Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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9 法華経の精神  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  法華経の仏身観
 野崎 たしかに『法華経』の見宝塔品第十一にあるような「二仏並座の儀式」などは、一世界一仏の考えにとらわれていた小乗教徒には、およそ考えられない出来事であったわけですね。なにしろ一つの宝塔の中に、同時に釈迦・多宝の二仏が並んで座っているというのですから、おそらく声聞の弟子などは、わが眼を疑ったのではないでしょうか。
 松本 ただ、この宝塔の儀式については、これまでにも多くの人が疑問としてきたところですね。とくに現代の合理的思考からして、虚空に宝塔が立つなどということは、まったく信じられないというのです。それがまた、『法華経』は後世に創作されたものであるという説の根拠ともなっていますが……。
 池田 それについては、釈尊の実在性さえ疑われかねない西欧世界において、ヤスパースが次のように述べている指摘が、ここでも当てはまるのではないだろうか。すなわち「確実な仏陀のイメージをつくるためには、……本質的な面で信憑性をもって仏陀に帰せられるすべての事柄の、感得しうる中心によって心をうたれることが、前提である。この感動のみが視ることを可能ならしめる」(前出『佛陀と龍樹』)という。つまり、生命の躍動する歓喜が、己心に「仏」の生命を涌現することになるのです。
 もちろん、実際に法華経の説法の座において、空中に塔が立ったかどうか、今となっては、現象的に証明しようといっても不可能であろうし、またそれをやってみてもはじまらない。それより、ここで大事なことは、一切衆生の生命に仏界が備わっていること、そして仏を渇仰する一念が強まっていけば、それぞれの生命に仏界を涌現することができるということです。仏滅後数百年にして、仏法がまさに失われんとするときに、当時の大乗教徒としては、自らの己心に仏の生命を思い描く以外になかったのでしょう。その「仏」を求める強い一念をもって、脈々と伝えられてきた大乗の教えを結集し、それを具体的な言語音声として表現したものが、まさに『法華経』となっていったわけですね。
 野崎 宝塔の儀式も、それによって一切衆生の生命に仏界が涌現しうるという原理をあらわしたものですね。
 池田 そうです。また「一世界一仏」の考え方を破るには、見宝塔品以下のような説き方をしなければ、当時の事情としても、動執生疑を起こせなかったともいえるね。
 野崎 同感です。従地涌出品にしても、また『法華経』の最も肝要である如来寿量品にしても、それ以前の考え方からすれば、まさに革命的なことが説かれているわけですから。
 松本 そこで、いよいよ如来寿量品に説かれる仏身観に入っていくわけですが、ここではまず、仏自身の実証のうえから、仏の悟りが説かれていることが重要ですね。
 池田 方便品を中心とする前半部分では、九界の衆生にも仏界が備わっているということを、普遍的な真理として説いている。それに対して如来寿量品では、釈尊自身もまた五百塵点劫の久遠において、菩薩の道を行ずることによって仏になったのだ、と説く。そのとき修行したのが「妙法蓮華経」の一法であったというのですね。すなわち三世十方の諸仏は、みな「妙法蓮華経」に帰命することによって仏になったのだ、というのが『法華経』のなかの最も肝要な教えであるわけです。したがって、この一点を見失うと、とんだ間違いをおかすことになる。つまり法華経は、一切の仏の能生の根源の法であって、それを知ら、なければ仏になれないということです。
 松本 この如来寿量品第十六が説かれる以前の人びとは、釈尊が王宮を出て、ブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹下において初めて成道したものとばかり思っていたのが、ここへきて「我実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」(妙法蓮華経並開結496㌻)というのですから、おそらく人びとは驚いたと思います。
