Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

3 鳩摩羅什とその訳業  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  絶後光前の訳僧
 松本 さて、いよいよ西域地方からきた訳経僧の第一人者として、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)を取り上げ、その訳業の意義を話し合ってみたいと思います。
 野崎 日蓮大聖人の御書に「月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、羅什来らせ給いて前後一百六十四人があやまりも顕れ新訳の十一人が悞も顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ私の義にはあらず感通伝に云く「絶後光前」と云云」と仰せです。
 これは、唐の玄宗皇帝の開元十八年(七三〇年)までの記録によるものと思われますが、その後、元の至元二十二年(一二八五年)までに仏典を漢訳した人は、総計百九十四人にのぼるとされています。
 これら仏典を将来させた訳経僧の大半は、ほとんど西域を通ってきたわけですが、そのなかでも鳩摩羅什は、とくに傑出していたわけですね。
 池田 そうです。鳩摩羅什の訳が名訳であったことは、だれしもが認めているところですね。それも、単に翻訳技術上、優れた訳文を残したというだけではなく、インドにおける大乗教学の正統派である龍樹の哲学をふまえて、仏教を誤りなく中国へ伝えたところに最大の功績があると思います。
 さらにまた、『法華経』『般若経』『維摩経』等の大乗経典が、中国全土に広まったのは、もちろん、その内容が優れていたことによるが、羅什三蔵の名訳に大きく負っていることも見のがせない。
 以上の三点が、鳩摩羅什の訳業を考えるうえで重要な諸点だが、それらを検討するまえに、まず彼の生い立ちと修行過程を明らかにすることによって、なぜ歴史に残るほどの名訳が生みだされたかを考えてみることにしよう。
2  天竺から亀茲国へ
 松本 鳩摩羅什の数奇な生い立ちと、波澗万丈の人生については、たとえば梁の慧皎えこう撰『高僧伝』などによって、よく知られています。むろん、それは後世の仏教者によって多少粉飾されたり、誇張された部分もあるかもしれませんが……。
 野崎 だいたい、鳩摩羅什の生没年代についてさえ、いくつかの説がありますね。唐の『広弘明集』に収められた僧肇そうじょう撰『鳩摩羅什法るい』によれば、西暦四一三年に七十歳で死んだということですから、生まれたのは西暦三四四年となります。
 ところが、『高僧伝』などによると、西暦三五〇年から四〇九年と推定され、五十九歳で死んだことになる。また、三四〇年生まれと推定する説もあります。もっとも、この違いは、インドにおけるほど、はなはだしい違いではありませんが。
 池田 インドの場合、釈尊にしても、また龍樹や無著、世親等にしても、その生没年代は、なかなか一定しない。学者の説も、人によっては百年から二百年もの違いがある。
 それに対して中国の場合は、かなり正確な記録が残されていますね。鳩摩羅什にしても、もし西域から中国へ入っていなければ、その生存の事実さえ歴史にとどめられなかったかもしれない。
 野崎 その可能性は、十分に考えられるところですね。
 松本 さて『高僧伝』によると、鳩摩羅什は、天竺国、すなわちインドの人であった。家は代々、国相を務めるほどの名門で、父の鳩摩羅炎も宰相の地位を約束されていた。……しかし炎は、国王と意見が対立して出家し、東方に向かってパミールの嶺を越えるわけです。
 野崎 なぜ鳩摩羅炎が西域に亡命したかということですが、政治的失意からくる単なる亡命ではなく、心の奥底には、仏法を弘めることに自身の人生の目標を見いだしていたのではないでしょうか。
 池田 これは想像の域を出ないけれども、やはり彼は、すでに仏教がインドだけのものでないことを、よく知っていたのではないだろうか。
 また、政治に生きるというのは、現在のことにすぎない。もっと本源的な仏法の世界に生きることによって、国をこえた広い民衆の永遠の幸せのために貢献したいという願いがあったとも考えられる。そこで、これを中央アジアの西域諸国、さらには東方の漢土(中国)にまで伝えようとして出奔したとも考えられる。
