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日蓮大聖人・池田大作

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1 インドから中国へ  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  世界宗教としての仏教
 野崎 この「仏教対話」の第一部では、主として釈尊の生涯を中心に点検し、第二部では、釈尊滅後のインド仏教の全般を、とくに大乗仏教の展開に焦点をあてながら検討してまいりました。
 さて、そこで第三部からは、いよいよ仏教がインド文化圏を出て、中央アジアから中国へ伝えられ、やがて韓・朝鮮半島を通って日本に伝来する経過をたどってみたいと思います。
 池田 これは、すでに第二部のところでも若干ふれた問題であるけれども、インドに生まれた釈尊の仏教というものは、単にインド民衆だけの狭い民族宗教ではなかった。国境を超え、民族の違いを超えて、全世界へと広まりゆく世界宗教、いわば″人類の宗教″ともいうべき性格、普遍性をもったものであった。それが実際に、どのようにしてインドの地を出て、まったく異質の中国文明のなかに受け入れられていくか、という発展の過程を今回からみていくわけですね。
 松本 インドの仏教は、いま野崎さんの挙げた北伝仏教のほかに、現在のスリランカやビルマ(現ミァンマー)、タイ、カンボジア、ラオス、インドネシアなどに伝えられた南伝仏教もあり、さらには西方のギリシア、ローマ世界にも伝えられています。そのうち、ここでは北伝仏教の流れに注目するわけですが、まず最初に、なぜ北伝仏教に注目するのか、という意義を明らかにしておく必要があると思いますが……。
 野崎 それは第一に、われわれが現に仏教徒であるという立場から、この日本に伝えられた仏教が、どのような教えであったのか、またそれは、どのようなルートを通って伝来したものなのかを、あらためて探究するためです。
 第二には、いうまでもなく北伝仏教は、おもに大乗仏教が中心でした。インドにおいて興起した大乗の流れが、その後、どのように展開していったかを知るには、結局、中国、日本における実態をみなければなりません。
 第三に、中国そして日本という、インドとはまったく違った文明圏のなかに、どのように広がってきたかという事実をとおして、仏教の世界宗教としての性格を浮き彫りにできるのではないでしょうか。
 池田 そうですね。いま野崎君の挙げた第三の点と関連するけれども、インドに生まれた釈尊の仏教は、それが中国や日本へ伝えられると、それぞれ独自な発展を遂げているということです。もちろん仏教の根本の法理は変わらないけれども、やはり中国や日本は、インドとは違った民族性や文化をもっている。そのため、中国には西域諸国からの影響が強い中国の仏教が、日本には日本独自の仏教が、それぞれ開花し、展開していった。
 そうした観点からすれば、南方に伝えられた上座部系統の仏教は、インド仏教の延長線上に捉えられるけれども、北方に伝えられた大乗仏教は、必ずしもインド仏教と同じ線上にあるものではない。そこでは仏教は、インドとは異なったさまざまな要素によって変容し、まったく新たな独自の仏教を形成していったといえるでしょう。しかも、そこに仏教としての一貫したものがある。この変わらないものこそ、仏教の普遍的な特質なのです。――ここに、われわれが北伝仏教に注目する最大の意義があるといえます。
 松本 会長は今、寸暇を惜しんで数多くの対話を繰り広げられていますね。西方に伝えられた仏教については識者との対話を通して、東西文化交流の歴史が掘り下げられていますし、また各国を訪問して現地の会員と対話した記録も伝えられています。そうした姿を見ると、仏教が世界の宗教であることを、あらためて感じますね。
 池田 それは、釈尊がブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹下に、おいて悟ったところのものを、単に自分一個のものではなく、広く全人類に伝えようとして立ち上がったときに、すでに仏教が世界宗教として発展する因が含まれていた、ということですね。
