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日蓮大聖人・池田大作

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8 法華経の成立  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  霊鷲山の説法
 松本 これまで、釈尊滅後のインド仏教界の流れを歴史的に概観してきたわけですが、いよいよ大乗仏教の核心ともいうべき『法華経』が、どのように経典として成立したかという問題を取り上げたいと思います。
 池田 第二部の対話のなかでも最も重要な段階に入ったわけですね。――というのは、八万法蔵といわれるほどの膨大な仏典のなかでも『法華経』こそが最高のものであることは、すでに周知のととろだからです。
 これは、なにも宗派的な観点からいうのではなく、およそ仏教徒であろうと、あるいは非仏教徒であろうと、だれもが認めてきたところです。インド、中国、日本の三国を通じて、経典のなかでは『法華経』の注釈書が一番多いことでも、それは明らかであると思う。もっとも、この『法華経』を講じ、注釈すること自体、後に中国の天台大師・智顗が生涯をかけ、全魂を傾けたように、たいへんな難事業であるけれども……。
 野崎 たしかに『法華経』を厳密に解釈していったら一年や二年では終わりませんね。よくいわれるように、釈尊は『法華経』を八年間もかけて説いたとされているし、仏弟子がそれを集成して、今日あるような経典の形式ができるまでにも、何百年の歳月を要している。いわば『法華経』は、単に大乗仏典の代表ということにとどまらず、釈尊によって創始されたインド仏教の精髄であるとともに、集大成でもあったわけです。
 松本 それが中国から日本へ伝えられると、とくにクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳の『妙法蓮華経』八巻などは、その六万九千三百八十四字が、そのまま金文字の仏説であるとまでいわれるようになりました。日本文化に対する『法華経』の影響力は、まことに計り知れないものがありますね。われわれ現代の日本人が、日常なにげなく使っている用語でも、その出典をたどっていけば、最後は『法華経』に行きつくのも随分あります。
 そうした意味からすれば、『法華経』の一字一句たりとも、けっしておろそかにはできません。本来なら、ここでも法華経一部八巻二十八品を、各品どとに詳細に検討していきたいところですが……。
 池田 それはまた、別の機会に、じっくり時間をかけて取り組むことにして、今回はまず、インドにおいて『法華経』が成立した事情にし、ぼって検討することにしよう。
 松本 そこで問題になるのは『法華経』が後世の仏弟子によって「創作」されたものかどうかということです。というのは、最近の文献学的、実証的な研究によって、『法華経』が成立したのは、仏滅後四、五百年ごろ、すなわち原形的なものが現れてきたのが、早くても紀元前一世紀、それから徐々に増広されて、ほぼ『法華経』としての形体を完成したのが、紀元後一世紀ごろとされています。
 そうしたことから、いわゆる「大乗非仏説」つまり大乗は仏説にあらず、などということがいわれるわけですね。しかし、『法華経』をはじめとする大乗仏典が、まったく釈尊の教説と関係がなく、後世の大乗教徒が勝手に「如是我聞」と書き付けて創作したものだ、ということは誤りだと思います。
 池田 もちろん、八万法蔵の膨大な経典群が、釈尊の教説をすべてそのまま筆録したものではないことは、当然ですね。釈尊滅後、第一回の経典結集以来、ほぼ二、三百年間は、暗誦による口唱によって伝承されてきた、とされている。それが現存する経典のような形式に文字化されたのは、ほぼ西暦前一世紀ごろのことと推定されているね。したがって、そうした意味からすれば、大乗経典が仏説でないとするなら、小乗の阿含部もまた仏説でないということになってしまう。
 われわれが問題にしたいのは、そうした文献学上の問題ではない。大乗・小乗の経典を含めて、仏典が広く仏説として読まれ、東洋の諸民族によって生きた思想として伝えられてきたという事実です。まさに宗教の本質は、ここにあるのであって、あくまでも仏典は、釈尊五十年の説法を、弟子たちが後世に令法久住の一念をもって伝えようとした所産であると考えるのが、正しいと思う。ともすれば、文献学的、原典批判的な行き方が陥りがちな、人間不在の落とし穴に、現代人は気をつけなければならないということです。
 野崎 私も、そのように思います。
