の法式はあい伝えて今に至っているのである」(前出『法顕伝・宋雲行紀』)
 池田 すなわち、沙河から西の諸国ということは、ゴビ沙漠から西の西域諸国、今日の中央アジアからインド亜大陸にかけて、ほぼアジア全域に仏法が広まっていた、ということですね。しかも西域諸国は、国王をはじめ国をあげて衆僧を敬い、篤く仏法を尊崇していたというこの記述は、ほとんど歴史的にも間違いない事実と思われます。
 そこで、さらに注目すべきことは、この時代に法顕が二十数カ国を旅行した際、一度も戦乱に巻き込まれるような事態がなかったということです。文明の十字路ともいうべき中央アジアの諸国が、仏教を篤く信仰しつつ、互いに文化的な往来を平和裡におこなっていたという歴史の真実を、あらためて想起しなければならない。こうした事実は、従来の西欧中心の世界史観では、まったく忘れられてきたことです。
 松本 そうですね。だいたい、二十世紀後半の現代において、いま法顕と同じルートを全行程にわたって踏査しようとしても、まず大きく立ちふさがってくるのは「国家」の壁ですね。
 野崎 法顕は行くさきざきで国王の援助を受けていたようですね。ロプ・ノールの西にあった烏夷(うい)国に滞在中、法顕ら一行は符公孫の供給を受け、さらに三十五日間、タクラマカン沙漠を西行して于闐うてん国にいたった、と記されています。
 このように、行くさきざきで食糧や旅具の供給を受け、オアシス国家を転々として旅を続けたものと思われます。
 池田 つまり当時は、今のような交通機関もなく、地理的にも峻険な難所を旅行する困難はあったが、行くさきざきが仏教国であり、しかも平和的であったがゆえに、法顕の大旅行も可能であったということですね。
3  幾山河を越えて
 野崎 ここで『法顕伝』の名文を味わいつつ、当時の求法僧たちが、どのような経路をたどって天竺に到達したかを、簡単に検討しておきたいと思います。
 幸い今では長沢和俊氏の訳注になる『法顕伝・宋雲行紀』(東洋文庫)も求めやすいので、それによって読者は居ながらにして西域の旅ができるわけです。
 まず弘始元年(三九九年)春、後秦の都・長安を発った法顕ら一行は、隴山ろんざんを越え、乾帰国にいたって夏坐げざに入ります。それから辱檀国じゅくだんこくにいたり、養楼山を渡り、張掖鎮ちょうえきちん(甘粛省)にいたって、ここで別行していた智厳、慧簡、僧紹、宝雲、僧景らと会いました。後に于闐国で一緒になった慧達を合わせると、総勢十一人となるわけですね。
 松本 そのうち、途中から帰路についた者、また異国に残留した者、あるいは死亡した者もあり、結局、天竺まで行って所期の目的を達成し、さらに困難な旅をへて漢土を踏むことができたのは、最後には法顕ただ一人になってしまうわけです。
 池田 ともかく人間のいる所は、今日の文明社会とは比較にならないほど温かい善意に包まれていたが、一歩そこから出ると、現在では想像もできないような、命がけの冒険旅行であったことでしょう。
 野崎 さて、敦煌太守の李暠りこうから供給を受けた一行は、いよいよ沙河を渡ることになります。
 「沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遇えばみな死んで、一人も無事な者はない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎり〔の広大な砂漠で〕行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするだけである」(前出)
 ここは前にも話題になりましたが、西域旅行の困難さを象徴する文章として、よく文学作品などにも引用される個所です。
