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日蓮大聖人・池田大作

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10 龍樹と世親  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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1  大乗仏典を求めて
 松本 仏滅後七百年ごろ、西暦でいえば二世紀中葉の南インドに、ナーガールジュナ(龍樹)が現れ、大乗仏教を大いに宣揚しました。また仏滅後九百年ごろには、天親とも呼ばれるヴァスバンドゥ(世親)が現れ、仏教思想を教学的に体系化しました。それぞれの生存年代については、さまざまな説がありますが、それはそれとして、今回はこの二人の大乗の論師に焦点をあて、とくに彼らが展開した大乗思想の特質を掘り下げてみたいと思います。
 池田 まず龍樹については、後世になって「八宗の祖師」と呼ばれていますね。これは、仏教が中国へ、そして日本へと本格的に伝えられるようになって、いろいろな宗派が生じていきますが、そのいずれも龍樹が淵源であると称している。それほどに大きな影響を与えていったわけです。
 ちょうど高山から流れ下った急流が、いちど山麓の貯水ダムに満々と水をたくわえ、やがて大河となって海へ注ぐように、ヒマラヤの麓のルンビニー(藍毘尼)に現れた仏の教えも、南インドの龍樹によって初めて大成され、体系化されて大きな流れとなり、中国大陸を経て日本へ伝えられた。――そのようにみることができるね。
 野崎 そのような龍樹の影響力は、日本や中国の大乗仏教ばかりでなく、最近では西洋の哲学界でも、改めて仏教の「空」観が高く評価され、見直されるようになっています。
 たとえば、ドイツの実存哲学の巨頭、カール・ヤスパースは、一九五七年に著した『大哲学者たち』第一巻において、世界の「偉大な哲学者たち」として十五人を挙げていますが、そのなかに仏陀と龍樹の二人が入っています。ちなみに、残りの十三人は、ソクラテス、孔子、キリスト、プラトン、アウグスティヌス、カント、アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、パルメニデス、プロティノス、アンセルムス、スピノザ、老子、といった面々です。
 池田 なるほど。しかし釈尊にしても、龍樹にしても、単なる狭い意味での「哲学者」ではない。彼らが「仏」すなわち「覚者」として民衆に迎えられたのは、偉大な宗教者としての実践活動が裏付けになっていることを見失ってはならないと思う。
 ヤスパlスは、インドに生まれた釈尊と龍樹の教えを、思想として評価しているのだろうけれども、この二人の教えは、人間苦に沈む大衆を救済する自身の実践のなかから生まれたものであることを、忘れてはならない。とくに龍樹の場合、後半生に執筆されたと思われる膨大な論書が、哲学的にも高度な内容をもつことは、すでに知られている。だが、それもバラモンの学者や、小乗の部派仏教者との論争のなかに形成されていったことを知るべきです。
 そこでまず、龍樹の人物像からみていったらどうだろうか。鳩摩羅什の伝えるところによると、龍樹の人生は波澗万丈のものであったようですね。
 野崎 そうです。『大正新惰大蔵経』第五十巻に収められている「龍樹菩薩伝」(鳩摩羅什訳)が、今日、ナーガールジュナの人となりを知るための唯一の手がかりですね。
 それによると、ナーガールジュナは南インドのバラモンの名家に生まれ、幼時から四ヴェーダ聖典に親しんでいた。天性の才能に恵まれた彼は、すでに若いうちにバラモン教学をマスターし、その学識によってつとに有名であった、という。
 彼はある日、三人の親友と語らって、すでに学問は究めたから、これからは快楽を尽くそうと決め、身体を見えなくする隠身の術を習得して、しばしば王宮に忍び込むようになる。宮中の美人が次々と犯され、百日あまり後には身ごもる者も出てきたのに驚いた王宮では、ある夜、門の周辺に砂をまいて四人を待ち伏せる。姿は見えなくても、砂上の足跡をたよりに大勢の兵士が虚空を斬ると、たちまち三人が悲鳴をあげて斬り殺された。王の側に身をよけたナーガールジュナだけが、からくも王宮の外に逃げのびるが、彼は欲情が苦しみの原因であると悟り、出家の決意を固めたとされています。
