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日蓮大聖人・池田大作

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2 仏典の漢訳  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  貴重な文化遺産
 松本 さて、こうして始められた仏典の漢訳は、後漢の桓帝時代に始まって、北宋の時代、すなわち十世紀から十二世紀ごろまで、じつに一千年の長きにわたって続けられました。まことに、気の遠くなるような話ですね。
 池田 おなじく翻訳といっても、近代日本の西洋物の移入と比較して、その規模が違いますね。なにしろ文明開化の明治以来、まだ百年と少しばかりしか経っていないわけだから。(笑い)
 むろん、かつての仏典の梵語から漢語への翻訳と、現代の翻訳とでは、時代や社会情勢の違いもあるし、それに印刷術の飛躍的な発展という要素も考慮に入れなければならない。当時は一字一句、正確に筆写していったわけだから、それだけ長く時間もかかったのでしょう。
 しかし、それにしても一千年というのは、いかにも大陸的で、しかも太古からの長い伝統文化をもっ漢民族にして、初めて成し遂げることができたものといえますね。
 野崎 もともと中国は、文字を重んずる民族ですから、西域からきた仏教が人類の歴史に残る貴重な教えであると知れば、これを翻訳して後世に遺そうとするのは、むしろ当然ですね。
 松本 もっとも儒家の説も経典として尊重され、大学にはいわゆる「五経の博士」がいて、後世にまで伝えられていますが……。
 池田 儒家の教えは、中国人自身が生みだした民族的古典として、大事にされても不思議ではないでしょう。しかし仏教の場合、これまで話し合ったように、初めは異域の教えとして排斥され、やがて一部の人びとに信仰されるようになっても、黄老の神仙方術と混同されていたのが、ついに時いたり、続々と仏典が漢訳されるようになってきた。
 この経過は何を意味するかといえば、それほど仏教が中国民族に大きな文化的影響を与えることができた、ということです。少なくとも北宋時代までの一千年間というものは、仏教の影響を度外視して、中国の歴史も文化も語ることはできません。
 しかも、その中国の仏教受容史を概観したときに、どのような経典が翻訳されたかによって、その時代の仏教事情も、また社会情勢も推し測ることができるように思う。いわば仏典漢訳の経過は、そのまま中国における仏教興隆の歴史であり、さらには一千年間の中国文化史に欠くことのできない重要な要素であったといえるでしょう。
 野崎 たしかに私も、ここ数カ月、いくつかの中国通史を読みましたが、後漢から魏・呉・蜀の三国時代を経て西晋、五胡十六国に始まる南北朝時代、そして隋・唐の統一王朝が成立するまで、まことに目まぐるしく王朝が変遷し、複雑で、なかなか理解しにくい面もありました。しかし興味ぶかいことは、この動乱の時代にこそ、重要な仏典が次々に漢訳され、またそれを有力な発条として、仏教が中国全域に広まっていったという事実です。
 松本私も学生時代、受験勉強などで五胡十六国の名前を覚えるのに苦労した経験があります(笑い)。それは、にわか勉強のせいもあったでしょうが、やはり単なる通史では、その背景にある有力な動因としての仏教が見のがされていたことも、この時代を理解するさまたげの因をなしていたのかもしれません。
 たとえば、魏・呉・蜀の三国が鼎立していた時代は『三国志』などによって私たちにも馴染みぶかいものがありますが、とくに魏と呉の両国に、おいては、仏教が急激に盛んになっています。その象徴的な事例として、よく挙げられることですが、朱士行という人物が中国人として初めて″出家″したといわれるのも、この時代ですね。