 松本 そこで、では経典によって、なぜ違いがあるのか、同じ釈尊の言説であるのに、ときにはまったく逆の説き方をしている場合もあります。それを、どのように解釈するかという問題が次に浮かび上がってまいります。
 池田 それには、さまざまな原因が複雑に関連していると思うけれども、ここでは、そのうちのいくつかを挙げておきたい。
 一つは、釈尊の五十年の説法それ自体に、やはり順序次第のようなものがあったと思われる。ブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹下に、おいて成道し、ヴァーラーナシーのムリガダーヴァ(鹿野苑)において初めて説法して以来、釈尊は十年一日のごとく同じことを説いていたであろうか。そうではないでしよう。根本の悟達に変わりはないけれども、それをどのように民衆に伝えていくかについては、つねに心を砕き、いわゆる「随縁真如の智」をもって、さまざまに説いていったのでしょう。
 むろん教えを聴く相手、すなわち対告衆の機根によっても、違った説き方をしたにちがいない。また同じ一人の仏弟子に対しても、仏道修行が深まるにつれ、より深い法門を説いていったことは、当然考えられるところですね。いわば調機調養して、最後には全員が仏果を得られるよう、慎重な配慮をもって法を説いていったと考えられる。
 松本 釈尊五十年の説法の次第を考える場合に、いま対告衆の機根の違いを挙げられましたが、そのことはまた、釈尊の教団の発展の推移と密接な関係があると考えられないでしょうか。
 釈尊は最初、ただ一人で当時のインド思想界に挑戦せざるをえなかった。バラモン僧や六師外道の自由思想家に対して、釈尊は自己の悟達に立脚した深い思索のうえから、主に出家修行者を相手に論争を挑んだものと思います。そして、やがて釈尊の哲理に共鳴する修行者の数もふえて教団といったものが形成されるようになると、弟子を教化し、教団の規律を維持する意味から、戒律的な教えも説かれたでしよう。それが滅後に結集されたときに、初期の阿含部経典となっていったであろうことは、十分考えられますね。
 池田 そうです。アーガマ(阿含)といわれる初期経典が、どちらかといえば戒律的な要素が強く、しかも、その内容が断片的であるのは、いわゆる「声聞」の弟子たちに対する釈尊の直接の指導が多く集められているからでしょう。
 しかし、釈尊の名声が高まるにつれ、仏の説法を聞く者は、声聞の弟子だけではなくなった。元来、釈尊は教団を組織化する意図をもたず、出家の比丘に対しても、何人もが連れだって歩くことを禁じたほどです。彼自身が、ほんの僅かな弟子だけを連れて諸国を布教して歩いたように、釈尊はつねに仏法を社会の民衆に開こうとしている。弟子を養成したのも、民衆の教師を育成するためのものであったと考えれば、釈尊の本意は、自らの悟達したところのものを、広く社会に開き、苦悩に沈む民衆を救うところにあった、といえるでしょう。
 その結果、出家の比丘ばかりでなく、多くの在家信者が生まれることになる。そして、成道後四十余年の説法教化により、いまや釈尊の教えを聴聞しようとする機運が大いに高まったとしよう。釈尊自身も、すでに七十歳の高齢を越え、自らの本懐とする法門を後世に遺そうとしたとしても、けっして不思議ではない。
 野崎 そこで、いよいよ釈尊が、出世の本懐とする最高の法門を説とうとする。――晩年の釈尊は、主にマガダ国を中心に布教していたわけですが、その首都であるラージャグリハ(王舎城)には、おそらく全インドの仏教者の代表が、続々と集まってきたのではないでしょうか。当時のインドにおいては、マガダ国が最も発展し、新興の機運に燃えていたとされています。その首都の郊外、東北の方向にあるグリドゥフラクータ(霊鷲山)において、釈尊は法華経を説いたわけです。
 松本 鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』序品第一には、この説法を聞くために集まった聴衆が挙げられていますが、まさに壮大な儀式といった感じがしますね。阿若憍陳如、摩訶迦葉、優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、舎利弗、大目健連、……といった大比丘衆万二千人、学無学の二千人、六千人の眷属をともなった摩訶波闍波提比正尼、耶輸陀羅比丘尼、文殊師利菩薩、……観世音菩薩、……薬王菩薩、弥勤菩薩といった菩薩摩訶薩八万人、名月天子、四大天王、八龍王、……それにマガダ国王の阿闍世王といった名前も挙げられています。
 池田 そのような霊鷲山の説法の光景を思い浮かべてみると、そこには十界のあらゆる衆生が列席している。『法華経』というのは、これや一言にしていえば、深い「生命」の根源の哲理を説いたものだけれども、すでに序品第一の光景にそれがうかがえますね。