 池田 おそらく龍樹という人は、相当に個性の強い人物だったのでしょう。大乗経典の「空」の思想を体系化した『中論』などをみても、彼の打ち立てた、いわゆる中観哲学は、それだけでも世界の哲学史上、独自なものをもっている。ということは、龍樹の一生が、文字どおり山あり谷ありの起伏に富んだものであったからではないだろうか。
 鳩摩羅什も伝えているように、最初にバラモン教学を修めた龍樹は、仏門に入って九十日間にして経・律・論の三蔵を読破し、さらにより深い法門を求めて、求道の旅に出立している。そして、やがてヒマラヤ山中の仏塔にいたって、ある一人の老比丘から大乗経典を与えられ、非常な興味をもってそれを読んだけれども、まだ深い真実は得られなかった。そのため龍樹は、さまざまな論師を折伏しつつ、インド中を遍歴して大乗経典を探し求めた、といわれているね。これは、当時の交通事情ひとつをとってみても、たいへんな難行苦行であったと思われる。
 ともあれ、龍樹の前半生は、仏法の真実を求め抜いた、まさしく求道の人生そのものであった、といえるのではないだろうか
 野崎 たしかに、そのように求道の一念が強かったからこそ、最後には『法華経』を含む大乗仏教の最高峰を究めることができたわけですね。
 池田 それはまた一見、まわり道のように思えるけれども、当時のインドの仏教事情からすれば、どうしでも通らなければならない道であった、とも考えられる。
 というのは、たぶん釈尊滅後七百年ごろの仏教界は、小乗部派仏教の有力な一派である説一切有部が依然として大きな勢力としてあったのでしょう。それに対して、すでに大乗教典が続々と誕生をみていたとしても、伝統ある有部に対抗できるような大乗の論師は、まだ現れていなかった。そこにバラモンの教学を修め、小乗教典にも通じた龍樹が現れて、釈尊の最高の教えは大乗経典にこそ伝えられていることを、論理的に体系化したわけです。ですから、これは仮定の話になるが、もし龍樹が出現していなければ、中国にしても、日本にしても、釈尊の八万法蔵の教えが麻のごとく入り乱れてしまって、収拾もつかないほどになってしまったかもしれない。その意味で龍樹は、インドに現れた仏の教えを、きちんと整理し、とくに大乗仏教がいちはやく中国、日本に伝わるような基盤を築いた人物といえるでしょう。
 松本 そうですね。中国においては、天台大師がさらに別な角度から仏教を整頓し、哲学的にも高めていますが、龍樹はそれをインドにおいて確立し、体系化して中国へ渡したといえます。そのような龍樹の業績がなければ、中国や日本においても、かなり長期聞にわたって、小乗教徒と大乗教徒との抗争があったかもしれません。
 野崎 それもありますが、もしナーガールジュナが現れなければ、もともとインドにおいでさえ、いわゆる大乗仏教の流れが、仏教の主流を占めるようなことはなかったのではないでしょうか。
 というのは、鳩摩羅什による龍樹伝にもあったように、彼が大乗経典を求めてインド中を遍歴したということは、まだまだ大乗仏教が各地に散在していたことを示しています。すでに小乗のアビダルマ教団には、釈尊の精神が失われていることはわかっていたとしても、それに代わりうる仏法の中核はまだ現れていなかった。龍樹は、それを大乗仏典に求め、インドにおいて大乗仏教が確固たる地歩を築くための礎をおいた。――そのように考えられます。
 池田 なるほど、龍樹が後に「第二のブッダ」と呼ばれるようになったのは、そうした業績があったればこそのことですね。
 あるいはまた、このようにも考えられるのではないだろうか。それは当時、すでに各地に大乗教団があって、それぞれ経典を持っていたものの、まだお互いの交流はなされていなかった。そのため、どの教団が伝える経典が最高のものであるかもわからず、そもそも大乗仏教とは何かさえも、あいまいになってしまうおそれがあった。そこで龍樹は、各地に大乗仏典を求め、それを集成し、仏教を思想的に明確化することになったのではないか。
 東北インドのヒマラヤ山中において、初めて大乗仏典に接した龍樹は、それ以後もなお旅を続け、外道や小乗の論師を折伏しつつ諸国を遍歴したというのは、おそらく以上のような背景があってのことでしょう。いわば彼の求道の旅は、そのまま転教の実践でもあったわけです。
 松本 そして龍樹は、やがてマハーナーガ(大龍菩薩)の導きによって龍宮にいたり、大乗経典――それをクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は「諸の方等・深奥の経典・無量の妙法」(大正五十巻184㌻)と表現していますが――を授けられた。彼はそれを読むことによって、深法を体得したと伝えられています。彼の名前のガーナ(龍)というのも、この龍族の導きによって道を成就したことに由来するとされていることからすれば、龍樹はこのときに決定的な悟達の境地に到達したのだと思われます。
