Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 アショーカ王  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  絶対平和主義の政治
 松本 そこで次に、発掘された碑文によって、アショーカ王(天愛喜見と自称)の治世をさらに詳しくみていきたいと思います。
 まず、摩崖法勅第十三章には、彼はカリンガ征服による戦争の惨状を述べた後、次のように記しています。
 「また、天愛にとって、これよりも一層悲痛と思われるのは、次のことである。〔すなわち〕そこに住する婆羅門、または沙門、または他の宗派のもの、または在家であり、かれらの中で、これらの尊者に対する従順、父母に対する従順、教師に対する従順、朋友・知人・同僚・親族ならびに奴隷・従僕に対する正しい扱い、および堅固な信仰を実践するものに、災害または殺害、あるいは愛する者との別離が生じる」(『アショーカ王碑文』塚本啓祥訳、第三文明社)
 このように悔謝かいしやしたアショーカ王は、以後は法(ダルマ)による征服を最上となし、法に対する愛慕および法の教勅をおこなうむね誓っています。そして、帝国の諸隣邦へも平和使節を派遣し、戦争を放棄して平和的親好をすすめるよう呼びかけています。
 野崎 ちなみに使節を派遣した先は、南方インドのチョーダ人、パンディヤ人、ケーラララプトラ族、サーティヤプトラ族、セイロン(現スリランカ)などの他、シリア王アンティオコス二世、エジプト王プトレマイオス二世、マケドニア王アンティゴノス二世、北アフリカのキュレネ王マガス、エベイロス王アレクサンドロス二世(あるいはコリントス王アレクサンドロス)など、五名のギリシア世界の王のもとへ使臣をつかわしています。
 池田 まさに画期的なことだね。西洋の学者たちが、アショーカ王の平和外交に驚嘆の眼を向けているのも、うなずけるものがある。
 二十世紀も後半の現代にいたって、ようやく平和共存外交なるものが活発化しているようだが、アショーカ王のそれは、今日の超大国のように巨大な核権力をバックにしたものではない。あくまでも絶対平和主義の仏法理念を根底にした訴えであったわけです。また、一方的に戦争放棄を宣言するということは、並大抵のことではできないものです。わが国の憲法は、戦争放棄を謳った世界でも稀にみる平和憲法であるとされているが、それにもかかわらず現在、世界有数の軍事力をもつにいたっている。
 伝えられるところによれば、法(ダルマ)による統治を決意したアショーカ王は、軍備を削減し、軍隊もパレードとか儀式用に使われるのみであった。農民などは、兵役義務を免除されていたことが、記録にも残されているね。だから、法による統治といっても、国家権力を背景にして民衆に押しつけたものではない、と思われる。
 松本 アショーカ王の統治理念は、たとえいまだ十分に帰服していない辺境人であっても、あたかもわが子と同じ思いをなして接するというほどのものでした。その精神は次の「別刻摩崖法勅」第二章によくあらわれていると思いますので、少し長くなりますが読んでみます。
 「すべての人は私の子である。私は子のためと同様に、〔かれらが〕現世と来世の、すべての利益と安楽を得ることを、願う。また、私は同じことを、すべての人びとのために願う。未帰順の辺境人には、『王はわれわれに対して何を欲するか』との問が生じるであろう。次のことのみが、私の辺境人に対する願いである。〔すなわち〕『天愛はかように願っている』『かれら(辺境人)が私によって恐れることなく、私を信頼し、安楽のみをえて、私からどんな苦をも蒙ることがないように』ということを、かれらに了得せしめること、また、『天愛は私によって容認できることをかれらに容認するであろう』〔こと〕、『かれらが法を実践するように』『かれらが現世と来世の〔利益と安楽〕を得るように』ということを、かれらに了得せしめることである」(前出)
 これは、カリンガ国に派遣された諸々の辺境大官に対して発せられた詔勅です。