 そこで、いよいよ方便品第二に入ると、釈尊は、すべての生きとし生けるものを「仏」とすることが、わが生涯の最大の念願であったという真意を、広く明らかにする。
 このことは、それまでの釈尊の教えと比較したときに、まさに画期的な説法となっている。というのは、四十余年のあいだ釈尊に付き従ってきた弟子たちにしても、自分たちが「仏」になれるとは、夢にも考えていなかったにちがいない。つまり、彼らが仏になるということは、眼前に見る釈尊と同じ偉大な境涯に立つということです。
 松本 今でこそ仏教というのは、一切衆生が「仏」になるための教えであるということは、一般にも知られていますが、それでは現実の自分というものが、はたして本当に「仏果」を得られるか、どうかを、それぞれ胸に手を当てて考えてみる必要がありますね。悩み多くして欠点だらけの自分が、人格円満にして最高の境涯に立てるのは、はたしていつの日か……。(笑い)
 野崎 たしかに、そのように反省してみると、釈尊の人格があまりにも偉大であっただけに、舎利弗をはじめとする声聞の弟子たちが、とても仏になれるなどとは想像もしなかったことが、よく納得できます。
 それが、霊鷲山の説法にいたって、一切衆生を仏にすることが目的であると釈尊が宣言したわけですから、まさに驚天動地のことと映ったのではないでしようか。
 池田 方便品の長行には「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し、仏の方便の説をば除く」(妙法蓮華経並開結174㌻)とある。また「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以つての故に、世に出現したもう」(前出166㌻)と説き、衆生をして仏知見を開かしめんと欲し、衆生に仏知見を示さんと欲し、衆生をして仏知見を悟らしめんと欲し、衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、仏は世に出現したのだ、という。さらにまた「一切の衆をして、我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」(前出176㌻)とまで言い切っている。そして、その具体的な実証として、譬喩品第三以下において、続々と成仏の授記を与えていったわけです。
 経文には、舎利弗をはじめ、仏から授記を受けた者は皆、踊躍歓喜したとあるけれども、おそらく大変な喜びようであったと思われる。さながら霊鷲山は、生命が最高に躍動した、歓喜のなかの大歓喜の絵巻を現出したのではないだろうか。
 つまり、その座に列席した一切大衆の生命の奥深くには、霊鷲山の大儀式が永遠に刻印されることになったのです。
2  声聞弟子と大乗菩薩
 松本 ところで、釈尊の滅後、さまざまな経典が結集されたわけですが、なぜ大乗経典の成立が遅れたのか、という問題があります。それは、初期経典が徐々に発展し、増広されていったものなのか、あるいはまた、阿含部系統の経典とは別に、最初は表面に出てこなかったけれども、深く静かに結集されていったものなのか、ということです。そういったことは、まだ決定的な裏付けが出てこない以上、推測の域を出ないわけですが、どのように考えたらよいでしょうか。
 池田 釈尊五十年の説法の次第のなかに、すでに仏典の性格を分かつ原因があったわけだけれども、それは同時にまた、仏滅後の教法流布の先後を決定づけたものともいえるね。一つの教えが広まるのに、ある一定の流れがあるとすれば、釈尊が五十年間かかつて説いた方軌が、そのまま滅後の教えの広まり方にも当てはまらないということはないでしょう。すなわち、釈尊一代の説法の方軌というものは、そのまま滅後の千数百年の歳月に広げられ、インドから東南アジア、そして中国、日本へと、ほぼ全アジアに広まったものといえる。
 それから、第二の要素として重要なのは、仏教を弘通した主体者、つまり声聞の出家教団と大乗の菩薩集団との違いですね。
 この問題については、すでに何回もみてきましたが、要するに出家教団というのは、社会との関係を自ら閉じてしまう傾向性があった。その結果、釈尊の生前の教えについても、教団内の秩序を維持するための戒律や、煩墳な教義解釈の面から取り上げる方向に向かっていったのではないだろうか。初期経典の結集作業も、教団内の教科書を作成するような観点からおこなわれた形跡がある。そこに、初期アビダルマ仏教によって伝えられた仏典の限界性もあったのでしょう。
 それに対し、仏教を社会に開こうとして活躍した菩薩集団は、仏典の結集にあたっても、在家信者や一般大衆までも対象とした教えを重視したにちがいない。大乗仏典の多くが、巧みな譬喩や文学的表現、大衆にもわかりやすい物語的な構成によって成り立っているのも、そうした背景があったからと思われる。
