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日蓮大聖人・池田大作

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五 東西文化の交流  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  東と西の転換期
 松本 仏教がインドを越えて、他の文化圏に影響を与えはじめたのは、アショーカ王の時代もありましたが、本格的には西暦紀元前後、すなわち仏滅後五百年ごろと思われます。もちろん、そもそも仏滅年代自体が歴史的に確定していませんので、この時代が果たして仏滅後五百年どろといえるのかどうかは確言できませんが……。
 野崎 仏滅後五百年ごろといえば、主に大乗教徒の間から「正法五百年」の説が出されています。日本に伝わった仏教の説では「正法一千年」説が一般的だったわけですが、このほかにいろいろな説が、じつはあったようです。ともかく釈尊の正しい教え(正法)は、滅後五百年にして衰滅に向かうという考えです。彼ら大乗教徒は、そのような危機意識を背景として、全インドにおいて一斉に興起したわけです。これは、伝統的な上座部系統の行き詰まりを打破しようとする、仏教の一大革新運動とも考えられます。
 池田 正法年間を何年とするかは、さまざまな説がありますね。学者の研究によると、釈尊は最初「正法五十年」と考えていたらしい。――自分の死後五十年もすると、直接の指導をうけた声聞の弟子たちも次々と他界し、まったく新しい世代によって仏教が伝えられていくことになる。そのときこそ、釈尊の教団にとって第一の危機である、と考えたのでしょう。これは予言というよりも、むしろ滅後の弟子に対して警告を発し、末永く仏法が伝えられていくよう、自覚を促したものと考えられる。
 ところが、その第一の危機を乗りこえた仏教徒のあいだでは、次に仏滅後五百年ごろを第二の危機とする考えが出てきた。いわゆる「正法五百年」の説が、このころ一般に信じられるようになる。『ミリンダ王問経』が今日に伝えられているような形態をととのえたのが、だいたい紀元前後のころとされているが、これにも次のような話が伝えられているね。
 ――アーナンダ(阿難)が釈尊に願い出て、女性の出家が認められたときのことであった。
 「アーナンダよ、もしもびくにが出家しなかったならば、正しい教えは、一千年存在するであろう。〈アーナンダよ、女人がブッダの説かれた教えと規律とにおいて出家したから〉、アーナンダよ、いまや、正しい教えは、五百年だけ存在するであろう」(『ミリンダ王の問い』2、中村元・早島鏡正訳、平凡社)
 これは、今日のウーマン・リブの女性ならずとも、およそ世の女性が聞けば、怒り心頭に発するような話だね(笑い)。しかし当時は、それがまことしやかに信じられたらしい。
2  野崎 そのように「正法五百年」の説が強まってきた背景には、実際に当時の仏教教団内に危機意識があったからではないでしょうか。釈尊の仏法の正統を受け継ぐとされた教団が、いくつもの部派に分裂し、互いに閉鎖集団を形成してしまっている。アビダルマ(阿毘達磨)研究は、ますます煩墳におちいり、大衆からは遊離する一方であった。――そうした背景があったからこそ、在家信者を中心とした大乗教徒が、仏滅後五百年前後に一斉に興起したものと思います。
 池田 たしかに「正法五百年」説が切実に論じられたのは、そうした現実の状況があったからでしょう。これは「末法」ということについても同様で、日本における平安朝末期の末法観とは別に、中国には中国に、やはり世の中が衰微したときに末法観が流布している。インドの場合も、仏教教団は仏滅後五百年にして、一つの大きな革新を必要としたことは事実だった。時代の大きな転換期に突入していたわけだね。
 仏教教団の内部事情については、とくに大乗興起の問題にしぼって、あとで詳しく考察を加えるとして、その前に、この時代のインドから中央アジア、西方世界にわたる地域の動きをみておきたい。というのは、紀元前三世紀にアショーカ王が仏教を西方世界に伝えて以来、インドと西方諸国との交流が、かなり活発におこなわれているからです。そうした東西文化の交流に注目しておくことは、やがて仏教が世界宗教に発展する契機を理解するうえにも、きわめて重要なことであると思う。