 ちなみに、龍樹の「樹」というのは、彼の母がアルジュナ樹の下で彼を産み落としたことによるとされています。したがって、正式にはナーガ・アルジュナという名前は、そのまま漢訳すれば「龍猛」とか「龍勝」となるわけですが、一般的には「龍樹」という漢訳名が最も広く用いられています。
 野崎 ところで、龍樹が決定的な悟達を得たといわれる大乗経典が、はたして何の経文であるかということですが……。
 池田 それは、鳩摩羅什が「諸の方等・深奥の経典・無量の妙法」と表現しているように、大乗経典のほとんどが網羅されていたとも考えられるし、あるいは龍樹の膨大な著作にあらわれた引用経典の内容からも、だいたいは推し測られるのではないだろうか。
 ともあれ龍樹は、ある意味の仏教の集成者であって、そこにはあらゆる思想の萌芽があるといってよい。したがって後の各宗派が、それぞれ自派の教義を正当化するような形で、この大乗の論師を利用したことは誤りといわなければならない。要するに、宗派性の小さな枠にとだわらない広い立場で、大乗仏教の真髄とは何か、大乗菩薩の精神はいかにあるべきか――それを龍樹の教学から汲み取らなければならないでしょう。
2  中道と空の論理
 松本 そこで次に、ナーガールジュナ(龍樹)の思想をみることにしたいと思いますが、まず鳩摩羅什訳の龍樹伝には、次のようにあります。
 「広く摩訶衍(大乗)を明らかにして優波提舎(縁起)十万偈を作り、また荘厳仏道論五千偈・大慈方便論五千偈・中論五百偈を作り、摩訶衍教をして大いに天竺において行わしむ。また無畏論十万偈を造る。中論は其の中に出ず」(大正五十巻184㌻)
 また、漢訳大蔵経中に「龍樹菩薩撰述」として伝えられるものは、じつに二十部百五十四巻にものぼっています。龍樹は、百歳とも百五十歳とも、あるいは二百歳の長寿をまっとうしたという説もありますが、それにしても膨大な著作量ですね。
 野崎 なかには龍樹が著名であったので、その名を借りて「龍樹撰述」としたものもある、といわれていますね。有名な『大智度論』についても、はたして龍樹の真述であるかどうか、今日では疑問とする向きもあります。
 しかし、それはともかくとして、龍樹の著作とされているものが、内容的には大乗仏教の論書としてきわめて高い水準にあることは、まぎれもない事実です。
 松本 仏教学者の三枝充悳氏が、龍樹の著作として一応学界でも認められているものを、内容に即して系統的に挙げていますが、それによりますと、重要なものは次のようになります。(『龍樹・親鷺ノート』法蔵館)
 (1)中論・十二門論・空七十論、(2)廻諍論・六十頌・如理論・大乗二十頌論・広破論、(3)大智度論、(4)十住毘婆沙論、(6)菩薩貸糧論頌・宝行王正論・菩薩勧誠王頌、等々です。
 このうち(1)の系統は、いわゆる「空」観による龍樹の根本思想を明らかにしたもので、なかでも『中論』四巻が有名です。しかも、後の『大智度論』や『十住毘婆沙論』にも、中論の偈が引用されているので、この著作が龍樹思想の基本的骨格をなすものとされているわけです。
 野崎 冒頭に「減しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者のなかの最上なる人を私は礼拝する」(大正三十巻1㌻、参照)という、礼拝の詩頌がおかれていますね。これは、不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去の、いわゆる「八不中道」として知られているものですが……。
 この最初の詩頌に、龍樹の思想の根幹が盛り込まれていますね。ここでは八つの否定が示されているが、これはある意味で代表であって、八個に限定されるのではない。「八とは開く義なり」といわれるように、八には「すべて」とか「一切」という意味を含んでいるからです。ということは、すべての概念の否定を意味するのであって、それが中道の「空」の側面であるわけです。
 ただし、ここで誤解してならないことは、すべての概念を否定するからといっても、それは「無」のニヒリズム(虚無主義)とは本質的に異なるということです。龍樹の論法からすれば、単純な「無」もまた否定されるのであって、有でもなく、無でもないもの、それが中道の上の「空」であるというのです。