 ですから仏教は、とくにインド、中園、日本の三国に最も広くひろまったけれども、それだけにとどまるものではない。、およそ人間である以上、だれでも生老病死の四苦と対決せざるをえないが、その解決のカギを与えるのが仏教なのです。これからインドに生まれた釈尊の仏教というものが、どのようにして国境を越え、やがて人類に普遍的な宗教となっていったかをみていくことにしよう。ただ、これはさきほども話のあったように、あくまでも現代に生きる仏教徒としての立場から検討していくことにしたい。したがって、ことでは仏教三千年の歴史を学問的に細かな部分にまで立ち入って調べるのが目的ではない。仏法の真髄はどこにあるのか。現代に蘇生すべき仏教の精神は何か。――それを見失うことなく、三国伝来の仏教史を概観していくわけです。
2  中国への仏教初伝の年代
 野崎 仏教が公式に中国にもたらされたのは、一般に後漢の明帝の永平十年、西暦でいえば紀元六七年のこととされています。これには、むろんさまざまな説がありますが、釈尊入滅の年をひとまず西暦前四八六年ごろとすれば、ほぼ仏滅後五百年ごろにあたります。
 松本 後漢の明帝が、夢に丈六の金人を見て、仏の教えを西域に求めさせたという話は、昔から仏教徒のあいだの伝説になっていますね。
 それは、明帝によって派遣された使者が、中天竺の大月氏にいたり、迦葉摩騰、竺法蘭という僧侶に出会って、仏像と経巻六十万言を得、それを白馬に乗せて洛陽城西門外の蘭台寺、すなわち後の白馬寺に落ち着いた、というものです。仏像は仏、経巻は法、それに二人の僧侶が渡来したことから、これをもって、仏・法・僧の三宝を具備した仏教の、中国への公の初伝である、とされています。
 しかし、この有名な伝来説話については、近代の学者によって一時は否定されてしまった。たとえば白鳥庫吉、和田清氏などは、さまざまな理由を挙げて、あくまで伝説にすぎないというのです。
 ところが、後漢の明帝時代よりも以前から、すでに仏教が中国に伝えられていたらしいこと、しかも宮中でも、それ以前から仏教を尊崇する人がいたらしいことなども明らかになっています。
 野崎 ここで仏教の伝来について考える場合、皇帝や宮中に伝えられたことよりも、その国の民衆が信仰するようになったことのほうが、はるかに重要なととのように思いますが……。
 池田 古来、中国では皇帝の権威が非常に重んじられてきた。仏教そのものも、中国では国家権力というものが重大な影響力をもっていた。そのため、権力の中枢、つまり王室に伝えられたのはいつかということが、論議の焦点となったのでしょう。
 その年代自体にも疑問があるわけだが、もっと根本的にいって、もともと仏教というのは、単に一部の権力者や貴族階級のためのものではない。むしろ、政治の圧制に苦しみ、生老病死の苦悩にあえぐ民衆を救済するためのものです。したがって、いつごろ中国に仏教が伝えられたかを調べる場合でも、それが王宮に受け入れられた時点を基準にする必要は、まったくないといってよい。
 ですから、私が注目したいのは、この異域の宗教が、まず中国の庶民大衆に、どのように受け入れられたのか。彼らは、西方の聖人の教えを、どのような表情をもって伝え聞いたか。つまり、名も知られないような庶民が初めて仏教に接したときに、どのような人間の顔をして迎えたかを、私は考えてみたいのです。
 松本 たしかに、そうですね。中国古代の歴史書を見ても、やはり王室に関連するものが大部分を占めています。いったい、当時の民衆が何を考え、どのような生活をしてい、たかが、もっと明らかになるといいと思います。
 ところで、いま話題になった後漢・明帝の異母弟にあたる楚王英が、仏教を奉じていたことは事実のようです。『後漢書』の楚王英伝に出ていることですが、彼は若いときに游侠を好み、賓客と交通した、という。おそらく外国から来た沙門や商人から、仏教の話を聞いたこともあるのでしょう。晩節には黄老の学を喜び、浮屠ふとの斎戒祭記をおこなった、とあります。
 ここに「浮窟」というのは、ブッダ(仏陀)を音写したものと思われます。その楚王英が贖罪のために絹三十匹を奉呈したことがあります。それは永平八年、西暦では六五年に明帝が詔を発し、死罪のものも絹を納めれば赦されるとしたからです。
 ところが、兄の明帝は、楚王英についてはその必要がないことを、文書をもって公に知らしめた。その一節に、楚王は「浮屠」つまりブッダの仁祠をたっとび、三月にわたって潔斎してまで、心から反省している。したがって、贖罪のために納めた物は楚王に還し、伊蒲塞(優婆塞=俗男子のとと)と桑門(沙門のこと)への供養にあてよ、とあります。
