Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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10 龍樹と世親  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  無著と世親の歩み
 松本 次にヴァスバンドゥ(世親)について、その兄であるアサンガ(無著)とともにふれてみたいと思います。
 池田 二人とも龍樹の場合と同様に、バラモンの名家に生まれながら、仏法に帰依していますね。これは、当時のインドの思想界の流れとして、非常に興味ぶかい現象といえる。つまりバラモンは、インド社会の体制宗教としてなお大きな比重を占めていたであろうが、そうしたなかで仏教が生きいきと布教されつつあった。多くの青年たちは、体制宗教としての地位に安閑としているバラモン諸派では、もはや満たされることができず、一個の人間としての精神的充実と、時代の大きな変革を求めて、続々と仏法に帰依していったにちがいない。
 野崎 世親は、西北インドのガンダーラ(乾陀羅)国、プルシャプラ(今日のぺシャーワル)城のバラモン家に生まれたとされていますが、兄のアサンガの他に、ヴィリンチヴァツア(師子覚)という弟もいたようです。彼らの父は、有名・な国師バラモンのカウシカ(憍戸迦)ですが、三兄弟とも小乗の説一切有部について出家してしまった。
 松本 憍戸迦は、おそらく驚いたでしょうね(笑い)。由緒あるバラモン家を継ぐべき三兄弟が、そろいもそろって宗旨の違う仏門に入ってしまったのですから……。
 池田 しかし、長い目でみれば、子が親を凌駕することが、結局は真実の親への孝養につながっていくのだから、これほど喜ばしいことはない。
 ともあれ、バラモン家の優秀な三兄弟が、そろって仏教に帰依したということは、この一事をもってしでも、バラモン教学よりも仏教のほうが優れていることを証明していますね。当時としては、その潮流は、もはや押しとどめることができなかったのでしよう。
 松本 それはまた、無著と世親が、のちに小乗部派仏教から大乗仏教へ移っていった場合にも当てはまりますね。
 池田 そうです。当時のインドでは、まだ小乗教団と大乗教団とが併存していたとされているが、小乗よりは大乗のほうが優れていることを、この二人が身をもって実証したわけです。
 しかし、ここで大事なことは、今でこそ仏教の二つの流れを「小乗」と「大乗」という名で呼び、すでにその言葉のなかに小乗より大乗のほうが優れていると常識的に考えているわけだけれども、当時はまだそうなってはいなかった、ということです。無著にしても、世親にしても、仏法の正統派を自称するアビダルマ教団から、新しい大乗集団に移るには、よほどの決意を必要としたでしょう。また、彼らのその後の生涯が、小乗のアビダルマ教学を打ち破り、大乗仏教の教義を体系化するために、それこそ血のにじむような苦闘の連続のうちに費やされたことも、けっして忘れてはならないでしょう。
 松本 事実、説一切有部について出家したアサンガ(無著)は、まず小乗の空観を修行したけれども、ついにその教義に満足することはできなかった、といわれます。そのため、神通力をもってトシタ(兜率)天へいき、マイトヤ(弥勒)菩薩に会って、初めて大乗の空観を通達解了した、と伝えられていますが……。
 野崎 このマイトレーヤというのは、不思議な存在ですね。仏典によれば、トシタ天にいる弥勅菩薩は仏滅後五十六億七千万年たって出現し、その一生のあいだに釈尊についで仏となり、弥勒如来と号する、と予言されている。そのマイトレーヤが毎晩、アサンガだけに大乗経典の深義を説いたというのです。これは、どのように解釈すべきでしょうか。学者によっても、実在したとみる人と、架空の人物であるとする人とがおりますが……。
 池田 これは、どちらとも断定しかねる問題だけれども、ここではひとまず実在したものとして話を進めたらどうだろうか。というのは、現に大蔵経中にも、弥勒の著作として伝えられるものに、『大乗荘厳経論』『中辺分別論』『法法性分別論』『現観荘厳論』、それに『瑜伽師地ゆがしじ論』などがありますね。これは、弥勒の説として無著がまとめたものとも考えられるけれども、すでに無著以前の時代から存在していたとする説が有力になっている。ですから、これらの論書を授けられた無著が、その師を弥勒菩薩の再来として仰いだのではないだろうか。――これは、あくまで私個人の推測の域を出ないものだけれども。