 野崎 とくに声聞の弟子たちは、釈尊がブッダガヤーにおいて成道して以来の姿しか見ていませんから、どうしても「始成正覚」(始めて正覚を成ず)の考えにとらわれていたわけですね。ですから、その流れを汲む小乗教徒は、仏の説法というものを、釈尊一代かぎりのものとしか捉えることができなかった、と考えられます。
 池田 たしかに、そこに小乗仏教の停滞性があったといえるね。彼ら小乗教徒は、釈尊の死後、だれを師として修行したらいいのか、わからなくなってしまった。せいぜい今までの修行法によって、阿羅漢果を求める程度にとどまっていたわけです。
 それに対して大乗教徒は、なかでも法華経徒は、一切衆生が仏になれるのだという教えを重視した釈尊自身、一切衆生を仏に成さんがために世に出現したのだ、という。しかも、仏は釈尊一人ではなく、過去には燃燈仏として現れ、余処の百千万億那由陀阿僧祇の国に、おいても、仏が衆生を導利している。仏は方便として涅槃を現ずるけれども、過去・現在・未来の三世にわたって「我常に此の裟婆世界に在って説法教化す」(前出498㌻)と経文にあるように、仏の生命は永遠である――。
 法華経徒は、そのように仏身観を捉えていたわけです。すなわち、これによって仏教は、時間的には永遠に人類の閣を照らす光明となり、また空間的にも世界に開かれた宗教となったのです。そこに『法華経』の偉大性があるといってよい。
 野崎 まったく同感です。
 松本 そこで次に、五百塵点劫の昔において修行し得脱した仏を「本仏」とすれば、インドに生まれた釈尊も、他の三世の諸仏と同様に「迹仏」となるわけですね。釈尊自身が法華経を説いたとすれば、ここで自らを迹仏と認めたことになってしまって、矛盾するのではないか、という説もありますが……。
 池田 それは、仏法の教義解釈としてもきわめて重要な問題であるけれども、ここではそういったさまざまな教義解釈をはなれて、純粋に私一個の率直な感想を述べておきたい。というのは、これまで多くの『法華経』解釈がおこなわれてきたけれども、そのほとんどは訓詰注釈の迷路に踏み込んでしまって、経文を現代に生きる人びとの実践の指針としてこなかったからです。
 私は釈尊を、金ピカの仏としてでなく、苦悩に沈む民衆を救おうとして立った、一人の偉大な宗教家としてみたい。そのように釈尊を、一個の人間ブッダ(仏陀)として捉えたときに、おそらく彼はいい知れぬ苦悩をいだいていたであろうし、自己の限界も十分に知っていたのではないだろうか。
 とくに彼が王宮の出であるということは、その出自にひかれて貴族やバラモン階級の子弟が多く教団に集まるという結果になった。それは、釈尊の聞いた仏教が、いちはやくインド社会に確固たる位置を占めるというプラス面とともに、その反面、教団の主流をバラモン出の知識階層が形成することにもなり、一般の在家信者とのあいだに溝をつくるマイナス面をもっていたとも考えられる。
 インドにおいて釈尊は、一切衆生を等しく救済する仏として出現したといっても、現実の教団をみたときに、やはりバラモンやクシャトリヤの出身者が大半を占めていた。理念としては四姓平等を説いても、釈尊自身が王宮の出である以上、現実の生きた思想とはなりにくかったのでしょう。そこに釈尊の仏法の限界の一因があったといえるね。
 野崎 滅後の弘教にあたって、声聞の弟子たちの限界も、そこにあったのですね。
 池田 おそらく、そうでしょう。だからこそ一切衆生が仏になる根本の法を明確にするために、――といっても『法華経』の文の上ではそれ自体は明かされていないが、久遠の本地を示したということは、この根本の法へ人びとを向けさせる意図があったと考えてよい。そしてさらに、それと同時に、すべての衆生が平等に仏になれるのだという仏法の根本原理を証明する実践者が、下積みの民衆のなかから現れなければならない。釈尊が晩年にいたって自らの使命を終えるにあたり、法華経を説いた本地を明かし、本化地涌の菩薩の出現に滅後を託したというのも、そのような意義があったものと考えたい。
 故に、ちょうど蓮の華が、泥沼の水中から出て美しい花を咲かせるように、仏法の実践者も、混沌とした現実社会の真っ只中で、そこに生き、民衆と苦楽をともにする人びとこそが、真に『法華経』の精神を体現した人といえるのです。

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