 無からは何も生じないが、空とは一切を含んだものであり、縁によって生じてくる。すなわち「何にでも空が相応するものには、一切が成立する。何にでも空が相応しないものには、一切が成立しない」(大正三十巻33㌻、参照)と『中論』にあるが、一切の現象や事象は、なぜ生ずるか。――無から有が生ずることはない。にもかかわらず、それが生じない以前は無のようにみえる。だが、無ではない、それは「空」なのだ。――これが、龍樹の「空」なのです。
 松本 いまの詩頒にもありましたが、その「空」観の裏付けとしてあるのが、釈尊の説いた「縁起」の法ですね。
 池田 そうです。龍樹によれば、一切の存在は、それ自体として単独では存在せずすべて他との依存性、関係性において成り立っている、というのです。そのことを龍樹は、『中論』の第十章「火と薪との考察」――鳩摩羅什訳では「観燃可燃品」とあるが――そこで、火と薪を例にとって、きわめてわかりやすく説いていますね。
 野崎 なにしろ非常にわかりにくい空の論理を、火と薪という、きわめて庶民的な事例をもって示しているのですから、おもしろく私も読みました。結論的にいうと、要するに火も薪も、それだけでは存在しえない、ということだと思います。
 火は、薪がなければ燃えることはできない。また、薪も、火がなければ薪とはいえない、単なる木片にすぎない。つまり、火というものが有るのではない。また、薪というものが単独で有るのでもない。しかし、では火とか薪というのは、まったく存在しないのかというと、無いのでもない。火は薪に依って在り、薪は火によって燃えることができる。
 このように、一切のものは他との依存性によって在り、縁によって起こるものであるというのが、空というありかたである。それは有るのでもなく、無いのでもない、存在の真のありかたを示した哲理である、ということだと思います
 池田 ほぼ、そのとおりですね。しかし、これはコロンブスの卵と同じで、わかつてしまえば簡単なことのように思えるが、そうではない。「縁起」にしても、また「空」にしても、一切の事物の存在のありかたを、底の底まで思索しぬいた果てに、ついに悟ることのできた哲理です。
 龍樹は「縁起であるものを、すべてわれわれは即ち空であると説く。その空は相対的な仮説である。これが実に中道である」(前出)と説いているが、この中道というのは、もちろん有と無の中間という意味でもなければ、また両者を弁証法的に統一し、止揚するといったものでもない。有無の二道を否定したうえで、能と所の相依相待そうだいするところが「空」であるというのが、中道であり、不二であると説くのです。
 松本 そのような龍樹の説を理解するためには、また当時のインドの仏教界の事情が背景としてありますね。
 これは、さきに三枝氏が挙げた(2)の系列の著作とも関連しますが、西暦二世紀ごろの仏教界では、小乗の説一切有部が隠然たる力をもっていました。彼らは「一切は有である」と説くアビダルマ教団として、煩瑣な理論的研究に没頭していた。それに対して、龍樹は「一切は空である」という立場を鮮明にしつつ、有部の偏見を打ち破っていったわけです。
 野崎 それからまた、さらに大事なことは、龍樹は有部の偏見を衝いただけではない。一方では、仏教以外の外道の論理学にも言及するとともに、空を無と勘違いするニヒリズムの徒とも徹底的に対決していることです。
 『中論』には「諸仏あるいは我を説き、あるいは無我を説き、我と無我とは何らないとも説いた」といい、また「空見を抱くものは不治者である」として、有見・無見を否定するのみならず、空見をすら否定している。それが無自性であり、空性の立場であったわけですね。
 池田 そうですね。龍樹は、大乗の「空」の立場に立つといっても、そこにとどまっていたわけではない。つまり「縁起」とか「空」という言葉にとらわれ、そこに実体的な法を想定し固定化すること自体、もはや「空」ではないということを述べているのです。したがって彼は、釈尊の説いた「縁起」とか「中道」の理念を、単に言葉のうえで理解したのではなく、仏道の絶えざる実践のなかに肉化していった。――このように捉えるのが正しいと思う。
 野崎 たしかに、龍樹の膨大な著作も、そのほとんどが論争の実践の過程に生まれたものですね。『廻誇諍えじようろん』などは、その典型的なものです。また、さきの三枝氏の分類にあった(4)と(5)の系統のものは、大乗菩薩の実践のあり方が説かれている。
 松本 その他(3)の『大智度論』は、一種のエンサイクロペディア(百科事典)とみられていますが、その浩瀚こうかんな大著も、諸国を遍歴し、バラモン教学から小乗のアビダルマ仏教へ、そして大乗の諸経典をすべて習得した龍樹の長年の研鎖があって、初めて成ったものといえますね。
