Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

2 仏典の漢訳  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  仏教を求める機運
 松本 インドの仏教が、中央アジアのシルクロードを通って中国に初めて伝えられた模様を前回みてきました。それは西暦でいえば、ほほ紀元前後の時期が焦点であったわけですが、今回は、その後に続く紀元第一世紀から四世紀にかけて、とくに西域諸国から到来した仏教者の翻訳活動に注目してみたいと思います。
 野崎 一般に四大訳経僧と呼ばれる三蔵法師は鳩摩羅什、真諦、玄奘、不空(または義浄)の四人ですが、それ以前の翻訳僧を扱うわけですね。
 松本 そうです。鳩摩羅什の中国における翻訳活動は五世紀に入ってからですし、真諦は六世紀、玄奘は七世紀、不空は八世紀の人ですので、それぞれ今後、順をおって取り上げることもあるかと思います。いまはまず、それ以前の三百年間に、西域から続々とやって来た仏教者が、どのような苦労をして仏典の漢訳を始めたか、いわば草創時代をみておきたいと思います。
 池田 鳩摩羅什については、資料もあるし、名訳『妙法蓮華経』との関連で重要な人物ですので、後に詳しく検討するとして、いまは中国への仏教公伝以後、どのようにして経典が伝えられ、翻訳されたか、その経過をたどって、おくことにしよう。
 ひとくちに仏典の漢訳といっても、それはたいへんな労作業であったと思われる。第一、今日のように、当時は専門の語学学校があったわけではないし、むろん外国語の辞書などあろうはずはない。
 最初は、おそらく片言をまじえて身ぶり手ぶりよろしく、なんとか意志を通じさせようとしたのでしよう。しかも、このころまでの中国と西域諸国との交通は、紀元前二世紀から開かれてはいても、それは外交使節や商人の往来が主であって、仏教のように、深い思想をたたえ、インド独特の思惟や概念を駆使した経典が理解されるまでには、相当の年月を必要としたのではないだろうか。
 松本 たしかに、まえにも話題になったことですが、西暦前二年にやってきた大月氏王の使者伊存も、宮中の博士弟子景廬に経文を口授したことになってはいます。しかし、この宮中の儒学者が、はたして仏教の法理をどこまで理解しえたか、はなはだ疑問とせざるをえません。
 また、後漢の楚王英も、すでに西暦六五年には仏像を祀っていたと伝えられていますが、それも中国古来の黄帝や老子の教えと一緒にして、神仙的な呪術のようなものとして崇めていたようです。
 池田 おそらく最初は、西域の珍しい文物というか、貴重な芸術品のようなつもりで仏像を祀る程度だったのでしょう。それが、やがてもっと深いものがあることに気づき、この異域の仏の教えに興味をいだくようになった。――これは、あくまで想像の域を出ないけれども、多分そのような経過をたどったのでしょう。
 一方、西域からやってきた仏教僧侶――彼らを漢人は「胡僧」とか「桑門」(沙門)と呼んだわけだけれども――つまり西域帰化人も、何年か中国に滞在するうちに、いつしか漢語を話せるようになる。彼らは、その弘教の熱意の自然な発露として、法を求める漢人に仏法の話をしたにちがいない。
 野崎 もっとも中国では、外国からの使者が朝貢してきた場合、お互いの言語を通じるための翻訳官、つまり通訳の制度が朝廷に設けられていたようです。これは周の時代からあったということですから、西暦紀元前後に仏教が公伝したとすれば、むろん口授されて朝廷の記録には残されたでしょう。
 しかし、仏典の翻訳というような事業は、そうした外交上の記録文書を作るのとは違って、それまでの中国の長い歴史には、おそらくなかったことです。ですから、やはり仏典の漢訳が始められた動機としては、中国自体のなかに、仏教の深遠な教えを探究しようとする機運が出てきたからだと思われます。
 松本 私もそう考えます。すなわち、さきほどの大月氏王の使者がきた時点では、まだ仏教の経典の一節を朝廷の一係官が聞きおく程度だった。ところが、仏典の翻訳が本格的に開始されるのは、後漢の桓帝の時代、西暦では一四七年とろに安息から中国にやって来た安世高、続いて月支(大月氏)からきた支婁迦讖しるかせんなどによるものですね。
 後漢の桓帝の時代は、西暦でいえば一四六年から一六七年までですから、仏教の公伝から約百年、ないし百五十年も経っています。ということは、仏教が本格的に中国社会に受け入れられるまでに、それだけの期間を要したということですね。