 野崎 なるほど。そうすると楚王英は、時の皇帝の異母弟でありながら、仏像を祀り、在家の信者や僧侶に対してまで供養をしていた事実が、はからずも伝えられているわけですね。つまり、その『後漢書』の記述が事実とすれば、すでに仏教は永平十年以前にも、皇族のあいだで尊崇されていたことになりますね。
 松本 楚王英の任地は、洛陽(河南省)よりも東の楚国、すなわち彭城(江蘇省)であったわけですが、彼が任地についたのは西暦五二年――ということは、それ以前に洛陽で育ったころから、彼は仏像を祀っていたか、あるいは一族のなかに仏教徒がいたことを意味します。もし、そうでないとすれば、すでに西域経由の仏教が洛陽を越えて、楚国にまで広まっていたとも考えられるでしょう。
 しかも、この楚王英伝が注目されるのは、ここで明帝が公の詔に、おいて、仏像を祀り、仏教徒を供養することを、好ましい行為であるとしている事実です。この文書によるかぎり、いわば仏教は、当時の王室において、すでに公認されたも同然であったといえます。
 また、おなじく『後漢書』西域伝には「帝(明帝)ここに於て使を天竺に遣わし、仏の道法を問う。遂に中国に於て形像を図画せり。楚王英始めてその術を信ず。中国これより頗るその道を奉ずる者あり」とあって、いわゆる後漢・明帝時代から中国の仏教信仰が始まった、とされていますね。
 池田 少なくとも後漢の明帝は、仏教に理解を示していたということができるね。年代のうえでは若干のズレがあるけれども、後の仏教徒が、この時代に初めて仏教が公伝されたという説を立てたのも、そこに何か関連があるのでしょう。なんの根拠もなしに伝説が創られるわけではないから……。
 ところで、ほぼ西暦第一世紀の中葉から、すでに皇族の一員まで仏教を信奉していたとすれば、当然、一般民衆のあいだでは、それよりずっと前から仏教が信じられていたと考えられるね。とくに、洛陽よりも西の西域に近い地方では、いわゆる「シルクロード(絹の道)」を通ってやってくる商人や外国人をつうじて、早くから仏教の話を聞いていたにちがいない。
3  紀元前の仏教受容
 松本 そうです。中国への仏教伝来について、公の記録には載せられていませんが、可能性としては紀元前三世紀の秦の始皇帝の時代に、なんらかの形で伝わっていたのではないか、と仮定する説もあるようです。
 というのは、ちょうどこの時代のインドでは、初の統一国家であるマウリヤ(孔雀)王朝の第三代、アショーカ(阿育)王が仏教に帰依し、使節を四方の各国に派遣しているからです。秦の始皇帝も、またインドのマウリヤ王朝も、ともに空前の大統一国家として、それぞれ中央アジアにまで版図を広げていますので、両国はかなり接近していたことが考えられます。アショーカ王の平和使節は、西方ではギリシア世界にまで及んでいますので、ことによると東方の中国に向かっていたとしても、けっして不思議ではないと思われます。
 野崎 そうすると、たしか中国にもアショーカ王が建てたといわれる仏塔があったというのも、あながち仏教徒の伝説として片づけることはできない、ということですか。
 松本 宗炳そうへいの『明仏論』にある記事ですね。中国の山東や山西地方にあった阿育(アショーカ)王寺の遺跡から仏舎利が出てきた、ということですが、しかし史実としては確認されません。
 池田 これは二千年以上も昔の出来事であるから、あくまで想像の域を出ないけれども、あのアショーカ王の熱心さからすれば、中国へ仏教僧を派遣したことも、当然に考えられるでしょう。ただし、その使節が中国まで到達したかどうかは、今となっては確認する手がかりもない。
 ところが、秦の始皇帝といえば、あの有名な「焚書坑儒」を断行した独裁君主ですね。その激越な性格からして、自国の儒学者さえ徹底的に弾圧したわけだから、まして異国の仏の教えを受け入れたかどうか。
 松本 惰の費長房ひちょうぼうが著した『歴代三宝紀』によりますと、秦の始皇帝の時代に外国沙門の一行が訪れ、それを始皇帝が投獄してしまった、という記事が見えます。もちろん、これは後代の記述ですが、それによると、始皇帝の三十四年(前二一三年)におこなわれた焚書の暴政によって、それ以前の周・秦時代からあった仏教関係の遺跡や文献も、ことごとく失われてしまった。そして、その後に問題の部分が記されています。
 「また、始皇帝の時代に、沙門釈利防ら十八人の賢者が仏経典を持ってきたが、始皇帝は信ぜず、ついに利防らを拘禁した。しかし夜になって丈六の金剛の人が現れ、獄を破って彼らを救出した。そのため、始皇帝も驚怖して稽首けいしゅせざるをえなかった」(大正四十九巻二三頁、参照)