 池田 そうです。偉大な哲学者というか、宗教家の言葉には、万鈎の重みがありますね。デカルトは、諸国を歴遊した果てに「われ思う、故にわれあり」といい、龍樹は大乗仏典を探し求めた果てに「一切は空である」という境地に到達した。前者は、西洋の近代哲学の祖と仰がれ、龍樹は、東洋の仏法哲学の祖師と呼ばれている。
 今日、西洋の哲学者たちが、東洋の仏教思想、なかでも龍樹の中観ちゅうがん哲学に注目しているのは、非常に興味ぶかい現象ですね。それにはさまざまな要因が挙げられるでしょう。また龍樹は、デカルトよりも千数百年も前に出現した論師であるけれども、すでに近代から現代にかけての西洋哲学に色濃い「有」の偏見を見事に打ち破っている。そこに、龍樹の哲学が改めて見直されている要因の一つがあると考えられます。
3  無著と世親の歩み
 松本 次にヴァスバンドゥ(世親)について、その兄であるアサンガ(無著)とともにふれてみたいと思います。
 池田 二人とも龍樹の場合と同様に、バラモンの名家に生まれながら、仏法に帰依していますね。これは、当時のインドの思想界の流れとして、非常に興味ぶかい現象といえる。つまりバラモンは、インド社会の体制宗教としてなお大きな比重を占めていたであろうが、そうしたなかで仏教が生きいきと布教されつつあった。多くの青年たちは、体制宗教としての地位に安閑としているバラモン諸派では、もはや満たされることができず、一個の人間としての精神的充実と、時代の大きな変革を求めて、続々と仏法に帰依していったにちがいない。
 野崎 世親は、西北インドのガンダーラ(乾陀羅)国、プルシャプラ(今日のぺシャーワル)城のバラモン家に生まれたとされていますが、兄のアサンガの他に、ヴィリンチヴァツア(師子覚)という弟もいたようです。彼らの父は、有名・な国師バラモンのカウシカ(憍戸迦)ですが、三兄弟とも小乗の説一切有部について出家してしまった。
 松本 憍戸迦は、おそらく驚いたでしょうね(笑い)。由緒あるバラモン家を継ぐべき三兄弟が、そろいもそろって宗旨の違う仏門に入ってしまったのですから……。
 池田 しかし、長い目でみれば、子が親を凌駕することが、結局は真実の親への孝養につながっていくのだから、これほど喜ばしいことはない。
 ともあれ、バラモン家の優秀な三兄弟が、そろって仏教に帰依したということは、この一事をもってしでも、バラモン教学よりも仏教のほうが優れていることを証明していますね。当時としては、その潮流は、もはや押しとどめることができなかったのでしよう。
 松本 それはまた、無著と世親が、のちに小乗部派仏教から大乗仏教へ移っていった場合にも当てはまりますね。
 池田 そうです。当時のインドでは、まだ小乗教団と大乗教団とが併存していたとされているが、小乗よりは大乗のほうが優れていることを、この二人が身をもって実証したわけです。
 しかし、ここで大事なことは、今でこそ仏教の二つの流れを「小乗」と「大乗」という名で呼び、すでにその言葉のなかに小乗より大乗のほうが優れていると常識的に考えているわけだけれども、当時はまだそうなってはいなかった、ということです。無著にしても、世親にしても、仏法の正統派を自称するアビダルマ教団から、新しい大乗集団に移るには、よほどの決意を必要としたでしょう。また、彼らのその後の生涯が、小乗のアビダルマ教学を打ち破り、大乗仏教の教義を体系化するために、それこそ血のにじむような苦闘の連続のうちに費やされたことも、けっして忘れてはならないでしょう。
 松本 事実、説一切有部について出家したアサンガ(無著)は、まず小乗の空観を修行したけれども、ついにその教義に満足することはできなかった、といわれます。そのため、神通力をもってトシタ(兜率)天へいき、マイトヤ(弥勒)菩薩に会って、初めて大乗の空観を通達解了した、と伝えられていますが……。
 野崎 このマイトレーヤというのは、不思議な存在ですね。仏典によれば、トシタ天にいる弥勅菩薩は仏滅後五十六億七千万年たって出現し、その一生のあいだに釈尊についで仏となり、弥勒如来と号する、と予言されている。そのマイトレーヤが毎晩、アサンガだけに大乗経典の深義を説いたというのです。これは、どのように解釈すべきでしょうか。学者によっても、実在したとみる人と、架空の人物であるとする人とがおりますが……。