 池田 そうですね。西域の沙漠というものが、どんなに恐ろしい所であるかを、よく表現している。なにしろ、死人の枯骨をたよりに旅をするというのは、ちょっと尋常ではないですね。よほど強靭な求法の一念がなければ、途中から引き返したくなって、最後まで初志を貫徹することはできなかったでしよう。
 こうした難所をいくつも越え、ついに天竺に仏法を求めた人びと、また同じ道を、インドや西域諸国から東方に向かい、中国に弘教した訳経僧――彼らの死身弘法の懸命な戦いには、ただただ頭が下がる思いです。
 野崎 こうして沙漠を西行すること十七日、一行は鄯善国ぜんぜんこくに着きました。ここは、有名なロプ・ノール湖畔に、かつて楼蘭王国が栄えた土地です。国王は仏法を信奉し、国内には四千余の僧侶がいて、すべて小乗学を学んでいた、と記されています。
 そこから西北の烏夷うい国へ行くと、ここにも四千余人の僧侶がいて、小乗学を学び、戒律を厳格に守っていたという。
 松本 続いて一行が訪れた于闐国は、鳩摩羅什の出た西域北道の亀茲国と並んで、西域南道では最も栄えたところです。
 「その国(于闐国)は豊か〈豊楽〉で人民〔の生業〕は盛ん〈殷盛いんせい〉である。人々はみな仏法を奉じ、仏法を味わって喜び〈法楽〉楽しんでいる。僧侶はなんと数万人もおり、多くは大乗学である。〔僧には〕みな衆食がある。この国の人民は家々の門前に、みな小塔を立てている」(前出)
 このように于闐国は、大乗仏教の盛んな国であったわけですが、ここに描写されている姿は、広宣流布の一つの典型ともいえるのでしょうね。
 池田 そうですね。法顕は、ここに三カ月間も滞在している。よほど心をひかれるものがあったのでしよう。
 松本 一行は行像、すなわち大寺院の盛大な祭りを見るために、わざわざ滞在を延ばしています。
 池田 それもあるが、やはり仏教が広宣流布した于闐の平和な姿に、去りがたいものがあったにちがいない。動乱の相次ぐ中国から関外に出て、荒涼たる沙河を越えてきたところが、この緑したたるオアシス国家であった。そこは仏教が栄え、国中が豊かで、人民が法楽をたのしんでいる。その人間共和の世界こそ、当時としては奇蹟に近い理想社会と映じたのではないだろうか。
 野崎 もし法顕らに、入竺求法という目的がなかったとすれば、このさき、さらに危険な旅を続ける必要もなかったわけですね。ですから、彼らは于闐に停まってもよかったし、あるいはそのような逡巡が、滞在を長びかせたのかもしれません。
 それはともかく、次に法顕らは子合国に向かい、タクラマカン沙漠を二十五日間、ひたすら西へ歩いて到着した。この国でも国王が仏道に精進し、千余人の僧侶が大乗を学んでいる。ここに十五日間、滞在した後、いよいよ葱嶺そうれいを越えることになります。
 松本 この葱嶺、すなわち今日のパミール高原を越えることが、またたいへんな難事であったわけですね。なにしろパミール高原は、平均高度四千メートルといわれ、日本の富士山の標高よりも高い。まさにアジアを東西に分かつ自然の分水嶺で、ここで命を落とした人が何人いるか、その数も知れないほどの難関です。
 野崎 法顕も、そのありさまを次のように記しています。
 「葱山(葱嶺)は冬も夏も雪があり、また毒龍がいる。もし毒龍の御機嫌を悪くすると、たちまち毒風や雨雪を吐き、すなこいしや石を吹き飛ばす。この難に会った者は、万に一人も安全な者はない。〔そこ
 で〕この地方の人々は、〔この毒龍を〕名づけて雪山人といっている」(前出)
 このとき、法顕は六十六歳であったと推定されています。
 池田 死ぬまでに、仏陀の国を一目見たいという切なる願いが、この難関を越えさせたのでしょう。また、彼の胸中に燃える宗教的熱情が、生死を超えた境地にまで高まっていたともいえる。