 野崎 ちなみに、その桓帝という人物は、中国古来の黄帝や老子と一緒に「仏陀」の像を祀っていたようです。そのため、夷狄いてきの仏像を崇拝することに対し、これを諌める者もあった、といわれます。
 しかし、この皇帝は、西域からきた訳経僧を援助し、また盛んに宗教行事を主宰したと史書にありますので、おそらく信仰心の篤い人であったと思います。つまり、このころから仏教が、具体的に影響力をもちはじめたということができます。
 池田 異質の文明社会に一つの宗教が根を下ろすということは、それだけ長く険しい試練の時を経なければならないということですね。……公の記録では、少なくとも仏教の伝来に関して、この百年以上の期間が空白になっているようだけれども、そこに名も知られない西域仏教僧や、また漢人仏教信者の求法・弘教の必死の戦いがあったことを、われわれは想起すべきだと思う。
 その間には、おそらく夷狄の宗教として、仏教者が排斥され、弾圧されたこともあったでしょう。なにしろ中華意識が強い国であるし、後漢の末期には衰えたといっても、儒家の思想は国教に近い存在としてあった。そのような国で、王室の後援を受けながら経典が翻訳されるようになるまでには、隠れた仏教者の想像を絶する苦闘があったにちがいない。あるいは民衆のあいだに、深く静かに仏法が浸透し、その高まる機運が、経典の翻訳を促すまでにいたったとも考えられます。
 ともあれ、歴史は何も伝えていなくても、表層には現れない地下水脈が流れていたにちがいない。それが、やがて時を得て、地表に湧出して渓流となり、奔流となっていったのです。もし最初の地下水脈の時代がなければ、後の治々たる大河の流れもなかったでしょう。その意味では、最初に仏典が漢訳されるまでの困難な闘いもまた、仏教の歴史において重要な意義をもっといえるのではないだろうか。
2  西域からきた訳経僧
 松本 仏典の漢訳にあたって、まず言葉に代表される文化の違いが一つの大きな障壁として挙げられましたが、それに加えて、インドと中国を隔てる地理的な条件も無視することはできませんね。
 池田 そうです。これは前にも若干ふれた問題であるけれども、おそらく西域諸国の熱心な仏教者がいなければ、この時代にインドの仏教は中国へ伝えられなかったでしょう。したがって、西域というか、中央アジア諸国の仏教者が果たした役割は、まことに大きいものがあったといってよい。
 西方のメソポタミア、エジプトと並んで、人類発祥の四大文明に数えられるインドと中国とは、おなじアジアの地続きの文明圏であるけれども、そこには世界の屋根といわれる高峰群が聳え立っていて、人間を容易には寄せつけなかった。そのため、インドの仏教者が中国へ法を伝えようとしても、まず北方の中央アジアを迂回して行くか、南海の荒波を乗り越えて行くしかなかったわけです。いずれも、当時としては決死の覚悟でのぞまなければならない大事業であったでしょう。
 松本 ただ海路に関しては、まだ後漢時代までは、あまり記録がなく、推測の域を出ないのが実情です。前漢の武帝以来、中国の歴代王朝が力を入れて開発し、歴史にも記録されているのは、やはり西域を通るルートですね。といっても、こちらもまた大変な難コースで、西から行くには、まずパミールの嶺を越えなければならない。そして、その麓にあるカシュガル(疏勒)から道は二手に分かれ、花漠たるタクラマカン沙漠を東へ進むことになります。北に天山山脈が聳え、南に崑崙こんろんの山々が連なる流沙の地帯を、わずかに水草のあるオアシスを転々とたどって旅するわけですね。
 野崎 時代はやや下りますが、後に法顕が記すところによれば「沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遇えばみな死んで、一人も無事な者はない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎり〔の広大な砂漠で〕行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするだけである」(『法顕伝・宋雲行紀』長沢和俊訳注、平凡社)という一面の沙漠地帯ですね。
 池田 空に飛鳥なく地に走獣なし、ということは、もともと動物さえ棲めそうもない沙漠であるということですね。その道なき途を、わずかに死人の枯骨をたよりに歩いたのは、人間のみであった。:……ここで死人が標識をなした、ということは何を意味するか。――そうした、いかなる動物も棲めない不毛の世界に、ひとり人間だけが分け入ったということです。