 池田 これは、どちらとも断定しかねる問題だけれども、ここではひとまず実在したものとして話を進めたらどうだろうか。というのは、現に大蔵経中にも、弥勒の著作として伝えられるものに、『大乗荘厳経論』『中辺分別論』『法法性分別論』『現観荘厳論』、それに『瑜伽師地ゆがしじ論』などがありますね。これは、弥勒の説として無著がまとめたものとも考えられるけれども、すでに無著以前の時代から存在していたとする説が有力になっている。ですから、これらの論書を授けられた無著が、その師を弥勒菩薩の再来として仰いだのではないだろうか。――これは、あくまで私個人の推測の域を出ないものだけれども。
 松本 マイトレーヤ実在説をとる宇井伯寿氏も、結局、釈尊に始まるインド仏教の歴史というものは、推量の域を出ないものであるという意味のことを述べていますね。
 野崎 たしかに仏教の歴史には、不思議なことがたくさんありますね。西洋の実証的な学問をもってしても、なかなか解けないような、思議すべからざる謎に満ちている。(笑い)
 池田 歴史学的には、たしかに不合理や謎もある。しかし、そこに秘められた法理、哲学は間違いない。ここに「信」をおくことが、大事になってくるのです。経文に「以信代慧」(信を以て慧に代える)とあるけれども、仏教の法理を信じて疑わずに実践した人が、最後には仏果を得られるというのが、仏法の基本的な考え方となっていますね。つまり、実践をとおして得た智慧による以外、仏法の真髄は理解しえないということです。
 野崎 同感です。
 松本 さて、こうして無著は、弥勒菩薩の導きによって大乗の論師となったわけですが、続いて弟の世親、すなわちヴァスバンドゥ(世親)もまた、小乗から大乗に移っています。
 池田 これにも、有名な話がありますね。
 野崎 そうです。世親も最初、小乗の説一切有部に入って活動していたわけですが、内向的な無著と違って、彼は外道の論師とも華々しく論争し、たちまち名声を博するようになった。説一切有部の教義を徹底的に究め尽くした世親は、やがて『阿毘達磨倶舎』(ダルマに対する論蔵、略して『倶舎論』)を完成、当時のインドに並ぶ者のない小乗論師と目されるようになりました。
 ところが、ある夜、兄アサンガ(無著)の弟子が戸外で十地経を誦するのを聞き、翻然として悟るところがあった。そして、これまで大乗経典を誹謗していた罪を悔い、兄に自分の舌を切りたいと申し出る。ところが無著は、それを制止して、いままでは大乗を謗じたその舌をもって、これからは大乗経典を讃歎せよ、といいきかせた。そこで世親は、今後は一切、たわむれにも阿含経を口にしないと誓い、大乗の論師として再出発するわけです。
 池田 当時の仏教界は、龍樹の流れを汲む大乗の中観派に対して、小乗の説一切有部や経量部が対抗し、両者のあいだに論争がおこなわれていた、とされている。無著の聞いた瑜伽行唯識派というのは、龍樹の空観をさらに発展させたものです。すると、兄の無著は大乗の論師であり、弟の世親は小乗部派を代表する論師であったということになる。その弟が、大乗を謗じた罪を悔い、自殺まで決意したのに対し、兄はすべてを赦したうえに、なお大乗の論師として弟を蘇生させたわけです。
 このことは、皮相的にみれば、無著の兄弟愛によるものとも考えられよう。しかし、より深い次元からいえば、大乗仏教の慈悲の精神の発露といえます。
 つまり、大乗仏教のもつ、すべてを包容し生かしていくのだという慈悲の哲理を、身をもって教え示したものと考えられる。小乗教は、どちらかというと、悪は断ち切る――その代表例が「煩悩断尽」ということになるが、ここにも大乗と小乗の違いが、如実にあらわれていますね。
 野崎 また、これは別の見方になりますが、大乗を謗じたことを悔いた世親が自ら舌を切ろうとしたことは、それくらい仏道を求めることが峻厳なものであるということを、よくあらわしていますね。
 池田 いったん道を志した以上は、それくらいの決意がなければ、深遠な仏法哲理は究められないということです。
 松本 こうして世親は、兄の無著とともに大乗の論師となったわけですが、小乗部派の時代に著した論書五百部と、大乗論師となってからの論書五百部を合わせて、仏教史上、一般に「千部の論師」と呼ばれるほどの業績を残したとされています。
 野崎 無著は七十五歳、世親は八十歳の長寿をまっとうした、と伝えられています。しかも、この兄弟が聞き、確立した大乗の唯識派は、その後、インドにおいて仏教が衰微するまでの数百年間、龍樹の開いた中観派とともに、大乗仏教の二つの大きな流れを形成したわけです。
4  倶舎論と唯識論