 松本 御書にも「仏陀を背負いて」(1221㌻)と仰せですが、おそらく木像の釈迦仏を背負い、カラコルム山脈、ヒンド
 ゥークシュの険難を越え、パミール高原に出て、それから流沙のタクラマカン沙漠を、東方をめざして進んでいったようです。
 池田 交通機関のない当時としては、想像を絶するほど困難な峨しい旅であったでしょう。どこから伝え聞いたのか、西域北道の要衝にあった亀茲国の王が、わざわざ郊外にまで行って、鳩摩羅炎を出迎えているね。そして、彼を国師の待遇をもってもてなしている。
 ところで当時、仏教はすでに西域全体に広まり、盛んに信仰されていたわけだが、亀茲国はそのなかでも、最も盛んであったことが知られている。おそらく鳩摩羅炎は、仏教を伝えるために故国を捨てたのだとすれば、亀茲国に生涯とどまるつもりはなく、ゆくゆくは、もう一歩先の中国へ行くつもりだったとも考えられますね。
 ところが亀茲国王は、優れた国師を求めて、逃がすまいとして待ちかまえていたのにちがいない。国師というのは、そのころは仏教の指導者というより、一国の政治、文化のうえでの智慧者、参謀のようなものだったように思える。転変つねなき国際情勢のなかで一国が生きぬくためには、優れた国師をもつことが命の綱だったことは十分推察できます。
 野崎 それで国師として厚く遇し、長くとどまってもらえるように、懸命だったわけですね(笑い)。しかも、さらに、お嫁さんまでとらせて磐石の体制をしいた。(笑い)
 松本 そこで、この鳩摩羅什のお母さんになる人のことですが、彼女は亀茲国王の妹であった、と伝えられています。
 梁の僧祐撰『出三蔵記集』の鳩摩羅什伝によれば、彼女は二十歳で「才悟明敏にして、目を過ぐれば必ず能くし、一たび聞けば則ち誦す」(大正五十五巻100㌻)とあるように、たぐいまれな才媛でした。そのため、近隣の西域諸国から縁談が相次いだが、彼女はすべて断りつづけてきた。
 ところが彼女は、鳩摩羅炎を見ると、たちまち心が動いたいわゆる「一目惚れ」というものですね。(笑い)
 野崎 そして彼女は、そのやるせない心の内を、兄の国王に伝えたところ「王は、これを聞いて大いに喜び、炎に逼りて妻となさしめ、ついに生まれたのが什である」(前出、参照)と伝にあります。
 この母の名前は、ジーヴァ(耆婆)といわれ、お父さんの姓クマーラ(鳩摩羅)と合わせて、クマーラ=ジーヴァ(什あるいは嘗婆)と呼ばれるようになった。いわば鳩摩羅什は、天竺と亀茲国の国際結婚によって生まれた子であり、生まれながらにして、国際人であったわけですね(笑い)。しかも、その環境も、亀茲国といえば、東西文化交流の、いわば大通りのようなところです。
 松本 生まれも環境もともにインタナショナルだった。(笑い)
 池田 ところで、鳩摩羅炎は、すでに出家して沙門となっていた。当時はまだ、むろん出家者に妻帯は許されていない時代であるから、おそらく炎は、心中に深い葛藤を抱いたにちがいない。これは、後に息子の鳩摩羅什もまた経験しなければならない葛藤であった。
 だが、考えようによっては、そのような鳩摩羅什親子の経験した深刻な運命というものが、かえって人間的な深みをまし、心の広がりを与えたようにも思われる。後年、鳩摩羅什が小乗仏教より大乗仏典を伝持するようになったのも、それが一つの要因となったともいえるね。
 野崎 ナーガールジュナ(龍樹)の場合もそうでしたが、概して大乗菩薩の生涯というものは、きわめて起伏に富んだ人生となっていますね。
 池田 そうです。そこにも、山林にこもり、狭い自己の殻をつくって修行に励んだ小乗の比丘と、むしろ積極的に社会へ挑戦していった、大乗の菩薩との生き方の違いがうかがえる。
3  西域諸国に遊学
 松本 さて、神童のほまれ高かった鳩摩羅什は、年七歳にして出家し、母に続いて仏門に入りました。彼は、一日に経文の千偈、およそ三万二千言を暗誦し、やがてアビダルマ(阿毘曇あびどん)の全体を誦するようになると、師の説くところを自ら通解して、その隠された意味をも明らかにしてしまった、といわれています。
 池田 たいへんな神俊ですね。
 松本 そして羅什が九歳のとき、さらに仏道修行を深めるために、母は彼を連れてインダス河を渡り、罽賓、すなわちカシミール地方にあった北インドの一国に入っています。これは、父の鳩摩羅炎の出身地と目されるところですね。