 彼れは穎川の人で、『般若経』に精通していたということですが、たまたま原典の不備を知り、魏の甘露五年(二六〇年)に雍州ようしゅう(険西省)を出発して西域の于闐うてんに赴いています。そこで二万五千じゅの『般若経』の原典を得て、弟子に持たせて帰国させた。彼自身は八十歳で西域の地に客死したわけですが、それが後に訳出されて『放光般若経』二十巻となったわけです。
 野崎 江南では、呉主孫権が仏教に帰信していますね。彼を″折伏″(笑い)したのは、康居の康僧会という人物ですが、この僧侶も波澗万丈の人生を生きたようです。
 梁の僧祐撰『出三蔵記集』によると、康僧会の先祖は康居から天竺に入り、そこから今日のベトナム中部にあたる交趾こうちに移って商売をいとなんでいた。ところが、彼が十歳のときに両親と死別して、出家したという。赤烏十年(二四七年)には、呉の建業に入り、大乗の実践行である六波羅蜜を説いた『六度集経』などを訳出したといわれます。彼はまた、梵唄ぼんばいにもたくみであったようですが、その本領は布教実践の人であって、孫権を帰信させたほか、民衆の教化にも活躍して、ついに江南で初の寺院である建初寺を開基させました。
 江南には、また支謙という在家の奉仏者もいて、孫権の援助を得て多くの大乗経典を訳出しています。彼はもと月支(大月氏)からきた支法度を祖父にもち、中国に帰化した家の出です。ちなみに、彼を教えた支亮しりょうというのは、後漢時代にきた支婁迦讖しるかせんの門人となっています。
 すなわち、二世紀ごろから続々と入ってきた西域の仏教徒は、最初から異国の地である中国に骨を埋める決意であったことが、うかがえますね。彼らは、シルクロードを往来した商人や兵士と違って、西から東への片道旅行であった。
 そうした仏教徒の信仰へのひたむきな熱意が三国時代になって、ようやく芽をふき、歴史と文化の伝統をもっ中国の大地に新しい文化の花が開こうとしていました。そこに、戦乱と抗争が続く社会にあって、庶民大衆の心が渇仰するものと相呼応した背景があると思います。
 池田 なるほど。人間の歴史というものは、単に政治や経済の仕組みだけで決まるものではない。いつの時代にあっても、常に社会の底辺にあり、ながら、広い裾野のような広がりをもって、人間のさまざまな営為を支えている庶民大衆の心の動きを知らなければならない、ということです。
 この時代の中国の歴史を知るのにも、インドからきた仏典の漢訳によって仏教が飛躍的に広まり、多くの中国民衆の心に仏法の種子が植えられた事実をみなければ、その時代の推移の本流は理解できないということですね。
 松本 ちなみに、三世紀から六世紀までの魏晋南北朝時代に、仏寺と僧尼が急激にふえていった数をみても、仏教が中国大陸に燎原の火のごとく広まっていったさまが、よくうかがえます。記録によると、六世紀末の華北全域の寺は三万余、僧尼二百万。江南では梁の時代に二千八百余寺、僧尼八万二千七百と伝えられています。
 野崎 むろん、その他に在家の信者が大勢いたでしょうし、これをもってしても、ほぼ仏教は完全に中国大陸に根を下ろしたといえますね。
 ただ、この時代に出家僧尼がふえたのは、乱世のため出家したほうが安全だったからだ、また仏教が江南にまで広まった要因として、それは中原の洛陽から漢人が多く南方へ移動せざるをえなかったからだなどとする、いたって現実的な解釈もあるようですが……。
 池田 それも一つの要因としては考えられるでしょぅ。しかし私は、このように中国全域にわたって出家者が増大し、仏教が急激に広まった理由としては、やはり仏教自体のなかに一切の障壁を乗り越えて広まるエネルギーがあり、また世界宗教としての高い理念が含まれていたからであると考えたい。
 とくに中国の場合には、経・律・論の三蔵だけで、じつに一千四百四十部・五千五百八十六巻にも達する大蔵経の漢訳を成し遂げたことが、その最も大きな要因として挙げられるのではないだろうか。これほど膨大な量の翻訳事業は、単に中国仏教史上の出来事ではなく、人類史上に未曾有の文化遺産を残したといっても過言ではないと思う。

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