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日蓮大聖人・池田大作

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2 上座部と大衆  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  第二結集の背景
 松本 仏典の第一結集から百年後、すなわち仏滅後百年にして、第二回の経典結集が、おこなわれた、とされています。これには、仏滅後百十年目におとなわれたとする説もありますが、ほぼこの前後から仏教教団は「上座部」系統と「大衆部」系統とに分裂し、いわゆる「根本二部分裂」の時代を迎えています。後に上座部系統は南方へ伝えられ、セイロン(現スリランカ)、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、カンボジア、ラオスなど、今日の南伝仏教の源流となっています。
 このような流れからすると、これから取り上げる第二結集の動機は、釈尊の教法を弟子たちが恋慕の情をもって集成しようとした第一結集のときとは、だいぶ違うものであったと思います。
 池田 仏滅後百年といえば、すでに釈尊から直接の指導をうけた弟子は、すべて死んでしまったと思われる。持律第一のウパーリ(優波離)が死んだのは、釈尊滅後三十年といわれ、このころ相前後して、ほとんどの弟子が亡くなったとされているね。だから、滅後百年もたてば、だれも釈尊を直接には知らないわけです。仏教教団も、釈尊の在世時代から数えて、四代目から五代目の世代によって運営されようとしていたのではないだろうか。
 当然、時代の状況も大きく変わってしまったであろうし、人びとの生活様式もかなり違っていたであろう。釈尊の遺訓や教義に対しても、さまざまな異見が出てくるのは、やむをえないといえる。ただ当時のインドにおいて仏教は、いよいよ興隆し、一般大衆のなかにも多数の信者を獲得していったことは、よく知られているね。
 野崎 ええ、いわゆる「大衆部」の支持基盤は主に在家信者であったとされていますが、このことは当時、仏教が一般民衆のあいだに広く浸透しつつあったことを、よく物語っていると思います。また、諸都市の王侯および商工業者の信者も増え、各地に僧院もできて、仏教はマガダ国を中心とする東部インドに伝播しつつあった、とされています。
 松本 ところで、第二結集がおこなわれることになったのは、ヴァイシャーリー(毘舎離)にあったヴァッジ(跋耆)出身の比正たちが、十カ条にわたる戒律の新たな解釈を主張したことに端を発した、といわれます。いま、その「十事」なるものをみると、当時の比正たちの修行がどんなに厳格なものであったかが、よくうかがわれますね。
 たとえば、その第一項には「角器所蓄の塩はこれを許すべし」とあります。すなわち、それまでは食物はもちろん、塩を蓄えることさえ許されていなかったということです。また、第十項には「金銀もこれを受くるを得」とありますが、それまでは金銭の布施を受けることは、厳しく禁止されていたわけです。とくに問題となったのは、この第十項のようですが、念のため他の項目を挙げると、次のようになっています。
 第二項、昼餐ちゅうさんは午後二指の広さまでは食するを得。第三項、村里に至る者は去るの後、再びこれを食することを得。第四項、比丘数人同域に住するも、布薩ふさつ法事は各別にこれをおこなうを得。第五項、教団の許可は事後にでも可なり。第六項、師の常に行ずるところは比丘またこれにならうを得。第七項、すでに昼食を終わりて後も水乳の外、石蜜はなおこれを食することを得。第八項、未醗酵酒はこれを飲むことを得。第九項、梱衣坐具もしその縁なくば大小法によらず、といったぐあいです。
 池田 非常に窮屈なものを感じるね。この程度の要求さえ容れられないようでは、ほとんどの現代の僧侶は、当時の教団にはいたたまれなくなってしまうのではないかな(笑い)。むろん、いったん仏道を志し、出家して比丘となったからには、厳しい修行も貫きとおす覚悟がなければならない。しかし、塩さえも蓄えてはいけないとか、生活の細部にいたるまで、いちいち教団の許可を事前に得なければ何もできないとか、あまりにも厳格な戒律主義は、かえって人間を畏縮させてしまうものだ。仏法流布という大目的に向かっての前進性、行動性も、これでは抑圧されてしまう。