 松本 ヴァスパンドゥ(世親)の八十年の生涯は、論争と著述と布教の休みない実践の戦いであった、とされています。そこで次に、この「千部の論師」が残した膨大な著作の一端を紹介しつつ、大乗の唯識思想を仏教史および仏法哲学のなかで、どのように位置づけるべきかを考えてみたいと思います。
 野崎 たしかに世親の著作は、後世「千部の論師」といわれるくらいですから、かなりの量にのぼったものと思います。しかし、そのすべてが現存しているわけではありません。主なものを挙げれば、まず小乗のアビダルマ論師の時代に著したものとして、さきほども話題に出ました『倶舎論』の他に、業に関する『成業論』などがあります。大乗論師として著したものでは、瑜伽唯識説を体系化した『唯識二十論』『唯識三十頌』などが有名です。また、マイトレーヤ(弥勤)やアサンガ(無著)に帰せられる著作に対して、それらを敷衍し、展開する意味から、多くの注釈書も書いている。さらに、金剛般若経、法華経、十地経、無量寿経など、主要な大乗教典に対する注釈書を著し、そこで菩薩のあり方、六波羅蜜、十地などに関する解釈を述べ、如来蔵思想の解明にもあたっていますね。
 松本 そのうち、まず世親といえば、なんといっても『倶舎論』ですね。これは、世親が小乗のアビダルマ論師の時代にまとめたものですが、当時のアビダルマ教団の有力な一派である説一切有部の教義を、批判的に修正したものです。したがって、すでにこの時代から世親は、理論のための理論に陥っていた小乗部派の行き方を、釈尊の本来の教説に帰ることによって、乗りこえようとしていたと考えられます。
 池田 そうですね。だいたい当時のアビダルマ仏教というのは、すでに教団の存在そのものが体制化していたと考えられる。とくに、そのなかの代表的な一派である有部の場合は、その主張自体が「有」の偏見に固まってしまっていた。このことは、教団の体制化ばかりではなく、その教義の面においても、生前の釈尊が最も強く批判したバラモン的な行き方に、アビダルマ教団がいつしか陥っていたことを意味しています。
 そうした背景を考慮するならば、世親が『倶舎論』をもって、有部の学説をいちいち批判しつつ、釈尊のダルマ(法)の本来の意味を解明しようとした姿勢は、それなりに評価できますね。すなわち、過去・現在・未来の三世にわたって実体が存続するという、いわゆる有部の「三世実有説」を、ひとまず世親は解体してしまって、真に存在するのは「如々として来る」ところの現在のみであるという立場から、いわゆる七十五法を再構成したわけです。
 こうして『倶舎論』は、小乗有部のスコラ的な臭味を帯びたダルマ(法)の体系を、釈尊が説いた本来の意味でのダルマ(仏法)の論蔵へと変革することとなった。ですから、後に大乗仏教が続々と渡っていった中国や日本においても、この書はインドの仏法の基本概念を理解するための必須の教科書となっていったのでしょう。
 野崎 日本の僧侶が、出家してまず最初に学んだのも、の『倶舎論』ですね。俗に「桃栗三年、柿八年」といわれるのをもじって、「唯識三年、倶舎八年」などといったそうですが、これほど専門的に打ち込んでさえ、世親を征服するのには合計十数年もかかるわけですね。(笑い)
 池田 仏法というのは、教義を学問体系として学ぶのが目的ではない。釈尊も、大衆の一人一人を救済するのが目的であった。すなわち仏は、人間の生き方を説いたけれども、整然とした学問の理論体系を説いたわけではないでしょう。
 しかし仏法を、非仏教者からの批判に応えて守るため、さらに思想的に他の宗教を乗りこえ、リードしていくためには、釈尊の教えを結集し、それを体系的に整理し、教義を戴監なものにすることが要請される。その意味でアビダルマ(法の注釈)研究も必要であった。それが、法をして久しく住せしめることにもつながるわけです。
 そうした意味からすれば、教義を体系化する作業も、だれかが成し遂げなければならなかった。しかし、その際に注意しなければならないのは、仏の教えを結集し、それを体系化するにあたって、あくまで仏と同じ境地に立ち、仏道の実践に励むのでなければ、仏説を祖述することはできないということです。龍樹にしても、世親にしても、そのような実践の裏付けがあったからこそ、後世に大乗の論師として仰がれるような業績を残すことができたのです。
 松本 さて、次に大乗の唯識思想家としての世親の活動に移っていきたいと思います。彼はまず『唯識二十論』において、外界の実在性を否定している。一切の存在は固定的な本性をもたず、空であり、幻のようなものであるにもかかわらず、一般的には実有であるかのように思われている。人間がそのように実有と考えるものも、じつは「識」がっくりだしたものにすぎない、という見方ですね。つまり唯識というのは、大乗の「空」を悟るための方法論であるとされています。
