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日蓮大聖人・池田大作

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教相判釈の展開

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
3  南三北七と天台の教判
 松本 そこで、江南における教判の形態をみますと、ここでは慧観の提唱した「五時判」が相当な影響力をもっていますね。彼もまた羅什門下の出ですが、後に江南へ行って荊州の民の半数以上を帰依させたといわれています。
 野崎 慧観の教判を紹介しますと、まず彼は釈尊一代の教説を頓教と漸教に分け、前者を『華厳経』に比定する。次に漸教を五時に配列し、鹿野苑における初転法輪から、鵠林こうりん(クシナガラ)における入涅槃まで、従浅至深(浅き従り深きに至る)して五教を説いた、というものです。
 第一は有相教で、小乗の見有毎坦の法。第二は無相教で、般若経。第三は抑揚教で、維摩経。第四は同帰教で、法華経。第五は常住教で、涅槃経となっています。これは、つまり『涅槃経』に高い位置を与えるための教判ですね。
 松本 南北朝時代の江南では、すでにさきほども話のあったように、『涅槃経』に対する研究が圧倒的な勢いを示していました。そのため、釈尊一代の説法の教相判釈でも、この慧観の五時判が大いにもてはやされ、当時のほとんどの学者が、この説をとっています。たとえば、僧柔、慧次、梁の智蔵、それから光宅寺法雲などが、それにあたります、法雲の師の宝亮ほうりょうなどは、この五時を『涅槃経』に説かれる五味の譬喩に結びつけています。
 池田 後に天台大師が徹底的に批判した南三諸家、すなわち涅槃・三論・摂論の三派は、みな慧観の流れをくむ五時判か、それを改良した教判をとっていたわけですね。たとえば光宅寺法雲の五時判では、法華経を第四次の覆相経としているとして、天台大師が強い口調で破折していたはずですが……。
 松本 ええ。天台大師の『法華玄義』には、次のようにあります。
 「今古の諸釈、世に光宅を以て長と為す。南方に大乗を釈するを観れば、多くじょうじゅうを承けたり。肇・什は多く通意を附す。光宅の妙を釈する、いずくんぞ遠きことを得んや。今先きに光宅を難ず、余は風を望まん」(大正三十三巻691㌻)
 これは、梁代における法華学の権威と一車われた法雲の説が、たかだか羅什とその門下の亜流に過ぎず、なんら妙法の深遠な哲理の奥底に達していない点を指摘した段です。
 池田 光宅寺の法雲といえば、当時の法華学の最高権威と目されていた人物でしょう。それを激越に破折しているのだから、まさに天台大師の意気軒昂たるものがありますね。
 野崎 たしかに、そうですね。
 次に目を北方に転じると、こちらは地論宗が盛んであった。したがって、その教相判釈をみても、ほとんど北七の諸家は『華厳経』に重要な位置を与えようとしています。
 たとえば、北方において最も有力な教判であった慧光の四宗判は、次のようになっています。第一は、六因因縁を説く毘曇びどん宗、つまり因縁宗。第二は、三仮を説く成実宗に比定される仮名けみょう宗。第三は、大品般若経などの誑相おうぞう宗。第四は、涅槃経や華厳の常宗となっています。
 松本 その他、北方では、地論宗の護身寺自軌の立てた五宗判、すなわち因縁宗、仮名宗、誑相宗、常宗、さらに華厳経をさして法界宗としていますね。
 また、おなじく地論宗の耆闍寺安稟きじゃじあんりんが立てた六宗判、これは因縁宗、仮名宗、誑相宗、常宗、真宗、それに華厳経や大集経の同宗となっています。
 池田 要するに、このころの南三北七の諸家の教判では『華厳経』や『涅槃経』が上位におかれていて、『法華経』は第三の位置に落とされていたわけです。たしか日蓮大聖人の「撰時抄」に、その間の事情を説明なされた一節がありますね。
 野崎 ええ、それは次のような部分です。
 「三・北七・と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等・各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云、