 釈尊滅後百年の教団が、そのような戒律主義に陥ったのは、一つには僧侶の特権意識もあったのではないだろうか。自分たちは大衆とは違って特別な修行をしているといった意識が、戒律をいよいよ煩雑にしていった一面も考えられる。真実の戒律とは、外から縛るものではなく、自律でなければならない。内から自発的に確立された戒であってこそ、外へ向かう実践の基盤となりうるのです。閉鎖性が戒を生み、その戒律がさらに閉鎖性を強めていったことに大きい問題があるでしょう。
 その点、いまの話のヴァイシャーリーという都城は、有名なヴィマラキールティ(維摩詰)がいたところともいわれ、自由な商業都市として発展していたようだね。政治形態も、五つの種族から代表者を出して、民主的な共和政治がおこなわれていた、とされている。戒律中心の閉鎖的な仏教教団の殻を破る革新運動が、この地から巻き起こったとされるのも、十分うなずけるものがある。
 仏教は本来、民衆のものである。特権階級の具にしではならない。釈尊以来の仏教の本来の精神に帰れ――そうした動きが、ここから湧き起こってきたわけだね。
 松本 そのヴァイシャーリーにおけるヴァッジ族の比丘たちが、十事の新しい戒律をもって修行していたのが、やがて保守的な長老比丘にも知られることになり、大きな問題に発展します。それまで、第一結集で定められた戒律を厳格に守っていた長老派にしてみれば、その規律を破る出家僧があらわれたことは、教団にとって由々しい事態であると考えたのでしょう。
 さっそく、全インドから多数の長老比正が集められ、ヴァイシャーリーのヴァーリカ(婆利迦)園において会合がおこなわれた。そこでは、まず東西から各五人の比丘が選出され、小委員会で十事をいちいち律蔵に照らして「十非事」と判定し、さらに全体会議にかけて正式に決定された、とされています。
 そしてその後、諸上座(長老)中から七百人の比丘が選出され、かつてマハーカーシャパ(摩訶迦葉)によって合誦せられたように、もう一度、法(経)と律が合誦された。これが「第二結集」とも「七百比丘結集」ともいわれるものですね。
 池田 そこで、ヴァッジ出身の比正たちの主張は、教団の長老たちによって全面的に否決されてしまったわけだが、私は、彼らの要求は、かなり妥当なものであったと思う。それは、長老派が戒律万能主義になってしまって、人間としての生き方を説いた、もっと広々とした釈尊の精神からは遠いものになりつつあった、と思われるからです。いわば仏教教団は、釈尊滅後百年にして、ひとつの革新が必要とされるまでにいたっていた、ということです。
 もともと釈尊自身、教団の戒律については、サンガ(僧伽)の合意があれば小々戒は廃止してもよい、と生前に述べていた、とされているね。そのことは、デーヴァダッタ(提婆達多)が「五行」と称して、きわめて極端な戒律を表に立てて叛逆したと
 き、釈尊がそれを問題にしなかったことでも明らかです。釈尊の真価は、いかなる人間に対しても、一つの教条や戒律の枠にはめず、その具体的な個々の人間に即して、自在に法を説いた人間性の広さと深さにあることを見のがしてはならない。そういう意味からすれば、生命の溌溂たる躍動をたたえた、真実の自由人といっていいのではないだろうか。
 ところが、第一結集の際、その小々戒の範囲をどこまでにするかについて異論があり、なかなか決定しなかった。経文によれば、そこで長老のマハーカーシャパが、ともかく釈尊の制定した戒は洩れなく遵守することに決定してしまった。その結果、比丘たちは戒律を守るのに汲々として、教義も固定化し、自由な解釈も許されないまま百年が過ぎた、と思われる。
 仏法には「随方毘尼」という原理がある。これは、仏法を護る立場からすれば、大綱に違わないかぎり、各地方の風俗や習慣に随ってもよいとするものだね。