 野崎 そこで羅什は、名徳の法師、バンドゥダッタ(槃頭達多)――これは罽賓王の従弟ということですが――に師事し、ついに雑蔵、中阿合、長阿含をマスターしてしまったと伝えられています。
 池田 鳩摩羅什は、たしか罽賓王の面前で外道を折伏してしまった、といわれていますね。それに感歎した国王は、羅什に大僧五人、沙弥十人をつかわせて、いたく尊崇した、という。すでにこのころから鳩摩羅什の令名は、インド、西域諸国に知れわたるようになっていくわけですね。
 松本 十二歳になって、羅什は母と一緒に帰国の途につくわけですが、その名声を聞いた各国は「皆へいするに重爵じゅうしゃくを以てす」と『高僧伝』にあるほどです。しかし羅什は、それを顧みることなく、母とともに月氏の北山にいたった、とあります。
 野崎 そこで一人の修行者(阿羅漢)に出会い、不思議な予言を授かるわけですが、これは後の鳩摩羅什の運命を予見したものとして、伝記作者もわざわざ書きとめていますので、読んでみます。
 「常に当に此の沙弥を守護すべし。もし三十五に至るまで破戒せざれば、当に大いに仏法を興し、無数の人を度せんこと、優波掘多と異なること無けん。もし戒にして全からざれば能く為すこと無く、正に才明俊芸の法師たるべきのみ」(大正五十巻330㌻)
 ここに優波掘多(優婆毱多とも)とあるのは、アショーカ王の帰依をうけた高僧、付法蔵第四(または第三)のウパグプタのことですねまた、鳩摩羅什は後に戒を破ることになりますけれども、結果として仏法を大いに興すことになった。
 池田 つまり、このときの阿羅漢の予言は、半分は当たったけれども、後の半分は外れてしまったわけですね。(笑い)
 それはともかく、このあと鳩摩羅什は、月氏から沙勒(疏勒)国へ行き、ここに一年ほど滞在している。その間、阿見曇(アピダルマの音写)や説一切有部の六足論など、主に小乗系の諸論を暗誦してしまった、と『高僧伝』は伝えていますね。
 松本 それから、この沙勒国に滞在中、彼の生涯において決定的ともいえる人物に出会っていますね。
 池田 大師・須利耶蘇摩のととだね。……しかし、その出会いを論ずる前に、この沙勒国における修行中、羅什が外道の諸論までも学習していたことに注目しておきたい。
 というのは、羅什は、この国で設けられた大会の高座にのぼり、請われて『転法輪経』を説法する合間に、四ヴェーダや五明の諸論を学んでいた、と伝えられているからです。
 おそらく、すでに十数歳にして小乗経典をすべて学びっくしていたが、彼はさらに外道の学問も修め、仏法を当時の一般社会の知識人に納得できるように説くことをめざしたのであろうと思われる。
 野崎 五明というのは、声明・工巧明・医方明・因明・内明のことで、乙れを現代的にいえば、文典・訓詁の学、工芸・技術・暦数の学、医学・薬石学、論理学、四ヴェーダ論といったものですね。また羅什は、ヴェーダの韻律学も学んでいたようです。まさに、学芸全般にわたる幅広い学習ですね。
 池田 それが、すべて後の仏典漢訳に生かされていくわけです。とくに、仏教のエンサイクロペディア(百科事典)ともいわれる『大智度論』などは、これら万般にわたる学問の蓄積がなければ、ただ文字をっただけで理解できるものでもないし、まして漢語に訳することなどできなかったでしょう。
 しかし、それはまだ三、四十年後のことであって、このときの羅什は、ともかく必死になって勉学に励んだいわば生涯の最も大事な基盤を築いた時代といえます。おそらく語学においても、天竺語、つまり梵語はもちろんのこと、西域各国の言語にも通ずるようになっていたと思われる。ちょうど少年の純粋にして柔軟な頭脳が、真っ白いキャンパスに絵を描くようにして、さまざまな学問を吸収していったのでしょう。
 野崎 ここで沙弥にして高座にの、ぼったというのも異例ですが、その各国語に通じた才能と、外典の諸学をも駆使した学識深い説法というものは、たぶん沙勒国の人びとを驚歎せしめるものがあったのではないでしょうか。『高僧伝』の記述によると、羅什の説法には国王も臨席していたことが考えられますし、亀茲国からは重臣が派遣されています。
 松本 もともと、この説法の高座が設けられたのは、この国の喜見三蔵という沙門の発案によるものです。
 彼は沙勒王に対して「此の沙弥は軽んずべからず。王よろしく請うて初めて法門を聞かしむべし。およそ二益あり。一には、国内の沙門、そのおよばざるを恥ぢて必ず勉強を見ん。こには亀茲王、必ず謂わん。什は我が国より出ず、しかも彼(沙勒王)これを尊ぶ。これ我を尊ぶなりとて、必ず来りて好を交えん」(前出)と言った。はたして亀茲国から使いがきて、ここに両国の修好が成るわけです。