 池田 釈尊も「一切の衆生は吾が子なり」といっているね。ここには、四姓平等を説いた仏法の理念が、脈々と息づいているように思われる。また仏教には「衆生の恩」が説かれているが、アショーカ王も自ら一切の衆生に債務を負っていることを認めている。このような政治家が、はたして世界史上に何人いただろうか。
 だいたい古今東西の権力者なるものは、民衆に対して自らの権利のみを押しつけ、上から強権的に支配するのが通例であった。自らが民衆に対して義務を負っているとするような政治家は、数えるほどしかいない。
 このようにみてくると、アショーカ王はたいへんな政治家であったことがよくわかる。彼は、「十四章摩崖法勅」の第六章において、その決意を述べているね。
 松本 ええ、その部分を読んでみます。
 「過去長期のあいだに、どのような時にも、未だかつて政務を裁可し、上奏を聴取することはなかった。故に、私によって次のような〔措置が〕なされた。〔すなわち〕私が食事をしている時でも、後宮においても、寝所においても、畜舎においても、乗物の中においても、御苑においても、どのような時にも、どこにおいても、上奏官は人民に関することを私に奏聞しなければならない。そうすれば私はどこにおいても、人民に関することを裁可するであろう。また、私が口頭で命じる何らかの賜与または布告に関して、もしくは大官のあいだに委任せられる緊急事件に関して、その事のために〔大官〕会議に諍論または再審〔の必要〕が生じた時には、どこにおいても、どのような時にも、ただちに私に〔この事〕奏聞しなければならない」(前出)
 池田 この法勅に明らかなように、アショーカ王は自らおこなう政治が、まさしく歴史的意義をもつことを、よく承知していた。武力によるのではなく、法(ダルマ)にもとづく政治をおこなうのは、歴史上にアショーカ王をもって初めとすることを、ここに宣言しているわけだね。
 松本 そこで、念のために「十四章摩崖法勅」の概要を示せば、次のようになっています。
  第一章 殺生・供犠を禁じる。
  第二章 人畜のために二種の療院を建立し、薬草を栽培し、街路樹を植え、井泉を掘鑿せしむ。
  第三章 五年毎の地方巡察に出ることを命じる。
  第四章 法の宣行を増長すべきことを述べる。
  第五章 法大官を設置する。
  第六章 上奏官に迅速な政務の処理を命ずる。
  第七章 一切の宗派が一切処に住することを希い、克己と心清浄を強調する。
  第八章 過去の諸王の慣行であった娯楽の巡行を廃して、法の巡行を始める。
  第九章 法の祈願と、その功徳を説く。
  第十章 法柔順と、法実行することと、それによる名声と栄誉を説く。
  第十一章 法の布施、法による親善、法の分与、法による結縁を、優れた布施であると説く。
  第十二章 一切の宗派相互の寛容を説き、切の宗派の本質増長を、優れた布施または崇敬であるとなし、法大官、監婦大臣、飼畜苑官に管掌せしむ。
  第十三章 カリンガ征服による惨状を述べ、その悔謝として、法に対する愛慕および法の教勅を行なう。法による征服を最上の征服となし、帝国の諸隣邦へ使臣を派遣する。五人のギリシア玉名を挙げる。
 第十四章 結びの言葉。領土内に銘刻せしめた法勅は、場所の如何によって、簡潔なもの、中庸なもの、詳細なものがある。
 野崎 その他、アショーカ王の法勅には、別刻摩崖法勅、小摩崖法勅、七章石柱法勅、小石住法勅、洞院刻文、皇后法勅などがあり、マウリヤ王朝の版図であったインド亜大陸の各地から発見されていますね。
 池田 当時は、テレビや新聞があったわけではないから、施政の方針を伝えるのに、石や崖を磨いて銘刻したわけだね。そこには、二千年以上の歳月を経て、今日生きいきと現代人に語りかけてくるものがある。残念ながら現代世界の政治家にして、アショーカ王の治世に恥ずべき人が、あまりにも多すぎるのではないだろうか。
3  政治と宗教の関係
4  野崎 さて、アショーカ王の治政の根底にあるものとして、やはり仏教思想の影響を無視することはできません。そこで次に、アショーカ王時代の宗教事情について考えてみたいと思います。