 たとえば釈尊は、諸種の食法について説法したときに、その地方の食法に随うべきであって、必ずしも自分が説いたとおりにしなくてもよい、と比丘たちに告げている。その点、ヴァッジの比丘たちが掲げた「十事」のなかに、食事に関する事項が何項目もあるのは、なんらかの関係があるのでは、ないだろうか。
2  部派分裂の原因
 野崎 ところで、当時の釈尊の教団について、渡辺照宏氏は『お経の話』(岩波書居)の中で、地域別、グループ別に、それぞれ自治的な運営がなされていたと述べております。それは、なんといっても交通が不便だったことから、すべての弟子たちが一堂に会することは、非常に困難であったからと思われます。
 また『涅槃経』で、釈尊自身「自分は教団を統御するつもりはない」という意味のことを述べていることを紹介され、釈尊滅後、それぞれ有力な弟子が中心となって、各地にグループごとの教団を形成していた、とされる。したがって、当然、滅後百年もたてば、各教団が伝承している教義内容にも微妙な違いが出てきたのではないか、とみられています。
 池田 たしかに、そうした事情があって、後にいくつもの部派に分裂することになったのかもしれない。有名な玄英三蔵がインドに渡ったのは、七世紀でしょう。その時代にも、まだシャーリプトラ(舎利弗)やマウドガルヤーヤナ(目連)の遺徳を慕
 うグループが存在していたことが伝えられているね。だから、インドの仏教徒は、各地域ごとに、それぞれ特色ある教団を形成していたことは、歴史的にも明らかになっている。それは、対機説法(衆生の機根に対応して法を説くこと)という釈尊の生前のさまざまな法の説き方からいっても、考えられることです。
 問題は、釈尊の正しい精神とは何であったか、ということですね。この大綱の流れだけは見失ってはならない。この一点さえ忘れなければ、小々の戒律は地域ごとに違っていても、それほど問題ではなかったはずです。むろん、戒・定・慧は仏法の修得すべき三学であるが、それは戒だけが独自にあるのではない。ところが、長老派の比丘たちは、この戒だけに重点をおいていた。それに対し、大衆部にしてみれば、自分たちこそ釈尊の教えどおりに、大衆のなかへ入って、大衆とともに語り、悩み、仏道修行に励んでいるという自負があったのではないだろうか。
 野崎 さきほども話があったように、『維摩経』にヴィマラきールティ(維摩詰)の人物像が説かれていますが、その背景になっているヴァイシャーリーという都市は、当時の他の諸都市とは、ずいぶん生活様式が違っていたように思われます。経典には、釈尊の十大弟子がヴィマラキールティに会いにいって、徹底的に彼らの修行や考え方の固定性、頑迷さを批判され、しばしば戸惑っているさまが、よく描かれています。ですから、食事の作法や金銭に対する考え方も違っていたのでしょう。
 松本 そうしたこともあって、ヴァイシャーリーの比丘たちは、長老派の決定に、どうしても承服することができなかった。そこで、南伝の『島王統史』によれば、ヴァッジ(跋耆)出身の比正たちは、七百人の比丘による第二結集が終わった後、一万人の比丘を集めて、長老派とは別の会議をもった。これが、いわゆる「大合誦」と呼ばれるもので、やがて彼らは「大衆部」という部派を形成することになった、とされています。後に「初めの百年中には、なんら分裂とてなかりしも、第二の百年に入りて、勝者(釈尊)の教中に十七の異派生ぜり」(『南伝大蔵経』第六十巻)と記されていますが、ここに上座部と大衆部との、最初の分裂が表面化したわけです。
 池田 釈尊滅後百年にして十七もの異派を生じたことは、全体の統率者を自認していた長老派にとっては重大な事態に直面したことを意味したでしょう。
 その後、釈尊滅後二百年から三百年にかけて、上座部系が十二部、大衆部系が六部、合わせて十八部に分裂したといわれている。あるいは、漢訳経典の記すところによれば、上座部系が十一部、大衆部系が九部、合わせて二十部ともいわれる。ともかく、こうしていわゆる「部派仏教」の時代を迎えるわけだが、私には長老派、いわゆる上座部系の教団側にその原因があったように思われてならない。