 もっとも、ここまでくれば、もはや引き返すこともできなかった。ただ前進あるのみ、一歩でも仏陀の国に近づく以外にない。――そうも考えたかもしれない。まさに絶体絶命の境地で、この峻険な尾根を越えたと思う。
 松本 途中、一行は於麾国で夏坐に入り、続いて竭叉かっしゃ国では国王の衆僧に対する供養の儀式を見、そして小乗の陀歴だれき国に入ります。ここから北インドですね。
 野崎 しかし、まだ「懸度の険」と呼ばれる難所が、一行の前に立ちふさがっています。これは、インダス河上流の断崖絶壁で、法顕は「その道は峻岨で断崖絶壁ばかり、その山は石ばかりで壁の如く千仞せんじんの谷をなし、見下すと目がくらむほどで、進もうと思っても足をふむ処もない」(前出)と表現しています。そこを一行は、絶壁に懸けられたはしごや吊橋などを使って、七百カ所もの難所を越えた、という。
 松本 法顕は、有名な漢の張帯や甘英の名を挙げて、彼ら冒険家すら、ここまでは到達しなかった、といってますね。そこは、カラコルム山中で、現在のダレル地方にあたります。
 池田 それは当然でしょう。何千年もの長い歴史をもつ中国にあって、初めて歴史に残るほどの大踏査行を達成した。その感動が、思わず口をついて出たにちがいない。
 しかも、この「懸度の険」を越えれば、夢にまで見た天竺の、当時最も仏教が栄えていたガンダーラ平野が、もう眼前に迫っている。彼らの言語に絶するほどの困難な求道の旅も、いよいよ目的地に近づいてきたわけです。
 野崎 こうして法顕らは、まず北インドの烏萇ウジャーナ国に入り、南下して宿呵多スハタ国にいたりました。現在のパキスタン、スワート地方ですね。そして、ついに犍陀衛ガンダーラ国に到達した後、竺刹戸羅タキシラ国、弗楼沙ブルシャプラ国と、西北インドの仏教国を巡歴しています。
 一行のうち、慧達、宝雲、僧景の三人は、ここから中国への帰路につき、法顕らと別行動をとるわけです。
 松本 そのうち宝雲については、帰国後の動静が知られています。彼は長安で仏駄跋陀羅、すなわち智厳が伴ってきた覚賢に師事し、後に師が建康(今の南京市)の道場寺に移住したのと行をともにしています。しかも、たまたま法顕が南海ルートで単独帰還し、この道場寺にやってきたので、二人は劇的な再会を果たすことができたわけです。
 池田 いま『高僧伝』などを読むと、そのへんの事情は、いかにもさりげなく描写されているが、おそらく二人の感激ぶりはたいへんなものがあったでしょう。それこそ命がけの大踏査行を経て、しかも遠い異国の地で別れて、一方は北回りで、また他方は南回りで帰国して、最後に中国の同じ寺に落ち着くなどということは、確率からしでも稀有な廻りあわせといってよい。
 野崎 よほど宿縁深厚なものがあったのでしょう。あるいは「事実は小説よりも奇なり」といった感もいたします。
 松本 さて法顕らの一行は、プルシャプラで宝雲らと別れた後、現在のアフガニスタンにある那竭ナガラハーラ国に進んで冬の三月、小雪山を渡りました。寒風が吹きすさび、人びとは恐れおののくうちに、慧景一人は歩けなくなって口から白沫を出し、ついに死んでしまったという。
 池田 法顕は号泣して悲しんだということだが、このように異域の地で、求法の旅の途上に一命を落とす人も多かったのでしょう。そうした無名の求法僧に哀悼の意を表するとともに、私たちとしては、仏法が日本にまで伝えられ、アジアはおろか世界の宗教として発展するまでのあいだに、幾多の尊い犠牲が払われている事実に対して、深く意を留めたいと思います。
4  釈尊ゆかりの地を巡歴
 松本 その後、法顕は中インドから南インドへと歩を進め、仏陀とその弟子が活躍した各地を巡歴しています。一般に「史書なきインド」といわれるように、歴史の史料にとぼしいインドの仏教事情を知るのに、この法顕の巡歴記が貴重な役割を果たしていますね。