 松本 マイトレーヤ実在説をとる宇井伯寿氏も、結局、釈尊に始まるインド仏教の歴史というものは、推量の域を出ないものであるという意味のことを述べていますね。
 野崎 たしかに仏教の歴史には、不思議なことがたくさんありますね。西洋の実証的な学問をもってしても、なかなか解けないような、思議すべからざる謎に満ちている。(笑い)
 池田 歴史学的には、たしかに不合理や謎もある。しかし、そこに秘められた法理、哲学は間違いない。ここに「信」をおくことが、大事になってくるのです。経文に「以信代慧」(信を以て慧に代える)とあるけれども、仏教の法理を信じて疑わずに実践した人が、最後には仏果を得られるというのが、仏法の基本的な考え方となっていますね。つまり、実践をとおして得た智慧による以外、仏法の真髄は理解しえないということです。
 野崎 同感です。
 松本 さて、こうして無著は、弥勒菩薩の導きによって大乗の論師となったわけですが、続いて弟の世親、すなわちヴァスバンドゥ(世親)もまた、小乗から大乗に移っています。
 池田 これにも、有名な話がありますね。
 野崎 そうです。世親も最初、小乗の説一切有部に入って活動していたわけですが、内向的な無著と違って、彼は外道の論師とも華々しく論争し、たちまち名声を博するようになった。説一切有部の教義を徹底的に究め尽くした世親は、やがて『阿毘達磨倶舎』(ダルマに対する論蔵、略して『倶舎論』)を完成、当時のインドに並ぶ者のない小乗論師と目されるようになりました。
 ところが、ある夜、兄アサンガ(無著)の弟子が戸外で十地経を誦するのを聞き、翻然として悟るところがあった。そして、これまで大乗経典を誹謗していた罪を悔い、兄に自分の舌を切りたいと申し出る。ところが無著は、それを制止して、いままでは大乗を謗じたその舌をもって、これからは大乗経典を讃歎せよ、といいきかせた。そこで世親は、今後は一切、たわむれにも阿含経を口にしないと誓い、大乗の論師として再出発するわけです。
 池田 当時の仏教界は、龍樹の流れを汲む大乗の中観派に対して、小乗の説一切有部や経量部が対抗し、両者のあいだに論争がおこなわれていた、とされている。無著の聞いた瑜伽行唯識派というのは、龍樹の空観をさらに発展させたものです。すると、兄の無著は大乗の論師であり、弟の世親は小乗部派を代表する論師であったということになる。その弟が、大乗を謗じた罪を悔い、自殺まで決意したのに対し、兄はすべてを赦したうえに、なお大乗の論師として弟を蘇生させたわけです。
 このことは、皮相的にみれば、無著の兄弟愛によるものとも考えられよう。しかし、より深い次元からいえば、大乗仏教の慈悲の精神の発露といえます。
 つまり、大乗仏教のもつ、すべてを包容し生かしていくのだという慈悲の哲理を、身をもって教え示したものと考えられる。小乗教は、どちらかというと、悪は断ち切る――その代表例が「煩悩断尽」ということになるが、ここにも大乗と小乗の違いが、如実にあらわれていますね。
 野崎 また、これは別の見方になりますが、大乗を謗じたことを悔いた世親が自ら舌を切ろうとしたことは、それくらい仏道を求めることが峻厳なものであるということを、よくあらわしていますね。
 池田 いったん道を志した以上は、それくらいの決意がなければ、深遠な仏法哲理は究められないということです。
 松本 こうして世親は、兄の無著とともに大乗の論師となったわけですが、小乗部派の時代に著した論書五百部と、大乗論師となってからの論書五百部を合わせて、仏教史上、一般に「千部の論師」と呼ばれるほどの業績を残したとされています。
 野崎 無著は七十五歳、世親は八十歳の長寿をまっとうした、と伝えられています。しかも、この兄弟が聞き、確立した大乗の唯識派は、その後、インドにおいて仏教が衰微するまでの数百年間、龍樹の開いた中観派とともに、大乗仏教の二つの大きな流れを形成したわけです。
4  倶舎論と唯識論
 松本 ヴァスパンドゥ(世親)の八十年の生涯は、論争と著述と布教の休みない実践の戦いであった、とされています。そこで次に、この「千部の論師」が残した膨大な著作の一端を紹介しつつ、大乗の唯識思想を仏教史および仏法哲学のなかで、どのように位置づけるべきかを考えてみたいと思います。