 すなわち夜中に丈六の金剛人が現れて牢を破り、沙門を救出したなどというのは、いかにも非現実的で、ありそうにないことです。しかし、こういった話が伝えられる背景には、やはり始皇帝の時代に仏教がなんらかの関係をもっていた史実があるのかもしれません。
 池田 おそらく、それは後世の仏教徒のあいだで言い伝えられたものでしょうね。
 ただ、その真偽のほどはなんともいえないが、紀元前三世紀のとの時代は、仮に仏教が入ってきていたとしても、まだ弾圧されたり、すんなりとは受け入れられなかったのでしょう。
 松本 そのことは、次の前漢時代についてもいえると思います。これは、西暦でいえば紀元前二世紀の時代になりますが、漢の武帝が張騫ちょうけんを西域に派遣したのは、一説に前一三九年のことです。以後、漢と西域諸国とのあいだに交流が開かれるわけですが、すでに西域地方には仏教が広まっていた。とすれば、西域への往来者の話から仏教が伝わったであろうし、ことによると「沙門」すなわち仏教僧が、すでに中国へ足を運んでいたかもしれません。
 野崎 西域へ仏教が伝えられたのは、紀元前二六〇年ごろ、アショーカ王の仏教使節であるマハーラッキタ(摩訶棄多)と、マディヤーンティカ(末田地、摩田提とも)によるといわれています。すると、それから百年後の紀元前二世紀中葉には、かなり広まっていたものと思われます。
 松本 ところが中国の中央政府の史書には、この時代に西域から仏教が伝えられたという記述は、ほとんどみられません。わずかに『親書』の「釈老志」のなかに、前漢の将軍霍去病かくきょへい匈奴きょうどを征服したとき、金人を持ち帰って、それを武帝が甘泉宮に祀った、という記述があります。しかし、その金人が仏像かどうかは、否定的にみられている。また、おなじく「釈老志」には、西域から帰国した張需の報告のなかに、仏陀の教えを聞いたという話があったということですが、これも仏教者以外には、あまり信用されていない。
 そこで考えられることは、前漢時代の中国では、儒教が国教に近いまでになっていたという事実です。そのため、仮に仏教が伝来していたとしても、公には無視されるか、あるいは弾圧されたのではないでしょうか。
 池田 それは考えられることですね。まず第一に、なんといっても前漢王朝は、儒教を正式に採用し、体制化した初めての統一王朝です。以来、儒教がいかに大きい影響力をもってきたか――その一例は、二千年後の現代においても、なお全国的に孔子批判の大キャンペーンを張っていることでもわかるのだが、その淵源をつくった前漢のこの時代に、仏教の入る余地は、おそらくなかったのでしょう。
 それから第二に、これはだれでも指摘することだけれども、漢民族は強い中華意識をもっていて、周辺の諸民族を「南蛮・北狄・東夷・西戎」と呼んでいる。何千年も昔からの伝統文化をもっ反面、絶えず周辺諸国からの侵略にさらされていたことからすれば、そのような意識をもたざるをえないかもしれ
 ない。仏教の受容に関しても、初めはブッダを表現するのに「浮屠」という軽蔑的な字を当てているのも、そのあらわれですね。
 また第三に、仏教ほどの高等宗教が異国に理解されるまでには、それだけの準備期間が必要だったともいえます。単なる民間宗教であれば、一時は熱狂的に広まるかもしれないけれども、すぐ廃れてしまう。それに対して仏教が、やがて一千年の長きにわたって中国に根を下ろすためには、その前段階は、長く深い試練に満ちたものであったでしょう。
4  西域情勢と月氏の仏教
 さて、前漢時代ということは、つまり紀元前において仏教が中国に渡来していたとすれば、それは西域の「絹の道」を通ってきたものですね。そこで次に、との西域地方における仏教の展開をみておきたいと思いますが……。
 池田 そうですね。西域諸国の仏教徒の活躍がなければ、もともとこの時代にインドの仏教が中国へ伝えられるのは、かなりたいへんなことであったでしょう。もちろん、海路を通って直接あるいは間接に、インドから中国に伝えられたということも考えられないとともない。しかし、こちらのほうについては、ほとんど資料がない。
 なによりも、この西域地方の動きに注目したいのは、インドの仏教が、いったん西域諸国に根を下ろし、そこで若干の変容をみせ、それから中国に入っているという事実です。インド仏教が、そのままの形で中国に伝わったのではない。西域風の味付けがなされたものが伝えられたということは、異文明の接触を考えるうえで、興味ぶかい歴史資料を提供していますね。
