Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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7 四維摩詰と在家菩薩  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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4  不思議の法門
 松本 一般に『維摩経』というのは、劇的構成において優れた作品であるといわれていますが、たしかにいまのシャーリプトラと天女の対話の部分などは、そのまま笑劇にでもなるような、おかしみがありますね。
 さて、それはそれとして、維摩と文殊の息づまるような白熱の対話は、いよいよ佳境に入り、仏道品第八では「仏の悟り」をめぐる論議があり、入不二法門品第九では三十二人の菩薩が「不二の法門」を、さまざまな角度から究明していきます。
 池田 この入不二法門品は、『維摩経』の圧巻ともいうべきところで、古来「維摩の一黙、雷鳴の如し」といわれる有名な部分ですね。「不二の法門」とは何かとの問いに対して、同座の菩薩たちは、それぞれ自己の見解を述べるのだが、最後に維摩が答える段になって、彼は一言も発せず黙っている。これは「不二」の境地が本来、「言語道断・心行所減」の境地であることを、維摩は態度によって示しているわけです。
 野崎 対話の名手であった維摩が、ただの一言も発しないのを見て、マンジュシュリー(文殊師利)は大いに感嘆し「善きかな、善きかな、これこそ菩薩が不二の法門に入ることであって、そこには文字も言葉もない」(大正十四巻551㌻、参照)という。これによって、その場に居合わせた五千の菩薩は、不二の法門に入り、無生法忍を得た、と経典は伝えています。
 松本 そこで『維摩経』は下巻に入り、香積仏品第十から嘱累品第十四にいたって終わるわけです。ここでは、衆香国という名の国土で、すばらしい香りをもって説法している香積仏の話が面白いですね。
 池田 その前に、維摩と文殊の長時間にわたる対話も、そろそろ昼どきになってくると、舎利弗が内心ひそかに昼食の心配を始めるところなどは、煩悩を断ずる二乗の修行者である舎利弗を皮肉っていると同時に、人間の心理状態を心憎いばかりに捉えているね。(笑い)
 これは、当時の出家修行者が、正午過ぎに食事をとることを禁じられていたという事情があるけれども、舎利弗のそわそわした態度を見てとった維摩が「食事の心配をしながら、法を聴けますか?」と、舎利弗の痛いところをついている。そして「もし食事がしたければ、しばらく待ちなさい。まだ一度も味わったことのないような食事を差し上げますから」(大正十四巻552㌻、参照)といって、衆香国から香りの食事を取り寄せるわけだ。
 松本 維摩詰の使いの者が衆香国にやってくると、そこでは言葉や文字によらずに、香りによる説法がおこなわれている。この国には、声聞や縁覚の二乗は存在せず、ただ清浄な優れた菩薩だけがいるので、すばらしい香りさえあれば十分である、という。仏の説法の仕方にも、いろいろな方法があるものですね。
 池田 なんだかお伽噺みたいだが、衆香国のありさまが、維摩の部屋にいた何万の大衆に、手にとるように見えた、とあるね。それだけ大乗経典の作者の想像力が豊かであったともいえるし、また生命の不可思議な法則を説いたのが仏法であることを示すために、凡人の想像を絶するような手法を用いたともいえるでしょう。
 また、衆香国から裟婆世界を見たときに、この世界は五濁悪世で、つまらないことを願い求める根性曲がりの衆生が多く、釈尊や菩薩たちがたいへんな苦労をしている、というのも面白い。そのため裟婆世界では、仏は強い言葉で法を説かざるをえず、菩薩たちも願って悪趣におもむき、獅子奮迅の戦いをせざるをえないのだ、という。
 野崎 そこでヴィマラキールティ(維摩詰)は、そのような衆香国の菩薩の指摘をうけて、裟婆世界の菩薩には「十種の善」があると答える。これは、六波羅蜜を中心とする実践項目を挙げたものですが、当時の大乗の戒と目されているものですね。小乗の二百五十戒とか五百戒に比べて、ずっと簡略化されているのが特徴です。
 松本 そのあと、やはり裟婆世界の菩薩が実践すベき規範として「八法」が説かれています。これは現代人の実践倫理としても通用する部分があると思われますので、読んでみます。
 「一、世の人に利益を与えても、その報酬を望まない。二、一切衆生のあらゆる苦悩を身に受ける。三、所作の功徳は、ことごとく他に与える。四、世の人を分けへだてなく平等に見て、自らへりくだり、心に障りを生じない。諸菩薩に対しては、仏のごとくに見る。五、未聞の経を聞いても、これを疑わず、小乗の人(声聞)とも争うことをしない。六、他人の受ける供養を嫉まず、おのれの利得を誇らず、心を抑制する。七、自らの過ちを反省し、他人の欠点を口にしない。八、常に不動の心をもって、さまざまな功徳を求める」(大正十四巻五五三ぺージ、参照)
 池田 これは、民衆救済の利他の実践に真剣に打ち込んでいけば、自然と得られるのだということですね。小乗の戒律のように、修行として窮屈に縛りつけるものとは根本的に異なっている。
 野崎 このあと経典は、菩薩行品第十一にいたって、ふたたび舞台をアームパーリー樹園に移し、見阿閦仏品第十二において維摩の本地が明かされ、最後にマイトレーヤ(弥勅)とアーナンダ(阿難)に付嘱されて終わります。そして、この経典の別名を「不可思議解脱の法門」と呼んでいます。
 池田 たしかに維摩詰というのは、不思議な人物ですね。その利他の実践の姿というものは、示唆に富んでいます。仏法は深遠なる思想であるとともに、日々、現実社会のなかで生きる人びとの悩みといかに取り組み、それを打開していくかという実践論であるからです。

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