 おそらく、そのような道を切りひらいた人間の第一は、まず軍人、兵士、それに密命をおびた探検家などがいたでしょう。空前の統一国家を築いた漢の武帝は、北方の匈奴の勢力を削ぐために、西方の月氏族と連合をはかろうとした。また彼は、汗血馬と称される大宛だいえんの名馬が欲しいために、何回も西域に軍隊を派遣しているね。そうした権力者の征服欲のために、ロプ・ノール湖畔にあった楼蘭王国は滅亡させられ、流沙のなかに多くの兵士が骨を埋めることになったわけです。
 松本 そうした人間ドラマは、井上靖氏の歴史小説に詳しいですね。
 池田 私も井上さんの西域物の愛読者だけれども(笑い)。それはともかく、このシルクロードを通った第二の人種は、いうまでもなく、その名のとおり「シルク」や宝石などの高価な物をひさぐ商人であった。彼らは、西方のペルシアやローマで中国の絹が高価に売れるところから、この沙漠に道を求めた。むろん中国へは、西方の珍しい物資や宝石、西域の于闐うてんなどに産する玉をもたらしたわけだけれども……。
 いずれにせよ彼らは、そうした東西交易によって得られる巨利を求めて、万年雪におおわれた山々を越え、川を渡り、沙漠に骨をさらすこともあったのでしょう。
 野崎 そして第三に、このシルクロードを通った人物として、インドから中国へ仏法を伝えた仏教徒がいたわけですね。
 池田 そうです。ただ仏教徒の場合、前二者のような権力欲とか征服欲、あるいは商売上の利益を求めようとする動機によるものではない。彼らの転教の遠征は、世俗の名誉や利益をいっさい捨てて、ひたすら仏法を異国に伝えようとする弘教の熱意によるものであった。その崇高な使命に燃えたつ決意があったからこそ、あらゆる艱難を乗り越え、異域に仏法を伝えることができたのです。
 もっとも、なかには中途で挫折するか、はるかに東の空の夜明けを仰ぎつつ、力尽きて沙漠にのまれた人もいたであろうが……。
 松本 ともかく、こうして西域からやってきた仏教者は、すでに異国に骨を埋める決意できていますから、中国に帰化した人も多いですね。
 池田 それも、彼らが兵士や商人と違うところですね。つまり仏教者は、単にシルクロードを通ったとか、往来したというのではない。彼らの目的は、あくまで仏法を伝えるところにあったのです。
 言語に絶する困難な旅を終えても、なお彼らには次の使命が待っていた。それは、いうまでもなく仏法を、人種や民族の違いをこえて、すべての人間に教え、弘めることです。その弘教活動の一環として、ことに仏典の翻訳という事業が、きわめて重要な意味をもって浮かび上がってくるのです。
 野崎 仏教伝来の初期のころは、インドの僧侶がシルクロードを通ってくるよりも、まず西域諸国の仏教者がきたわけですね。もちろん後には、天竺と呼ばれたインドからも陸続として訪れるようになりますが。
 松本 中国では最初、西域諸国からきた仏教僧を呼ぶのに、名前の上に出身国名を冠していますね。たとえば、さきほどの後漢時代にきた安世高あんせいこうは、今のイラン地方に西暦前二五〇年ごろ建てられた安息国の王子です。彼は父王の死を機として王位をおとうとに譲り、若くして仏教の修学を志して本国を離れ、西域諸国を遍歴した後、ついに中華にきたって二十年間、仏典の漢訳に取り組みました。
 また、おなじく後漢時代にきた支婁迦讖、支曜、三国時代の支謙、東晋の支施崙しせこんなどは、支すなわち月支国の出身者か、その子孫です。これはまえにも話題になりましたが、当時の中国人が「貴霜クシャン」王朝を月支族の建てた国と見なしていましたので、その治下にあった地方からきた仏教者を、このように呼んだものと思います。
 なお、後に『正法華経』十巻を訳出した竺法護は、実際は敦煌生まれの月支人ですので、支法護とも″月支菩薩″とも呼ばれますが、その師が竺高座という天竺僧であったために、師姓をとって竺法護と名乗ったわけです。
 それから、後漢の康孟詳こうもうしょう、三国時代の康僧鎧そうこうがいなどは、康すなわち康居こうきょからきたことが知られています。この国は、現在の中央アジア、キルギスタンとかウズベキスタンにあった国とされていますが、ここもまた仏教国であったわけです。
 野崎 ただ、そのころの西域諸国は、国によって「小乗」の教えが中心であったり、あるいは一向に「大乗」仏教を信仰していたりして、まちまちだったようですね。むろん、なかには両方が共存している国もあったようですが、概していずれか一方のみを信仰していたと伝えられています。
 たとえば、いま話のあった安世高は、もつぱら『四諦経』『八正道経』『転法輪経』などの小乗に属する経典のみを訳出しています。