 池田 それは、すでに見てきたように、龍樹が自らの実修によって悟った「空」の世界を胸中に輝かせながら、「有」の偏見にとらわれていたアビダルマ教団を徹底的に破折し、空は直観智によって捉える以外にはないという論を展開した。それを世親は、少しばかり視点をかえて、なぜ人間の精神は外界の存在を「有」として捉えてしまうのか――すなわち、迷いのよってきたる根拠を探究しようとしたともいえますね。その結果、その根拠を「識」に見いだしたわけです。
 野崎 そのことを唯識派は、よく夢の例によって説明したり、魔術師の呪文をたとえとして持ち出したりしますね。魔術師が呪文をかけると、観客には縄が船に見えたりするように、一切の外界の存在もまた「識」によって実在するかのように現れているにすぎない、というわけです。
 池田 龍樹から世親への流れは、そのまま仏法思想の深化を示している。だが、世親はこの段階にとどまらず、さらに一歩ふみこんで『唯識三十頒』を著し、識の根本にある「アーラヤ(阿頼耶=蔵)識」なる概念を導き出したわけです。これは、アビダルマ仏教の段階において、識を眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に分けていたのが、大乗にいたって第七識に「末那識」が加わり、さらに八識として「阿頼耶識」を打ち立てたことによって、ほぼ「識」の構造が確立されたことを意味します。
 松本 さらに中国へ大乗仏教が渡ってからは、天台宗や華厳宗が八識に「阿摩羅識」を加えて九識を立てたわけですが、いったい「アーラヤ識」とは、現代的にいって何のことでしょうか。また、それを唯識派が確立したことに、どのような意義があるのか、といった問題ですが……。
 池田 まず「アーラヤ識」というのは、われわれの経験世界を構成する観念の、その根源にある種子をたくわえる蔵という意味ですね。アビダルマ仏教の六識の段階では、その認識論の基盤にまで及ぶと、どうしても観念的にならざるをえなかった。ところが、この八識を導入することによって、過去・現在・未来の三世を通じて変わらざる存在の基底部分が明らかにされたわけです。過去の経験は、観念の種子として「アーラヤ識」にたくわえられ、それ縁に触発されて現在に発芽し、また現在の経験は未来にあらわれるであろう種子として蓄蔵される。すなわち、一切の経験事象は、生命の基底部分にたくわえられた種子が薫発して涌出するものである、というのです。
 野崎 その種子ということですが、デカルトの有名な「炉部屋の思索」を示す断片を、このあいだ読んだのですが、そこで同じように「種子」という言葉を使っていますね。すなわち、われわれの精神のうちには、真理の種子、さらには知識の種子があるというのです。これなどは、世親の「アーラヤ識」の断面に光を当てているようにも思えますが……。
 池田 東洋と西洋の思想的巨人が、ともに同じような地平に到達しようとしていることは、興味ぶかいものがありますね。もちろん、東洋と西洋のあいだでは、思惟方法や生活習慣も大いに異なるでしょう。しかし、人間そのものの永遠の真理にまで達した境地というものは、それらの差異を超越して普遍的であることが、いまの話からもうかがえると思う。
 ところで、二十世紀後半の現代にいたって、世界の科学者たちが生命の神秘を解明しようとする流れに呼応するかのように、とくに西欧の哲学者や深層心理学者たちが、仏法の唯識思想に注目しつつあるのは、この世親の「アーラヤ識」なるものが、生命の流れを解明する有力な手がかりを与えているからでしょう。また、精神障害という人間生命の根源にかかわる心の病と対決する精神科医たちも、病める人の生命の奥に分け入って、現実に「末那識」とか「アーラヤ識」なるものの実在性を確認せざるをえなくなっていると聞く。このことは何を意味するといえば、すでに千数百年も昔のインドにおいて、生命の不可思議な法則を探究した仏教者が、その膨大な論書をもって、現代文明と人類の行く手を照らしているということです。
 ともあれ、これで釈尊に始まるインド仏教の一千年の流れを、ほぼ大筋にそってたどってきたわけだけれども、今後さらに研究が積み重ねられ、仏法の汲めども尽きない豊かな水脈が、より深く掘り下げられることを、私は期待したい。今や世界の心ある人の眼は、現代に酒々として流れる仏法思想に向けられているからです

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