Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 上座部と大衆  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  原点に帰る運動
 松本 上座部と大衆部の対立については、これまでみてきた戒律をめぐる争いの他に、上座部(長老派)が出家僧中心の閉鎖集団に陥っていたという背景があるようです。
 渡辺照宏氏は先の『お経の話』の中で、上座部系統が超世俗的、修道院的、因襲的、エリート的な出家教団になっていた、とみています。それに対して大衆部系統は、自身の解脱への修行は犠牲にしても、大衆のなかに飛びこんでいった修行僧の集まりであった、といわれます。後に大乗教徒が一斉に興起しますが、そのきざしは、すでに大衆部系統の行き方にみられたとするのが一般的な見方のようです。
 池田 いわゆる「根本二部の分裂」は、表面的には十事の戒律をめぐる争いのようにみえるけれども、やはり根本は、そこにあったと思えるね。
 大乗経典をみると、いわゆる「声聞」と「縁覚」が徹底的に破折されている。それは、当時の上座部系統の比丘たちが、超世俗的な修行に閉じこもっていたからではないだろうか。
 釈尊の説いた教え、すなわち「経と律」の文々句々を、どれだけ多く知っているか、また出家してから、どれだけ多くの年数が経ったか、そうした基準が、教団内にあって「阿羅漢」(聖者)と呼ばれるための条件となっていた。
 ところが大乗経典では、とくに「菩薩」のあり方が強調されている。それは、出家修行者は「自利」、すなわち自らの解脱をめざすだけではなく、広く大衆を教化するための「利他」行を、積極的になすべきであるというものです。
 当時の上座部系統の比正たちは、保守化していたと思われる。教団内に閉じこもって、釈尊の教説だけを守っていても、仏法の発展はない。閉鎖的な宗教は、やがて行き詰まってしまうものだ。現実の生きた人間の苦しみと悩み、生命の苦縛を離れて、そうしたものを無視しては、仏法というもの自体、存在しないわけです。
 だから、その行き詰まりを破る意味で、広く大衆に支持された大衆部系統の主張が出てきたのも、当然のことと考えられる。
 だいたい釈尊自身、出家僧だけに説法していたわけではない。雨期を除いては、その生涯の大半を民衆救済のための布教活動にあてていた。もし釈尊の説法が、出家修行僧のためのものだけであったとすれば、仏教は開かれた世界宗教とはならなかったでしょう。
 野崎 すでに釈尊在世時代から、出家僧は一定の段階にまで修行が進めば、それぞれ各地に散っていって、その地方の布教活動に専念した、といわれています。
 たとえば、西インド出身のプールナ(富楼那)の場合は、釈尊の許しを得て、当時としては辺境であった故郷の布教に決死の覚悟で臨んだ、とされています。また、釈尊の直弟子の一人は、第一結集にも間に合わなかったわけですが、彼はラージャグリハ(王舎城)に戻ってきたとき、教団が集成した経典を承認するように迫られでも、それを拒否したと伝えられています。
 松本 それについて玄奘三蔵も、興味ぶかい話を伝えていますね。それは、すでに第一結集の際に、窟内の結集と、窟外の結集とに分かれていた、というのです。
 これはどういうことかというと、マハーカーシャパによって五百人の長老比丘が選ばれ、サッタパンニグハー(七葉窟)で結集がおこなわれたわけですが、その選にもれた比丘たちも独自の経典結集をおこなった、とされています。その大部分は、戒律中心の長老派の考え方にあきたりない比丘たちで、彼らの結集したものが、後に大衆部を形成する源流になった、というわけです。
 このような事例から考えると、初期の経典は教団の出家僧を対象にしたものであったため、現実に大衆のなかに飛びこんで布教活動をおこなっている人には、受け入れがたいものがあった。大乗経典が生まれる原因は、すでに第一結集のときからあった、と思われます。
 池田 たとえば戒律についても、出家修行僧に対するものと、在俗信者に対するものとでは、おのずから違いがあって当然のことだね。なぜなら、出家者は仏教を正しく伝えていく役目があり、しかも在俗の信徒の布施によって生活を営んでいる。当然、信徒の期待に応えるように、厳しい戒律を守り、仏道修行に打ち込まなければならない。しかし在俗信者には、それほど厳格な戒律の遵守は要求されない。むろん、人間として、仏教者として、また社会人として、守るべき当然の義務は果たさなければならないが……。そうした違いが、教団中心の上座部系統と、在家信者とも接していた大衆部系統との、微妙な考え方の相違を生む原因ともなったのでしょう。
 また、釈尊の説法に対する受け止め方としても、出家僧と一般信者とは、やはり違うものがあったのではないかな。いわゆる「声聞」の弟子は、仏の教を直接に聴いて、つねに自己の人格完成をめざしていた。釈尊なき後は、仏から直接の指導を受けた長老比丘について、修行に励んだのでしょう。彼らにとっては、どれだけ多くの経文を暗誦しているかが、修行の深まりを知る目安になっていたとも考えられる。
 ところが、一般信者の場合には、たとえ仏の一言半句であっても、それによって救われることがある。釈尊の直接の指導を受けなかったとしても、伝え聴いた仏説を生きる唯一の支えとしていた信
 者も、数多くあったにちがいない。だから問題は、どれだけ多くの経文を知っているかではなく、それによって人間としての行き方を全うできたか、どうか、そこにかかってくるのです。
 野崎 たしかに出家僧には、重い責任が付きまとっていたからこそ、釈尊も出家の弟子には、かなり厳格な修行を要求したともいえますね。
 ところが、現実の出家僧たちは、仏滅後百年もすると、なんのために厳格な修行をおこなうのか、その意義を見失っていた。大衆のなかに飛びこみ、衆生の教化に取り組むために、修行させるというのが、釈尊の教えでもあったわけです。それを忘れて、自らの権威のための修行であり、戒となってしまった。上座部に対する大衆部の興起も、そのへんに主張のポイントがあったようです。
 池田 だから大衆部の運動は、釈尊在世の原点に帰る運動であったともいえる。さきほども述べたように、それは「正統と異端」といった争いではない。仏教の場合、革新運動はつねに「原点に帰れ」という精神から出発しているのです。最初は少数派のようであっても、結局は原点に正しく立った思想が勝利を収め、おのずと本流になっていく。
 ともあれ、釈尊五十年の説法は、なんのためであったか。それは、生老病死の苦悩に沈む大衆を教うためのものであった。出家修行者であれば、つねその原点を忘れることなく、大衆の幸せのために一身を艇げる決意でなければならない。後の大乗教徒の精神も、そこにあったといえよう。

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