 松本 そうですね。仏教思想がギリシア世界に与えた影響については、このまえの「ミリンダ王の問い」(『ミリンダ王問経』)において、その一例をみました。それに対して、西方世界からインドに与えた影響についても、無視することはできません。よく知られているように、紀元前四世紀にマケドニアの大王アレクサンドロス(アレキサンダー大王)のインド遠征が与えた影響は、このころになってさまざまな分野にあらわれています。もっとも、大王アレクサンドロスのインド滞在は数カ月という短期間でしたが、彼の事業の継承者が二百年近くインド世界に滞在したし、その後はヘレニズム文化の影響をうけたスキタイ系のサカ族などが数世紀に及んで滞在したので、当然そこに仏教とヘレニズム世界との交流がおこなわれ、有名なガンダーラの仏教芸術が生みだされたものと思われます。
 おもしろいことに、ギリシア人が侵入して来る前のインドの仏教徒たちは、釈尊の像を造ることを遠慮していました。たとえば、釈尊の悟りのときの状態を表す場合でも、ただ菩提樹とその下にある座だけを造形して、釈尊の存在については暗示するにとどめています。しかし、ガンダーラの仏教芸術になると、釈尊を具体的に仏像として造形するようになります。これなどは西洋の考え方が、インド人に与えた影響の一例といえると思います。また後の大乗仏教も、西洋思想を吸収した面があるといわれていますが、詳しくは後にゆずりたいと思います。
3  野崎 仏教と並んで、もう一つの世界宗教となったキリスト教が、ちょうどこの時代に西方のパレスチナに現れています。インドを中心とする東方世界においても、西方のローマ帝国においても、混沌とした時代の転換期を迎えていたのではないでしょうか。すなわちインドにおいては、ギリシア人の支配者が去った後、なおも異民族の侵入があり、バラモンも仏教も硬直化して、生気を失いつつあった。地中海沿岸の広大な地域を支配したローマも、共和政から帝政に移っていた。ということは、その体制の重圧が、庶民とくに周辺の被征服民の上にのしかかつてきていたといえます。
 そうした時代の転換期にあっては、人びとは英雄の出現を待望し、魂の救済者を求めるようです。インドでは、釈尊によって予言されたマイトレーヤ(弥勃)菩薩の出現が期待され、ユダヤ教徒のあいだでもキリスト(救世主)への渇仰が高まっている。そこに、なにか共通のものがあるように思います。
 池田 やはり時代的にも、当時は末世的な様相を帯びていたものと思われる。しかし、「闘が深ければ深いほど夜明けは近い」という言葉があるように、文明の終末的な状況においては、人びとは偉大な思想、宗教を待望する心も強いし、またそれに応えるかのように、思想家、宗教者が現れ、人類の行く手を照らす光源となっていくものだ。
 インドにおいても、仏教が小乗仏教の段階にとどまっていたならば、今日のような世界宗教とはならなかったでしょう。この時代に大乗仏教が一斉に興起し、広く開かれた宗教となったからこそ、仏教は中国から日本へ、そして西方世界にも伝えられたものと思われる。
4  仏教とキリスト教
 松本 仏教が西方世界に与えた影響について、ここに面白い書物があります。著者は関西大学の堀堅士氏で、書名は『イエスと浄飯王』とあります。私家本として出され、版元は京都の玄文社となっております。
 ここで著者は、『聖書』と仏伝とを綿密に比較対照した結果、イエスによって開かれたキリスト教は、インドの大乗仏教の一分派であるという結論を導き出しています。「来るべき者」としてのメシヤは、仏教における「当来仏」としての弥勒、すなわちパーリ語のメッティーヤ(サンスクリット語では「マイトレーヤ」)からきている。『聖書』の「天にいますわれらの父」というのは、大乗仏教の「久遠実成の本仏」であり、イエスに濯頂の儀式を施したヨハネは、漢訳仏典の「浄飯王」(釈尊の父)がなまった名である、という。その他、イエスの母マリヤは、釈尊の母「摩耶」夫人からきているとか、まだたくさんの例を挙げていますが……。