 野崎 たしかに世親の著作は、後世「千部の論師」といわれるくらいですから、かなりの量にのぼったものと思います。しかし、そのすべてが現存しているわけではありません。主なものを挙げれば、まず小乗のアビダルマ論師の時代に著したものとして、さきほども話題に出ました『倶舎論』の他に、業に関する『成業論』などがあります。大乗論師として著したものでは、瑜伽唯識説を体系化した『唯識二十論』『唯識三十頌』などが有名です。また、マイトレーヤ(弥勤)やアサンガ(無著)に帰せられる著作に対して、それらを敷衍し、展開する意味から、多くの注釈書も書いている。さらに、金剛般若経、法華経、十地経、無量寿経など、主要な大乗教典に対する注釈書を著し、そこで菩薩のあり方、六波羅蜜、十地などに関する解釈を述べ、如来蔵思想の解明にもあたっていますね。
 松本 そのうち、まず世親といえば、なんといっても『倶舎論』ですね。これは、世親が小乗のアビダルマ論師の時代にまとめたものですが、当時のアビダルマ教団の有力な一派である説一切有部の教義を、批判的に修正したものです。したがって、すでにこの時代から世親は、理論のための理論に陥っていた小乗部派の行き方を、釈尊の本来の教説に帰ることによって、乗りこえようとしていたと考えられます。
 池田 そうですね。だいたい当時のアビダルマ仏教というのは、すでに教団の存在そのものが体制化していたと考えられる。とくに、そのなかの代表的な一派である有部の場合は、その主張自体が「有」の偏見に固まってしまっていた。このことは、教団の体制化ばかりではなく、その教義の面においても、生前の釈尊が最も強く批判したバラモン的な行き方に、アビダルマ教団がいつしか陥っていたことを意味しています。
 そうした背景を考慮するならば、世親が『倶舎論』をもって、有部の学説をいちいち批判しつつ、釈尊のダルマ(法)の本来の意味を解明しようとした姿勢は、それなりに評価できますね。すなわち、過去・現在・未来の三世にわたって実体が存続するという、いわゆる有部の「三世実有説」を、ひとまず世親は解体してしまって、真に存在するのは「如々として来る」ところの現在のみであるという立場から、いわゆる七十五法を再構成したわけです。
 こうして『倶舎論』は、小乗有部のスコラ的な臭味を帯びたダルマ(法)の体系を、釈尊が説いた本来の意味でのダルマ(仏法)の論蔵へと変革することとなった。ですから、後に大乗仏教が続々と渡っていった中国や日本においても、この書はインドの仏法の基本概念を理解するための必須の教科書となっていったのでしょう。
 野崎 日本の僧侶が、出家してまず最初に学んだのも、の『倶舎論』ですね。俗に「桃栗三年、柿八年」といわれるのをもじって、「唯識三年、倶舎八年」などといったそうですが、これほど専門的に打ち込んでさえ、世親を征服するのには合計十数年もかかるわけですね。(笑い)
 池田 仏法というのは、教義を学問体系として学ぶのが目的ではない。釈尊も、大衆の一人一人を救済するのが目的であった。すなわち仏は、人間の生き方を説いたけれども、整然とした学問の理論体系を説いたわけではないでしょう。
 しかし仏法を、非仏教者からの批判に応えて守るため、さらに思想的に他の宗教を乗りこえ、リードしていくためには、釈尊の教えを結集し、それを体系的に整理し、教義を戴監なものにすることが要請される。その意味でアビダルマ(法の注釈)研究も必要であった。それが、法をして久しく住せしめることにもつながるわけです。
 そうした意味からすれば、教義を体系化する作業も、だれかが成し遂げなければならなかった。しかし、その際に注意しなければならないのは、仏の教えを結集し、それを体系化するにあたって、あくまで仏と同じ境地に立ち、仏道の実践に励むのでなければ、仏説を祖述することはできないということです。龍樹にしても、世親にしても、そのような実践の裏付けがあったからこそ、後世に大乗の論師として仰がれるような業績を残すことができたのです。
 松本 さて、次に大乗の唯識思想家としての世親の活動に移っていきたいと思います。彼はまず『唯識二十論』において、外界の実在性を否定している。一切の存在は固定的な本性をもたず、空であり、幻のようなものであるにもかかわらず、一般的には実有であるかのように思われている。人間がそのように実有と考えるものも、じつは「識」がっくりだしたものにすぎない、という見方ですね。つまり唯識というのは、大乗の「空」を悟るための方法論であるとされています。