 池田 そのように南三北七の諸家が主張していたのに対し、天台大師はまったく新たな教判体系をもって、『法華経』こそ最第一であると主張してやまなかった。それは、おそらく孤立無援の懸命な戦いであったと思われる。このゆえにこそ、仏説にまかせて『法華経』が最高であることを知らしめるために、彼は南北の全仏教者を向こうにまわして、獅子奮迅の戦いを展開しなければならなかったわけです。
 野崎 天台大師は『法華玄義』において、まず「研詳去取」といって、従来の教判を詳しく研究し、しかるのちに取捨選択をおこなっています。その結果、新たに組織せられたものが、いわゆる天台家の「五時八教」の教判となっていったわけですね。
 松本 ただ最近では、関口真大氏が『天台止観の研究』の中で「五時判は天台の説に非ず」との問題を提起して以来、仏教学界では、天台の「五時教判」説を疑問視する向きが多くなっていますが……。
 野崎 それは、たしかに「五時」判は、すでに天台大師以前の江南において唱えられてはいます。しかし、天台大師の場合、頓教の『華厳経』を別格扱いにせず、また『涅槃経』を追説追泯の教えとして、ともに従来の五時判のなかに包含している点は、他の教判と決定的に違っていますね。
 しかも、頓・漸・秘密・不定の化儀四教、また蔵・通・別・円の化法四教、合わせて「八教」の判釈は、まことに見事なものがあります。これによって、南三北七の諸家は完全に屈服し、中国においても『法華経』が最高の法門であることが、ようやく認められるようになった意義は、きわめて大きいと思います。
 松本 関口氏の論文を読みますと、どうやら近世以来の天台宗学が「五時八教」の教判にとらわれ、三大部そのものを重視するまでにいたっていない傾向性を指摘されているようです。あくまで「法華最第一」との教判は、天台大師の三大部を中心にして展開すべきである、という主張です。
 池田 そうですね。
 とくに、このことに関する論議では、そもそも釈尊は「五時」のような順序で整然と法を説いたのではないのではないか、といった反論がある。これは、すでにこの対話の第二部のときにも述べたけれども、要するに天台家の教判というものは、中国において「法華経最第一」を弁証するための優れた仮説であった、ということです。
 すなわち、南三北七の諸家が争って、釈尊一代の説法のうち、何が最高のものであるかに迷っていたとき、天台大師は厳密に教相を判釈して『法華経』こそが最高であることを弁証していった。いわば彼の教判は、膨大な仏典の密林に分け入る方法論であり、羅針盤であったといえるでしょう。
 ちょうど、地図には緯度や経度を示す線が引かれているが、実際に太平洋上にそんな線があるわけではない。しかし、航海者が今どこにいるか、どこへ進んでいるかを知るために、緯度や経度を示す地図の線は不可欠のものです。天台大師の立てた教判は、ちょうどこれと同じと考えてよい。これを基準に仏典を検討し、真実を究めることによって、そこに真の仏道が開けてくる。しかも『法華経』の開会の精神からすれば、今度は会入の立場で一切経を用いていけばいいのです。
 野崎 だいたい天台自体が、そうですね。天台大師は教判にのみとどまっていたわけではない。彼が最も力を入れたのは、後世「天台の三大部」として知られているように『法華経』を中心とした理論体系の構築にあったわけですね。
 池田 そうです。後に『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の、いわゆる天台三大部を筆録した弟子の章安大師は、もともとは天台大師の『涅槃経』の講義を聴聞したいために、天台の門に入ったといわれています。その彼が、『涅槃経』よりは『法華経』のほうが勝っていることを知った一事をもってしても、天台大師の与えた影響力の大きさを、うかがえると思う。つまり天台大師は、今にして思えば「権実相対」の戦いを展開し、鳩摩羅什以後の中国仏教界を、さらに大きく変革していった人物といえるでしよう。
 野崎 ちなみに『涅槃経』についての研究は、やがて後の天台宗に吸収されてしまい、唐代仏教では涅槃宗そのものが消滅しています。それほどまでに、天台大師の教判は影響力があったことを、よく示している例ですね。

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