 まず、これはあくまで私の推測だが、後に大乗教徒によって「小乗教」と非難されたように、部派仏教時代の上座部系教団は、釈尊在世中の生きいきした脈動を忘れて、大衆から遊離し、権威主義に陥っていたのではないだろうか。もし彼らが、釈尊の教えを見失うことがなければ、これほどの分裂はなかったはずだ。
 しかしながら、また別の一面からいえば、仏法が釈尊一人のものから万人のものとなるために、経なければならない道程だったかもしれない。いわば、胎動の苦悩の時期とも考えられる。あらゆる論が出されて、それがさらに大河となって流れる時を待っていたにちがいない。
 松本 第二結集の発端をなしたヴァッジ族出身の比丘の「十事」の主張にしても、その経緯を記した『七百結集度』を見ると、彼らの主張は必ずしも最初から教団を分裂させようとするものではなかった。たまたまヴァイシャーリーに遊行してきた長老派系の比丘が、ヴァッジ出身の比丘が金銭を受け取っていたのを見て驚き、それを問題化したところから始まっています。
 しかし、ヴァッジ出身の比丘たちは、金銭を受け取っていたからといって、それで堕落していたわけではない。大合誦に一万人もの比丘が集まったことからもうかがわれるように、大衆の広汎な支持をうけ、大いに隆盛していたのを、長老派系が妬んだのだともいえなくはありません。
 また、ヴァイシャーリーは、シュラーヴァスティー(舎衛城)からラージャグリハ(王舎城)にいたる貿易路の中間に位置して、商業自由都市として栄えていたといわれますから、そこで托鉢する比丘が金銭を受け取っても、やむをえなかったと思われます。事実、この時代は、釈尊在世時代とくらべても、急速な貨幣経済の発展があったとされています。ですから、ヴァイシャーリーの人びとにとっては、比丘への布施に金銭をもってすることが、むしろ当然のことと考えられていたのではないでしょうか。そうした新しい時代に即応するために、ここで「十事」の要求が出てきたのだと考えられます。
 野崎 この問題に対する長老派の対処の仕方をみると、非常に権威主義的なものを感じますね。たとえば、十事が非法であることを判定するのに、高齢な長老比を連れ出してきて、いちいち戒律に違背していることを証明させようとした。そして、彼らを「沙門釈子に非ず」と決定してしまったのです。
 池田 長老派にしてみれば、大衆部の行き方は「破和合僧」の行為と映ったのかもしれない。しかし、この場合は、かつて釈尊の生存中、デーヴァダッタ(提婆達多)らが起こした叛逆とは、やや趣が違うように思う。
 というのは、デーヴァダッタの場合は、彼自身が教団の統率者になろうとする野心から出たものであった。なるほど彼は、五行の遵守を迫り、教団の戒律をもっと厳格なものにすべきであるという要求を掲げたが、それは純真な青年比丘を自分の側に引きつけ、あわよくば自分が新しい仏陀になり、別の一派を作ろうとするものであった。つまり、自らの野心の故に、教団の分裂を図ろうとした、非常に手のとんだ策略であったわけだ。それは明らかに「破和合僧」の罪に相当するものです。
 しかし、いま話題になっている大衆部の場合は、形態はデーヴァダッタと同様、十事の新しい戒律を掲げているけれども、それによって教団の内部分裂を図ろうとするものではなかった。むしろ、釈尊の教えにもあったように、その地方の生活様式や社会状況に応じて、小々の戒にはとらわれることなく、根本の釈尊の精神を原点として、独自の修行をおこなっていた。それを教団の長老派が、わざわざ事をあらだて、大げさに騒ぎたてた感じがするね。
 野崎 たしかに長老派の考えは、やや教条主義的であったように思います。たとえば、後の上座部系の文献では、大衆部の大合誦に関して、このように叙述しています。
 「大合誦の比丘たちは、正法に違背した教法を決定した。根本の集録を破壊して、他の集録を作った。彼らは、ある箇処に集録せられた経を、他の箇処に移した。……彼らは、甚深の経と律との一部を棄てて、類似の経と律、および、異なれるものを作った。……彼らは、名詞、性、措辞、文体の修飾に関する原則を棄てて、そのすべてを改作せり」(前出)