 池田 それは、すでに見てきたように、龍樹が自らの実修によって悟った「空」の世界を胸中に輝かせながら、「有」の偏見にとらわれていたアビダルマ教団を徹底的に破折し、空は直観智によって捉える以外にはないという論を展開した。それを世親は、少しばかり視点をかえて、なぜ人間の精神は外界の存在を「有」として捉えてしまうのか――すなわち、迷いのよってきたる根拠を探究しようとしたともいえますね。その結果、その根拠を「識」に見いだしたわけです。
 野崎 そのことを唯識派は、よく夢の例によって説明したり、魔術師の呪文をたとえとして持ち出したりしますね。魔術師が呪文をかけると、観客には縄が船に見えたりするように、一切の外界の存在もまた「識」によって実在するかのように現れているにすぎない、というわけです。
 池田 龍樹から世親への流れは、そのまま仏法思想の深化を示している。だが、世親はこの段階にとどまらず、さらに一歩ふみこんで『唯識三十頒』を著し、識の根本にある「アーラヤ(阿頼耶=蔵)識」なる概念を導き出したわけです。これは、アビダルマ仏教の段階において、識を眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に分けていたのが、大乗にいたって第七識に「末那識」が加わり、さらに八識として「阿頼耶識」を打ち立てたことによって、ほぼ「識」の構造が確立されたことを意味します。
 松本 さらに中国へ大乗仏教が渡ってからは、天台宗や華厳宗が八識に「阿摩羅識」を加えて九識を立てたわけですが、いったい「アーラヤ識」とは、現代的にいって何のことでしょうか。また、それを唯識派が確立したことに、どのような意義があるのか、といった問題ですが……。
 池田 まず「アーラヤ識」というのは、われわれの経験世界を構成する観念の、その根源にある種子をたくわえる蔵という意味ですね。アビダルマ仏教の六識の段階では、その認識論の基盤にまで及ぶと、どうしても観念的にならざるをえなかった。ところが、この八識を導入することによって、過去・現在・未来の三世を通じて変わらざる存在の基底部分が明らかにされたわけです。過去の経験は、観念の種子として「アーラヤ識」にたくわえられ、それ縁に触発されて現在に発芽し、また現在の経験は未来にあらわれるであろう種子として蓄蔵される。すなわち、一切の経験事象は、生命の基底部分にたくわえられた種子が薫発して涌出するものである、というのです。
 野崎 その種子ということですが、デカルトの有名な「炉部屋の思索」を示す断片を、このあいだ読んだのですが、そこで同じように「種子」という言葉を使っていますね。すなわち、われわれの精神のうちには、真理の種子、さらには知識の種子があるというのです。これなどは、世親の「アーラヤ識」の断面に光を当てているようにも思えますが……。
 池田 東洋と西洋の思想的巨人が、ともに同じような地平に到達しようとしていることは、興味ぶかいものがありますね。もちろん、東洋と西洋のあいだでは、思惟方法や生活習慣も大いに異なるでしょう。しかし、人間そのものの永遠の真理にまで達した境地というものは、それらの差異を超越して普遍的であることが、いまの話からもうかがえると思う。
 ところで、二十世紀後半の現代にいたって、世界の科学者たちが生命の神秘を解明しようとする流れに呼応するかのように、とくに西欧の哲学者や深層心理学者たちが、仏法の唯識思想に注目しつつあるのは、この世親の「アーラヤ識」なるものが、生命の流れを解明する有力な手がかりを与えているからでしょう。また、精神障害という人間生命の根源にかかわる心の病と対決する精神科医たちも、病める人の生命の奥に分け入って、現実に「末那識」とか「アーラヤ識」なるものの実在性を確認せざるをえなくなっていると聞く。このことは何を意味するといえば、すでに千数百年も昔のインドにおいて、生命の不可思議な法則を探究した仏教者が、その膨大な論書をもって、現代文明と人類の行く手を照らしているということです。
 ともあれ、これで釈尊に始まるインド仏教の一千年の流れを、ほぼ大筋にそってたどってきたわけだけれども、今後さらに研究が積み重ねられ、仏法の汲めども尽きない豊かな水脈が、より深く掘り下げられることを、私は期待したい。今や世界の心ある人の眼は、現代に酒々として流れる仏法思想に向けられているからです

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