 池田 一人の沙弥の説法が、二つのオアシス国家を結びつけたわけですね。後年、鳩摩羅什の高名が漢土にまで知れわたるようになると、彼を獲得することが係争の的になるけれども、このときはまだ、いかにも平和な、友好的な雰囲気であった。
 しかし、それにしても羅什は、すでに西域諸国にあってたいへんな人気者であったことがうかがわれる。いまでいえば、ちょっとしたスーパースターですね。当然、彼の説法の席には、多くの沙門、法師も列なっていたことでしょう。
 松本 ところで、須利耶蘇摩との出会いということに戻りたいと思いますが、この人は莎車さしゃ国の王子
 で、兄とともに出家して沙門となり、沙勒で修行していました。兄は須利耶跋陀しゅりやばつだといいましたが、弟の蘇摩は、もつばら大乗をもって衆生を化し、その兄および諸学者も皆、彼を師とするようになった、と『高僧伝』にあります。
 野崎 鳩摩羅什と須利耶蘇摩の師弟の出会いを、どのように考えたらよいでしょうか。もちろん、その
 情景については想像してみる以外にないとは思いますが……。
 池田 まず考えられることは、鳩摩羅什の説法の席に須利耶蘇摩しゅりやそまも何回か列席しているかもしれない。しかし、すでに大乗を学していた彼は、羅什の幅広い学識には感心していたとしても、その根本とする小乗的な展開には物足りないものを感じていたにちがいない。
 やがて羅什は、蘇摩の門にかよっている修行僧から、小乗仏教の限界をときに指摘されたこともあったでしょう。すでに小乗経典や有部の論を究めつくした彼は、さらに深い仏法哲理に踏みこもうとしていた。とすれば、私は羅什のほうから蘇摩を訪ね、教えを請いに行ったものと想像したい。それが、年長の沙門に対する礼であった、と思われる。
 松本 そこで、これは『高僧伝』に伝えられていますが、蘇摩は羅什のために『伊常彦経』を説きました。しかし羅什は、一切法これ空にして無相なり、との大乗教義を理解できなかった。彼は率直に質問しています。
 「此の経は、更に何の義ありてか、皆諸法を破壊するか」
 それに対して蘇摩は答える。
 「眼等の諸法は真実の有に非ず」
 つまり、因縁所生の法である一切法は、眼根等の実有に執するかぎり理解できない、ということです。この一言をもって羅什は、大乗仏教の深義に開眼し、それからは大乗と小乗の違いを研究するのに時を忘れるほどであった、とあります。
 野崎 その結果、羅什は後になって次のように歎じたといわれます。
 「吾れ昔、小乗を学べるは、人の金を識らずして鍮石ちゅうせきをもって妙となすが如し」(前出)
 こうして羅什は広く大乗仏教の要義を求め、『中論』『百論』『十二門論』の講義も受けて、すべて暗誦してしまった、ということです。
 池田 鳩摩羅什にとって、この大師・須利耶蘇摩に出会ったということは、まさしく彼の生涯を決定するほどの転換点となったわけですね。人生において、優れた師に出会うということが、どれほど大切なことであるかを物語っています。
 後に漢土へ渡った羅什が、法華経を翻訳した後、次のように語っている。これは有名な言葉で、随所に引用されてもいるが、そこを読んでおきたい。
 「予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討す。大師須利耶蘇摩に従って理味を飡禀するに、慇懃に梵本を付嘱して言わく、仏日西に入り、遺耀いよう将に東北に及び、この典、東北に於て有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」(大正五十一巻54㌻)と。
 松本 こうして羅什は、母とともに沙勒を後にし、温宿国に立ち寄った後、亀茲国に帰っています。すでに羅什の名声は中国にも及び、その高名を慕って諸国から学僧が雲集するようになりました。今や青年・鳩摩羅什は、天竺、西域、漢土に並ぶ者のない大乗論師となり、やがて東方の中国へ向かうときの到来を、待つばかりとなりました。
 しかし、その時機の到来は、案に相違して意外と長い歳月を経なければならない。その間に、さまざまな有為転変を経て、羅什の身にも幾多の困難がふりかかることになります。
4  長安入りまで