 池田 非常に興味ぶかい研究ですね。昔から仏教とキリスト教との比較研究は、さまざまな学者がおこなっている。増谷文雄氏の『仏教とキリスト教の比較研究』では、両者の微妙な違いを明らかにするところに、ウエートがおかれていたように思う。なにしろ、東洋と西洋では、思想を育む文化的な土壌が違うので、そこに生まれた宗教、すなわち仏教とキリスト教にも、明らかな違いがある。
 その意味では、これまでの研究に仏教とキリスト教との相違を強調するものが多かったのも、むしろ当然といえるね。ところが、最近になって、両者の共通点をさぐろうとする研究が出始めてきたのは、きわめて興味ぶかい現象といえる。
 野崎 たしかに、もはや東洋と西洋とを二元論的対立において捉える時代は、過ぎ去ったように思います。現代に求められるのは、「地球は一つ」という意識を育てることだと思います。そのようなときに、東洋と西洋と、どう違うかを論ずることも、それなりに意味はありますが、もっと根底にある共通面に目を向けていくことが大事だと思います。まして、どう違うかということから、いずれが優位にあるかを争うなどということは、およそナンセンスだといわなければなりません。
 その点、インドは早くから東西文明の接点にあって、人種的にも両方が入りまじっていた。したがって、われわれ日本人が考えるほどには、インドでは東洋とか西洋の違いについて、意識しなかったのではないでしょうか。文化人類学者の梅棹忠夫氏も、その著『文明の生態史観』(中央公論社)において、インドから地中海にかけての西南アジア諸国を「中洋」として扱うべきだとさえ提唱しています。
 松本 前の「ミリンダ王の問い」においてみたように、たしかにこの地域では、すでに紀元前何百年もの昔から、絶えず交流がおとなわれていた。というより、むしろ地続きの「一つの世界」を形成していたと考えるほうが早いかもしれません。だから、梅棹氏の表現を借りれば、仏教もキリスト教も同じ世界、つまり「中洋」から生まれたものと表現して、けっしておかしくないのではないでしょうか。
 池田 なるほど、一つの重要な視点といえますね。
 それはともかく、仏教もキリスト教も、人間として生きるべき道を説いた点において、共通している。一般に宗教といえば、その起源は祭紀的・呪術的なところに求められ、氏族社会の政治的な要素と密接なつながりをもっているものだけれども、仏教とキリスト教の発祥においては、そういった要素はみられない。むしろ逆に、政治上の権力と対決するところから生まれてきた。それ故にこそ、これらの宗教の歴史は、しばしば権力の弾圧による受難に彩られているのです。
 それは、この二大宗教が、政治的に閉ざされた祭祀的秘術の宗教よりも、もっと高い次元の人間的な価値創造をめざしているからではないだろうか。元来、釈尊の教えも、イエスの教えも、そこにあったのですから、それを実践する弟子たちの行動は必然的に人間共和の世界をめざして、民衆救済に立ち上がらざるをえない。
 松本 キリスト教における「救済」の観念は、中村元氏の『インドとギリシアとの思想交流』によれば、大乗仏教の「菩薩」思想から出ているのではないか、と主張されています。また、キリスト教の興起以前に、ユダヤ教の一分派であるエッセネ派が、西暦紀元ごろに死海の沿岸で、約四千人の会員からなる修道団体を形成し、仏教の出家修行僧団と同じような簡素な生活を送っていたことが伝えられています。ここからイエスは、このエッセネ派となんらかのつながりがあったのではないか、と中村氏は推測されているわけです。
 野崎 本来、ユダヤ教というのは、ユダヤ人の社会生活のなかに体制宗教として伝えられてきたものであって、社会から離れて独自の修道生活を営むということは考えられないわけです。そんなところから、このエッセネ派というのは、いうより、むしろ仏教のサンガ(僧伽)から影響をうけたのではないか、といわれています