 まず注目されることは、アショーカ王は熱心な仏教徒となっても、仏教以外の他の宗教を排斥したわけではありません。むしろ積極的に援助さえしています。その間の事情について、コーサンボー(インドの歴史学者)は次のように表現しています。
 「かれはマガダの宗教者に耳を傾け始めて仏教徒になった。この改宗は、しばしば三二五年のローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教への改宗と比較されるが、アショーカは国家と結びついた組織的な教会を創設しなかったし、また国教のキリスト教がローマ帝国内で異教を一掃したと同じ方法で、インドの他の宗教を終熄させたのではない。これとは反対に、アショーカとその後継者たちは、ジャイナ教やアージーヴィカ教に対してもバラモンに対しても寛大に贈り物を与えた」(『インド古代史』山崎利男訳、岩波書店)と。
 つまり、一個人としてのアショーカは仏教徒であったが、国王としての彼は、けっして仏教を国教化したわけではない。事実、宮廷内にバラモンの信者もいたし、アショーカ王の詔勅にも、当時の主な教団として、仏教、バラモン教、アージーヴイカ教(邪命外道)、ジャイナ教が挙げられ、宗教者を等しく尊敬すべきことが記されています。
 池田 いまの話は、非常に重要な点だね。政治と宗教のあるべき姿が、具体的に示されていると思う。もともと「政教一致」は、キリスト教と国家権力との関係から出た、西欧的な概念であった。それに対して、仏教が本来とった政治と宗教の関係は、政治に宗教的心情から出る普遍的理念が反映されることである。それを混同して、西欧的な政教一致と同列に論ずることはできない。その点、コーサンビーの視点は、両者の違いを的確に捉えている。
 アショーカ王の例に明らかなように、政治家が仏教の慈悲の精神を基調にして、それを具体的な政治に反映することが大事である。その際、仏教の理念は、教義的なドグマとして押しつけられるものではなく、人間として在るべき「法」を説いたものであって、けっして偏狭なものではない。したがってアショーカ王は、絶対平和主義と生命尊重の理念に代表される普遍的な「法(ダルマ)」にのっとって政治をおこなったのであって、仏教以外の宗教を排斥しなかったわけです。もし仮に、彼が仏教を国教化し、バラモンその他の宗教を弾圧したとすれば、それは民衆に敵対することとなり、かえって仏教の精神から遠ざかることになる。
 これに関連して大事なことは、政治と宗教が次元を異にするといっても、つまり政治家や王としての公的立場では宗教に対して平等でなければならないとしても、政治家が宗教を信じてはいけないということにはならない。それでは、政治家には「信教の自由」が、まったくないことになってしまう。むしろ、信念なき政治は、ちょうど羅針盤をもたない船のようなものであって、乗客はどこへ連れられていくのか、不安でたまらない。問題は宗教に対して特定の考え方をもっ政治家が、公的権力をもって宗教の世界に介入してくる場合である。そのときには、民衆は「信教の自由」を守る立場から、団結して政治の介入を排除すべきでしょう。
 野崎 アショーカ王の場合も、仏教に帰依する以前の彼は、婆羅門あるいは沙門を弾圧した形跡があります。その「暴悪なるアショーカ」に対して、仏教徒が先頭に立ってこれを諌め、彼を信仰者としたことが、いくつかの経典にみられます。なかには、死を覚悟してアショlカ王を説得した僧侶の話も伝えられている。その結果、アショーカ王は深く前非を悔い、即位十年ごろから明確に「法のアショーカ」として蘇生することになるわけですね。
 松本 その間の事情は、次の「小摩崖法勅」の第四章に生きいきと伝えられています。
 「〔即位〕十年が満された時、喜見王は人びとに教誠した。
 そして、それ以来、かれは人びとを法に専心せしめた。そこで、すべてのものは、すべての土地において利益と安楽をえている。
 また、王は生物〔の殺害〕を慎しみ、他の人びととそれほど多くの王の猟師もしくは漁師は、猟することをやめている。