 野崎 鳩摩羅什が長安に入ったのは、伝によれば弘始三年十二月二十日、西暦でいえば四〇一年ということになります。彼の生年を『広弘明集』の説によるとすれば、このとき五十七歳、また『高僧伝』等から推定した説によれば、五十一歳ということになります。最近の研究では、後者の説が有力になっていますが……。
 池田 五十にして天命を知る、といわれるように、たしかに五十代というのは、人生の総仕上げの時期ともいえる。だいたい独創的なものは、二十代から三十代にかけてあらわれてくるけれども、それを四十代に発展させていって、いよいよ五十代で仕上げをするといってよいでしょう。
 そのような人間の生涯の図式からしでも、羅什は最も気力の充実した、一番いい時代に長安入りしているといえます。これは大事な点ですね。
 松本 鳩摩羅什は長安入りする以前に、すでに三十七歳ごろ――『出三蔵記集』によれば三十八歳ですが――漢土、つまり中国の土を踏んでいます。これは、前秦の王・苻堅ふけんが羅什を得ょうとして、驍騎ぎょうき将軍・呂光を西域に派遣し、亀茲国を攻めて羅什を生け捕りにしたからです。
 野崎 いわゆる五胡十六国の時代にあって、とくに仏教が盛んであったのは、後趙、前秦、後秦、北涼などが有名ですが、なかでも前秦の苻堅は興味ぶかい人物ですね。
 彼は羅什を生け捕りにしようとした以前にも、当時、襄陽(湖北省)にあって名声を博していた釈道安を得るために、十万の大軍を派遣しています。これは西暦三七九年のことですが、その作戦は見事に成功し、道安のみならず彼と親交を結んでいた文筆家の習鑿歯しゅうさくしも得て、長安に迎えています。以後、道安は五重寺に住して七年間、数千人にも及ぶ僧徒を指導したといわれます。
 松本 その道安門下のなかから、後に羅什の訳場に列なる俊英も数多く輩出されたわけですね。その意味からすれば、釈道安は羅什の名訳を生む下地を作った人物ともいえると思います。
 事実、前秦の王・苻堅が西域に呂光将軍を派遣したのも、道安から羅什の名声を聞いたからですね。それが西暦でいえば、三八二年か三八三年のことです。しかし、まもなく苻堅は死んでしまい、帰途その報を聞いた呂白光は、河西の涼州地方に独立し、後涼国を建てました。そのために以後十六年間、羅什は後涼の都、姑臧(甘粛省武威市)にとどまった、とされています。
 池田 その間、羅什がどのような生活をしていたか、あまり記録には明らかでないので、想像してみる以外にないね。ただ、断片的に伝えられているところによれば、彼は牛や悪馬も乗りこなし、呂光の軍の参謀、いわゆる軍師のような役目をしていますね。おそらく、彼にとって生涯で最も辛い時期であったと思う。
 野崎 この呂光将軍というのは、それほど立派な人物ではなかったようです。仏教に対する理解など、もちろんありませんから、手をかえ品をかえて羅什を誘惑し、不飲酒戒を破らせ、亀茲王女を強要して羅什に女犯の戒を犯させてしまう。戦にあっても、羅什の献策を用いたときには勝利するが、羅什の意見を用いることも少なく、部下に反乱されることがたびたびであったといわれています。
 たぶん羅什にとって、この三十代から四十代にかけての時代は、たいへんな苦労の連続であったと思われる。というのは、この中国の辺境地帯にあった十六年間というものは、彼も弟子に多くを語りたがらなかったのではないだろうか。そのために、後の鳩摩羅什伝にもこの期間が空白のままに残されたのでしょう。
 これは私の推測だけれども、しかし羅什はその最も困難な時代にあって、いつも東方の空を仰ぎつつ、やがて漢文化の中心である長安に入って、インドに生まれた大乗仏教の正統な流れを、必ずや伝えようと念願していたにちがいない。そのために彼は、くる日もくる日も粒々辛苦して修行に励み、中国の言葉も覚え、流麗なる漢詩も創れるまでになっていたといいます
 野崎 その意味では、この後涼における滞在期間も、けっして無駄ではなかったわけですね。
 池田 そうです。無駄でなかったというより、彼はマイナスもプラスに転化していったところに、その偉大さがあるといえますね。
 それまで中国に渡った訳経僧は、ほとんどが高僧であったわけだが、中国民衆のなかに入って一緒に生活した者は、稀であったと思われる。彼らは王侯貴族や知識人社会には迎えられたけれども、羅什のように荒くれ男たちにまじって生活した経験をもっ者は少なかったでしょう。
 したがって、羅什が長安入りするまでの中国仏教界では、まだ小乗仏教と大乗仏教との違いも明確でなかったといわれるのは、そのへんにも原因があったと思われますね。