 池田 中村元氏の研究でも、そういった例は数多く紹介されているね。北欧では仏教寺院の遺跡が見つかったというし、スウェーデンでも一九五四年七月に小さな仏像が発見されている。イギリスなどでは、キリスト教が弘まる以前に、すでに仏教が伝わっていたのではないか、という説もある。それは、紀元二三〇年ごろに、オリゲネスが『エゼキエル書註解』において「その島(イギリス)では、すでにドゥルイド僧たち(Druids)と仏教徒とが神の唯一性の教えを弘めてくれていたので、そのためにずっと以前から、それ(キリスト教)への傾向をもっていたのである」(中村元訳)と記していることからも証明されている。
 ここにあるドゥルイド僧というのは、西洋としては異例な「輪廻」の観念をいだいていた、とされるものだ。すなわち西洋の学者たちは、紀元前三世紀のアショーカ王による仏教西漸が、当時のヨーロッパとしては辺境地域であったイギリスのケルト族のあいだにまで及んでいた事実に、驚きの眼をもって注目している。まことに仏教の影響力は、今日では想像もつかないところにまで及んでいたわけだね。
 野崎 なにしろ当時は、今日のように交通機関が発達していたわけではない。馬も使われていたでしょうが、ほとんどが徒歩ですから、たいへんだったと思います。釈尊にしても、イエスにしても、その伝記を読むとじつによく歩いています。それも日本のように、箱庭のような景色を眺めながら歩く風流の旅ではなく、苦悩に沈む民衆救済のために、あの広大な大陸を東へ西へ、北へ南へと、熱砂のなかを歩いています。その一念があったればこそ、仏教がイギリスにまで伝えられたのではないでしょうか。
 松本 ちなみに、イギリスの南ウェールズの古代都市の遺跡から多数のローマ貨幣と一緒に、ミリンダ王の貨幣が一枚発見されたそうです。ミリンダ王は、紀元前二世紀に西北インドを支配した帝王ですから、インドからローマを経てイギリスにまで渡ったこの一枚の貨幣の運命をたどっていくと、井上靖氏の小説のような、おもしろい古代ロマンが描けそうですね……。
 池田 おそらくその貨幣は、インドに、おいて大乗教徒の興起をみているにちがいない。彼らの活動を経済的に援助していた在家信者の豪商の手を経て、西方のローマ世界に渡されたのではないか。またその貨幣は、パレスチナの地に現れた救世主の悲劇的な死を、風の便りに聞いて悲しんだかもしれない。歴史学者のヴインセント・スミスの想定では、ローマの貿易商か兵士が、この貨幣を珍奇なものとして蒐集したのではないか、ということだね。
 ともあれ、この時代にイギリスにまで仏教が伝えられていたとすれば、たいへんなことだ。近代から現代にかけて、とくにイギリスに、おいてインド仏教の研究が盛んなのも、そこに何か不思議な縁のようなものを感じるね。むろんイギリスは、長いあいだインドを植民地にしていたから、そうした植民地政策の一環として研究の対象とした面もあるだろう。
 しかし、どうもそれだけではないような気がする。古代からの不思議、なつながりの糸によって結ばれているようにも感じられるね
 野崎 インド仏教に対して、ヨーロッパの哲学者たちが強い関心を示してきたのも、そこに何か共通の土壌があるように感じます。さきほどの堀堅士氏の著書(『イエスと浄飯王』)のあとがきにも、ドイツの哲学者ショーぺンハウエルの次のような言葉が引用されています。
 「いつの日にか、インドの宗教に精通した聖書学者が出て、詳細な証明によりインドの宗教とキリスト教との関係を解釈するに至るであろう」
 青年時代の堀氏は、この言葉に深い感銘を得て、以後三十年間、インド仏教とキリスト教との関係を明らかにする研究に力を注いだということです。
 松本 その堀氏の研究は、『仏教とキリスト教』(レグルス文庫)と題して、第三文明社から出版されました。それを読んでみましたが、非常におもしろい。これは、なにも宣伝するわけではありませんが……。(笑い)
