Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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五 東西文化の交流  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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5  世界宗教の条件
 松本 中村元氏の研究では、仏教がキリスト教に与えた影響ばかりではなく、ギリシア哲学との交流にも言及されています。一般に西洋哲学の起源はギリシアにあるとされていますから、その意味では、間接的であっても今日の西洋哲学も、仏教の影響をうけていることになります。その一つの例として、仏教もギリシア哲学も「自我」とか「存在」とか「生命」に関して、共通の関心を向けていることが挙げられます。
 野崎 ソクラテスの「汝自身を知れ」というのは有名ですが、釈尊も「汝自身を省み尋ねるがよい」といっています。経典にも、自己省察をすすめた文証をさがせば、きりがありません。
 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(前出『ブッダ最後の旅』)
 「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
 これは、ほんの一例ですが、仏教には深い自己省察から発せられた言葉が、ずいぶんありますね。
 池田 およそ哲学とか宗教といったものは、人生とか世界に対する反省的な思考というか、人間としての自覚から起こっている。キリスト教の原罪意識にしても、また人間の醜い欲望を乗り越えようとする仏教の生き方にしても、そこに人間としての真剣な求道精神が感じられる。それが、人間の理想とすべき普遍的な生き方につながっているのではないか。
 極端に聞こえるかもしれないが、いくら制度や機構をいじっても、それを運営する人間が変わらなければ、世の中はよくならない。その意味で、哲学とか宗教というのは、まず社会制度の変革よりも、人間の内なる変革をさきに考える。人間の革命なくして社会の革命はありえない、という立場ですね。
 だいたい、古今東西の革命的な出来事を見渡しても、民衆の意識変革が先行して達成された革命は、根底的なものを形成しながら、いつまでも続いている。それに対し、武力や権力によっておこなわれる革命は、犠牲が大きいわりには長続きしないものだ。その点、仏教にしても、キリスト教にしても、二千年もの長期にわたって、民衆の生きる支えとなり、人間として生きるべき指標となってきたことは、特筆されていいと思う。
 松本 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その著『東西文学評論』(林隆訳、恒文社)において「『旧世界』の民話のかなりの部分が仏教の原典にあとづけることができると今日では信ぜられている」と述べています。事実、西洋のお伽噺などのなかには、仏典やインドの説話から採り入れたものが、かなり多いといわれます。聖書のなかにある寓話でも、『法華経』の有名な「長者窮子の譬え」と、ほとんど同じものがあります。キリスト教と大乗仏教とのあいだに、なんらかのつながりがあるのではないか、といわれる根拠が、こうしたところにもあるわけです。
 もし、かりに直接的なつながりはないとしても、こういうことはいえると思う。ほんとうに深く人間生命を探究していけば、角度は違っても、やがて同一の結論に到達するということは、いくらでもあることです。仏教にしても、キリスト教にしても、やはり世界宗教にまで発展したほどの宗教は、そこに普遍的な真理を含むものがある。人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得のいくものがあり、それがこれらの宗教をして世界宗教たらしめたと考えられるね。
 西洋哲学にしても、キリスト教を中軸として、長年にわたって「不死」とか「神の存在証明」といった難問と取り組んできた。また東洋思想においても、仏教に説かれた「業」とか「輪廻」とか「縁起」の概念をめぐって、その思想的な豊かさを増してきた。もし人類の文明において、この二つの宗教が存在しなかったならば、人間の知恵は、いかにも底の浅いものになってしまったでしょう。
 松本 たしかに、非常に味気ないものになってしまいますね。
 ところで中村元氏は、仏教とキリスト教とが普遍的宗教にまで発展した要因として、次の三つを挙げています。
 第一に、原始的宗教の呪術的迷信を打破しようとしたこと。第二に、既成宗教の祭記の体系を否定したこと。これは、バラモンとパリサイ人を盲人に譬え、その否定の仕方まで両者に共通している第三に、民族的に偏狭な観念を克服したこと。仏教は四姓平等を説き、イエスもユダヤ民族中心主義を乗り越えたことを意味します。
 野崎 そのうち、第一と第二については、さきほども指摘がありました。第三の、民族的偏狭を打破したことについては、そのまま世界宗教に発展する必須条件であった。とくに仏教がギリシア世界や中国にも伝えられた背景として、すでに二千年前から基本的立場が定まっていたことは、次の『ミリノンダ王問経』の一節にも明らかです。
 「人が戒行に安住して、正しく注意努力するならば、サカ(スキチヤ)国でもヤヴァナ(ギリシア)でもチーナ(支那)でも、ヴィラータ(チラー夕、韃靼)でも、アラサンダ(アレクサンドリア)でも、ニクンバでも、カーシー(ベナレス)でも、コーサラでも、カシュミーラでも、ガンダーラでも、山頂においてでも、梵天界dせも、いかなるところに住立しても、正しく実践する者は、ねはんを実証します」(『ミリンダ王の問い』3、中村元・早島鏡正訳、平凡社)
 このようにインドでは、バラモンが階級差別の上に安住していたのに対して、仏教は最初から民族的偏狭を越えていたからこそ、広く世界宗教にまで発展したものと思います。
 池田 たしかに、そのとおりですね。しかも、単に形のうえで階級差別をなくそうとか、民族的偏狭を壊そうとしたのではない。その宗教の達観したもの、教義の本質において、人間の平等の尊厳性を説き、実現するものであるが故に、必然的に差別が超克されていくのです。
 また、その悟達のもたらす光明は、狭い民族の枠をこえて、世界のあらゆる人びとの生命を照らし、希望を生みだしていった。それは他民族にも伝えていこうという、単なる作為の問題でなく、民族の違いを超えて、すべての人におのずからその宗教が自分たちのために説かれていると実感させる、偉大な普遍性があったからです。
 こうした、教義のもっている哲理の崇高さと広さ、深さが、必然的に階級差別や民族的偏狭さを打ち破っていったところに、仏教とキリスト教が世界的宗教といわれるゆえんがあるのです。また宗教の力が、現実社会をどう変えうるかということも、表面的な行動や主張のみで速断するのではなく、この本質的立場から考察していかなければならないと思う。

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