 松本 たしかに、鳩摩羅什にとっては、中国に渡って大乗仏教を伝えるのが、彼自身の生涯の使命になっていたようです。
 というのは、彼が亀茲国において二十歳のとき、具足戒を受けて立派な比丘となると、その後、母は亀茲国の衰運を見るに忍びず、ひとり天竺に向けて旅立ちました。彼女が、わが子・羅什との今生の別れにあたって、次のように諭したと『高僧伝』は伝えています。そこのところを、少し言葉を足して意訳してみました。
 「大乗の甚深の教えは、まさに大いに真丹しんたん(中国)に闡揚せんようしなければならない。これを東方諸国に伝えるのは、ただあなたの力によるのです。ただし、それによって自分に利益があるというのではないが、覚悟はできていますね」
 それに対して羅什は、きっぱりと答えています。
 「大乗菩薩の道は、身命を惜しまず、民衆を利するために、利他の実践に励むところにあります。もし大乗をもって衆生を教化し、中国に仏教を流伝させ、よく朦昧をひらいて小乗の俗理を洗悟させることができるならば、私は身に爐鑊(焼きごでの銛)の苦を受けても、後悔するところではありません」(大正五十巻331㌻、参照)
 このような決意を述べているところからしても、羅什は中国に大乗仏教を一日も早く伝えようとして、時の到来を待っていたものと思います。
 池田 そうですね。思えば、十六年間の辺境生活というものは、非常に長い。ときに彼は、切歯扼腕することもあったでしょう。熱沙を抱いて、しばし眠られぬ夜もあったにちがいない。しかし、崇高な使命に生きる人の人生は、やがて必ず勝利する秋がくるものです。
 弘始三年(四〇一年)十二月二十日といえば、すでに暮も押しつまった冬の日、この西域諸国に令名をはせた名僧は、後秦の王・姚興の手厚い出迎えをうけ、ついに首都長安に入った。
 羅什が、住みなれた西域への要衝である姑藏こぞうを後にしたのは、この年の秋であったと思う。あたり一面の沙漠地帯を、彼は落日を背にして進み、その逸る心を抑えつつ、長安に入ったと思われます。その日にちまで正確に記録されているところからすれば、羅什の長安入りは、当時の中国仏教界にとっても歴史的な日であったのでしょう。
5  羅什訳の特徴
 さて、こうして長安入りした鳩摩羅什は、さっそくにも国王の要請に応じて、長旅の疲れも見せず、直ちに仏典漢訳にとりかかっています。僧叡そうえいの依頼に応じて、十二月二十六日から始められた『坐禅三昧経』の翻訳などは、早くも弘始四年(四〇二年)の正月には訳出され、また弘始四年からは『大智度論』百巻の翻訳を始めています。
 野崎 ちょっと調べてみて、私もあらためて驚きました。
 羅什三蔵が訳出したのは、新訳・重訳を合わせて全部で五十余部三百数十巻といわれています。もっとも『出三蔵記集』によれば三十五部二百九十四巻ということですが、いずれにせよ『高僧伝』の説をとって彼の没年を弘始十一年(四〇九年)とすれば、わずか八年間に、その膨大な量を翻訳したことになります。これは、簡単な算術計算によっても、ほぼ十日足らずで一巻を訳し終わっています。仮に『広弘明集』の説をとっても、羅什の長安入りから卒年までは十二年ですから、やはり一カ月に二巻から三巻分も訳したことになりますね。
 池田 それほど当時の仏教界では、羅什三蔵のような名僧による漢訳を、強く要望していたことがうかがえますね。
 羅什以前の仏典は、主として西域からの渡来僧によって漢訳されたために、原本には忠実であっても、中国の人びとからすれば、意味のとりにくいものもあったようですね。あるいはその反対に、今度は漢文に近づけようとして、かえって仏教本来の精神から逸脱する面もあった。とくに大乗の般若経典群については、なかなか文意がつかめなかったようですね。羅什が、『大品般若経』の註釈書である『大智度論』を、いち早く翻訳していったのも、そうした中国仏教界の要請に応えたものではないだろうか。
 松本 その点について、道安門下の俊英・僧叡も、鳩摩羅什の訳場に参加してみて、初めて大乗の「空」の概念が明らかになったと喜んでいますね。
 池田 それから、羅什が早いぺースで、ぐんぐん翻訳を進めていくことができた要因としては、すでに西域諸国での長年の修行によって、彼は一切経をほぼそらんずることができるまでになっていたということもあるね。
 もちろん、それは単に経典の文言を覚えたというだけではないでしょう。その文の底に秘められた深い哲理の奥底まで究め尽くしていて、いわば一切経を掌中のものとしていたにちがいない。