 松本 たしか道端良秀氏の『中国仏教史』(法蔵館)にも紹介されていたと思いますが、「沙門」とか「出家」という言葉は、党語から直接に訳されたものではなく、西域諸国の用語から翻訳されたらしいですね。仏教の重要な教理をなす十二因縁の名目も、西域のトカラ語の訳文から漢訳されたといわれています。
 野崎 これは仏教とは直接には関係がありませんが、中国の植物名で「胡」の字がついたものが多いですね。胡麻とか胡瓜きゅうり、胡桃、胡椒、胡豆そらまめ等々、たくさんありますが、そのほとんどが前二世紀末、漢と西域との交通がひらかれて以降、中国で「胡人」と称された西域人によって、もたらされたものとされています。
 池田 おそらく、そうした植物や文物が、西方の珍奇な物として求められたのでしょうね。それが、中国から出ていった絹と交換されたのでしょう。
 松本 『漢書』西域伝によりますと、西域南道を西行すると、大月氏や安息(パルティア)に出るとされていますが、その道は途中から分かれて罽賓けいひん烏弋山離うよくさんりにもいたる道であった、という。
 ことに「罽賓」とあるのは、今のカーブル河流域にあった国とされています。そこは当時、すでに仏教が盛んであった西北インドにあたるわけですが、その罽賓国にまで道が通じていたということは、逆に同じシルクロードを通って、罽賓から商人や仏教信者が漢と往来していた可能性もありますね。このことは、今日におけるシルクロード研究の権威である長沢和俊氏も指摘するところです。
 池田 そうですね。当時の洛陽や長安には、西域からやってきた商人や使節が、かなり多く滞在していたことが考えられる。なかには、熱心な仏教信者もいたであろうし、ことによると「沙門」と呼ばれる僧侶も含まれていたかもしれない。そのうちの何人かが、胸中に高まる弘法の熱意を抑えがたく、ブッダの教えを漢人に説いたにちがいない。
 松本 ええ。『三国志』の「魏志」中に、魏の魚豢ぎょけんの『魏略西戎伝』を註として引用していますが、そこに次のようにあります。
 「昔、漢の哀帝の元寿元年に、博士弟子景廬けいろが、大月氏王の使伊存から浮屠経ふときょうの口受を受けた」
 この漢の哀帝の元寿元年というのは、西暦前二年にあたります。そして「浮屠経」というのは、いうまでもなく仏教のことに他なりません。しかも、この文書は史料としても信憑性が高く、現存する資料中では最も古い仏教伝来の記事として、学者のあいだでも高く評価されています。
 池田 ここに「大月氏王使伊存」とあるのに注目すべきですね。
 聖教新聞社の陣内・大村・竹内の三記者が、かつて大月氏が栄えたアフガニスタン、パキスタン地方を取材してきたけれど、西暦紀元前後の中央アジアから西北インドにかけては、この大月氏が大いに勢力を広げていた。しかも、彼らは紀元第一世紀ごろにはクシャン(貴霜)朝を創立し、インダス河の流域から、さらにそれ以東の地にまで進出している。また、ギリシア人王の支配下にあったガンダーラ地方も領有し、そこに都をおいたとされているね。歴史上、ガンダーラ芸術として名高い仏教芸術は、この時代にギリシア彫刻の技法も取り入れて、新しい仏教芸術の花を咲かせたものです。
 野崎 クシャン王朝といえば、西暦二世紀ごろに出現したカニシカ(迦膩色迦)王が有名ですね。彼は自ら仏教信奉者となり、第四回の仏典結集をはじめ、幾多の仏教事業を後援したとされています。なにしろ、クシャン王朝の貨幣には仏像が刻まれたのもある、ということです
 松本 かつて大月氏が領有していたバクトリア地方は、宗教としてはゾロアスター教が盛んであったといわれてきました。しかし最近、それも一九六〇年ごろに続々とアショーカ王の碑文が発掘され、この地方は紀元前三世紀には確実に仏教圏であったことが明らかになったわけです。したがってクシャン王朝に仏教が栄えたのも、そうした土壌があったからではないでしょうか。
 池田 このクシャン王朝というのは、かつてのアショーカ王の治世についで最も仏教が全盛をきわめた時代ですね。そこに不思議な縁のような歴史の糸が貫いているように思われる。ともあれ、ここから中国へ、続々と仏教使節が派遣されていくのです。
 興味ぶかいのは、このクシャン王朝についても、中国では大月氏の後継者とみて、西域から西北インド地方までを「大月氏」と総称していることです。やがて紀元二世紀になると、この大月氏や安息地方から幾多の翻訳僧も訪れ、仏教は中国に大きな流れとなって入ってくるのだが、それは今後、さらに詳しく検討することにしよう。

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