 釈尊の説法は、単に出家修行者や知識階級のものだけではなく、広く一切大衆に開かれたものであるというのが、大乗教徒の捉え方であったわけですね。
 野崎 その場合、初期の部派仏教が二乗的見地に陥ってしまったので、その反動として大乗の諸経典では、声聞・縁覚の二乗が破折されることになった、という歴史的な捉え方がありますが……。
 たしかに、最近の仏教学の傾向は、そうした実証的在研究を重視するようになっていますね。今後、仏教がさらに世界的な宗教として発展していくためにも、客観的な歴史的解明がなされていくのは、大いに喜ばしいことであると思う。
 しかし、『法華経』をはじめとする大乗経典が、まったくの歴史的所産であって、釈尊自身の教えにはなかったという考えは、あまりにも独断的にすぎると思う。つまり、人間の思惟、宗教心といった、かけがえのないものを、すべて歴史的・社会的背景に還元する方法論、すなわち宗教を研究する近代的な学問論に問題があるといえます。むしろ最近は、そうした学問的態度を反省する傾向も強まっていることは、やはり当然といえますね。したがって、『法華経』や他の大乗経典に盛り込まれたような内容の教えを、やはり釈尊自身、すでに説いていたものとみるのが妥当でしょう。
 出家教団が二乗的見地に陥ったというのも、釈尊滅後の出家修行者だけにみられた現象ではない。おそらく在世においても、出家修行者は二乗的見地に陥り、在家信者や一般大衆への働きかけを怠る面があったのでしょう。それを見た釈尊が、厳しく二乗を指導するような場面も、たびたびあったにちがいない。
 さらにいうならば、これは、そうした事実の論議とは別のことになるが、声聞・縁覚といっても、それはすべての生命に内在する一つの働きとして捉えることができる。『法華経』というのは、そのように三世にわたって変わらざる生命の法則を説き切ったものです。
 この経典が、インド、中国、日本を通じて最も広く読まれ、しかも今日にまで読み継がれているのも、そこに普遍的な、人類に共通する真理が説かれているからでしょう。
 松本 方便品に説かれる「開三顕一」についても、これを歴史的な成立過程から捉えようとする見方があります。すなわち、釈尊滅後の教団が、声聞・縁覚の小乗部派教団と、大乗を奉ずる菩薩集団とに分かれて抗争していたのを、もっと高い見地から止揚するために、声聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて、仏乗を顕したのが法華経である、というのです。
 池田 それは『法華経』に文字として書かれたものを中心に、一切を解釈しようとする見方ですね。また「釈尊は法華経を説かなかった」という独断に合わせるための、こじつけとしか考えられない。なるほど、いかにももっともらしく聞こえるけれども、それでは釈尊が、なんのために出家し、仏になり、そして法を説いたかという根本問題が、あまりにもあいまいになってしまう。
 そもそも釈尊が出家したのは、自分一個の悟りのためだけではない。一切の衆生に悟りの道を教え、人生の苦悩から救うためであったわけです。その修行の結果、自ら仏を覚知したということ、そしてその仏の悟りの道を人びとに伝えようとして、五十年にわたる説法をしたということは、その究極の目的として、一切の人びとを自己と同じく仏にすることにあるのでなければ、無意味になってしまう。極端にいえば、もし釈尊が、一切衆生を仏の悟りに入らしめる法華経を説かないままで終わったとすれば、釈尊の一生は失敗であったといわざるをえない。
3  滅後の弘教と展開
 野崎 声聞の十大弟子をはじめとする出家修行者たちは、釈尊がいっ、どこで、どのような内容の説法をしたかということはよく知っていても、生命の根源の法、すなわち「一仏乗」とは何かを知らなかったわけですね。そこに、仏と九界の衆生とのあいだに、超えがたい一線が画されていたと考えられます。
 池田 その一線が法華経の説法にいたって、初めて取り払われるわけです。九界即仏界、仏界即九界の原理があらわされ、一切衆生の生命に内在する根本の法が明らかにされてしまえば、もはや四十余年の説法の内容について、声聞の弟子がよく理解しているとか、在家の信者はまだ修行が足りないとか、そういった差別も取り去られ、すべての人が平等に仏になることができる、ということですね。
 松本 出家者も在家者も、ともに成仏できるとなると、では出家して修行することに、どのような意義があるのか、という疑問が出てきますね。事実、釈尊滅後の教団でも、そうした問題が相当長く議論されていたことは、前にみた『ミリンダ王問経』の問答にも取り上げられているので、それが証明されます。