 野崎 まず摩頭羅マトゥラ国からみていくと、ここから南は「中国」と名づける、とあります。しかも中国は、寒さと暑さがよく調和していて、霜や雪も降らないという。
 池田 われわれが今、中国といえば、それは中華人民共和国のことであるが、当時の中国人で仏教者である法顕にしてみれば、中天竺つまり中インドが「中国」であったわけですね(笑い)。では法顕は自国をなんと呼んでいたかというと、ここでは「秦」とか「漢」と表記している。これは五世紀前半のアジアの文化事情を知るうえからも、いろいろ重要な史料を提供していますね。なかでも興味ぶかいのは、このマトゥラ国では、国王をはじめ左右の王臣一同が皆、仏教を信奉し、三千人の僧侶と二十の僧伽藍があって、うたた仏法が盛んであった、という記述です。それによって人民は豊楽であり、戸籍官法とでなく、人びとは自由に耕作し、だれでも住みたいところに住み、殺生や飲酒もみられず、刑網も用いる必要がなかったほどであるという。
 野崎 この国では、仏法が人民の規範となっていたので、法顕の眼には「王治には刑網を用いず」と映ったのかもしれません。また面白いのは、国王が鉄券に書録して布告を発していることですね。当時の中インドでは、まだ紙が伝えられていませんから、銅板や鉄板に文書を刻印したというのも、この時期の文化史的な証言となっています。
 松本 マトゥラ国の仏教事情としては、衆僧の住処に舎利弗塔、目連塔、阿難塔、ならびに阿毘曇あびどん(論)律・経塔があったということです。これは、釈尊の十大弟子のなかでも、とくに智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)、神通第一のマウドガルヤーヤナ(目犍連もっけんれん)を崇拝する部派で、しかも多聞第一のアーナンダ(阿難)については、彼が世尊に女性の出家を許可するよう請願したことから、この国では比丘尼のあいだで供養されていました。
 さらに「摩訶衍まかえん」すなわち大乗の人は、般若波羅蜜、文殊師利、光世音(あるいは観世音)を供養していた、とあります。また、この国では、従来の伝統的な部派が禁じていた「非時漿ひじしょう」も許されていたようですし、それらを勘案すると、どうやら大乗仏教を生みだした国の一つに数えられるようです。
 野崎 次に法顕は、僧伽施サンカシャ国で約千人の僧尼が食事をともにし、大乗と小乗の学問を兼学しているのを見ています。さらに次の罽饒夷カノウジ城では、ことごとく小乗学が学ばれていた。そして、いよいよ拘薩羅コーサラ国のシュラーヴァスティー、すなわち「舎衛城」に入るわけです。
 池田 ここは、釈尊が通算二十五年間にもわたって滞在し、最も意欲的に布教活動を展開した国ですね。とくに日本人には『平家物語』の有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」との一節でもよく知られているように、ここにはスダッタ(須達)長者が寄進した「祇園(園)精舎」があった。釈尊はことを拠点にして九十六種(または九十五種)の外道と対決し国王、大臣、居士、人民らの面前において、ことごとく論破したと、伝えられています。
 その結果、舎衛城の三分の一の人民はブッダの信奉者となり、ここに広宣流布の一形態が実現したわけです。もちろん、それまでには、いわゆる「九横の大難」のうちの孫陀利スンダリーそしりや、旃遮婆羅門チンチャバラモン女の誹謗など、さまざまな非難中傷を受けている。さらに後年、この国の王となった波瑠璃ヴィルーダカ王によって、釈迦族は皆殺しにあっているが、ともかく舎衛城における布教は、それこそ決死の覚悟によるものであったといえるでしょう。
 松本 そのような舎衛城における釈尊の活動について、法顕は詳しく紹介していますね。