 ですから、羅什が原典を手にとって説くところは、そのまま流麗なる漢訳経典として通用した、そう理解していいように思う。
 野崎 その情景を、弟子たちは次のように伝えています。たとえば、慧観の「法華宗要序」には「什みずから手に胡経を執り、口に秦語に訳す。つぶさに方言に従って趣き本にそむかず。即ち文の益すこと、また己に半ばに過ぐ」(大正五十五巻57㌻)とあります。
 すなわち、羅什は西域から伝えられた原本を手に持ち、それを自ら漢訳していく、しかも、それは的確な漢語であって、かつ原典の趣旨と寸分も違うところはない、といっています。
 また僧叡の「大品経序」には「法師(鳩摩羅什)は手に胡本を執り、口に秦言を宣ぶ。両に異音を訳し、こもごも文旨をあきらかにす」(大正五十五巻53㌻)とあります。つまり、羅什は、自ら原本を漢訳しつつ、旧訳の誤りを正し、なお講義までおこなっています。そして訳場には、発願主である秦王・姚興ようこうも参列し「秦王ずから旧経をって、その得失を験し、その通途をい、その宗教をたいらかにす」(前出)とあるように、その場に参加した五百余の学僧とともに、すべて羅什の新訳が優れていることを確認したうえで、それを筆にしていったと述べられています。
 池田 まさに国家的事業として遂行されたわけですね。
 松本 その点について、仏教学者の横超慧日氏は、『中国佛教の研究』第二で鳩摩羅什が名訳を生んだ背景を、次の四つにまとめています。
 一つは、梵語・西域語・漢語のすべてに通じていた羅什の語学的才能。二つは、小乗の説一切有部の教義をはじめ、般若・中観系の大乗教学はむろんのこと、律部にも通じていた羅什の、仏教全般にわたる教義的理解。三つは、後秦王・姚輿を先頭に、当時の中国仏教界が羅什に存分な翻訳ができるような体制をつくったこと。四つは、羅什門下に多くの若き俊英が集い、協力したこと、以上です。
 池田 なるほど、いずれも重要な指摘ですね。
 それでは、今まで話し合ってきたことと若干は重複する面もあるが、ひととおり整理する意味も含めて、その四点を中心に横超氏の研究成果に学びつつ、さらに話を進めたらどうだろう。
6  法華経の漢訳
 松本 まず第一に語学的才能ということですが、羅什は西域の亀茲国に生まれたけれども、幸いに父の鳩摩羅炎は天竺の人で、仏教発祥の国からきています。そのうえ羅什は、九歳にして罽賓すなわち西北インドに留学し、そこで仏法の源流を学びました。このことは、釈尊に始まる仏教を直接、梵語をもって吸収したという意味からも、いちばんの強味になっていますね。
 池田 つまり羅什三蔵においては、彼自身が仏教を学ぶうえで、言語の障壁はあまりなかったということですね。
 むろん、亀茲国からインドへ行くには、果てしない沙漠地帯を西へ進み、パミール高原を越え、インダス河を渡らなければならなかったが、言葉のうえでは、幼時から梵語をマスターできる恵まれた環境にあった。それが生まれながらの俊敏ということに加えて、仏法の深い哲理を理解しやすい条件となった、といえるでしょう。ですから、まだ若い青年僧のうちから、彼の名声が西域諸国に知れわたるほどであったのも、その幼時からの語学力に負うところが大きかったわけです。
 野崎 問題は次に、羅什が漢語を自分のものとする過程ですね。それが、どんなにたいへんな困難をともなうものであったかは、すでにみてきたとおりです。彼は十六年間も、中国の辺境地帯に滞在し、荒くれ男たちと生活をともにし、戦の陣中にあった。
 しかし、そのようにして異民族のなかに身を投じ、また漢字文化圏のなかにとけこむことによって、初めて漢語に習熟することができたわけです。
 池田 そこで羅什は、おそらくすでに漢訳された仏典や、漢語の典籍も読む機会があったにちがいない。最初は、彼自身の語学力を深めるために読んだのでしょうが、仏典については徐々に翻訳上の拙さが目につくようになってきたと思われる。
 さらに進んで、彼が漢語を自在に話し、書けるようになると、旧訳の漢訳仏典には随所に決定的な問違いが散見され、それが仏法の本義をいちじるしく曲げるものであることも、羅什には明らかになってきたのではないだろうか。
 松本 たしかに、それはありうるととだと思います。たとえば、竺法護訳の『正法華経』は、羅什訳より百二十年も前の西暦二八六年に訳されていますが、まだ中国において『法華経』は、それほど大きな影響力はもっていませんでした。
