Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 インドから中国へ  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
4  西域情勢と月氏の仏教
 さて、前漢時代ということは、つまり紀元前において仏教が中国に渡来していたとすれば、それは西域の「絹の道」を通ってきたものですね。そこで次に、との西域地方における仏教の展開をみておきたいと思いますが……。
 池田 そうですね。西域諸国の仏教徒の活躍がなければ、もともとこの時代にインドの仏教が中国へ伝えられるのは、かなりたいへんなことであったでしょう。もちろん、海路を通って直接あるいは間接に、インドから中国に伝えられたということも考えられないとともない。しかし、こちらのほうについては、ほとんど資料がない。
 なによりも、この西域地方の動きに注目したいのは、インドの仏教が、いったん西域諸国に根を下ろし、そこで若干の変容をみせ、それから中国に入っているという事実です。インド仏教が、そのままの形で中国に伝わったのではない。西域風の味付けがなされたものが伝えられたということは、異文明の接触を考えるうえで、興味ぶかい歴史資料を提供していますね。
 松本 たしか道端良秀氏の『中国仏教史』(法蔵館)にも紹介されていたと思いますが、「沙門」とか「出家」という言葉は、党語から直接に訳されたものではなく、西域諸国の用語から翻訳されたらしいですね。仏教の重要な教理をなす十二因縁の名目も、西域のトカラ語の訳文から漢訳されたといわれています。
 野崎 これは仏教とは直接には関係がありませんが、中国の植物名で「胡」の字がついたものが多いですね。胡麻とか胡瓜きゅうり、胡桃、胡椒、胡豆そらまめ等々、たくさんありますが、そのほとんどが前二世紀末、漢と西域との交通がひらかれて以降、中国で「胡人」と称された西域人によって、もたらされたものとされています。
 池田 おそらく、そうした植物や文物が、西方の珍奇な物として求められたのでしょうね。それが、中国から出ていった絹と交換されたのでしょう。
 松本 『漢書』西域伝によりますと、西域南道を西行すると、大月氏や安息(パルティア)に出るとされていますが、その道は途中から分かれて罽賓けいひん烏弋山離うよくさんりにもいたる道であった、という。
 ことに「罽賓」とあるのは、今のカーブル河流域にあった国とされています。そこは当時、すでに仏教が盛んであった西北インドにあたるわけですが、その罽賓国にまで道が通じていたということは、逆に同じシルクロードを通って、罽賓から商人や仏教信者が漢と往来していた可能性もありますね。このことは、今日におけるシルクロード研究の権威である長沢和俊氏も指摘するところです。
 池田 そうですね。当時の洛陽や長安には、西域からやってきた商人や使節が、かなり多く滞在していたことが考えられる。なかには、熱心な仏教信者もいたであろうし、ことによると「沙門」と呼ばれる僧侶も含まれていたかもしれない。そのうちの何人かが、胸中に高まる弘法の熱意を抑えがたく、ブッダの教えを漢人に説いたにちがいない。
 松本 ええ。『三国志』の「魏志」中に、魏の魚豢ぎょけんの『魏略西戎伝』を註として引用していますが、そこに次のようにあります。
 「昔、漢の哀帝の元寿元年に、博士弟子景廬けいろが、大月氏王の使伊存から浮屠経ふときょうの口受を受けた」
 この漢の哀帝の元寿元年というのは、西暦前二年にあたります。そして「浮屠経」というのは、いうまでもなく仏教のことに他なりません。しかも、この文書は史料としても信憑性が高く、現存する資料中では最も古い仏教伝来の記事として、学者のあいだでも高く評価されています。
 池田 ここに「大月氏王使伊存」とあるのに注目すべきですね。
 聖教新聞社の陣内・大村・竹内の三記者が、かつて大月氏が栄えたアフガニスタン、パキスタン地方を取材してきたけれど、西暦紀元前後の中央アジアから西北インドにかけては、この大月氏が大いに勢力を広げていた。しかも、彼らは紀元第一世紀ごろにはクシャン(貴霜)朝を創立し、インダス河の流域から、さらにそれ以東の地にまで進出している。また、ギリシア人王の支配下にあったガンダーラ地方も領有し、そこに都をおいたとされているね。歴史上、ガンダーラ芸術として名高い仏教芸術は、この時代にギリシア彫刻の技法も取り入れて、新しい仏教芸術の花を咲かせたものです。
 野崎 クシャン王朝といえば、西暦二世紀ごろに出現したカニシカ(迦膩色迦)王が有名ですね。彼は自ら仏教信奉者となり、第四回の仏典結集をはじめ、幾多の仏教事業を後援したとされています。なにしろ、クシャン王朝の貨幣には仏像が刻まれたのもある、ということです
 松本 かつて大月氏が領有していたバクトリア地方は、宗教としてはゾロアスター教が盛んであったといわれてきました。しかし最近、それも一九六〇年ごろに続々とアショーカ王の碑文が発掘され、この地方は紀元前三世紀には確実に仏教圏であったことが明らかになったわけです。したがってクシャン王朝に仏教が栄えたのも、そうした土壌があったからではないでしょうか。
 池田 このクシャン王朝というのは、かつてのアショーカ王の治世についで最も仏教が全盛をきわめた時代ですね。そこに不思議な縁のような歴史の糸が貫いているように思われる。ともあれ、ここから中国へ、続々と仏教使節が派遣されていくのです。
 興味ぶかいのは、このクシャン王朝についても、中国では大月氏の後継者とみて、西域から西北インド地方までを「大月氏」と総称していることです。やがて紀元二世紀になると、この大月氏や安息地方から幾多の翻訳僧も訪れ、仏教は中国に大きな流れとなって入ってくるのだが、それは今後、さらに詳しく検討することにしよう。

1
4