 また、もし誰かが〔生物において〕不節制であれば、かれらは力の及ぶ限り〔生物を殺害する〕不節制をやめている。
 また、父母や長老には従順である。
 しかも、現世と来世において、かれらはすべての人びとに、利益と安楽を得しめて暮すであろう」(前出『アショーカ王碑文』)と。
 このようにしてアショーカ王は、すべての生きとし生けるものに対する「慈悲の政治」をおこなったわけです。
 池田 生き物を殺害しないように呼びかけたばかりでなく、自ら菜食主義を実践し、宮廷内でも一時は肉類は一切食べなかった、といわれている。そのため、首都のパータリプトラ(華氏城)の肉屋は破産しそうになった(笑い)という話もある。
 記録によれば、王としての公的な立場においては、すべての宗教に対して平等に対処しているね。アージーヴィカ教(邪命外道)に対してさえ洞院を寄進している。といっても、個人の立場になった場合には、正法を正しく行じており、その点を明確に立て分けている。
 そうした仏教への帰依については、アショーカ王は即位十年に釈尊成道の聖地ブッダガヤー(仏陀伽)を訪れ、以後はそれまでの慣習であった「娯楽の巡行」をやめ、いわゆる「教法の巡行」をおこっているね。彼は、釈尊降誕の地ルンビニー(藍毘尼)にも行って供養をなし、減税措置を講じている。
 伝えられるととろによれば、彼は八万四千の仏舎利宝塔を建てたとされているが、それは現在、全インドから数多くのストゥーパ(塔)が発掘されていることによって証明されている。なかには、無名の庶民の寄進になるストゥーパも多数発見されており、この時代に仏教が全インドに広宣流布したことは、もはやまぎれもない事実であると思われる。
 野崎 それまでの仏教徒は、各地に散在していたわけですが、アショーカ王の出現によって、初めて仏教が全インドの国民宗教となったといわれています。もっともアショーカ王は、自ら「大王」とか「帝王」と呼ばれるのをきらって、あくまでマガダ国の王にすぎないという自覚をもっていたようですが……。
 池田 アショーカ王はまた、各地に仏教の聖僧を派遣し、教法の流布につとめている。セイロン(現スリランカ)には、王子マヒンダを派遣し、それが今日の南伝仏教の源流をなすといわれているね。当時「花の都」とうたわれたパータリプトラ(華氏城)市には、六万人の僧侶がいたとも伝えられているから、仏教は非常な興隆期を迎えたのでしょう。なにしろ、バラモン行者が、生活が成り立たなくなって大挙して仏教に改宗したという話もあるくらいだから(笑い)。
 南伝の経典によれば、あまりにも急激に仏教僧が増加し、正しい教法が乱されるおそれが出てきたため、仏滅後二百三十六年に首都パータリプトラに一千名の高僧が招集され、経典の結集がおこなわれたという。これが「第三結集」とも「一千比正結集」とも呼ばれるものだね。ほぼこの時期で、釈尊の教法は一応の整備がなされたのではないだろうか。
 松本 今日まで伝えられる膨大な仏典の原形は、ほぼこの時代にできあがったものと思われます。
 池田 このようにして、アショーカ王の治世は三十七年の長きに及ぶが、カリンガ征服以後の二十数年間、これといった戦争もなく、民衆は平和な生活を満喫することができた。「石柱法勅」第五章によれば、彼は即位二十六年にいたるまで、二十五回も囚人の釈放をおこ、なっている。これは、紀元前三世紀の世界にしては、まさに画期的なことだ。
 また彼は、人民を搾取する専制君主といった観念とは、正反対の存在であった。それは、さきほど野崎君が言ったように、アショーカ自身は「大王」と呼ばれるのをきらったという話にもうかがわれるし、王室の国庫が疲弊するまで、彼が社会齢世に全力を挙げたことでも明らかです。
 私は、このアショーカ王については、今後なお世界的に研究も深まり、偉大な帝王としてさらに脚光を浴びる時代が必ずくると思う。それは、彼の治政を支えた仏教理念が、破局の危機に直面する現代人に、いよいよ注目されつつある事実をもってしても、十分うなずけるのではないだろうか。

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