 ところで、それによると、一九五八年にアフガニスタンにおいて、フランスの学術調査団がアショーカ王の法勅碑文を発見したわけですが、それはアラム語とギリシア語で書かれていた。当時、学術的にもたいへんに騒がれたわけです。堀氏は、このアラム語に注目する。すなわち、このアラム語こそは、アーリア民族の打ち立てた最古の大帝国、東はインダス河流域から南はエジプトのヌピアにいたる、かの大王ダリウス(ダレイオス3世)のぺルシア帝国の公用語とされていたもので、イエスの時代の日常用語でもあったわけです。そのことからイエスが、このアラム語を通じて仏教に接触し、なんらかのものを汲みとったのではないか、という推定が成り立ちます。
 池田 現代人は、紀元前後ごろの中近東から中央アジアやインドに関して、現代の姿をとおして判断しがちです。だが、もしその時代に身をおいて考えたら、様相は一変してしまうにちがいない。中央アジア――すなわちインドの西北方は、文明の十字路といわれるほど、東西、そして南北を結ぶ文化交流の要衝だったわけです。
 そして、そうした地の利を得て、多くのオアシス都市が建設されていた。これは、ジンギスカンの征服と徹底的な破壊によって、今日のような荒廃した地域になってしまったけれども、それ以前には、中国の長安、西のローマと並ぶ百万都市さえも、この中央アジアにあったのです。
 つまり、ぺルシア(イラン高原)からこの地にかけでは、当時、一つの広大な文明圏を形成しており、しかも東の中国、南のインド、西のローマといった文明圏のあいだにおこなわれた文化交流の通路という意味で、最も国際色豊かな、先進的な文明
 圏でもあった。この、いわば「中東文明圏」の西端であるパレスチナと、東端である大乗仏教の地、西北インドとのあいだに、交流がなかったと考えるほうが不自然だといえるのではないだろうか。
5  世界宗教の条件
 松本 中村元氏の研究では、仏教がキリスト教に与えた影響ばかりではなく、ギリシア哲学との交流にも言及されています。一般に西洋哲学の起源はギリシアにあるとされていますから、その意味では、間接的であっても今日の西洋哲学も、仏教の影響をうけていることになります。その一つの例として、仏教もギリシア哲学も「自我」とか「存在」とか「生命」に関して、共通の関心を向けていることが挙げられます。
 野崎 ソクラテスの「汝自身を知れ」というのは有名ですが、釈尊も「汝自身を省み尋ねるがよい」といっています。経典にも、自己省察をすすめた文証をさがせば、きりがありません。
 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(前出『ブッダ最後の旅』)
 「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
 これは、ほんの一例ですが、仏教には深い自己省察から発せられた言葉が、ずいぶんありますね。
 池田 およそ哲学とか宗教といったものは、人生とか世界に対する反省的な思考というか、人間としての自覚から起こっている。キリスト教の原罪意識にしても、また人間の醜い欲望を乗り越えようとする仏教の生き方にしても、そこに人間としての真剣な求道精神が感じられる。それが、人間の理想とすべき普遍的な生き方につながっているのではないか。
 極端に聞こえるかもしれないが、いくら制度や機構をいじっても、それを運営する人間が変わらなければ、世の中はよくならない。その意味で、哲学とか宗教というのは、まず社会制度の変革よりも、人間の内なる変革をさきに考える。人間の革命なくして社会の革命はありえない、という立場ですね。
 だいたい、古今東西の革命的な出来事を見渡しても、民衆の意識変革が先行して達成された革命は、根底的なものを形成しながら、いつまでも続いている。それに対し、武力や権力によっておこなわれる革命は、犠牲が大きいわりには長続きしないものだ。その点、仏教にしても、キリスト教にしても、二千年もの長期にわたって、民衆の生きる支えとなり、人間として生きるべき指標となってきたことは、特筆されていいと思う。