 しかし、増谷文雄氏によれば、現存の経典群を比較対照してみても、その相違はけっして根本的なものではなかった、といわれています。すなわち、各部派の伝承した経典は、それ以前の「四阿含」もしくは「四部」の編集形式を踏襲したものであって、後に問題になる小乗経典と大乗経典との違いとは、まったく比較にもならないわけです。
 池田 ただ、ここで確認しておきたいことは、仏教教団の場合、西洋社会でよくいわれる「教条主義と修正主義」とか「正統と異端」といった対立の図式は、必ずしもそのまま当てはまるものではない、ということです。現実に、西洋のキリスト教などの場合、「異端裁判」や「魔女狩り」などにみられるように、ひとたび分裂が起きるや、必ず血で血を洗うような闘争がおこなわれ、一方が他方を抹殺するまで闘い抜く。しかし仏教の場合、たしかに大衆部は上座部と快を分かったが、彼らが追放されたとか、そのことで血を流しあったということはないね。私は、そこに仏教の寛容さ、生命尊重の精神をみます。
 なるほど、一応は上座部が正統派で、大衆部が異端であるようにみえるかもしれない。しかし問題は、仏教本来の精神に照らして、いずれが正統派であるかといえば、苦悩に沈む民衆のなかに飛びこ一人でも多くの人を救ったほうが、真実の正統派であるといえるのです。
 また、上座部は教条主義的で、大衆部は修正主義的にみえるかもしれない。しかし、それでは釈尊は、こちこちの教条主義者であっただろうか。あるいは逆に、無原則に妥協する修正主義者だったろうか。そうではないでしょう。「教条主義と修正主義」といった西欧的な二元対立ではなく、中道一実の妙法を説くことが釈尊の本意ではなかったか。とすれば、小々の戒律にこだわって、互いに正統性を争うなどということは、もともと仏教の精神とは、はるかにかけ離れたところにあるのです。
3  原点に帰る運動
 松本 上座部と大衆部の対立については、これまでみてきた戒律をめぐる争いの他に、上座部(長老派)が出家僧中心の閉鎖集団に陥っていたという背景があるようです。
 渡辺照宏氏は先の『お経の話』の中で、上座部系統が超世俗的、修道院的、因襲的、エリート的な出家教団になっていた、とみています。それに対して大衆部系統は、自身の解脱への修行は犠牲にしても、大衆のなかに飛びこんでいった修行僧の集まりであった、といわれます。後に大乗教徒が一斉に興起しますが、そのきざしは、すでに大衆部系統の行き方にみられたとするのが一般的な見方のようです。
 池田 いわゆる「根本二部の分裂」は、表面的には十事の戒律をめぐる争いのようにみえるけれども、やはり根本は、そこにあったと思えるね。
 大乗経典をみると、いわゆる「声聞」と「縁覚」が徹底的に破折されている。それは、当時の上座部系統の比丘たちが、超世俗的な修行に閉じこもっていたからではないだろうか。
 釈尊の説いた教え、すなわち「経と律」の文々句々を、どれだけ多く知っているか、また出家してから、どれだけ多くの年数が経ったか、そうした基準が、教団内にあって「阿羅漢」(聖者)と呼ばれるための条件となっていた。
 ところが大乗経典では、とくに「菩薩」のあり方が強調されている。それは、出家修行者は「自利」、すなわち自らの解脱をめざすだけではなく、広く大衆を教化するための「利他」行を、積極的になすべきであるというものです。
 当時の上座部系統の比正たちは、保守化していたと思われる。教団内に閉じこもって、釈尊の教説だけを守っていても、仏法の発展はない。閉鎖的な宗教は、やがて行き詰まってしまうものだ。現実の生きた人間の苦しみと悩み、生命の苦縛を離れて、そうしたものを無視しては、仏法というもの自体、存在しないわけです。
 だから、その行き詰まりを破る意味で、広く大衆に支持された大衆部系統の主張が出てきたのも、当然のことと考えられる。
 だいたい釈尊自身、出家僧だけに説法していたわけではない。雨期を除いては、その生涯の大半を民衆救済のための布教活動にあてていた。もし釈尊の説法が、出家修行僧のためのものだけであったとすれば、仏教は開かれた世界宗教とはならなかったでしょう。
 野崎 すでに釈尊在世時代から、出家僧は一定の段階にまで修行が進めば、それぞれ各地に散っていって、その地方の布教活動に専念した、といわれています。
