Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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I 仏典の結集  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
2  仏説を合誦した弟子たち
 松本 さて、第一結集の模様については、『集法毘尼五百人』をはじめ、いくつかの経典が伝えています。それによると、まず長老のマハーカーシヤパが議長席につき、アーナンダとウパーリの二人が涅槃経出者として選ばれます。アーナンダは長く釈尊の侍者をつとめていたので、釈尊がいつ、どこで、だれに対して、どのような教えを説いたかをよく知っていた。またウパーリは十大弟子中「持律第一」といわれたほどであるから、戒律については最も詳しい人物であった。そこで、アーナンダが「法」(後に「経」となる)を誦出し、ウパーリが「律」を誦みあげたといわれています。
 池田 アーナンダにしても、ウパーリにしても、単に記憶力が優れていたというだけではない。釈尊の教説が、そのまま二人の体内に血肉化していたのではないか。真剣な求道心をもって、一言一句を全身で受け止めていけば、それは終生、体から離れることはないからです。たとえ師が亡くなっても、体内に息づく師の声が聞こえてくる。「声聞」という言葉があるが、現実の釈尊の声を聞くことができなくなってからは、生命に刻印された釈尊の言説を思い浮かべながら修行したのでしょう。
 また当時は、今のようにメモやテープレコーダーがあったわけではないから(笑い)、弟子たちは釈尊の教えを全身で受け止める以外になかった、と思われる。しかも釈尊の教えは、学問的な知識などというものではない。人生いかに生きるべきか、人間の苦しみは何によって起こるか――そういった「智慧」を開発するものであった。だから弟子たちも、自らの実践をとおして、一つ一つの仏説の真実を確認していったのでしょう。
 あくまでも仏法の修得は、主体的・実践的な修得法によらねばならない。机上の学習や、書物による理解などではない。どこまでも生命と生命との交流のなかに、真実をつかむことができるのです。この点、西洋の、認識を主体とした学問習得法とは根本的に異なっていることを、われわれは忘れてはならない。そこにまた、仏典結集の一つの重要なポイントがあるのではないだろうか。
 おそらく「持律第一」といわれたウパーリの場合などは、彼の日常の振る舞いそのものが、すべて教団の戒律を自然に体現するものがあったのでしょう。いちいち釈尊の説いた戒律を想い起こしながら行動するのではない。彼の一切の行動のなかに、たくまずして戒律が肉化していたものと思われる。そこまで透徹していなければ、数ある弟子のなかで「持律第一」とまでは呼ばれなかったでしょう。
 またアーナンダにしても、体のどこを押しても、釈尊の教えが奔流のようにあふれでてきたのではないか。そうでなければ、あれほど膨大な経典が結集できるわけがない。
 野崎 いわゆる経・律・論の三蔵のうち、経だけでも、重複部分を除いて六千編を超えるといわれています。
 松本 そこで、経典結集の情景ですが、経典によれば、マハーカーシャパが次のように問いかけます。
 「僧伽サンガよ、わが言を聞きたまえ、僧伽にして時よろしくば、長老アーナンダに教法を問おう」
 するとアーナンダが答える。
 「僧伽よ、わが言を聞きたまえ。僧伽にして時よろしくば、わたしは、長老マハーカーシャパが教法を問うのに答えよう」
 続いてマハーカーシヤパが問う。
 「友アーナンダよ、ブッダの最初の説法は、どこで説かれたか」
 ふたたびアーナンダが答える。
 「友マハーカーシャパよ、わたしはこのように聞いた。あるとき、ブッダ(仏陀)は、ヴァーラーナシー(波羅捺斯はらなし)のムリガダーヴァ(鹿野苑ろくやおん)にあられた……」(『南伝大蔵経』第四巻、大正二十三巻448㌻、参照)
 このようにして、釈尊の最初の説法の場面が誦出されると、居並ぶ長老の比丘たちが、みな涙を浮かべ、その場にひれ伏してしまったといわれます。そらく荘厳な、感動的な光景であったと思われます。
 池田 釈尊に亡くなられた後の悲しみが深かっただけに、その説法がアーナンダによって再現されたときには、生前の釈尊の気高い姿が、それぞれの胸中によみがえり、みな感動に身をふるわせて聴いたのだろうね。
 松本 そのあと、アーナンダの誦出したものを皆で吟味し、間違いないものと確認されるや、全員で合誦がっしょうし、それぞれの脳裏に刻印していった、と伝えられています。
 池田 この「合誦」というのが面白い。おそらく、これは一人一人が生命に刻んで、人びとに伝えようとしたからでしょう。経典のなかで偈頌等の韻律を含んだところなどは、仏典結集に参加した者が、釈尊の言説を伝えやすいように配慮した結果だと一般的にはいわれる。また、いま出てきた吟味というととだが、第一結集の当時は、いちいち吟味をして、全員の意見が一致したところで、声をそろえて合誦したのでしょう。だから「第一合誦」とも「第一結集」とも呼ばれている。