 まえにも話題になったように、この法護は″敦煌菩薩″と称され、敦煌生まれの月支人ですが、西域三十六カ国語に通じているとまでいわれた語学の天才です。その法護にしでもなお、仏典を漢訳するに際しては、多くの伝訳者の力を借りなければなりませんでした。つまり、法護自身が漢語の構文に訳したわけではありません。
 もっとも、法護訳の『正法華経』と、羅什訳の『妙法蓮華経』との決定的違いは、その語学力の違いもさることながら、やはり二人の教義理解の差が出たものと思いますが……。
 池田 そうですね。これは、さきほど挙げられたうちの第二点になるわけだけれども、やはり正しい教義理解がなければ、とんだ間違いを犯しかねない。同じ国の言葉ですら、ときには正反対の読み方がなされるほどだから、いわんや言語の違う翻訳においては、教義そのものまで誤ってしまうような解釈もなされかねないでしょう。
 これは大事な点であって、羅什ほどの大学者にして、初めてそれ以前の中国仏教界の誤りが正されたわけです。
 野崎 ちなみに、竺法護訳と鳩摩羅什訳の法華経の違いは、その依拠した原本の違いもあると思います。たとえば「添品妙法蓮華経序」には、次のように出ています。
 「昔、燉煌の沙門竺法護、晋武の世に正法華を訳し、後秦の姚興、更に羅什に請うて妙法蓮華を訳す。二訳を考験するに、定めて一本に非ず。護(竺法護)は多羅の葉に似たり。什(鳩摩羅什)は亀茲の文に似たり余、経蔵をしらべ、つぶさに二本を見るに、多羅は則ち正法と符会し、亀茲は則ち妙法とまことに同じ」(大正九巻224㌻)と。すなわち、惰の仁寿元年(601年)に闍那崛多じゃなくった達摩笈多だつまぎゅうたが『添品妙法蓮華経』を訳したときには、まだ経蔵に二本の原典が保管されていたわけです。
 しかし、やはり両者の決定的な違いは、教義に対する理解度の差異によるものと思われます。
 松本 それから、羅什の翻訳態度の立派なところは、自分がわからない部分は、その道の先達に謙虚に教えを受けていることですね。彼は、龍樹の流れをくむ般若・中観系の大乗教学には、むろん絶対の自信をもっていたけれども、律部についてはまだ不安が残った。そこで、どうしても解けない疑問が生ずると「貧道はその文を誦すと雛も、未だその理を善くせず。ただ仏陀耶舎は深く経致に達す。今、姑臧こぞうに在り。願わくは詔を下して之をし、一言を三詳して、然る後に筆を著け、徴言だにも墜さず。信を千載に取らしめたまえ」(大正五十五巻102㌻)と言って、国王姚興に、当時、姑臧にいた仏陀耶舎を迎えてくれるように頼んでいます。
 池田 なるほど。仏法を正しく伝えるという目的のためには、じつに謙虚であったといえますね。そこまで完璧を期したわけです。それであってこそ、後世に残る数多くの名訳が生まれたのでしょう。
 野崎 羅什の学識が優れていたことは、また南方の廬山にいた学匠・慧遠との往復書簡によってもうかがえます。その文書は『大乗大義章』の名によって伝えられていますが、慧遠の教義上の質問に対して、鳩摩羅什は懇切丁寧に答えています。ここに中国の仏教界は、羅什の指摘によって初めて、小乗仏教よりは大乗教義のほうが優れていることを知ったわけです。
 松本 第三点の、国王からの援助があったことは、羅什が心おきなく翻訳に専念するために、これは不可欠の条件であった、といえますね。
 というのは、それまで中国は五胡十六国の戦乱時代にあって、何回も仏教徒が迫害されたり、殺されたりしています。竺法護の場合などは、戦乱を避けて各地に流浪し、敦煌、長安、洛陽、酒泉と、経巻を背負って移動しては、そこで翻訳に励みました。『出三蔵記集』の伝には「燉煌より長安に至るまで、道に沿うて伝訳し、写して晋文と為せり」(大正五十五巻97㌻)といった一節も見えます。
 池田 その点、羅什はきわめて恵まれていたわけですね。
 しかし、彼もまたそうした経験を十六年間も積んでいるので、国王の援助に恵まれたことが、それだけで名訳を生む契機となったというのではない。やはり、鳩摩羅什のもつ天賦の才能と、長年の厳しい修行によって得た学識と、さらには大乗教義の深遠な法理があったからこそ、それが後秦主の援助を支えとして花開いたものと考えたい。あくまで国家的支援は、羅什の名訳を生む助縁とみるべきであるということです。
7  8  続々と集まってきたということ。二つには、とれは
9  桃興が積極的に集めたのか、あるいは鳩摩羅什がそ

1
1