 たとえば、西インド出身のプールナ(富楼那)の場合は、釈尊の許しを得て、当時としては辺境であった故郷の布教に決死の覚悟で臨んだ、とされています。また、釈尊の直弟子の一人は、第一結集にも間に合わなかったわけですが、彼はラージャグリハ(王舎城)に戻ってきたとき、教団が集成した経典を承認するように迫られでも、それを拒否したと伝えられています。
 松本 それについて玄奘三蔵も、興味ぶかい話を伝えていますね。それは、すでに第一結集の際に、窟内の結集と、窟外の結集とに分かれていた、というのです。
 これはどういうことかというと、マハーカーシャパによって五百人の長老比丘が選ばれ、サッタパンニグハー(七葉窟)で結集がおこなわれたわけですが、その選にもれた比丘たちも独自の経典結集をおこなった、とされています。その大部分は、戒律中心の長老派の考え方にあきたりない比丘たちで、彼らの結集したものが、後に大衆部を形成する源流になった、というわけです。
 このような事例から考えると、初期の経典は教団の出家僧を対象にしたものであったため、現実に大衆のなかに飛びこんで布教活動をおこなっている人には、受け入れがたいものがあった。大乗経典が生まれる原因は、すでに第一結集のときからあった、と思われます。
 池田 たとえば戒律についても、出家修行僧に対するものと、在俗信者に対するものとでは、おのずから違いがあって当然のことだね。なぜなら、出家者は仏教を正しく伝えていく役目があり、しかも在俗の信徒の布施によって生活を営んでいる。当然、信徒の期待に応えるように、厳しい戒律を守り、仏道修行に打ち込まなければならない。しかし在俗信者には、それほど厳格な戒律の遵守は要求されない。むろん、人間として、仏教者として、また社会人として、守るべき当然の義務は果たさなければならないが……。そうした違いが、教団中心の上座部系統と、在家信者とも接していた大衆部系統との、微妙な考え方の相違を生む原因ともなったのでしょう。
 また、釈尊の説法に対する受け止め方としても、出家僧と一般信者とは、やはり違うものがあったのではないかな。いわゆる「声聞」の弟子は、仏の教を直接に聴いて、つねに自己の人格完成をめざしていた。釈尊なき後は、仏から直接の指導を受けた長老比丘について、修行に励んだのでしょう。彼らにとっては、どれだけ多くの経文を暗誦しているかが、修行の深まりを知る目安になっていたとも考えられる。
 ところが、一般信者の場合には、たとえ仏の一言半句であっても、それによって救われることがある。釈尊の直接の指導を受けなかったとしても、伝え聴いた仏説を生きる唯一の支えとしていた信
 者も、数多くあったにちがいない。だから問題は、どれだけ多くの経文を知っているかではなく、それによって人間としての行き方を全うできたか、どうか、そこにかかってくるのです。
 野崎 たしかに出家僧には、重い責任が付きまとっていたからこそ、釈尊も出家の弟子には、かなり厳格な修行を要求したともいえますね。
 ところが、現実の出家僧たちは、仏滅後百年もすると、なんのために厳格な修行をおこなうのか、その意義を見失っていた。大衆のなかに飛びこみ、衆生の教化に取り組むために、修行させるというのが、釈尊の教えでもあったわけです。それを忘れて、自らの権威のための修行であり、戒となってしまった。上座部に対する大衆部の興起も、そのへんに主張のポイントがあったようです。
 池田 だから大衆部の運動は、釈尊在世の原点に帰る運動であったともいえる。さきほども述べたように、それは「正統と異端」といった争いではない。仏教の場合、革新運動はつねに「原点に帰れ」という精神から出発しているのです。最初は少数派のようであっても、結局は原点に正しく立った思想が勝利を収め、おのずと本流になっていく。
 ともあれ、釈尊五十年の説法は、なんのためであったか。それは、生老病死の苦悩に沈む大衆を教うためのものであった。出家修行者であれば、つねその原点を忘れることなく、大衆の幸せのために一身を艇げる決意でなければならない。後の大乗教徒の精神も、そこにあったといえよう。

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