 一方、月支からきた支婁迦讖の場合、『道行般若経』『般舟三昧経』『首楞厳経』などの大乗経典を、主として訳しています。これは、彼の出身地である月支国が大乗教国であったことを物語っていると思います。
 池田 なるほど、面白い現象ですね。
 いずれにせよ、西暦紀元前後から唐の時代にかけて、西域諸国には仏教が大いに栄えたのでしょう。その盛んなさまは、有名な法顕の『仏国記』(または『法顕伝』とも)や、玄奘の『大唐西域記』によってもうかがえますね。いわば西域三十六カ国――いや、この時代には五十いくつもの国があったとされているが――その中央アジア一帯に、仏法が″広宣流布″されていたわけです。
 これらの西域諸国を形成していたのは、イラン系のアーリア人であった、と聞いている。すると彼らは、いずれもインド・ヨーロッパ語に属する言語を話していたことになるので、仏典を梵語で読むこともできたでしょう。もっとも、ホータン語の仏典なども発見されているらしいが、ともかくインドと中央アジア諸国とは、言語的には近しい関係にあったことはわかるね。
 ところが、仏典が中国へ渡ると、ここではシナ・チベット語族に属するので、両者は言語の構造が根本から違う。インドやイランでは表音文字をもって表すし、中国は表意文字をもって記すのは、その一例でしょう。ここにも仏典漢訳の必然性があったわけですね。
 ですから、そうした言語上の障碍を克服するうえでも、活発な商業活動をつうじて党漢両語に練達していた西域人の仲介が必要であったと思われるます。
3  貴重な文化遺産
 松本 さて、こうして始められた仏典の漢訳は、後漢の桓帝時代に始まって、北宋の時代、すなわち十世紀から十二世紀ごろまで、じつに一千年の長きにわたって続けられました。まことに、気の遠くなるような話ですね。
 池田 おなじく翻訳といっても、近代日本の西洋物の移入と比較して、その規模が違いますね。なにしろ文明開化の明治以来、まだ百年と少しばかりしか経っていないわけだから。(笑い)
 むろん、かつての仏典の梵語から漢語への翻訳と、現代の翻訳とでは、時代や社会情勢の違いもあるし、それに印刷術の飛躍的な発展という要素も考慮に入れなければならない。当時は一字一句、正確に筆写していったわけだから、それだけ長く時間もかかったのでしょう。
 しかし、それにしても一千年というのは、いかにも大陸的で、しかも太古からの長い伝統文化をもっ漢民族にして、初めて成し遂げることができたものといえますね。
 野崎 もともと中国は、文字を重んずる民族ですから、西域からきた仏教が人類の歴史に残る貴重な教えであると知れば、これを翻訳して後世に遺そうとするのは、むしろ当然ですね。
 松本 もっとも儒家の説も経典として尊重され、大学にはいわゆる「五経の博士」がいて、後世にまで伝えられていますが……。
 池田 儒家の教えは、中国人自身が生みだした民族的古典として、大事にされても不思議ではないでしょう。しかし仏教の場合、これまで話し合ったように、初めは異域の教えとして排斥され、やがて一部の人びとに信仰されるようになっても、黄老の神仙方術と混同されていたのが、ついに時いたり、続々と仏典が漢訳されるようになってきた。
 この経過は何を意味するかといえば、それほど仏教が中国民族に大きな文化的影響を与えることができた、ということです。少なくとも北宋時代までの一千年間というものは、仏教の影響を度外視して、中国の歴史も文化も語ることはできません。
 しかも、その中国の仏教受容史を概観したときに、どのような経典が翻訳されたかによって、その時代の仏教事情も、また社会情勢も推し測ることができるように思う。いわば仏典漢訳の経過は、そのまま中国における仏教興隆の歴史であり、さらには一千年間の中国文化史に欠くことのできない重要な要素であったといえるでしょう。
 野崎 たしかに私も、ここ数カ月、いくつかの中国通史を読みましたが、後漢から魏・呉・蜀の三国時代を経て西晋、五胡十六国に始まる南北朝時代、そして隋・唐の統一王朝が成立するまで、まことに目まぐるしく王朝が変遷し、複雑で、なかなか理解しにくい面もありました。しかし興味ぶかいことは、この動乱の時代にこそ、重要な仏典が次々に漢訳され、またそれを有力な発条として、仏教が中国全域に広まっていったという事実です。
 松本私も学生時代、受験勉強などで五胡十六国の名前を覚えるのに苦労した経験があります(笑い)。それは、にわか勉強のせいもあったでしょうが、やはり単なる通史では、その背景にある有力な動因としての仏教が見のがされていたことも、この時代を理解するさまたげの因をなしていたのかもしれません。