 ところで、仏法では「身・口・意」の三業をもって経文を読むべきことが強調されている。それは、さきほども述べたように、西洋の知識中心の学問とは違って、仏説をいかに自分のものとして実践するかが重要だからです。
 同じ釈尊の説法を聴いても、たとえば第一結集の際に参加した五百人の比丘のなかでも、それぞれ受け取り方が違っていたであろうことは、当然考えられる。ある人は、自分に都合のよいように解釈していたかもしれない。あるいはまた、釈尊の説法自体が、相手の機根によっては正反対にとれるようなものもあったでしょう。だから、こうして五百人の比丘が集まって、一つ一つを慎重に吟味し、全員が一致したものを仏説として、教団の共有財産にしていったことは、非常に大きな意義をもつのです。
 つまり、この第一結集によって、釈尊なき後の教団の意思統一をはかったものと考えられる。そういった観点からいえば、現在の資料で推し量るかぎり、この第一結集では、釈尊の生涯にわたる全説法を集めるというのではなく、当時の教団を維持していくうえで、まず必要なものを優先させたものと考えられなくもない。ここは、仏教史のうえで、さらに研究を要するところですね。
 松本 さきほどアーナンダが、旧知のバラモンから、釈尊の教団に後継者がいないことを指摘された話を引用しましたが、それに続いて、マガダ国の大臣ヴァルシャカーラ(行雨)にも同様な質問をうけたことが記されています。
 「アーナンダよ、だれぞ彼の世尊によって、世尊なき後の比丘たちのよるべとして、指名をうけた方でもあるだろうか」
 「大臣よ、そんな者はない」
 「では、長老たちが認めて、だれぞ、世尊なき後の比丘たちの依りどころとして、推薦された方でもあるのだろうか」
 「大臣よ、そのような者もない」
 「それでは、アーナンダよ、比丘たちは、いったい、何に依り、いかにして和合していくことができるか」
 そのとき、アーナンダは毅然として答えた。
 「大臣よ、われらは、けっして依りどとろがないのではない。大臣よ、われらは依りどころがある。法が、われらの依りどころとしてあるからである」(『南伝大蔵経』第十一巻、参照)
 これは、釈尊なき後の教団が、第一結集によって集成された経典を、絶対の依りどころとしていたことを示すものと思います。彼らは、仏説「アーガマ」(阿合、すなわち「聖教」の意)と呼んで、非常に権威あるものとして大切にしていたようです。
 池田 一般に「阿含部」と呼ばれる初期経典は、非常に戒律的な要素が強いですね。学者によっては、このアーガマ全体が僧院の教科書用に編纂されたものではないか、とみる人もいるほどだ。
 なぜそうなったかは、今も述べた当時の教団の事情があるわけだが、さらにいえば、この第一結集に参加した人たち、なかんずく中心の座長になったマハーカーシャパ等の性格が反映していると思う。
 彼は「頭陀第一」といわれるほど、修行には厳格な人物であった。その点では、だれびとも真似のできない真価を持っていたが、全体的にみると、どちらかといえば地味な存在であって、教団内にあってもシャーリプトラやマウドガルヤーヤナのような爆発的人気を博する人物ではなかったらしい。多分、哲学的な深さにおいては、やや欠けるきらいもあったのではないかな。だから、シャーリプトラやマウドガルヤーヤナなどは、生前中には釈尊の後継者であると衆目も一致していたが、マハーカーシャパの場合は、今の話にもあったように、アーナンダでさえ彼の名を出さず、釈尊亡き後の教団に傑出した人物がいないことを認めざるをえなかったのでしょう。
 いちおう第一結集の際には、なによりも功労者であり、重鎮ということで、マハーカーシャパが長老を代表して座長になったが、こういう視点に立てば、五百人の比丘の選出基準自体にも、すでに問題を含んでいたといえなくもない。
 松本 実際、ある直弟子などは「自分は、仏から直接聴いたように、仏の説を修行したい」といっていたようです。また、釈尊の弟子たちのなかには、第一結集に参加できず、地方で独自の活動を展開していた人も、かなりいたようです。後に大乗経典が続々と生まれますが、それは教団の枠にしばられない地方の少数教団によって作られた、ともいわれていますね。
 池田 ですから、釈尊の存命中に、智慧第一といわれたシャーリプトラ、神通第一といわれたマウドガルヤーヤナの二人を失ったことは、やはり教団にとってはたいへんな痛手だったと思う。釈尊自身「シャーリプトラとマウドガルヤーヤナが死んでからは、この集会は、私には空虚であるように思われる」と述べていたほどだから、どんなに嘆き悲しんだか、計り知れないものがあるね。