 松本 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その著『東西文学評論』(林隆訳、恒文社)において「『旧世界』の民話のかなりの部分が仏教の原典にあとづけることができると今日では信ぜられている」と述べています。事実、西洋のお伽噺などのなかには、仏典やインドの説話から採り入れたものが、かなり多いといわれます。聖書のなかにある寓話でも、『法華経』の有名な「長者窮子の譬え」と、ほとんど同じものがあります。キリスト教と大乗仏教とのあいだに、なんらかのつながりがあるのではないか、といわれる根拠が、こうしたところにもあるわけです。
 もし、かりに直接的なつながりはないとしても、こういうことはいえると思う。ほんとうに深く人間生命を探究していけば、角度は違っても、やがて同一の結論に到達するということは、いくらでもあることです。仏教にしても、キリスト教にしても、やはり世界宗教にまで発展したほどの宗教は、そこに普遍的な真理を含むものがある。人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得のいくものがあり、それがこれらの宗教をして世界宗教たらしめたと考えられるね。
 西洋哲学にしても、キリスト教を中軸として、長年にわたって「不死」とか「神の存在証明」といった難問と取り組んできた。また東洋思想においても、仏教に説かれた「業」とか「輪廻」とか「縁起」の概念をめぐって、その思想的な豊かさを増してきた。もし人類の文明において、この二つの宗教が存在しなかったならば、人間の知恵は、いかにも底の浅いものになってしまったでしょう。
 松本 たしかに、非常に味気ないものになってしまいますね。
 ところで中村元氏は、仏教とキリスト教とが普遍的宗教にまで発展した要因として、次の三つを挙げています。
 第一に、原始的宗教の呪術的迷信を打破しようとしたこと。第二に、既成宗教の祭記の体系を否定したこと。これは、バラモンとパリサイ人を盲人に譬え、その否定の仕方まで両者に共通している第三に、民族的に偏狭な観念を克服したこと。仏教は四姓平等を説き、イエスもユダヤ民族中心主義を乗り越えたことを意味します。
 野崎 そのうち、第一と第二については、さきほども指摘がありました。第三の、民族的偏狭を打破したことについては、そのまま世界宗教に発展する必須条件であった。とくに仏教がギリシア世界や中国にも伝えられた背景として、すでに二千年前から基本的立場が定まっていたことは、次の『ミリノンダ王問経』の一節にも明らかです。
 「人が戒行に安住して、正しく注意努力するならば、サカ(スキチヤ)国でもヤヴァナ(ギリシア)でもチーナ(支那)でも、ヴィラータ(チラー夕、韃靼)でも、アラサンダ(アレクサンドリア)でも、ニクンバでも、カーシー(ベナレス)でも、コーサラでも、カシュミーラでも、ガンダーラでも、山頂においてでも、梵天界dせも、いかなるところに住立しても、正しく実践する者は、ねはんを実証します」(『ミリンダ王の問い』3、中村元・早島鏡正訳、平凡社)
 このようにインドでは、バラモンが階級差別の上に安住していたのに対して、仏教は最初から民族的偏狭を越えていたからこそ、広く世界宗教にまで発展したものと思います。
 池田 たしかに、そのとおりですね。しかも、単に形のうえで階級差別をなくそうとか、民族的偏狭を壊そうとしたのではない。その宗教の達観したもの、教義の本質において、人間の平等の尊厳性を説き、実現するものであるが故に、必然的に差別が超克されていくのです。
 また、その悟達のもたらす光明は、狭い民族の枠をこえて、世界のあらゆる人びとの生命を照らし、希望を生みだしていった。それは他民族にも伝えていこうという、単なる作為の問題でなく、民族の違いを超えて、すべての人におのずからその宗教が自分たちのために説かれていると実感させる、偉大な普遍性があったからです。
 こうした、教義のもっている哲理の崇高さと広さ、深さが、必然的に階級差別や民族的偏狭さを打ち破っていったところに、仏教とキリスト教が世界的宗教といわれるゆえんがあるのです。また宗教の力が、現実社会をどう変えうるかということも、表面的な行動や主張のみで速断するのではなく、この本質的立場から考察していかなければならないと思う。

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