 ちなみに、ナーガセーナ比丘は、在家信者は前世において修行を積んでいるので、出家しなくても成仏できるのだ、と答えていますが……。
 池田 出家と在家では、それぞれ衆生教化の仕方は違うでしょうが、ともに仏道を求めるという目的は同じである。この目的観が同じである以上、立場の相違は互いの特質を発揮し、協力しあうためにあるのであって、なにも対立する必然性は、まったくないわけです。ところが、まことに残念なことに、釈尊滅後の教団は、出家中心の部派仏教と、在家菩薩による大乗教団とに分かれてしまった。やがてインドにおいては、仏滅後一千年以降、仏教は徐々に衰徴することになるが、その原因の一つに、この出家と在家の対立が挙げられている。
 野崎 生前の釈尊は、そのような対立を予測していなかったのでしょうか。もしかりに、すでに予知していたとして、それにどう対処しようとしたのでしようか。
 池田 釈尊は、その透徹した洞察力をもって、出家修行者と在家信者とのあいだにあるわだかまりを、なんとか取り除くように努力したことは間違いない。とくに声聞の弟子たちに対しては、日ごろから厳しく指導していたことは、経文によってもうかがわれます。むしろ、そのことをいちばん心配していたので、在家・出家を問わず、全インドの各界各層を代表する人びとを集めて、霊鷲山において法華経の一乗の妙法を説いたともいえる。
 しかし、現実の教団は、仏滅後百年ごろには、早くも二つの流れに分かれてしまったことは、否定できない歴史的事実です。その原因についても、まず出家集団が閉鎖的なエリート集団になっていったところにあることは、これまでにもみてきたとおりです。後に大乗教徒が一斉に興起したのは、民衆と遊離した部派仏教団には、もはや釈尊の精神は失われたとみたからでしょう。
 そうすると、法華経をはじめとする釈尊の大乗の教えは、主に在家信者の間に脈々と伝えられてきたと推測して、ほぼ間違いないものといえる。その仏教のルネサンスとも呼ばれる大乗復興運動の担い手となったのが、いわゆる「大乗菩薩」であったわけです。最近の仏教学の見方も、それを証明しつつありますね。
 野崎 釈尊自身、すでに滅後の教法流布の先後を予見していたとすると、法華経を弘通するのが、声聞の弟子や迹化の菩薩ではなく、まさしく本化地涌の菩薩以外にないことも見通していたわけですね。
 池田 おそらく釈尊は、自身なき後の仏法を、だれが継承し、伝え、広めていくかについて、絶えず心を砕いていたにちがいない。
 松本 従地涌出品第十五の文を見ると、相当に厳しい語調で断言していますね。
 「止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことをもちいじ。所以は何ん。我が裟婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。一一の菩薩に、各六万恒河沙の眷属有り。是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」(『妙法蓮華経並開結』473㌻)とあります。有名な一節ですが……。
 池田 釈尊は、自身の滅後に仏教が伝えられるためには、かなり厳しい情勢を覚悟しなければならないことを、よく知っていたのではないだろうか。『法華経』には「六難九易」が説かれているけれども、実際、釈尊滅後に正法を持ち、仏教を弘めていくのは、たいへんな難事業であったわけです。小乗部派教団が社会への働きかけに消極的で、閉鎖的なアビダルマ研究に逼塞していったのも、見方によっては、釈尊滅後の仏教徒に対する政治的、社会的な弾圧が激しく、客観情勢からいっても、彼らは社会に挑戦していくことができなかった、ともいえる。
 もちろん、すでに釈尊在世においても「九横の大難」として伝えられているように、仏教徒に対する弾圧は激越なものがあった。まして況んや、滅後においてをや、です。釈尊は、そのような観点から声聞の弟子たちを見渡したときに、はたして難を忍び、社会に敢然と挑戦していく者が何人いるか、はなはだ心もとない状態であった。その心境が「止みね善男子」という強い語調となって表現されたともいえるね。
 およそ一つの新しい思想が、五十年、百年、五百年、千年と伝えられ、全世界の人類の心に火をともすということは、考えてみれば、たいへんなことです。試みに、古今東西の歴史を概観しても、仏教ほど広く長く伝えられた思想は、他に例をみない。その仏教のなかでも最高の教えである『法華経』が伝えられ、弘められていくには、よほどの覚悟と決意をもった本物の菩薩が、ここで登場しなければならなかったのです。

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