 ただ、さすがに仏滅後千年近くも経て巡礼した法顕の眼前には、戸数わずかに二百余家の廃墟にも等しい城祉が見られるばかりであった。おそらく法顕は、うたた無常の感に襲われるものがあったのでしょう、次のように記されています。
 「法顕と道整は初めて祇園精舎に到り、むかし世尊がここに二十五年間住みたもうたことを思い、自らは辺夷の地に生まれ、諸同志とともに諸国を遊歴したが、あるいは還る者あり、あるいは無常(死)の者あるを傷み、今日ようやく仏の廃雄を見て、蒼然として心から悲しんだ」(前出)
 野崎 次に法顕は東へ向かい、迦維羅衛城カピラヴァストゥに到着しました。いうまでもなく、ここは釈尊が生まれ、育った都城です。
 松本 しかし、ここでも釈迦族は己に滅び、さびれ果てていました。「この城中にはすべて王民なく、はなはだ荒れはてている。ただ衆僧と民戸が数十家あるのみ」(前出)と記されています。
 池田 まさしく「諸行無常」といった感懐が、法顕の心をよぎったにちがいない。カピラヴァストゥの都城から五十里ほど東へ行ったところに、釈尊生誕の地である「論民ルンビニー」(藍毘尼)という王園があるが、そこにも法顕は足を運んでいますね。
 松本 しかし法顕は、ここでは、だいぶ恐ろしい目にあったらしいですね。迦維羅衛城の条の最後に、このように記されています。
 「カピラヴァストゥ国は非常に荒れはてていて、人民はきわめて少なく、道路には白象や師子が現われて恐ろしい。みだりに行くべきではない」(前出)
 ことによると、ライオンや象に襲われたようなことがあったのかもしれません。(笑い)
 野崎 さらに東行して、釈尊入滅の地、拘夷那竭クシナガラ城を訪れた法顕は、そこからリッチャヴィ族の住む毘舎離ヴァイシャーリー国を通ってガンジス河を渡り、南下して摩竭提マカダ国の巴連弗邑パータリプトラ(華氏城)にやってきました。ここは有名なアショーカ王が治めたところで、当時は大乗仏教の寺もあり、中インドでは最も富み、栄えていたようです。
 池田 マガダ国というのは、釈尊の在世中に最も仏教が栄え、ビンビサーラ(頻婆裟羅)王も熱心な信者であった。また、その子アジャータシャトル(阿闍世)王も、釈尊滅後には仏教僧団の支援者として活躍している。十六大国のなかでも、いちばん仏教と有縁な国であったわけです。
 そのマガダ国を母体として、後のマウリヤ王朝が初の統一国家を築いた。西暦前三世紀に出現したアショーカ王は、その第三代にして熱心な仏教信者となり、いわば仏法の理想を最大限にその治政に反映させている。ですから、法顕が訪れた時代にいたるまで、この国では最も仏教が栄えていたというのも、うなずけるものがありますね。
 松本 このあと法顕は、かつてマガダ国の首都であった王舎城へ行き、その東北に聳える嘗闍崛山グリドウフラクータ、すなわち「霊驚山」にも登っています。さらに、釈尊成道の地、伽耶ガヤー(仏陀迦耶)城をめぐり、初転法輪の地、波羅捺城ヴァーラーナシーの鹿野苑など、釈尊ゆかりの地を次々と巡礼しました。
 このころ法顕は、もう七十歳の高齢に達しています。
 池田 まさに信念の人ですね。そこまで徹底した人柄であったからこそ、それまでのあらゆる困難をも乗り越えることができたのですね。
 野崎 帰路は海路をとったわけですが、これも陸路に劣らぬ危険な旅で、三年もかかって故国に生還したときには、もう八十歳に近い。十数年にも及ぶ大遠征でした。
 帰国後の法顕は、建康、今日の南京において持ち帰った梵本を翻訳し、最後は荊州の辛寺に没したといわれます。享年は八十二歳とも、八十六歳ともいわれています。

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