 たとえば、魏・呉・蜀の三国が鼎立していた時代は『三国志』などによって私たちにも馴染みぶかいものがありますが、とくに魏と呉の両国に、おいては、仏教が急激に盛んになっています。その象徴的な事例として、よく挙げられることですが、朱士行という人物が中国人として初めて″出家″したといわれるのも、この時代ですね。
 彼れは穎川の人で、『般若経』に精通していたということですが、たまたま原典の不備を知り、魏の甘露五年(二六〇年)に雍州ようしゅう(険西省)を出発して西域の于闐うてんに赴いています。そこで二万五千じゅの『般若経』の原典を得て、弟子に持たせて帰国させた。彼自身は八十歳で西域の地に客死したわけですが、それが後に訳出されて『放光般若経』二十巻となったわけです。
 野崎 江南では、呉主孫権が仏教に帰信していますね。彼を″折伏″(笑い)したのは、康居の康僧会という人物ですが、この僧侶も波澗万丈の人生を生きたようです。
 梁の僧祐撰『出三蔵記集』によると、康僧会の先祖は康居から天竺に入り、そこから今日のベトナム中部にあたる交趾こうちに移って商売をいとなんでいた。ところが、彼が十歳のときに両親と死別して、出家したという。赤烏十年(二四七年)には、呉の建業に入り、大乗の実践行である六波羅蜜を説いた『六度集経』などを訳出したといわれます。彼はまた、梵唄ぼんばいにもたくみであったようですが、その本領は布教実践の人であって、孫権を帰信させたほか、民衆の教化にも活躍して、ついに江南で初の寺院である建初寺を開基させました。
 江南には、また支謙という在家の奉仏者もいて、孫権の援助を得て多くの大乗経典を訳出しています。彼はもと月支(大月氏)からきた支法度を祖父にもち、中国に帰化した家の出です。ちなみに、彼を教えた支亮しりょうというのは、後漢時代にきた支婁迦讖しるかせんの門人となっています。
 すなわち、二世紀ごろから続々と入ってきた西域の仏教徒は、最初から異国の地である中国に骨を埋める決意であったことが、うかがえますね。彼らは、シルクロードを往来した商人や兵士と違って、西から東への片道旅行であった。
 そうした仏教徒の信仰へのひたむきな熱意が三国時代になって、ようやく芽をふき、歴史と文化の伝統をもっ中国の大地に新しい文化の花が開こうとしていました。そこに、戦乱と抗争が続く社会にあって、庶民大衆の心が渇仰するものと相呼応した背景があると思います。
 池田 なるほど。人間の歴史というものは、単に政治や経済の仕組みだけで決まるものではない。いつの時代にあっても、常に社会の底辺にあり、ながら、広い裾野のような広がりをもって、人間のさまざまな営為を支えている庶民大衆の心の動きを知らなければならない、ということです。
 この時代の中国の歴史を知るのにも、インドからきた仏典の漢訳によって仏教が飛躍的に広まり、多くの中国民衆の心に仏法の種子が植えられた事実をみなければ、その時代の推移の本流は理解できないということですね。
 松本 ちなみに、三世紀から六世紀までの魏晋南北朝時代に、仏寺と僧尼が急激にふえていった数をみても、仏教が中国大陸に燎原の火のごとく広まっていったさまが、よくうかがえます。記録によると、六世紀末の華北全域の寺は三万余、僧尼二百万。江南では梁の時代に二千八百余寺、僧尼八万二千七百と伝えられています。
 野崎 むろん、その他に在家の信者が大勢いたでしょうし、これをもってしても、ほぼ仏教は完全に中国大陸に根を下ろしたといえますね。
 ただ、この時代に出家僧尼がふえたのは、乱世のため出家したほうが安全だったからだ、また仏教が江南にまで広まった要因として、それは中原の洛陽から漢人が多く南方へ移動せざるをえなかったからだなどとする、いたって現実的な解釈もあるようですが……。
 池田 それも一つの要因としては考えられるでしょぅ。しかし私は、このように中国全域にわたって出家者が増大し、仏教が急激に広まった理由としては、やはり仏教自体のなかに一切の障壁を乗り越えて広まるエネルギーがあり、また世界宗教としての高い理念が含まれていたからであると考えたい。
 とくに中国の場合には、経・律・論の三蔵だけで、じつに一千四百四十部・五千五百八十六巻にも達する大蔵経の漢訳を成し遂げたことが、その最も大きな要因として挙げられるのではないだろうか。これほど膨大な量の翻訳事業は、単に中国仏教史上の出来事ではなく、人類史上に未曾有の文化遺産を残したといっても過言ではないと思う。

1
1