 この二人が経典結集に参加していれば、あるいは初期経典も、もっと違ったものになっていたかもしれない。いまさら、そのような推測をしてみてもはじまらないが、彼らは釈尊の晩年には、釈尊に代わって法を説いたとされているほどだ。理論においても、実践においても、二人は教団にあって並ぶ者のない双壁であった。だから、この二人が釈尊なき後の教団の中心になっていれば、あるいは仏教の流れは変わったものになったかもしれない。
 ともあれ、その後の仏教の歴史的発展の過程は、マハーカーシャパやアーナンダをはじめとする五百人の比正たちが集まって結集した仏典が中軸となり、非常に重要な意義をもっていた。それが、たとえ不完全なものであったとしても、やはり彼らの「令法久住」の一念が、八万四千の法蔵を生んでいった因と考えられる。
 野崎 われわれ現代人が経典を読み、そこから仏の智慧に発する多くの教えを学ぶことができるのも、当時の弟子たちが直ちに結集してくれたからですね。その意味では、彼らに感謝しなければならないと思います。
 池田 そうです。マハーカーシャパやアーナンダが、釈尊の死後直ちに仏典結集に取り組んだのは、それなりに重要な意義をもっている。彼らの「令法久住」の一念があったからこそ、二千数百年後の今日まで、仏教は脈々と伝えられてきたのです。
3  偉大な宗教者の教え
 松本 一般に歴史上の傑出した人物の死後には、なんらかの形で言行録が残されます。ところが、釈尊にしても、ソクラテスにしても、また孔子やナザレのイエスにしても、みな生前には、なにひとつ著作を残しませんでした。彼らの場合、弟子が言行録を集成し、しかも、それが人類数千年の文明に欠くことのできない源流となっています。
 ところで梅原猛氏は、そのうちソクラテスとイエスの場合は、二人の悲劇的な死をめぐって、多分に弟子が脚色した面が強い、とみています(『仏教の思想』「知恵と慈悲〈ブッダ〉」)。プラトンが、死に直面したソクラテスの姿を描いた『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にしても、またイエスの死と復活を教義化した『聖書』の新約書にしても、歴史的事実と違う部分があることは指摘されてきました。
 その点、仏教においては、初期経典には釈尊の人間的な真実味が感じられるが、後代に編纂された大乗経典になると、いかにも文学的な表現が多く、西洋の学者などは理解しにくいところがある、といわれます。しかし、われわれ東洋の仏教徒からみると、やはり大乗経典のほうに、圧倒的な魅力を感じるのですが……。
 池田 欧米の実証主義を反映して、宗教学者たちの仏教研究も、歴史的事実を掘り起こすことに重点がおかれる傾向にある。もちろん私も、こうした研究が大いに進められることには賛成です。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、歴史的真実に迫るという名目で、現代人の持ち合わせている尺度や見方でもって、歴史上の偉人を裸にしていく、その方法論について一言したい。それが、かえって偉人の実像を浮かび上がらせ、現代の私たちのあいだに深い共感と感動を与えるものであればよいが、ともすれば偉大さの面を故意に無視し、欠点のみを強調することによって、並みの人間に引き下げようとする向きがないでもない。私は、そこに現代人の一種の倣慢さが潜んでいるのではないかと思う。
 いま挙げられた釈尊にしても、またソクラテス孔子やイエスにしても、その言行録には多少の脚色があったとしても、それは人間のあるべき理想を託したものであって、人びとにそれに迫ろうとする勇気と英知を湧きおこさせてきたのです。しかも、事実、そうした脚色をさしひいたとしても、彼らが人類三千年の文明社会にあって、類まれな偉人であったことに変わりはない。
 仏典にしても、『聖書』にしても、あるいはプラトンの著作でもいい、それは単に文学的作品であるのではない。そこには、汲めども尽きない人生の哲学と、偉大な宗教家、思想家の苦闘して得た知恵が、余すところなく語られているのです。もし彼らの言行録が、無味乾燥な歴史的事実の羅列であったとすれば、はたしてこれほど広く、かつ長期にわたって読まれたであろうか。
 とくに釈尊に関して、もう一つ忘れてならないことは、経文にもあるように、釈尊の説法は、すべて衆生をして仏道に入らしめんがためのものであったということです。したがって経典の結集者も、単に釈尊の言行録を整理するような心構えで取り組んだのではない。自ら「仏」と同じ境涯に立つのでなければ、釈尊の説法を理解できなかったであろうし、また後世に仏説を遺すこともできなかったでしょう。経文の一字一句が、すべて金文字の仏説であるというのは、そのような意義をもつことなのです。今われわれが、仏教徒として経巻を持ち、それをもって現代社会に挑戦しようとするからには、仏と
 同じ境涯、すなわち苦悩に沈む大衆に光を与え、真実の生き方を教えきっていける覚倍がなければならないと思う。

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